2010年7月

お知らせ・山中阿美子さんの講演会「父倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」

2010年7月30日(金曜日)

 

 【樹下美術館三周年、秋の催しのお知らせ】

 

講演会お知らせ

 

 11月6日(土曜)午後2時から樹下美術館において「父 倉石隆との思い出 そしてマッシュルーム」と題して山中阿美子さんの講演会を開催いたします。

 

カトラリーやインテリアのプロダクトデザイナーとして活躍される山中さんは当館常設展示作家の画家・倉石隆氏のご長女です。幼少から高校時代まで上越市にお住まいになりました。

東京芸術大学の在学中、学生仲間三人で第一回天童木工コンクールにマッシュルームスツールを応募し、入賞の栄誉に輝きました。しかし難度の高いデザインであったため商品化デビューがなったのは、実に40数年後の2003年でした。

その後マッシュルームは人気となり、 2008年パリにおける日仏修好150周年記念行事「日本の感性展」で展示されました。好評を博した作品は2009年、パリ国立装飾芸術美術館のパーマネントコレクションに選定され、世界の名作家具の仲間入りを果たしました。

ご講演では父倉石隆の思い出とともに興味深いマッシュルームの物語をお聞き出来ることと思います、どうかご期待ください。

マッシュルーム
開館以来語り合っている樹下美術館のマッシュルーム

 会場は定数60人余と小さめです。ご予約お申し込みは樹下美術館窓口か、またはお電話でどうぞ。

 樹下美術館 電話 025-530-4155

南摩羽峰の屏風に紅茶

2010年7月29日(木曜日)

 降ったり止んだりしながら雨脚が強まっている。気温も下がり、生ける者みな一息つける。ただ降りすぎだけは許してもらいたい。 

 

屏風の前で 
夏の午後會津藩士の屏風引き 冷えた紅茶を影に浮かばす   sousi

 

 南摩綱紀(羽峰)の屏風を居間に置くようにした。二曲一双を開くと藩士の静かな高揚感に包まれる。こうすることも先日朴斎記念館を訪ねたお陰か。それにしても再三のアイスティーで恐縮です、逆光が気に入りました。

雨、そして暦のアクセル

2010年7月28日(水曜日)

 

夕方の雲 

 今日夕方の空は四方から雲を集めて、雨の支度をしているように見えた。すでに山沿いはどこも厚い雲に覆われ、イナヅマも光っていた。牧区では夕方に15分くらい降ったらしい。

 

 予報によると明日昼頃から一日半ほど雨模様となり、気温も4,5度は下がるようだ。これで体も田畑も庭も、ダムも一息付けるだろう。

 

 お天気の都合もあると思うが、洪水にならない程度にして、しっかり降って欲しい。なによりも予報が外れないことをお願いしたい。

 

 ※睡眠を確保しながら図録作成を進めています。図録は倉石隆と齋藤三郎それぞれ一冊ずつの予定です。年代同定が少々難しい齋藤氏の分を先にしています。余裕があれば、秋の終わり頃、小生の拙絵についても小さな画集が出来ればと思っています。

 

 それにしてもどうして暦はこんなに強くアクセルを踏むのだろう。

異常な暑さ

2010年7月27日(火曜日)

 まったく異常な暑さが続く。お年寄りたちを中心に発熱される患者さんが急増していて点滴が続く。熱中症は室内で過ごしている方に多いという報道は真実みがある。

 

 やや奇異なことだがCRPや白血球が著しく増加し、単純に熱中症だけとは考えにくい方も混じる。普段潜んでいる感染症が、疲労と暑さにあぶり出されて急襲するような実感さえある。
 比較的若い何人かにも数日の点滴が必要だったし、全体で少なくとも3人の方は緊急入院を余儀なくされた。糖尿病の方は特に用心が必要なようだ。

 

 その昔、クーラーの有無がお年寄りの運不運を分けたような夏があった。しかし広く普及したはずの今年、それを越える脅威を感じる。この猛暑、なんとかひと休みしてくれないだろうか。

 

 午後アイスティーが出ていて、しばらく飲まずに眺めた。

午後のアイスティー

 

 
 

上越市板倉区、増村朴斎記念館を訪ねた會津八一、齋藤三郎、そして女性。さらに南摩綱紀のことなど。

2010年7月25日(日曜日)

手元に二代陶齋からお預かりしている一枚の写真がある。會津八一が当館常設展示作家の齋藤三郎(陶齋)らとともに増村朴斎(本名:度次・たくじ)碑の前で撮ったものだ。碑は朴斎邸(現増村朴斎記念館)の西隅に今もしっかりある。
朴斎は明治29年、雪国上越市板倉に有恒学舎(現有恒高等学校)を私費で創立した貴重な教育者だ。八一は早稲田大学卒業後、明治39年に同校英語教師として招聘され4年間教職を勤めている。

碑について、八一は昭和17年の朴斎逝去に際して依頼され、碑文の揮毫を果たしていた。

 

当写真の撮影は1950年(昭和25年)前後だろうか。写真の服装から個人的な板倉訪問だったと伺われる。いかつい表情の八一を真ん中に左端に若き陶齋、戦時服などの男性、そして右端に着物の女性が写っている。一緒の陶齋は八一から泥裏珠光(でいりじゅこう)の号を戴くなど、親交があった。

男揃いの中、すらりとして明るく右端を占める女性が気になる。撮影者が当時高田市に居て文人や地方風土を撮っていた写真家・濱谷浩氏だとすると、女性は朝(あさ)夫人が考えられる。濱谷氏は八一、陶齋とも知己を得ており、人物の配置などからも氏による撮影が考えられるが、どうだろう。

 

會津八一と陶齋
朴斎碑の前で八一、陶齋ら。
今日の朴斎碑
今日の朴斎碑。

さて本日午前に訪ねた記念館。園内でシルバーから派遣されているという女性が一人庭掃きをしていた。樹下美術館も静かだが、ここはさらに静かなようだ。

資料をみると建学時の新潟県下の中学校(現高等学校)はわずか5校で、上越地方には現・県立高田高等学校の一校のみだった。私費をなげうった朴斎の教育への情熱と困苦は如何ばかりだったか。雪国に建った有恒学舎には感銘を受けて多くの著名人が訪ねてきたという。
そもそも氏は父・増村度弘(のりひろ)の遺訓を継いでおり、度弘は會津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり・号:羽峰)の薫陶を受けていた。会津藩士で昌平校を出ている羽峰は、會津戦争の敗戦で高田藩謹慎となっていた。高田の羽峰は教育啓発で一帯に広く貢献をし、後年は東京帝国大学教授をつとめた。

 

記念館は有恒高等学校出身の佐川清氏(佐川急便創業者)が建設し、資料・設備など内部を住民と同窓生一丸で整えたということだ。明治大学ラグビー部の名監督と謳われた北島忠治氏も同校の卒業生と聞いた。

一階に、有恒学舎の教員たちを描いたユーモア溢れる似顔絵があった。若き會津八一が描いたもので、如何にもという人物たちが一筆でサッと描かれていた。大変に達者な絵筆だった。(コピーをもらえます)

有恒学者教員の似顔絵
八一による七凹八凸(ななぼこやでこ?)の図。幅1メートル少々あります。
右端が増村朴斎(倫理・漢文)、4人目が會津八一(英語)のようです。
「坊ちゃん」を彷彿とさせます。

 多くの展示物の中に、書は人の品格という言葉があり、印象的な文字や詩句に触れることが出来た。大きな建物ではないが格調を備え、うまくまとまっている。夏の昼下がり、清々としてまた来てみたくなった。

話変わるが、拙宅に南摩羽峰の筆になる背の高い屏風がある。祖父の開業以来、待合室に前島密の額とともにあった。今は別室にあるが、以前から屏風を知っているお年寄りに羽峰を勉強してと言われていた。陶齋の写真がきっかけで、本日ようやく実地研修の一端を済ませた気がする。

そしてあらためて思った、真の地域力とは若者を羽ばたかせる教育・教養力ではないのだろうかと。またそれはどこにも共通する要素ではないだろうかと。

※以上記述は増村朴斎記念館資料/野の人 會津八一:工藤美代子著 (株)新潮社発行/福縁随所の人びと:濱谷浩著 (株)創樹社発行/會津八一記念館ほか関係ホームページを参考にしました。

※今度は当院の古い待合室にあった南摩羽峰の屏風、前島密の額、前島家の教育係だった女性マツが書いた「杉田医院」の古い看板などを掲載したいと思います。今日はとても長くなりました。

暑中お見舞い申し上げます。

2010年7月24日(土曜日)

 長梅雨の後に猛暑となりました。

 日頃のご来館を謹んで感謝申し上げ、皆様のご健勝をお祈り申し上げます。

 

キキョウの庭
今日の トクサとキキョウの庭

 

シェリー・リージェントタイプのカップ&ソーサー 
今日のカフェのアンティークカップ&ソーサー(シェリー・リージェントシェイプ)。
すっきりと1930年頃のアールデコ。私は実はこのカップのファンです。
飲みかけを撮りました。

 

夕刻から急に雲が広がった。

明日は雨だろうか、田畑も庭もダムも雨を焦がれていることだろう。

明日は懸案の増村朴斎記念館を訪ねたい。

背振嶺(せふりね)に

2010年7月21日(水曜日)

  背振嶺に腰うちおろし居し雲は 夕方負けて流れ染めつつ  
               (母の覚えのママ) 

 

 昨日の車中でもう一つ母から話を聞いていました。連日で恐縮を禁じ得ませんがどうかお許しください。

 

  昔話:背振嶺に

 弟を背負って登校していた母は後に九州大学の看護部に進学した。寮生活は思い出深く、小野寺内科の実習は充実していた。
 病院のことと言えば、内科の医師に背が高く若いA先生がいた。足を大きく振り出してゆっくり廊下を歩く姿が印象的だった。

 

 A先生から自作の短歌を見せてもらうことがあった。その中で背振嶺の一首をよく覚えている。背振山(せふりさん)は霊峰で、佐賀県と福岡県境にあったという。

 

 以上が昔話である。掲げた歌にはもしかしたら垢ぬけなさはあるかもしれない。しかし南国のとある日に、山と雲が織りなした旅情は鮮やかだ。同時に、その日窓外に目を転じていた若い医師がいたことや、彼の時間などに不思議なリアリティを感じる。

 

  時代は昭和7、8年頃か、深刻な不況と中国進出、軍国化など背景は穏やかではない。A医師はその後どうされただろうか。母のほうは学校を出ると時代に押されるように満州へ渡って行く。

    

背振嶺の夕雲は今でも美しかろう。

 

バラのカット

 

何で年ゃとろろ

2010年7月20日(火曜日)

  昼、三泊のショートステイを終える母を迎えに板倉さくら園へ。車で40分ほどの距離だが、母が昔話をするのにちょうど良い時間だ。老人に元気を出してもらうには話をさせるのがまず一番だろう。たいてい初めての振りをして同じ話を聞いているが、最近は多少リードが必要になってきた。

 

昼の月 
下界は猛暑、空に涼しげな昼の月。
 

 昔話:何で年ゃとろろ

 母喜代は7才の時に台風の事故で父を亡くしている。祖母ヤイは行商に出て身を粉にして一家を支えた。乳離れしたばかりの弟の子守はもっぱら小学生の喜代の仕事だった。

 

 学校へは弟をおぶって通った。同じような生徒が6,7人いた。用務員さんの娘さんが子どもたちの世話をしてくれた。お昼は子どもたちの部屋で弟と一緒に食べた。たまに子守のない日があって、皆と食べるのが嬉しかった。お世話の娘さんは優しかった。

 

 通っていた佐賀県内・古枝(ふるえだ)小学校のお弁当時間には良い習慣があった。昼食中に生徒が順に教壇に立って、家の話や一口話をすることになっていた。
 ある日、恥ずかしがり屋のおよしさんの番のこと。「昨日、うちのバーちゃんが“何で年ゃとろろ”言いました」、と話したという。どうして年を取るのか、という老人の嘆きたが、「とろろ」が可笑しくて子どもたちは大笑いをしたらしい。

 

 喜代に家族のハンディはあったが、囃されることもいじめられることもなかったという。

板倉、そして増村朴斎記念館

2010年7月19日(月曜日)

トースト

 

 ピクルス

  樹下美術館のトースト。暑い日のピクルスは格別だった。

今日の熱い昼、樹下美術館でトーストを食べて所用の妙高市へ行った。用事の後、母が三泊のショートでお世話になっている板倉さくら園を訪ねた。

まあまあの母を明日迎えに来ることにして、気になっている近くの増村朴齋記念館に寄った。しかし施錠がされて入場は叶わなかった。予め電話が必要なようだった。

ところで、増村朴齋は上越市板倉区に私費で有恒学舎(現・有恒高等学校)を設立した民間の偉人だ。朴斎の父・度弘(のりひろ)に影響を与えたのは高田藩で謹慎した会津藩士・南摩綱紀(なんまつなのり、号:羽峰)だという。また若き會津八一が同学舎の英語教師を勤めていることは有名。

もともとあまり詳しくはなかったが、拙宅に南摩羽峰の屏風と會津八一の短冊がある。また八一の揮毫になる巨大な朴齋碑の前で八一本人と齋藤陶齋が並ぶ写真を齋藤尚明氏からお借りしている。そのようなわけで、一度は訪ねてみたかった。

増村朴斎記念館
閑静な記念館、近いうちに是非。

ゼバスティアン

2010年7月18日(日曜日)

 ゼバスティアンはドイツの若者だ。7年前、彼が高校一年生当時、上越市の頸北ロータリークラブにおける交換留学生として責任者S氏宅を軸に一年間のステイをした。
 電車で上越高校へ通い、剣道にも励んだ。高校の担当者に恵まれて日本語を良く覚え、地域と家庭に親しんだ。

 

 私の所では一ヶ月半のステイだった。ある日、ドイツの子どもの遊びと言って、隣の雑木林にネズミ取りのカゴを仕掛けた。一週間も空振りだったが、必ず掛かると通した。後日見事に捕った時は大はしゃぎだった。
 大好きな囲碁では負けると床を転げ回ってくやしがったが、すぐに私を負かすようになった。

 

 帰国して2年後、家族5人で当地を訪ねてきた。我が家の訪問の際に拙いテネシーワルツを弾くと、皆でダンスをはじめた。仲の良い家族の情景は眩しかった。

 

南側の農道で

成長した彼。樹下美術館裏の農道で。

 

直江津の夕焼け 
昨日の直江津の夕焼け  

 

 それからさらに5年、このたび自国の大学院進学前の休暇で三回目の来日を果たした。昨日午後、樹下美術館を訪ねて熱心に展示を見てくれた。5年前の時、私がここに美術館を建てたいと言ったのを覚えていて驚いた。たくましく成長していたが、優しさは変わりなかった。
 今回、夕食は直江津の知人宅でお世話になった。夕陽を見ながら心ゆくまで楽しい夜をすごさせて頂いた。

 

 ホームステイといえば、10年前にはニュージーランドの高校生を3ヶ月ほど預かった。彼は吉川高校へ通って、放課後には剣道に精進した。帰国後、彼も再来日し、ついには日本で日本人と結婚して可愛い子どもにも恵まれている。 

 

 二人とも個性的で心ひろやか、時折真っすぐな道徳の芯を見ることがあった。彼らの果敢な交流には平和への一灯として十分な意義がある。また斯く交流は、何かと排他的で硬い政治の下では為し難いものとして写る。若き日の頸北の一年、何かが彼らを惹き付けたにちがいない。

踏まれても 刈られても花 庭石菖

2010年7月16日(金曜日)

 今日は梅雨開けを思わせる一日だった。予報は遅くに雨とも聞いているがどうなるだろう。そしてイギリスでは石川遼が頑張っている。


庭石菖
 庭石菖(ニワゼキショウ)。ほぼ実物大、背丈は15㎝くらいでしょうか。

  この時期、何年も前から仕事場の草道の決まった場所に顔を出す愛らしい花がある。本日午後、気になって見に行くと一輪だけ咲いていた。

 場所は妻が干し物をしに行く通り道であり、年に二三度は草を刈られる。 

 毎年、草刈りによって絶えたかなと思っていると、梅雨の終わりに顔を出す。多い時には3,4株で6つ7つと花を付ける。アメリカからの帰化植物とあるが、細い茎といいとても可憐だ。
  

 踏まれても 刈られても花 庭石菖     sousi

実況!20分で晩ご飯

2010年7月14日(水曜日)

 夜九時すぎ、少し離れた部屋のテレビから絶え間ない男性の声が漏れてくる。時々妻の笑い声も聞こえるので、行って見た。

 

 NHKの今日の料理だった。目がぎょろりとして愛想顔の料理人がおしゃべりしながら忙しく振る舞っている。タイトルは「実況!20分で晩ごはん。キャベツ混ぜ混ぜぶっかけそうめん」。刻々残り時間を告げられながら、説明に追いつかない手が宙を舞ったりする。

 

 時間で責めて、料理人をイジメているように見えなくもない。しかしジャストでゴマだれ味のソーメンにサラダ、炒め物とデザートが出来た。サッと短時間で作られたためよけい美味しそうに見える。

 

 終わって「あー、疲れた」、「しかし楽しかったー」と、とても正直な講師だった。NHKのこと、特殊な材料も使わず誰にも作れる料理のはず。優れた創意工夫が求められる仕事にちがいない。助手も付けずにさすがだった。

 

 講師は齋藤辰夫氏。パリなど日本大使館料理長の経歴が載っていた。

 

ダルマバノリウツギ 
美術館隣接の庭のダルマバノリウツギ

母の七夕を描いてみた。

2010年7月12日(月曜日)

 七夕の事を母から聞いてから少しずつ情景を想像して筆を動かしていた。母の実家については、4才になった頃の幻のような記憶しかない。昭和21年3月らしい時、旧満州から佐世保に引き揚げて、佐賀県の大村方(現鹿島市古枝大村方)の家に10日ばかり寄っただけだった。
 

七夕 
母が子どもだったころの想像上の七夕。

 

 母からはあまりに楽しそうに聞かされたのでイメージだけで描きやすいように描いた。描くことは好きなはずだが、泣きたいくらい稚拙のまま時期もあるので終了とした。塗り残しもあったりして、出来ればもう一度描いてみたい。

 

 話変わって、去る日曜日のゴルフは15位で大波賞(61,53)だった。クッキーや缶ビールなど賞品二つをありがたく頂いて帰った。次回も腕の代わりに靴を磨いて参加しよう。

新潟県立柿崎病院、そして高岡から

2010年7月10日(土曜日)

 今日は上越市柿崎区で新潟県立柿崎病院主催「頸北地方の医療を考える会」に参加した。あまつさえシンポジウムの一番バッターを指名されてかなり緊張した。

 

 同病院のこころざし熱き藤森院長の総合司会のもと、自治医科大学地域医療学センター長・梶井先生の基調講演で開会した。 

 柿崎病院は明治17年来の歴史があり、地元で長く愛された病院だ。55床の小病院ながら、日ごろ在宅医療を始め呼吸器など色々お世話になっている。

 

 同病院には民間の後援会があったり、地元による心づくしの財政支援システムがあるなど、如何にも地元密着の実績がある。今日不肖私は、同病院の概念を「地域密着医療」から進めて「地域愛着医療」の実践病院と表現させていただいた。

 

 振り返れば、梶井センター長には上越医師会役員の折り、上越地域医療センター病院の医師招聘の相談で何度かおお目に掛かったことがあった。今日は懐かしい先生と、懇親までご一緒させていただいて光栄だった。

 

「みんなの医療」、「知恵と工夫」、「人生はどこかで鐘が鳴る、しかもその兆しも現れる」、「教えることはできないが、伝えることはできる」、、、。梶井先生の医療と人生のしずくに触れて感銘を受けた。

 

 さらに今日の会で小さきことも良きこと、の実感を得た。あらためて小さな樹下美術館に希望の灯を点させてもらった。

 

 会を終えて帰宅すると、先日、富山県高岡市から来館されたご家族が、今日再び樹下美術館を訪ねて下さったことを知らされた。何ともいえない幸せを感じた。

 

 明日は同業者のゴルフコンペ。腕は磨かずとも靴を磨いて参加しようと思う。

 

樹下美術館の庭 
樹下美術館の庭

お声、有り難うございました

2010年7月9日(金曜日)

館内に置かせて頂いているノートに皆様からのコメントが沢山溜まりました。遅くなりましたが樹下美術館のホームページの「お声」に掲載させて頂きました。

ノートはカフェに多く置かれていますため、お客様のくつろぎの様子が直に伝わって大変有り難く、励みになります。またお名前だけ頂戴した皆様にも心から御礼を申し上げます。

 

コメント
T様、楽しい一日のコメントとイラストを少しお借りしました。

夜になって、一時雨足が強まりました。

朝露で七夕の短冊を書く

2010年7月7日(水曜日)

大潟区の水田 
今日七夕の日、素晴らしい大潟区の水田(高橋新田から吉崎新田への道から)

 

 今日は七夕。遠い昔に天の川が見える夜もあったような気がするが、近頃はどうなのだろう。何かと母の話で恐縮だが、大正4年生まれの母によく以下のような七夕の話を聞かされた。

 

 その昔、佐賀県の大村方(おおむらがた:現鹿島市古枝大村方)の子どもたちは七夕の朝早く、手に手に盃を持って田んぼへ急いだ。稲に宿る朝露を集めるためだ。盃を稲にこすりつけるようにして皆真剣に集めた。

 

 家に持ち帰った露で墨を刷って短冊に願い事を書いた。前後して山の方から男たちが竹を売りに来た。笹をいっぱい付けた長い竹を束ね、ザーザと地面を引きづりながら歩いて来た。

 

 竹は下の方の笹を払った立派なものだった。間もなく家々に五色の短冊を付けた竹が高々と立つと、村はとてもいい眺めになった。家並は茅葺きだったかもしれない。

 

 これだけの話だが、うっとうしい梅雨空の下さわやかな情景が目に浮かぶ。時代はそれぞれ色々だが、詩情という点で昔は決してあなどれない。

 

  ※母たちは稲の露を採った。しかし多くの地域ではサトイモの葉に溜まる露を用たらしい。

梅雨時の花は涼しげ

2010年7月3日(土曜日)

 梅雨どきの美術館隣接の庭。この時期の花は涼しげで可憐だ。どこかはかなげでもあり、この時期ならではの姿だろう。

 

 ところで不思議に思うのは、一般に花は受粉を促すために昆虫の気を惹いていると考えられる。なのに夏涼しげに咲くなどあたかも人の気も惹いてるように見えることだ。

 

 昆虫たちにも花の明暗や色彩・形状から涼しさなどの季節感覚があるのだろうか。花の魅力に関して、昆虫などとヒトの感覚が一致しているようでいつも感心させられる。 

 いずれにしても花は基本的に昆虫・鳥たちが選ぶことで美しく進化してきた。それでは人間の登場に対応して、自然の側が美や洗練で何かを進化させたことがあったのだろうか。せいぜい犬や猫、それに何種類かの小動物や微生物が近づいてきたくらいで、それも進化といえるかどうか。
※人為的な品種改良は何と呼べばいいのだろう。 

 

 昆虫や花に比べて、私たちはまだ新参者にすぎない。しかも複雑かつ強引な参加のため、自然はどう反応していいのか分からないのだろう。それより、乱暴な我々を迎えて「全く困っている」のが自然の本音ではないだろうか。 

 何か少し恥ずかしくなってきた。

 ※後半の部分を大幅に追加しました。(7月5日深夜)。

紅白のマツモトセンノウ 
紅白のマツモトセンノウ

ナデシコ 
足許のカワラナデシコ

テッポウユリ 
賑やかな貴婦人テッポウユリ

ホタルブクロ 
自生のホタルブクロ

ワイン「深雪花(みゆきばな)」と齋藤三郎、そして本日

2010年7月2日(金曜日)

越後上越市が誇る岩の原葡萄園。同園が生産し広く愛されているワインに「深雪花」があります。その印象的なラベルの椿は当館常設展示の陶芸家・齋藤三郎(初代陶齋)氏が描いたものです。

 

戦前、若き日の三郎は新潟県栃尾を出て関西で近藤悠三、次いで東京時代の富本憲吉に師事しました。独立後の昭和13~15年、縁あってサントリー(株)の創業者・鳥井信治郎氏が宝塚に有した壽山窯(じゅざんがま)で制作活動をしました。

 

戦後の陶齋は生涯新潟県上越市で作陶します。サントリーとの縁は続き、陶齋没後に誕生したワイン深雪花のラベルに氏の雪椿図が選ばれました。

本日午後、サントリー(株)の副社長・鳥井信吾氏が樹下美術館を訪ねて下さいました。サントリーと直接関係にある岩の原葡萄園が今年創業120周年を迎えています。氏は記念行事などへの出席のため来越され、樹下美術館にお寄りいただいたというわけです。

当館では小さな作品も見逃さず熱心にご覧になり、カフェをご一緒しました。お宅で代々齋藤三郎の作品が大切にされているというお話をとても嬉しく伺いました。

記念写真
岩の原葡萄園・坂田社長、そしてスタッフとともに水田脇のデッキで
前列中央に鳥井氏

 

国内外の受賞が続くサントリー。マスターブレンダーの鳥井副社長、このたびは上越の小さな樹下美術館にお寄り頂き有り難うございました。明るくひらけたお人柄に接しスタッフ共々幸せでした。

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