2011年7月

人の行き交い 明日から8月 夏の思い出

2011年7月31日(日曜日)

夏のデッキ
今日の昼頃、樹下美術館のデッキと夏の雲

夏がくれば思い出す はるかな樹下美術館

緑の中にうかびくる 館つつまし野の小径

桔梗と木槿の花が咲いている

夢見て咲いている木もれ陽の庭

野バラの色にたそがれるはるかな樹下美術館

 (名曲夏の思い出を拙い替え歌にしました。夏の思い出は、わが新潟県高田市・現上越市がお生まれという江間章子さんの作詞です。江間章子さんゴメンナサイ)

明日はもう8月。本日新潟市からお見えのお客様はこれから長野県へ向かうと仰いました。昨日は長野市からと、人の行き交う夏本番。晴れれば雲高く、どこかに秋の気配も感じられます。

スタッフによれば7月のお客様は昨年のちょうど倍だったそうです。皆様には心から感謝致してます。アッシュさん、ジャックランドさんご紹介あり難うございました。

雨がようやく止んで 

2011年7月30日(土曜日)

ひどい水害をもたらして数日来の雨は止んだ。滅多に水につからない上越市大潟区の田畑も水びたしだった。

 

新潟県では中越地方を中心に、上越市でも吉川区や保倉川水系などで甚大な水害となった。今年は特に自然の猛威を知らされる。

 

1午前の田畑 午前、往診帰りの田畑 大潟区里鵜島
2ツバメ
ようやく雨が上がり、鳥たちが活発になった
3川と雲
次第に夏らしい空に

午後から晴れてきて、樹下美術館の裏手の田んぼではツバメが休みなくヒナに餌を運んでいた。豪雨続きで親子ともお腹が空いていたにちがいない。

夕刻近く、長野県から可愛い赤ちゃんをベビーカーに乗せた若いご夫婦がいらしてた。上越市へ海を見に来られたということ。たまたま食事をした店に置かれたジャックランドで当館を知り、寄ってくださったと。

4お客様 可愛いお嬢ちゃまが一緒のナイスファミリー
またいらしてください、ありがとうございました。

 

雪は降ってない

2011年7月29日(金曜日)

 

隣室から母の呼ぶ声がした。畳の部屋で大きな卓を前に母が座っている。
卓上に白い紙が置かれ、母は黙って筆を執っていた。

 

庭にに囲まれた部屋の戸は開け放たれて緑の光の中に母の影が浮かぶ。
何か用、と訊いたが返事はなかった。

黙っているなんてあり得ない、どうしたの変だよ、と不安にかられて私は言う。
問いは無視され母の姿がだんだんと薄くなっていく。

 

私は人を呼びに隣室へ飛び出したが、すぐに引き返した。
そこに人の姿はなく卓上に数珠が一つ置かれていた。

 

いたたまれずに庭に出ると曇り空が木々を見下ろしていた。

 

そう言えば父も妹も近しい者たちもみな急に消えた。

 
いずれも別離というより失踪ではないのか。

母もまた訳と行方を探さなければならない。 

 

観音 

 さて、以上は数日前の明け方に見た夢です。
7月3日に外出をした母。しかしこのところ反応が落ち、点滴一本で何も食べず、はー、と言っては目覚めてまた眠るようになりました。昨日、隣の部屋の窓を開けると少しだけ表が見えました。

「雪、降ってないの」

「大丈夫降ってない」

聞いた母が安心したようにまた目をつむりました。

佐賀県古枝村の南国から越後に一人来て、ある種よそ者として生きた65年。短い言葉に母の心情がにじんでいました。

幸せな若夫婦 渋柿浜の花火

2011年7月27日(水曜日)

昨夜は直江津祇園祭の花火大会。 花火大好きという妻と海へ見に行った。少しでも会場近くとて大潟区渋柿浜の漁港へ。

花火は正面に上がった。ぱーっと開いて随分経ってからドーンと聞こえる。車のエンジンを切り両窓を開けると気持ちのいい風が通る。ちょうど一時間の花火も良かったが、窓からお隣の車の若いご夫婦の声がよく聞こえて楽しかった。

ああダメダメダメ、間に合わないよ。押してから2,5秒でガシャとシャッターが切れるんだから。

シュルシュルと上がったら見当つけてシャッター押すの、遅い遅い。

画面見てたら遅くなるんだから、目でも花火を見ながら押すの、ああダメダメダメ。

 

花火 私はこの程度が精一杯

ご主人はケータイの写真に不慣れらしい。小さなお子さんは眠ってしまったようだ。おうちでは何かと奥さんがリードされるのだろう、いい感じのご夫婦だった。

大好きと言っていたのに花火が上がって間もなく妻はすやすやと眠ってしまった。

倉石隆のカット絵 知足美術館さん

2011年7月26日(火曜日)

この前の日曜日(24日)に新潟市の知足美術館・副館長の佐藤和正さんが樹下美術館を訪ねてくださった。

今年2月中旬からおよそ40日にわたって拙ボタニカルアート展が知足美術館で催された。館長の(株)キタック社長・中山輝也さん、佐藤さん、ほか社員の方々にとてもお世話になった。

その佐藤さんがこのたび当館常設展示作家・倉石隆氏のスクラッチボード作品を持参してくださった。1980年代を中心に倉石氏はある新聞の文芸欄で小説やショートショートに挿絵・カットの筆を執られていた。

 

うみねこ
うみねこ
雪1
雪1
雪2
雪2
検査
検査
わかれのヘアピン
わかれのヘアピン

お持ちいただいた貴重な原画5作品は小品ながら心こもり、物語性十分で胸動かされる。今後は展示させて頂き、図録にも載せたい。

※スクラッチボード:白色の厚地の上に黒がカバーされている絵画材料。黒い表面を鉄筆や刃物などを操作して白地とのコントラストを得て制作する。

※妙高市ご出身の佐藤和正さんは小生の中高の少し後輩で、亡きお兄様と小生は同級だった。このたびは大変有り難うございました。

潟町にチョウトンボ 樹下美術館にはアマガエル 

2011年7月24日(日曜日)

今日の上越市は涼しく、晴れ間の見える昼過ぎでも28度前後だった。その晴れの庭にチョウトンボ。池の周囲に多く見かけるが庭で見るのは珍しい。二羽で来て15分くらい飛ぶとそれぞれ休み、一度はお洒落なカサブランカに止まった。

 

涼しくとも美術館の庭はぐったりしている花がある。予報は降りだったが外れもあろう、と夕刻に撒水を始めた。すると間もなくざーと夕立が来て、間髪を入れずあちこちでアマガエルが鳴き出した。

 

昨日は鉱物今日は小動物、なんでも少しずつだ。

庭のチョウトンボ 
潟町の自宅の庭にチョウトンボ
トクサのアマガエル 
トクサでうっとりしている
 
チョウトンボとカサブランカ 
カサブランカに止まるなんて
デッキのアマガエル
田んぼを見下ろすデッキにも

糸魚川 ジオの静謐は大いなる魅力

2011年7月23日(土曜日)

昨日に続いて曇り空のまま気温も上がらない一日。涼しいうちに、ということで午後糸魚川へ行った。

目的地はフォッサマグナミュージアム谷村美術館。フォッサマグナミュージアムは数回見ているが、世界ジオパーク認定後は初めて。谷村美術館も何度も訪ねていたが、数年前に閉鎖された。しかし幸運なことに再開されたと聞いて本当に嬉しかった。

最初に訪ねたのはフォッサマグナミュージアム。隕石からのスタートで、魅力的な化石、宝石、貴石、資源・地質資料、ナウマン博士の事、など興味尽きなかった。

1全景
展示スペースの全景
3アンモナイト
キラキラした巨大なアンモナイト
5斜方石
虹彩を放つ斜長岩(スペクトロライト)
7オパール
オパールの原石
9ヒスイ
ヒスイは涼しい
来館者さん1
2隕石
重い鉄隕石、妻は片手で持てなかった
4アンモナイト
くっきりした紋様は人気がある
6ラピスラズリ-
小生の好きなラピスラズリ-
8石灰岩の珊瑚化石
糸魚川一帯に分布する珊瑚化石
10直角石
直角化石も糸魚川産
来館者さん2 

 

2009年8月22日、ユネスコが関係する世界ジオパークネットワーク(GGN)の会議で糸魚川は洞爺湖有珠山、島原半島とともに世界認定された。

地質学的な世界遺産ともいうべき認定は貴重だ。恥ずかしながら私も糸魚川・青海一帯が好きで30年来、思いついては訪ねた。清々した石灰岩の山々、おびただしい珊瑚化石の露頭、多様な石ころの浜辺は見て触れて格別だった。

 

今日訪ねてあらためて印象的な事柄に出会った。

●糸魚川ヒスイの発見に関する不可解な経緯、なかでも相馬御風氏の謎めいた関わり。
●フォッサマグナを提唱したナウマン博士と森鴎外のドイツに於ける日本論争。
●ショップで化石や鉱物標本の販売が中止された。世界認定以後、資源保護の意識表明。
●認定以後、お客さんの数が違う印象(以前は自分一人のことも多かった→今日はかなり賑やか!)。

 

時間が無くなり谷村美術館は今度にした。それにしても再開は嬉しい。ジオパーク、御風邸、などとともに新潟県の西地域が文化でひき締まる印象を受ける。

 

糸魚川は他の二カ所のジオパークより格段にスケールが大きいと思う。一帯の自然は可能性に満ちている。こじんまりと音頭や看板から始まるのは仕方ない。今後何十年かかってもいい、着実に世界認定に恥じない質で充実発展することを切に期待したい。

何億年のジオの静謐、大いなる魅力、嬉しいことに博物館は撮影OKだった。

気持ちの良い雲 夕陽弁当 いつか佐渡へ

2011年7月22日(金曜日)

夕刻に向かってやや気温が下がって凌ぎやすくなった日。患者さんも母も落ち着いているのかな、という木曜午後は定期休診。いつものように田んぼを一回りして美術館へ行った。

 

空は晴れ上がり、綿雲や飛行機雲が浮かんでいる。

 

台風は新潟県上越地域にほとんど雨を降らさずに去った。連日の熱暑でアジサイはじめ庭の花々はぐったり。

 

みっちり二時間の水遣りをした。樹下美術館は庭も見ていただいているので手抜きは出来ない。

 

途中から加わった妻は草取りにかかる。庭の草取りは仏の手指をきれいにして差し上げる仕事と、殊勝なことを言っている。新潟日報の新聞小説「親鸞(五木寛之作」を読んでいてかなりその気だ。 

 

水田の雲 大潟区吉崎新田の農道

米山の雲 
米山に動物の家族のような雲 

 

尾神の雲 
すると尾神山にも似た雲が

 樹下美術館の雲
夕刻の樹下美術館にかかった鰯雲

 

本日も夕陽の浜でお弁当を食べた。今日は浅漬けのお新香と枝豆が付いた。この時間、見晴らしがいい四ツ屋浜は、いつも何組か家族やカップルが来られている。

 

少し離れた所で私たちは車窓を開けコンビニ弁当を広げる。暮れる沖の佐渡汽船を見ながら、いつか日帰りで佐渡へ行きましょう、と妻。

 

日帰りでも小木、深浦、宿根木は十分行ける。パソコンが落ち着かず、日をまたいでしまった。

新潟県立柿崎病院 愛着病院 大夕焼け

2011年7月19日(火曜日)

今夕はおどろおどろしいほどの夕焼け。ほぼその時刻を新潟県立柿崎病院の症例検討会に参加していました。検討会でツツガム病と結核の症例が呈示されて非常に有意義でした。

 

検討会を終えて懇親のため病院から出た途端、我が眼を疑う大夕焼け。皮肉なことに大夕焼けはしばしば台風に付随します。はたして上陸地域の被災は如何ばかりだったのでしょうか。

 

ところで柿崎病院さんは、藤森院長以下常勤医師4名による正真の地域密着病院です。何かと大病院に気が引ける切実な患者さんを助けて頂いて、いくら感謝しても足りません。地域の密着病院を越える愛着病院として長くl粘って頂きたいと心から願っています。

 

夕焼けの虹今夕の虹、 直江津人からの送信写真です。

集中のなでしこジャパン 男子は髪格好を気にしすぎ

2011年7月18日(月曜日)

なでしこジャパンへ なでしこジャパン、お目出度うございます。ワールドカップの世界一は本当に素晴らしい。

日本に女子サッカーが出来た当初、それは一種あわれを感じるほどのマイナー振りでした。

 

澤選手、何年たちましたか、ついにWC優勝と最優秀選手!このような事が可能なのですね。

 

比べたくはないのですが、男子。大抵のスポーツで男子はきめた髪が何かと気になるようで、試合中もよく髪を触っています。バレーボールもそうかも知れません、100%集中しているのでしょうか。

 

ああそれなのに、なでしこの選手たちは、髪をしっかり止めただ汗だくなのでした。そして身体の小ささがこれほど生きるとは、目からウロコでした。

 

帰途の飛行場のニュースを見ましたが、はじける美しさですね。

 

今日の自分は一歩も外へ出ず仕舞い。図録に載せたい作品が昨日新たに手に入って再度全体の組み直しでした。

豚飼い フォルテシモからピアニシモへ

2011年7月16日(土曜日)

去る5月10日の拙ノートに「フォルテシモな豚飼い」のことを書かせていただきました。著者は小生の一つ違いの弟です。このたび前著の続きになるのでしょう、ピアニシモな豚飼いのリーフレットが届きました。

 

無沙汰がちの拙弟ですが紙面をお借りしてご案内させて頂きました。

 

ピアニシモな豚飼い 
  本 

「ピアニシモな豚飼い」は来る8月6日に西田書店から発売されます。2009年の「フォルテシモな豚飼い」から丸2年が経っています。

 

 あれ以後、人間の所以(ゆえん)はどうなったのでしょう。20年余の豚の放牧「コルティッホソーナイ牧場」と「風の宿」は果たして所以に叶ったのでしょうか。

 

3月11日、南三陸町の山中で執筆中の著者を大地震が襲いました。破壊と汚泥の中から著者の魂はさらなる所以を求めて最後(多分)の飛翔を試みようとしているかに見えます。

 

“緑あふれる日本にあっては、心に宿る魂の「私」が穏やかに満たされると所は、やはり人類が百九十九万年あった、意なき緑の静寂にあってしかないようである”と彼は述べます。

 

幼少から弟は走るのが速く私は遅い。彼が自転車で日本一周を試みる間私はバンドなどを行い、彼が反戦デモから帰ると、私は戦争は当事者が消耗し切れば終わると述べました。

 

“国破れて山河あり”。昭和29年、中学校入学式で校長が述べた言葉です。校長は大学の仏教美術の教授を兼任していました。幼弱な私たちを黒々とした視線でキリのように貫きながらその言葉は発せられました。私は何のことだかさっぱりでした。

 

それが50才を過ぎた頃から、自の精神の拠り所は緑なす山河しかない、と確信するようになりました。何かと異なる弟なのに似たようなことを思っていたとは、やはり同じ親の子だな、とつくづく思います。

 

「ピアニシモな豚飼い」、宜しければどうかご笑読ください。

赤い月 高田高校の山崎先生

2011年7月15日(金曜日)

良く晴れた一日、少しく風が吹いて、日中は家より外が楽な時間もあった。いよいよお年寄りの脱水症(発熱、食欲途絶)が始まった。今日は三件の往診先で点滴をした。いずれも急で夏は本当に油断が出来ない。

さて今夕の満月を楽しみにしていた。月の出を家の前の道路から見ることが出来た。出たばかりの月は驚くほど赤く、家並みの真上だったので大きく見えた。あまりの赤さに、お向かいの奥さんがあれは何ですかと仰ったほどだった。

 

夕刻の月
ルナ・ロッサ(Luna Rossa) 赤い月はシャンソンにもある

ルナ・ロッサと言へば、テラ・ロッサも思い出す。双方ともイタリア語で、テラは土でロッサは赤。赤い土テラ・ロッサは地中海地方やブラジルに見られるぞ、と高校時代に山崎静雄先生の世界地理で教わった。

ロングさんとあだ名された先生は数学がメインだったが地理も教わった。アルゼンチンの首都ヴェノスアイレスはスペイン語で良い空気という意味なんだ、シュヴァルツ・ヴァルトはドイツ語で黒い森だとも習った。

先生が話をされるとそこへ行ってみたくなった。

一年生の時の担任でもあった先生。その年の後半、私の結核が分かった時に親身になって心配してくださった。背が高く山岳部の指導もされたと思う。
授業は常に熱心で思い出深い。

ハチの季節 くちなし

2011年7月14日(木曜日)

昨日の菅氏の談話は今朝様々に伝えられていた。激しい批判は構わないが、メジャーメディア自身もエネルギーについて独自の研究や展望をもっと語ってもらえればと感じた。

暑さの中、ハチが勢いを増している。畑で刺された、洗濯物を触ったら刺されたという方が見える。中にはそのつど気を失ったり、喘息やひどい下痢嘔吐になる人がいて油断出来ない。予め抗アレルギー薬を持っている人もいる。

そのハチに夕刻の庭で妻が服の上から肩をさされた。今日はスタッフの女子会ということ、痛い痛いといいながら塗り薬持参で出かけた。

くちなしの花
クチナシが夕暮れの庭に香る。
十年前に買った60センチばかりの樹は、二メートルを越える丈になった。

だれがやるにしても 脱原発への道のりは

2011年7月13日(水曜日)

 少々長くて本当に申し分けありません。昨日の続きとなる会見がありました。首相のすじとして一定の方向が表明されましたので、以下個人的な拙いまとめをしてみました。

  単なる延命のネタであってもかまいません、腐っても首相です、会見によって脱原発が初めて国のマターとなったのですから。

  

 以下本旨です。
菅直人首相は13日夕、エネルギー政策に関して記者会見をした。これまで首相は退陣の目途として以下の三法案の成立を挙げている。

1・第2次補正予算
2・再生可能エネルギー法案
3・公債特例法

1,3番は実務的な案件に類するが、2番は国幹に関わるいわゆる政治的課題であり、菅氏が最も力点を置くものと捉えられている。政治家なら当然と考えられる。

 

以下は会見の要旨で、本日のYahoo!ニュースからロイター通信が伝えた記事をもとに首相の見解を概略してみた。

●福島原発事故によって原発に依存しない社会を目指すべき、との認識に至った。

●原子力発電は計画的、段階的に依存度を下げ、将来は原発がなくてもやっていける社会を実現する。
●当面のエネルギー需給見通しについては、15%の節電によって十分に、この夏、さらには今冬に必要な電力供給は可能。 

●原子力安全・保安院は経済産業省との分離が必要。

●原発再開をめぐる統一見解での混乱については、私からの指示が遅れることによって迷惑をかけたことは申し訳なかった。

●エネルギーや社会のあり方は国民が選択すべき大きな政策。脱原発への道筋について基本的なところから積み上げる必要がある。

●現在稼働中の原子炉について、今後、中長期の議論を行い、計画を固めたい。私の段階だけですべてできるとは思っていない。

●エネルギー政策の問題で解散するしないは一切考えていない。

 

以上、脱原発への見解としては極めてまっとうな内容となっている。

会見に前後して身内である民主党議員によって以下の動きがあった。

 

民主党の吉良州司、長島昭久両衆院議員らが13日夕、首相官邸に仙谷由人官房副長官を訪ね、菅直人首相の即時退陣を求める同党若手の衆参両院議員11人連名の文書を提出した。吉良氏らは今後、党所属の全議員に賛同を呼び掛ける方針だ。
 文書は、九州電力玄海原発(佐賀県玄海町)の再稼働をめぐる政府の混乱について「菅内閣の機能は完全に崩壊した」と厳しく批判。特に首相の対応を「内閣の一体的運営を自ら放棄した」と非難し、「菅首相の下での復興は実現不可能」と断じた。また、電力需給の逼迫(ひっぱく)に備え、定期検査が終了し、安全性が確認された原発の早期再稼働を要求した。
ー以上時事通信7月13日(水)17時36分配信から抜粋ー

 

この行動からこれら議員のエネルギー問題への見解として

●電力需給が逼迫している。
●定期点検が終了して安全性が確認された原発から再稼働。

が示され、菅氏の見解と対立している。

 

首相は課題を集約しましたが、無政府状態はいっそう明白となりました。どう推移するのでしょうか、以下二点を妄想してみました。

 

●会見で菅氏は“エネルギーや社会のあり方は国民が選択すべき大きな政策”と述べて、国民の選択を強調した。そのうえ今夕の民主党議員の動きなどからエネルギー論は党派を超えるマターであることが鮮明となった。

 ●首相は脱原発への道付けを是非とも我が手で行いたいと考えているふしがある。そのために以下が想定されていたのかもしれない。今夕の一部議員の行動は想定(解散)を動かすスイッチとなることも想定され、事態はいやがおうでも切実さを強めている。

 

本日の意見表明→議論高揚の必然→止めろ止めないのすったもんだで各党、各議員に踏み絵の必然→決着は解散・総選挙→脱原発的政党の形成→実現への長い道程の始まり。

 

そもそも民主党はブーム(現象)集団だったのでしょう。当選するのに都合がいい、という。そんな党の政治ならば参院選で負けるのも、大震災の対処でもたもたするのも、いつか崩壊するのも当然なのかもしれません。

 

選挙などしている場合か!はもちろんです。しかし残念ながらすでに無政府状態が現出しているのですから、党首を替える試みなどでは無為な騒動を続けるばかりです。前に踏み出すには解散しかないのではないでしょうか。
もしかしたら民主党の崩壊が国会の解散と同義語という皮肉な結果です。

 

大震災は地殻を揺さぶり多くの犠牲者と避難者を生みながら、一方で政治と私たちをも激しく揺さぶっているのではないでしょうか。しかし、これから日本復興の本格的な第二ラウンドが始まるのでしょう。
歯がゆいことに時間を必要としていますが、すべて日本の政治が辿った延長線から逃れられない現実だと思います。

 

長くなりました、果たしてどうなるのでしょうか。解散するにしてもしない場合も、静かで腹の据わった賢人(集団)への集約の始まりと、国の脱原発ベクトル確立を心から願っています。

 

発達する積乱雲 仕事の後、美術館の庭に水遣りをしました。
関田山脈にみるみる積乱雲が発達していました。

いつしか月が登り、庭のキキョウが恥ずかしそうな顔をしていました。 

 

誰がリーダーになるにしても

2011年7月12日(火曜日)

脱原発は多くの国民の意識となりつつある。しかし根深い相手サイドの克服なしに成立しない。

 

経済産業省、電力はじめ産業界のほぼ全体、地元経済、擁護政治家、擁護メディア、安全保障関連、、、衝突カテゴリは膨大である。
 

だが福島の事故の悲惨さと深刻さによって、推進サイドさえ一定の限定を受容せざるを得ない状況がにじむ。また擁護的であった原子力学会など専門団体にもようやく反省表明が出た。このタイミングを無為にすべきではないだろう。

 

いうまでもなく旧態の脱却には並々ならぬ信念に貫かれたリーダーが必要だ。はたして菅首相は大丈夫だろうか。残念ながら氏がこれほど切れ味の悪い揺らぎの人だとは思わなかった。直近においても3・11以来考えが変わったなどと述べ、意外であり信念の深度も問題だ。タフな脱原発は愚直なまでの理念と牽引力が不可欠なのに。

しかも菅氏のぶれは逐一推進サイドのメリットに転換されてきた。事故も検査もまず原発自身の問題なのに、何もかも菅氏の失敗のせいだと転嫁され大いなる空白と損失を生み続けた。民主党の甘さでもあり、不可解なことでもある。

 

今後、解散総選挙による政局で脱原発党が出来たとして、はたして誰がリードするのだろう。大方は攻撃専念の無為なお利口さんばかり。政争の具から離れた目の覚めるような人が生まれるようには見えない。
この残念は安全神話と金が如何に深く浸透していたかを物語り、政治の退行を本気で心配しなければならない水準にある。
 

本日、原子力の所轄は経済産業省とは別に独立させると菅氏が述べた。遅きに失する見解であるが誰がやってもいい、諸課題の中で優先順位は非常に高い。

課題は次第に整理されつつある。誰が引っ張るにしても過ぎた4ヶ月を切実に学習し、人がまとまりリーダーが育つことを、それでも期待したい。またしても国民が悪いと言われるのは、やはりつらい。

 

今日の鵜の浜温泉の夕焼け 今日の鵜の浜温泉の夕焼け

夏の夕刻、激しい気象 

2011年7月11日(月曜日)

今日また暑さはさらに厳しい。仕事が終わる直前に晴れ間が変化して激しい夕立がきた。スタッフがゲリラ豪雨、と漏らした。

 

夕食を終えるころ雨に濡れた百日紅(さるすべり)が赤々と夕陽を照り返している。7時まで待って四ツ屋浜へ日没を見に行った。

 

雨上がりの海にあざやかな夕陽が沈んだ。道の水溜まりが赤く染まって遠くを佐渡汽船が通過して行く。

 

2 
雨樋などお構いなしに降る雨

3 
雨があがり、夕陽に染まる百日紅
4 
赤い水溜まりの向こうを佐渡汽船が帰る
5 
真っ黒な雲(乱層雲)の下に柱のような雨影
稲妻を写すのは難しい。

 

深まる夕闇の向こう直江津方面で稲妻が光り始めた。カメラを構えると今度は私たちの後ろが光った。振り向くと真っ黒な雲から大きな柱のような雲(雨影?)が海面に降りていて、そこにも稲妻。

 

雲はごろごろと言いながら閃光を放ち、こちらへ向かってきた。ここで雷に打たれたら申し開きができない、追われるように家に帰った。
再び雨が降ってきて夕刻の気象は激しく変化した。自然てすごいね、と妻、まったくその通りだと思う。 

今日の樹下美術館 上越地方の水田の貴重 

2011年7月10日(日曜日)

久しぶりのゴルフに行き、53・53は私にすれば良い出来でした。帰って美術館に寄ると妻が笑顔で話しました、いつもに増してお客様がお見えになったと。

大勢といっても小さな樹下美術館は4百人ではありません。40人を少々越えたほどの方たちなのです。しかし4年目の常設館では破格かもしれません。いくつか嬉しいお声もお聞きしたということでした。

美術館巡りは好きで色々出かけるが、大抵一回行けばもういいと思う。しかし樹下美術館はまた来たい気持ちになる。

初めての知人・友人を誘うと必ず喜んでもらえる。

何と有り難い言葉でしょう。少しずつ長岡、新潟、新発田、糸魚川の各市の方が増える傾向を感じています。樹下美術館は作品鑑賞の場所だけでなく、“ほっとしてお過ごしいただく所”をイメージしています。どうかこれからも宜しくお願い申し上げます。

上越地域の水田

さて、三方を山々に囲まれた頸城平野の水田風景は、いま本当に素晴らしい眺めです。
あざとさの無い、広大な生気と手入れの良い風景は、上越地方の貴重な財産にちがいありません。このような清々しさは、都会が地方に求める大切な要素ではないでしょうか。

新井ー柿崎線に添う水田風景は、人々を魅了して止まないポテンシャルを有していると思っています。

渡部典さんから届いたCD シーグラスの写真が

2011年7月9日(土曜日)

東京都でご活躍の上越市大潟区出身のグラフィックデザイナー机上工房の渡部典さん。彼女からしばしばご自分がデザインされたCDをお届け頂いていました。
またクロアチアのナイーブアート作家亡きイワン・ラツコヴィッチ氏の貴重な画集を樹下美術館のカフェ図書にお借りするなどとてもお世話になっています。

このたび新たにCDをお送りいただきました。

「シューベルト:歌曲集“白鳥の歌”」です。

ジョン・エルウィス(テノール)・渡邉順生(よしお)(フォルテピアノ)による一枚です。

ALMレコードによる当CDにはいくつかのトピックがあります。

●伴奏の渡邉順生さんの第42回2010年サントリー音楽賞。

●英国人ジョン・エルウィスさんの貴重な歌声。

●カバーデザインが大潟区出身の渡部典さん。

●写真は不肖わたくしの提供。   などでした。

数枚のCDを樹下美術館の窓口に置かせて頂きますのでどうぞお手にとってご覧下さい。

 

表紙
青いハート型のシーグラスを中心に白系のグラスで十字をあしいらいました。
裏表紙クレジット
私のクレジット
表紙裏の写真とクレジット。嬉しくて私の所を拡大しました。
ジャケット裏プログラム
プログラムはベートーベン「はるかな恋人に」とシューベルト「白鳥の歌」です。
透明で豊かな演奏は時代と私たちを慰めてくれることでしょう。

思えば2008年7月の海でたまたま出会ったシーグラス。以来訪れた浜で集め、その写真がCDカバーになるとは。またチョーカーにもなって樹下美術館の窓口に並びました。

陶齋のざくろ紋壺 父の油絵 小生の絵油 再び夕陽を

2011年7月8日(金曜日)

以前のノートで柘榴アラカルトとして陶齋の壺を描いた父の油絵を載せたことがあった。その時、とても気に入っているので額装し直して架けたい、と書いた。

実行まで随分日が経ってしまったが、昨日大嶋画廊さんへ持参しその場で仕上げて頂いた。

陶齋の柘榴壺モチーフになった陶齋のざくろの壺 (昭和28年頃)
陶齋40才の頃の作品。

父のざくろの絵
額装し直した父の油絵(昭和30年頃)
50才の頃突然のように描いた。

部屋に架けるととても良かった。存在感のある丸み、陶器の肌あいとざくろの朱がなんとも良く出来ている。陶齋の壺への愛情が筆を取らせたにちがいない。一枚だけ残した絵には、好きだったマチスの爽快さまで漂うようで気に入っている。

 

 

私のバラのドライフラワーの絵
私の静物油絵(昭和51年秋)
37才

一方私のは随分苦労して描いた記憶がある。父のに比べて分量も少なく如何にも面白みがない。

追加:今日の午後、上越地方は高田で34度にも達する暑さで、今年一番。大潟区で車が示した外気温は32度だったがそれ以上の暑さに感じた。
夕食後、再度妻と海へ行った。一昨日とちがって見応えのある夕焼けだった。

7/8夕焼け
今夕の四ツ屋浜

何かに感謝したくなるような時間だった。

四ツ屋浜の夕陽 コンビニ弁当 土底浜の小屋

2011年7月6日(水曜日)

また夕陽の海でお弁当を食べよう、という話をしていた。午後から雲がそれらしくなったので今日は行ってみることになった。

 

海の夕食は前回同様買ったお弁当。小生と美術館と三人の老親を抱える日頃、行事は一ときながら100%妻の骨休めだ。

 

車ですぐの四ツ屋浜の海沿いは高さがあって気持ちがいい。先日の夕暮れも何組かの人達が犬などを連れて三々五々海を眺めていた。

浜小屋土底浜の小屋。近くに小さな船着き場、もう使われていない風に見えた。
向こうに直江津の火力発電所の灯りが見える。

 

しかしせっかくの日は、夕方に向かって雲が多くなり空は怪しくなった。それでも用事から帰った妻はしっかりお弁当を買ってきた。母の夕食を見終えて、夕焼けがきれいでなくても構わないということで出かけた。

 

陽は湿っぽい雲を少しばかり染め、最後に私たちを赤い目でじろりと睨んで沈んだ。開けた窓に潮騒と風が心地いい。私はオールフリーを飲み、妻はビールを一缶飲んだ。

 

食事を終えると、Uターンのためにかっての漁師さんの小屋まで下って行った。たぶんこの辺りは土底浜。絵みたいと妻、私には映画のように写った。
風景も食事もどことなく浮世離れの夕べ、400円もしないお弁当は900Kcalもあった。

 

お金も掛けず、しけた線香花火のような夕陽と、なにか絵か映画の様な風景を見て楽しい夕暮れピクニックだった。

九州はともかく 血液型はいけない

2011年7月5日(火曜日)

松本復興担当大臣が辞職した。作家のような風貌、ジャズ好き、サッカーボールを蹴るパフォーマンス。この辺までは新鮮だったが、東北での言動は国家的メチャクチャだった。

一連のメチャクチャ振りをご本人は“やんちゃ”だけのことと思っているらしく、会見でB型ですけん、と仰っていた。やんちゃは九州の売りかもしれないが、血液型はいけないと思った。

論を待つことなく人の性格と血液型は無関係だ。しかし日本だけではないだろうか、プロフィールの多くに血液型が記される。科学の国と言いながら非科学から始まる悪弊。

如何なる職種、嗜好、性格、そのほかどんな集団にあってももA,B,AB,Oの割合は同じで、分母が多くなるほど明確となる。また血液型一致の代表選手である一卵性双生児における性格の違いほど見事なものはない。血液型と性格は無関係ゆえ当然そうなる。

この認識は科学であり知性と良識だが、関係ありはムチャでおとぎ話にもならない。

ああそれなのに、多くの人は私の血液型、彼の血液型、と言う。“B型だからやんちゃでも仕方ない”と国政の要人まで言う。なんとももったいない思い込みだろう。
人と人間関係の根本である性格のことで、意味不明な血液型を言うかぎり、日本は一流国になれるはずがない、まず笑われよう。

 

見渡せば、それを頼りに結婚したり離れたり、就職したり部署を決めたり決められたり。うまく合っているように見える場合があれば、それは偶然で一時のことでしかない。

 

人生の肝要は問題が起きたときの対応だ。その時、無意味な血液型にこだわったために、どれほど多くの誤りが生まれ、出口のない迷いが生じたことだろう。大臣の失敗と残念も深刻であり軽いものではない。

人はそれぞれに性格はある、しかし何度も言いますが相性も含め血液型とは全く関係ない。性格は学習によって融通可能であり、広い可能性を秘めた貴重な個人財産だ。

 

今後私たちはタバコや原発などからの脱却の中に、一刻も早く血液型を入れるべきだと思う。

さらに豊かな思慮と可能性をもって貴重な人生を生きるために。予算もいらない、自由なんだと想像するだけでいい。暗示の国から理性の国へ。

 

夕暮れ

知事はハイハイという必要は全くない 

2011年7月4日(月曜日)

変わった人、無頼な人が行き詰まりを解決することがあるかも知れない。しかし松本龍大臣は管内閣の残期を考慮してもいけないと思う。

そもそも

①冗談にしても「九州の人間だから東北は何市がどこにあるか分からない」という無恥。
②にじみ出る東北と被災者への蔑視、差別感覚。
③一大事にいらだつ子供っぽさ。
④過剰なまでの上から目線。

 

これでは国家を現せない。

 

一方、津波と原発事故以来、各地の知事達にメディアながら接する機会が増えた。彼らの言葉と表情には住民に添おうとする態度や責任感が感じられ、ある種感銘を覚えることが多くなった。

 

しかるに国の大臣は①②③④。おそらく大臣のことは氷山の一角、つまり一人だけの問題ではないだろう。国会には、無知から始まって無責任で終わるという特別な情けなさと貧しさが漂っているのを感じる。

 

現在、政治は強者・権力を志向する「やりたい」「出たい」という人たちを選ぶシステムになっている。しかし今回の一大事はその行き詰まり、有害さを現しつつあるように見える。

 

どうすればいいのでしょう?

以前に第三の仕組みをと書いたことがありました。前記しましたが、各地の知事達の思慮に接するようになったからです。国政は800人近い国会議員を選ぶことから始まっています。この選び方と800人もの数も問題に見えるのです。

 

大勢だから漫然とする。例外を考慮しても、47人しかいない知事たちの方が洗練されているのは自然歴然かもしれません。

 

知事(また複数のその代理人)が国に集まることから始まる方法。知事レベルによるいっそうリアリティある、下から上へという流れです。外交さえもその延長線が望ましく思われるのです。質の高い上司のもと、公務員は数段の清廉勤勉の質を高めなければならなくなるでしょう。

 

選挙区を越える広い範囲で選ばれ、信頼に耐える集団的な賢人による非政治的な実務。首相はそのスポークスマン。これらによって生活感覚・国民感覚が自然に反映されるより理想に近い国家が可能ではないでしょうか。

 

大切なことは、私たちで野心を有さない人を選ぶこと。ある意味やりたい人にはやらせない感覚と方法の確立が基礎かもしれません。

 

無駄なく下から上へ、野心から洗練へ。メシの種や利権から離れた人へ。新たなプロトタイプないしイメージによる第三の仕組みを探ってほしいと思うのです。散漫と途方もなさをどうかお許しください。

皆様の「お声」 病院船時代の倉石隆  母の外出

2011年7月3日(日曜日)

樹下美術館ホームページのコンテンツ「お声」に館内のノートに記された皆様のコメントを追加させて頂きました。3月から6月まで沢山お書き下さり有り難うございました。

“祖父が戦争中倉石氏と同じ船にのっていて、苦楽をともにしたとのことで、今日ようやく美術館に来れて喜んでいました”という書き込みを拝見致しました。

倉石氏は昭和18年から20年の終戦まで、舞鶴の海兵師団で看護兵として病院船に乗船されていました。病院船とは実際どんな様子だったのでしょう、画伯は優しい兵だったのでは、、、。お爺さまは貴重な経験をお持ちなのですね、有り難うございました。

 病院船時代の倉石氏
海兵師団当時の倉石隆
(写真:郷土作家シリーズ 倉石隆展 新潟市美術館©1995年)

“この地に、樹下美術館あり、上越の誇りです” “ここが自宅ならもうどこへもいかない

ほかノートに頂いたご感想は全て樹下美術館の大きな励みになりました。紙面をお借りして心から御礼申し上げます。

樹下美術館は、お陰様で5月中ころからお客様が増えました。さらにASSHの「居心地のいい場所へ」で紹介され、6月は前年より3割も多くお越し頂き(コサートを除いて)深く感謝致してます。

車椅子の母
去る5月27日に倒れて以来初めて母を戸外に連れ出した

午前中、20分ほど押して保育園の所まで散歩した。

 【追加です:病院船を少し調べてみました】
倉石隆氏は、あるいは終戦直後に舞鶴で自沈処分の運命を辿った第二氷川丸に乗り組まれていたのでしょうか。

テッポウユリが咲き始めた

2011年7月2日(土曜日)

もう4日目でしょうか、日中は梅雨の晴れ間が続いています。最高気温も30度前後の推移、まあまあしのぎやすく助かります。

この好天を見計らったようにテッポウユリが一斉に咲き始めました。ますます濃くなる緑を背景に正に目がさめるばかりの白さです。

そもそもユリは野のもので十分に美しかったため、他の花よりも園芸種が少なかったと言われています。

 

テッポウユリ
テッポウユリ赤
この赤系はテッポウユリの園芸種です
ほかに黄色系があります。

現在開花して僅か一日二日、花粉の付着もほとんど見られず、純潔の花にふさわしい清らかさです。
美術館隣接の庭の7、8カ所で咲き始めました。

若き倉石隆氏のデッサンと詩文

2011年7月1日(金曜日)

梅雨の中休みが三日続きました。今日は現在展示中の倉石隆のデッサン画から詩文のついた2作品を紹介致します。

いずれも第二次大戦後、高田市(現新潟県上越市)本町の生家に戻っていた昭和20年~25年(29~34才)の制作です。

 

詩文の展示 絵画ホールの右隅のパネルに架かっている作品

 線は
リアルなクルミのデッサンに“技術は手段であって目的ではない”の詩文
高田で氏の骨格は決まっていた。

線は駆使するものであってもてあそぶものではない

 色は美しく附ければよいのではない 色は目的(感激)に対する効果である

 

ビンの群
ビンの群
左すみに蓋付きのビンが3つ描かれて右に以下の詩文が見える。

黒々と毒汁はのどにからみ
しわがれた欲望に
光は失せたれど
しかも鋭く光るガラスの目

 このガラスビンは何だったのでしょう、お酒でしょうか。高田で苦悩する倉石隆の視界に突き刺さる閃光。追い詰められるのか、若き芸術家の鋭敏な感受性が伝わります。

どうぞご来館頂き作品をご覧下さい。戦後品物の不自由な時代、書類の裏に書かれた当時の画家の心情が手応えをもって伝わります。

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