2011年3月25日

現場は精神論なのか 復興でなく政治闘争なのか まったく泣きたくなる

2011年3月25日(金曜日)

 前回の左網膜剥離からおよそ10年がたっていた。このたびは新潟の作品展のために数点の花の絵のリメイク、そして被災地の弟の安否を知るため多くの時間をインターネットに費やした。眼にいいわけがなかった。

 

 今日の受診で眼圧と視力は保たれていると聞いて一安心だった。院長には眼底を丁寧にみていただいた。網膜の一部に軽微な変化はあるが経過をみていくことになった。やや心を軽くしてもらい100%患者となって帰ってきた。

 

 

 

 ところでついに原発災害で作業員3人が治療の必要な被ばくをした。汚染水による足の直接被ばくだった。全身を防護することなく短靴!しかも若年世代が含まれ、彼らの精子と将来にも問題を残した。水、若者、被ばく、心配したことがあまりに簡単に起きる。

 

 わずか3人と言うなかれ。今や課題は我が国の科学と哲学をかけたシンボリックな国家的マターだ。それがチェルノブイリでなければ何でもありとは、あまりにお粗末ではないだろうか。恥ずかしくて泣きたくなる。

 

 毎日スタジオには無数の学者・専門家がズラリと並ぶ。しかし福島の現場は学問も理性もへったくれも無い精神論でやっているように見える。作業員の美談など全くいらない、上が、学者がもっと命をかけるべきだ。情けなくて泣きたくなる。

 

 そしてメディアは政治的ノイズをますます濃くしている。一大復興なのに一大権力闘争の場になりさがった。被災者を、国民を犠牲にして何のつもりなのだろう、薄汚くてまた泣きたくなる。

 

 時間はかかっても仕方がない、文字通り一丸となって科学と誠意に徹すれば克服できる。それが日本の価値だったのではないだろうか。

 

 最後に環境の放射線量は毎日変わる。情報開示を求めながら、振り回されると言って嘆くのは止めよう。科学は便利だが根気もいる。

 

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