2009年9月

猫ちゃんの木登りデート

2009年9月30日(水曜日)

 昼食直後、猫ちゃんたちの木登りを見ました。木は手前の土手から生えているので結構高いのです。

 

   
クロ君が木に登ったので 私も登りました。

 
クロ君は上にいて


なかなか降りてきません。

 
   
   
 
やっと降りてきて会えました。 それからお散歩をして
   
   
帰り道、私はさっと降りましたが

クロ君は少し手間取っていました。

 私たちが登った木はねむ(合歓)の木です。

いい名前だなー。

館長の絵:アケビのボタニカルアート

2009年9月29日(火曜日)

 私がボタニカルアート(植物画)を描き始めたのは1997年の春からです。教則本には簡単に描けるように書いてありましたが、とても苦労をしました。たった一枚の葉を描くのに画面上で泥(絵の具)と水のせめぎ合いが延々と続いたのです。

 

 アケビは1997年秋の作品です。描くためには絵の具を塗るだけでなく、ぬぐうことも重要だと分かり始めたころの絵です。

 

 根気の要る作業ゆえ、今では一年に一枚可能かどうか。また目も悪くなり、当時の細い線はもうダメかもしれません。しかしこの季節、アケビやザクロを見るとああ、描きたいと思います。

 

 

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   アケビ(32×41㎝)

 

 後に厚いケント紙に描くようになりましたが、当時は画用紙に描いていました。全体の黄ばみは日焼けと汗によるものです。 

 明日から「白花デンドロビューム」に替えて樹下美術館トイレの鏡わきに架けさせて頂きます。

 

潟町の地蔵まつり

2009年9月24日(木曜日)

  上越市大潟区は、海寄りに古い国道が東西に通っている。その道筋の潟町地区に600メートルほどの間で三つのお地蔵様がある。

 

 今夜は揃ってささやかな秋祭。夕食を終えた地域の人達が三々五々巡ってお参りする。御菓子のお土産があるので子どもたちも喜んで付いて回る。近くの私も灯りに誘われて回った。

 

 地元の人達が守り続けたお地蔵様。懐かしい灯りがともったお堂はそれぞれ雰囲気が違って楽しい。

 

   
西の端の火防地蔵 火防地蔵尊
   
中ほどの六地蔵 六地蔵尊
   
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東の端の白妙地蔵 白妙地蔵尊を参る

おばあちゃんたちに脱帽

2009年9月22日(火曜日)

 午後の美術館で、お二人のおばあちゃまから声を掛けられた。懐かしい患者さんとそのお友達だった。コーヒーをご一緒しながらのひと時は楽しく、有益だった。

 

子どものころから労働、左ハンドルも経験した。

 

【以下、お二人の話】 

 「ここは私らにとって懐かしい場所」。若い時に、美術館から見える田んぼで胸までつかって仕事をした。カイコも飼ったが時代は進み、ある年代を境に家族でも経験は全く異るようになった。 

 

「田んぼ」:昔、浜に住む自分たちは漁業のほかに農業もした。ただし、良い田んぼは農家の人達のもので、自分たちのは農家の余り物のような田んぼだった。それがあちこち離れた所にあったので、とても大変だった。

 大人たちは用水路に舟を運び入れ、刈り取ったイネを浜の稲場まで運んだ。子どもにも何かと仕事があった。

 

「くばり」:稲刈りで子どもが最初に行う仕事が、くばりだった。刈ったイネを束ねるためのワラを一定の間隔に置けばよかった。二、三年すると今度は置かれたワラでイネを束ねる仕事に昇格した。

 

「蚕(カイコ)」:近くに製糸工場があったので、一帯では蚕も飼った。蚕を飼うのに特別な場所があったわけではない。時期になると家中に桑の葉を敷いて飼った。そのため家族は仏壇の前にかたまって寝た。蚕が桑を食べる音がザアザアと家中に響いていた。

 

「足だか」:子どもの頃からワラで縄をない、ある年齢になるとわらじを編んだ。最初に「足だか」を教えられた。足だかとは、足の前半分だけのわらじで、主に子どもたちが履いた。教わったばかりではうまく作れず、一日ももたなかった。

 

「運転」:後に娘がニューヨークに住むようになった。ある時、急用の娘を手伝わなければならなくなった。アメリカでは車を運転しないと手伝いにならないと聞かされた。それで左ハンドルの講習を受けてアメリカへ行ってきた。

 

「芝生」:ここの芝生はハワイみたいですね。

おのぼりさん、その2

2009年9月20日(日曜日)

 国立近代美術館でゴーギャン展を、同工芸館で「リーチ・濱田・豊藏・壽雪 展」を見た。 

 ゴーギャンは9月23日で終了するので、大賑わいだった。若い人達が沢山来ていて、館内は熱気がこもっていた。

 

 

 

 旅人ゴーギャンの西洋は南洋の野性へと導かれていく。彼は珊瑚礁などには一瞥もくれず、旺盛な自然の島内で座るか、立つかしている女性を描きつづける。

 

 彼女たちの肉体は重厚で、精神は野性の神秘にゆだねられている。生まれたばかりの子はぐっすりと眠り、無心に食べて育つ。世界の表裏において主人公であった女性も、最後には老いて尽きる。その連鎖をどっしりとした女神がみている。

 

 大作「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか」は、DNAの絵画に見えた。野性の根源性を芸術によって肯定した稀な人、ゴーギャン。

 

 陶芸館ではバーナード・リーチ、濱田庄司の民芸作家から豊蔵、壽雪の志野を中心に著名な作家の作品が並んだ。それぞれに数が膨大なので作家の個性が無理なく理解できる。6枚揃った濱田の丸文赤絵皿を欲しいと思った。

 

 帰り際、階段の降り口に何気なく置かているベンチが黒田辰秋だと気づいた。大いなる憧れの木工、黒田の作品を初めて見て、しかも座れた。不意のラッキーは、ことのほか嬉しかった。

 

 ※樹下美術館が常設展示している陶芸家齋藤三郎は、戦前の鵠沼(くげぬま)において黒田とともに制作したことがあります。 

 

【何気なく見たものから少々】

タペストリー

中庭のオブジェ

お茶うけ

おのぼりさん、その1

2009年9月19日(土曜日)

 日曜日にゴーギャン展をみるため上京した。浜松と東京の夫婦二組と一緒に、芝の古いレストランで夕食をした。

 

 三時間の食事と遅いラウンジ。思わぬ短歌を披露しあって失笑し、映画やジャズを懐かしんだ。 人の悪口を言わない人達。一年に一回の間隔がさらに短くなりそうだった。

 

 三組とも老親をみているので揃って会うことはますます貴重になる。あとまだ十年は覚悟をしている、というK。お互い大変なことだが、いまだ人の子、という風変わりな立場を喜ぶようにしよう。

 

 行きの芝大門で東京タワーを見て、帰りは芝・浜町の祭みこしを見た。

 

 ホテルは若者ばかり

 

芝大門に掛かる東京タワー

 

いなせな御輿

浜千鳥

2009年9月17日(木曜日)

 今日、木曜の午後は休診日。思い出したように母を連れて美術館へ。もっと頻繁にと思うが、中々出来ない。

 

 行き帰りはいつものように昔話になる。小さいころ事故で父を亡くした母喜代。父を失ったある日、喜代は母と並んで縁側に腰を下ろしたという。母は足をぶらぶらさせながら、「なあキヨ、明日からどうしたらいいかね」、とつぶやいたそうな。

 一回りして美術館のカフェに座り、帰りはお気に入りのフルーツケーキを土産にもらった。

 

色々と指が曲がっている親の手。

 

 帰って間もなくお年寄りの看取りがあった。このところ夜中も通っていた95才の小柄なおばあちゃん。遠くからお孫さんやひ孫さんたちも来て、熱心な介護だった。看取りで若い人たちや子どもさんは目を泣きはらした。温かな家庭の印象を受けた。

 およそ若い人達(小さなお子も)は人一倍身内の死を悲しむ。言われるドライさとは全く違うと思っている。

 

 夕刻、また海へ行った。ある場所へ来るとチチ、チチ、とよく千鳥の鳴き声がする。今日は沢山いて、私が歩く先を盛んに走った。

 

群れの中の二羽。

  

  ♪ 青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 

 波の国から 生まれでる 濡れたつばさの 銀の色 

「浜千鳥」

作詞 鹿島鳴秋(1891-1954)
  作曲 弘田龍太郎(1892-1952)

 

飛び立つ千鳥。

 

私は浜千鳥の曲が好きで、美術館のカフェでもカーメン・キャバレロのピアノで浜千鳥が時々聞こえるようにしています。 

 

季節のはざま

2009年9月16日(水曜日)

 午後、所用のあと海へ寄った。お天気に恵まれたとは言えない夏の海は、あっけなく賑わいを閉じた。

 

 カモメたちがぼんやり海を眺め、釣り人が一人竿を振るっている。晴天のもと名残惜しさをにじませながら、季節はゆっくりと引き継がれて行くようだった。

 

 

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新たな首相が誕生した。映像を見て静かな感動をおぼえた。

いま苦しくとも、新しい文化の誕生と生成を心から祈りたい。

続・帰るつばめは

2009年9月12日(土曜日)

   帰るつばめは 木の葉のお舟ね ♪  

 

 7月30日のブログで「帰るつばめは」を書かせて頂いた。あれからふた月あまり、あたりからツバメの姿が消えつつある。おおかた南方へ渡ったのだろうか。

 

 さよならも告げず、ツバメは静かに旅立つらしい。春に戻る決心があるから、あえて別れをしないのかな。野性の決心は掟ほどに固いのかもしれない。

 

 ところで、ツバメに興味を抱いたのは7月の末ころ、上越市大潟区内のある集落への往診からだった。近くの水田で何十羽というツバメが、飽かず田の上を行き来していた。

 

 何度か訪れているうちに、次のようなことに興味を惹かれた。

①夏のある時期、ツバメは群れをなして水田の一角で飛翔を続けることがある。その場所に隣接してよく枝豆が植えられている。

②そこではツバメはホバリングをして空中で止まり、稲に付いているイネミドリムシを補食しているようだ。

③飛翔中、若鶏(ヒナ又は子)たちは時々農道(地面)に降りて休む。

④若鳥たちは自らも捕食をしているようだが、時々親から空中で給餌も受ける。

 

    

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全体で4,50羽が飛んでいた。 イネミドリムシに食害された稲
   
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イネミドリムシを捕っていると思われる。 ムシをくわえた?
   
路上で休み、親たちを見ている若鳥 餌をせがむがダメ、しばらくしてまた飛び立つ。
   
空中の給餌

1羽の親を複数の子が追うことも。

 

 ツバメはもっぱら飛んでいる虫を食べると思っていた。それが集団で稲に付いた虫をも捕っている様子に驚かされた。

 

 また、ツバメはめったに地上に降りないと聞いていた。しか集団飛行は辛いのか、若鳥(多分)たちは、路上に降りては休み、また飛び立つことを繰り返した。
さらに車にはねられたのだろう、路上で亡くなっている若いツバメを二回見た。ツバメは歩行が苦手だという。実際歩き方はかなりたどたどしかった。

 

 集団飛行は親たちによる若鳥(子ども)への給餌とともに、捕食と飛翔の訓練にも見えた。秋の渡りに備えて懸命に自立を促しているように見えた。

 

 集団には多くの子が含まれているようだった。渡りも子らを中心に行われるのではないだろうか(大変だろうな)。そして来年戻ってくる時は、この子達が主力になるかもしれない。

 

道で休んだ可愛いツバメの子たち

ちゃんと南国へ渡っただろうか 

春には戻って来て、今度は親になるんだ

けなげなツバメの旅、木の葉のお舟、、、

 

※農家の方のお話では「枝豆を植えた近くの田にはイネミドリ虫が発生することがある。ただし、枝豆自体には付かないようだ」ということでした。「ツバメが来てるとはねえー」と感心して仰った。その後、イネは優しい消毒をされ、ツバメは立ち去った。

絵の養父母さん

2009年9月9日(水曜日)

 午後、美術館のカフェでMさんご夫妻にお目に掛かった。実は昨年の秋、お二人から倉石隆の油絵三点を託されていた

 

 戦後間もない高田時代の貴重な油絵だった。このたび描かれたままの絵を額装して9月から展示した。本日、展示の作品をご覧になって、本当に嬉しい、とMさんは目を潤ませておられた。

 

 およそ良い絵はしっかり額装すると初々しい花嫁のような生気を現す。倉石氏のお母さまから長く作品を預かったMさんご夫妻。花嫁となった娘を見る養父母のような気持ちかな、と思った。

 

作品は旅をする。まして人に於いておや。

 

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子安の月。

2009年9月6日(日曜日)

         

この子らと何時かまた見ん清水の 

子安の塔に架かる月をば sousi

 

 

 前回、最後に京都へ行ったのは20年以上も前と書かせていただいた。その時の京都の夕刻、皆で清水寺へ行った。舞台を南に下がった子安の塔の辺りは静かで、冬の月が昇っていた。拙い歌はその折りのものです(恥ずかしい)。

 

 晴れ日が続いたので、今夕2時間ほど美術館の庭に水を遣った。雲間から月が出て、なぜか京都を思い出した。先日頂いたお茶のせいだろうか?

 

 時々子どもたちは元気な顔を見せにやってくる。子の無事を祈る親心は昔も今も変わりがない。

毎年ながら日暮れが早くなってきた。 

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今夜の月

 

伊右衛門サロンのお茶

2009年9月4日(金曜日)

 朝夕に冷気が忍びこみ、急に良い季節になりました。先日京都に出掛けられたという妻の友人からお茶のお土産がありました。

 

 伊右衛門サロンというお茶にちなむカフ&レストランに寄った際、ショップで求めたということ。抹茶入り煎茶と銘打ってあり、パッケージには英語の説明も。さすが国際都市です。

 サロンではモーニングからランチ、ディナーまで京感覚のメニューがラインアップされ、価格もリーズナブル。散策の日の好所ではないでしょうか。

 

、私自身、最後の京都は20年以上も前です、、、。こうして頂いたものなどに触れるとつかの間ながら、旅情がよぎります。

 

 せっかくですから齋藤三郎さんの器を出して頂きました。抹茶の香りが立ってとても和やかなお茶でした。

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抹茶入り煎茶のパッケージ(裏側)

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齋藤三郎の青白磁の急須と茶托、そして染め付けの茶碗。

京都は若き三郎に縁ある所です。器もかなり嬉しそうでした。

2009年秋の展示替え

2009年9月2日(水曜日)

秋の展示替え

      2009年9月2日から樹下美術館はあらたな試みを行っています。

1,2月の冬期休館を挟んで現在の展示を来年3月まで続けます。

 

【絵画ホール】 

 これまで中々見ることがなかった戦後高田時代における倉石隆の油彩三点をホール中央に架けました。三点を囲んで、倉石氏自身やご家族を描いた油彩4点を配置しました。

全体に家庭的な雰囲気が漂っています。

二人の像も修復、額装されて中央に架けられました。

 

【陶芸ホール】 

  齋藤三郎作品を時代順に展示しています。18才、関西で近藤雄三から富本憲吉(いずれも後の人間国宝)へとおよそ5年の修行をした三郎。

 修行後の京都や神戸における初期の作品から、戦後新潟県上越市で始まった作陶活動を場内左から順を追って見やすく展示いたしました。

 

 端正で初々しい初期の染め付けの鉢。そして上越市寺町に転居して始まる色絵、鉄絵、辰砂への探求。作品には呼吸のようにゆっくりと繰り返される制作志向の変遷が見られます。

 

 ●順を追って壺、皿、鉢、水指など27点を展示しています。

 

昭和12年(24才)と15年(27才)頃の、関西における初期の作品・竹林菓子器

いずれも竹笹に雪がかぶっている文様

 

昭和45~50年前後、後期にかかる作品。

修行直後の作品から後期へ、どうぞ三郎(陶齋)の道程をご覧下さい。

 

●このたび、はじめて陶芸ホールにも倉石隆の油彩を架けました。三点ですが、陶磁器と大変よく映え合っています。今後もこの方法を続けようと思います。

●館内の倉石氏の油彩は、通路やカフェも入れて合計13点展示しています。

左の壁に架かった一枚です。

正面と右側にも一点ずつ架けて、場内の雰囲気が変わりました。

※写真はいずれも夜間に撮影しました。

  

    

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