2008年4月

東京芸術大学卒業記念・山下徳子SPRINGコンサート

2008年4月23日(水曜日)

 去る4月20日日曜日の夕刻、若く美しきソプラノ声楽家山下徳子さんのコンサートが大潟区コミュニティプラザでありました。今春東京芸術大學を卒業された山下さんは新装なったホールで同期のピアニスト辻田祐希さん、ヴァイオリニスト千葉さくらさんとともに立たれ、超満員のお客さんを感動させました。
私が好きな「ジャンニ・スキッキ~私のお父さん」は心に染みました。またフランス語による「きらきら星変奏曲」では最高音域の見事な発声でホールを振るわせ、素晴らしかったです。
 ところで演奏会で特筆すべきは、企画運営で大潟区ジュニアリーダークラブのOBたちが大きな役割を担っていた点ではないでしょうか。同クラブは子ども会の延長線上にあり、小学校高学年から中高生までの活動組織です。演奏者山下さんご自身もかってクラブに所属し活動されたそうです。良き助言者たちのもと、若者たちの脈々たる活動が生きて実を結んでいることはとても意義があると思いました。巣立つ者、残る者、それぞれ人を育てる環境こそ真の地域力にちがいありません。山下徳子さん、大潟区ジュニアリーダークラブのみなさんにもう一度拍手です。

 

仙台で高野長英の絵に出会う

2008年4月14日(月曜日)

 先週末、身内の法要で仙台に出かけました。13日午後に仙台市博物館を訪ね、伊達家の文書・武具、支倉常長などの資料を見ました。そのおり館内の片隅で仙台支藩水沢出身の高野長英の絵を見つけました。渡辺崋山らとの「蛮社の獄」(天保10年・1839年)で入牢4年余。さらに脱獄後6年余りの苛烈な逃避行の開国論者・医師長英。事件以前の作でしょうか、なんとも愛くるしい目をした猫の絵でした。館員のお許しを得て撮影させて頂きました。
 ところで長英は脱獄した最初の年に群馬県から清水峠を越えて新潟県に入ります。塩沢、松代などを経由、夏に直江津今町(現上越市)へ逃れました。そこで高名な和算家小林百哺の助けを借りて大肝煎(おおきもいり)・福永七兵衛の家にかくまわれます。前後して幕府の飛脚が到来し長英の手配書と人相書が藩下に配布されました。一帯はにわかに緊迫します。たたみかけるように早飛脚が再来し、携えた書面には「高田在杉田玄作と申す医生有之、兼而お尋ねの高野長英と別懇の由如何、厳重取調可申事」とありました。
 長英の立ち回り先として名ざしされた玄作とは文政元年(1818年)生まれの筆者の曾々祖父です。玄作は長崎と江戸で蘭学を学び当地・高田藩主榊原政敬(まさたか)より証を与えられた医師でした。長英と面識があった可能性があり、長英が訳したオランダの産科書「産科提要」を筆写し、所有していたなどから強い嫌疑がかかったと考えられます。数日間入牢のうえ厳しい取り調べを経て恩師の援護もあり玄作は釈放されました。一方長英はその後密かに舟で出雲崎へと逃れます。以後、捕らえられて亡くなるまでの6年間、さらに厳しい逃避行が続くことになります。
 ところで長英が養子として入った高野家は上越市・春日山城から米沢に移封された上杉家に仕えた武将の家柄であり、川中島の戦いでは謙信のもとで武勲を立てた名家ということです。またこのたび博物館の庭でかつて仙台に学んだ魯迅の胸像を見ました。魯迅は上越市出身の第3回芥川賞作家・小田獄夫の重要な研究対象です。ヒガンザクラ満開の仙台で長英、謙信、魯迅、小田、それに不肖筆者の祖先などわが上越市に縁ある先人たちと眼と心の出会いができて、胸いっぱいでした。
 ちなみに玄作の二女トヨは「夏は来ぬ」の作曲者小山作之助の母です。上越市大潟区にある作之助の墓は立派ですが、玄作のは人がつまずくほど小さなものです。
(参照:「長英逃亡」吉村昭著 毎日新聞社1997年7月5日発行、「大潟町史」大潟町 昭和63年5月30日発行)

 

08041401

仙台のヒガンザクラ

 

高野長英の絵

 

魯迅胸像

 

長英逃亡

クリスマスローズ

2008年4月1日(火曜日)

 解放させて頂いてる隣接の自宅庭でクリスマスローズが賑やかです。4月後半まで持ちそうです。花ごよみとして間もなくヒトリシズカとスミレ類、ミヤコワスレが頑張り4月20日頃にヤマザクラでしょうか。さらにシャクヤク類、そして一周年の6月前後からアジサイ・ウツギ類、ユリ、ヤマボウシ、ナツツバキの予定です。うまく咲くといいのですが。

 

 

 

 

 

 

 

 

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