2011年3月31日

がんばれ介護保険

2011年3月31日(木曜日)

 昨夜の要介護認定審査会を最後に審査委員を終了させてもらった。審査委員は止めたが、意見書はじめ患者さんがお世話になっている制度とはまだお付き合いが続く。同制度は医療と共にある重要な両輪の一つだ。

 介護保険には思い出が多い。、

 平成12年制度発足まで数年間を地域福祉計画策定委員会、それを引き継いだ介護保険計画策定も会議責任者としてしぶとく議論を重ねた。

 

 完成した計画案は平成12年の施行に向けて町の議会で承認された。承認に当たって陳述をもとめた。いまだ介護保険を忌む空気が一部にあったからだった。悲惨な現実に対応する制度概念とサービス項目の優先順位などを精一杯訴えて責務を果たした。

 

 前後してスタートする制度に対応すべく要介護認定作業が始まった。頻回な研修や模擬審査会が連続し、語りぐさになるほど疲労困憊した。医師審査委員の選任も重要であり、総動員に準ずるルール作りを急いだ。

  非公式な活動では、
 旧大潟町の医師達もまとまった。介護保険施行の数年前、訪問入浴車の重要性を訴えて皆で役所に補助の請願をして認めてもらった。また制度周知のため費用を出しあって専門家を招聘し、住民説明会を行った。個人的には自院の患者さん達にアンケートをお願いし、結果報告と説明会を催した。40ページの小冊にして臨んだ。

 

 夢中で書いた投書が新潟日報“窓”欄と朝日新聞“声”欄に載ったのも懐かしい。

 

説明会 
介護保険前年、平成11年6月、アンケートに基づく制度説明会。
患者さんはじめ大勢参加いただいた。男性も多く見えて頼もしかった。

始めにSPレコードで歌を聴き、終了に「誰か故郷を想わざる」をレコードとともに皆で歌った。

 

 町の計画策定会議では真摯な課員のお世話になった。ある制度見直しの年、保険料の財源不足が見込まれて大きな課題となった。
 保険料を一様に増やすと低所得者へしわ寄せが強くなる。この緩和のため高額所得者の負担増を目して5段階の負担区分を6段階に上げることを検討した。

 

 くだんの担当者は全国の状況を調べて6段階の自治体をいくつか見つけた。やりますか、やろう、と承認を得て計画に盛り込んだ。

 

 総じて介護保険は苦境の中で開かれた制度として頑張ってきた。考えられないことだが、遊び半分の人間達がメチャクチャにした年金などとは全く違う。この震災で当制度もさらに厳しい環境になろう。苦しいが、みなが110%働くことで正念場を乗り越えられると思う。

 

長くなってしまいました。

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