2011年8月

文化も醸成して

2011年8月30日(火曜日)

この国は農を背景に勤勉によって立国してきた。しかし狭小な国土に多くの人がひしめくあまり、気遣いと競争で暮しは疲労が伴う。

 

困難のない生はあり得ないことは分かるし、そこに幸福を見い出したいのも変わらぬ願いだ。幸い人はその証しとして文化を生成しそれによって困苦を和らげ、明日へ希望を繋ごうとしてきた。

歴史における文化活動の開花は国の発展と同義語だ。直近では戦後の繚乱と明治時代の実りは鮮やかではないだろうか。

 

いま困難の中で新たに首相が決まった。力強い震災の克服、原発と官僚依存から脱却、創意工夫による経済再生と平和の外交リードに注力願いたい。

我々はひしめく人間関係の中でアリのように働くことを引き受けている。しかしアリではなく人だ。首相にはぜひとも豊かな文化芸術の醸成をお願いしたい。優れた宰相であるならばその泉は沸くはずであろう。

パソコンのウマオイ 建付の悪い我が家はよく虫が訪れる。今日はウマオイ。

ラジオと本で育つ子供

2011年8月28日(日曜日)

今日で母逝去の35日法要が終わった。8月10日の滅入からすれば大変早めの壇払いとなった。残った者は自分なりに死者を心に沈ませて、先を生きることになる。

 

法要に訪れた二人の姪は楽しかった。本とラジオだけでテレビも新聞もない生活を続ける一家。小学3年と5年生だが、たいてい大人の相手もする。

 

大嶋画廊へ用事があって二人を連れて高田へ行った。店に気に入ったらしい可愛いものがあった。「買おうか」と言うと二人ともしっかり首を横に振った。よく躾けられている。

 

ある高校を通る時、生徒が横断歩道の手前で携帯していた。それを見て、「歩道で補導されたホド子さん、報道されて親父のホド夫にほどほどにと叱られた。それでカラオケに行ってほどり(踊り)まくりました」、と並べてくったくなく笑いあった。

追放されしもの 
小3が読んでいたクロニクル千古の闇 4「追放されしもの
 作: ミシェル・ベイヴァー 出版社: 評論社 (2008/04)
絵:酒井駒子 訳:さくまゆみこ

ペイヴァー,ミシェル
オックスフォード大学で生化学の学位を取得した後、薬事法を専門とする弁護士になる。神話、民俗学、考古学の書物を読みあさり、アイスランドやノルウェー等に旅をしては物語の構想を練り上げていった、という履歴。私にはさっぱりな本です。


源氏物語の和歌 
源氏物語の和歌  
著:高野晴代 出版社:笠間書院(2011/8/5)
これは小5が、ああ、とてもかなわない。

 

大勢に属するのもたしかに良いことだ。しかし端に属するのにも可能性はあろう。
二人とも健やかに育ってと祈らずにはいられない。
 

夏を惜しんで  鵜の浜温泉の花火

2011年8月27日(土曜日)

夜、花火の音が聞こえた。潟町の自宅二階から見ると近くのお宅越しによく見えた。上がっているところは上越市大潟区の鵜の浜温泉。

 

心ずくしとて8月初旬から6夜にわたって続けられた「色彩花火」が終わる日に当たる。毎回短い時間ながらカラフル、そしてなんとも愛くるしかった。現場では音楽もかかっているそうで楽しかろう。

 

鵜の浜の花火 ご近所のお宅ごしに見えた花火

 

今年の海水浴シーズンも終わる。震災の影響が心配されたが、盛期はお天気に恵まれ賑わいを保ったようだ。
これから澄んだ秋の空と夕陽のシーズンが始まり、魚もいっそう美味しくなる。

 

ホテルと民宿が10数施設、素朴ながら精一杯のもてなしの鵜の浜温泉。いつも応援しています。

真の政治へ

2011年8月26日(金曜日)

菅首相が辞表を出して新たな党首の選出に向けて足を踏み出しました。未熟なのに地位ばかり欲しい人たちは、党派を越えてもう用はない事でしょう。

 

政治はますます複雑さをきわめています。しかし私たちの生活にしっかり軸足を置き、利己的な諸外国と保身の官僚を相手に知恵と力の限りを尽くす人が選ばれる事を願っています。

 

また確固であってもある国一辺倒はだめではないでしょうか。足を捕られぐるぐる回りをするばかりで、どこへも進めません。次の人、あるいはリーダーは理念十分で豪胆かつ柔軟、戦略に長ける人であって欲しい所です。

 

地震以来、政治の無為に失望を禁じ得ませんでした。しかしその成熟にはたゆまぬ切磋琢磨しかないと希望を繋いでみたいと思いました。

 

多少心配ですが、長い将来のために、苦しくとも己を捨てる真の政治への転換を期待します。

 

 昔の潟町の海
高校時代に撮った潟町・現上越市大潟区の海(1950年代) 

 

頸北の 山と実りの田 上越市 頸北地域の昨年の山と実り

 

政治には健やかな文明と、海彦山彦が居る美しい地域の保全をお願いしたいのです。

暮れる柿崎海岸 跳ねる魚

2011年8月25日(木曜日)

所用で忙殺される妻に代わって留守番の午後。番が終わると雨が上がった夕刻の柿崎海岸へ歩きに行った。

暮れた海 
 
それほど良くないお天気でも夕暮れは格好がつく。今日は穏やかだった。
 
跳ねる魚1 

跳ねる魚2 

その暮れる渚のあちこちで魚が跳ね始めた。よく分からないが秋の魚フクラギあるいはワラサだろうか、相当に大きく5,60センチはあろう。
※後日追加です:比較的河口近くでしたのでボラかもしれません。

 

先ほどまで釣り竿を手に手に海を見ていたおじさん達が帰るのを見計ったように始まった。なぜ跳ねるのだろう、右へ左へ上へと思いっきり、とても楽しそうだった。

一見楽しそうでも 眼鏡も修理を終えた

2011年8月24日(水曜日)

 昭和57年(1982年)秋に78才で父が亡くなり、今年は母だった。母は父より30年近く長生きしたことになった。

 

それにしてもこのたびの葬儀に集まった親族の若返りはめざましかった。父の時、喪主だった私は40才で、集まった親族の多くが年長者だった。当時父の兄妹12人のうち10人が存命で随分気を使った。

 

30年後、このたびの参集者の親族で私より年長は僅か一人、大半が30台の子供や甥姪とその子供たちだった。夢の中にいるような隔世感を味わった。

 

メガネ 馴染んでいた眼鏡が修理を終えて戻ってきた

 

12日に葬儀を終えた盆の15日、来訪者の児童たちと広場でサッカーボールを蹴り合った。突然来たボールを追いかけた時に足を滑らせて転んでしまい顔を打った。

 

頬に擦り傷、メガネが壊れた。年長者の恥ずかしい傷はお盆休みの間にガーゼが取れて、皆様には言い訳をしないで済んだ。メガネも無事修理を終えて本日戻ってきた。

 

この一件によって、一見楽しそうに見えても不用意に仲間に入ることは慎まなければならない、と痛感した。

母さん 海へ行って来ましたよ

2011年8月22日(月曜日)

母さん、昨日は海へ行ってきましたよ、急に寒くなって海は静かでした

貴方に海と山とどちらがすきなのと訊くと、たいてい山と答えましたね

 

越後の海は深くて荒れるからと言ってめったに海へは行きませんでした

ふるさとの豊かな有明海に比べるよしもありませんので、仕方ありません

 

それにしても生地に似ているという板倉の絵は本当によく描かれていました

母さんが板倉で「山のあなた」をそらんじたときは少々驚きました

その時に言いましたね、小さい時に失った父親にずっと会ってみたかったと

いつか天国へ行ったら真っ先にお父さん、と大声で呼んでみたいと

ところで母さんは挨拶が下手だし何かと無頓着だからとても苦労しましたね

小姑さんに叱られながら縫った経帷子を着て、うまく三途の川を渡れたのですか

 

もう年だし、両足の骨も折っているのですから心配で

できればすぐにでも行って背負いたい気持ちでした

 

ああしかし、幻のようなことはもう考えないことにしましょう

十分に生きてしっかりお骨になったのですから

 

御父の話を聞いて以来母さんが余計身近になっていましたよ、正直

よければ長く私の心の中に居て下さい、それが何より有り難いのです。

五重塔を愛読した母は板倉の絵などを残して逝きました。

2011年8月18日(木曜日)

H16年母の絵板倉桜園 
 母が残した絵

この絵はかって母がショートステイでお世話になったいたくら桜園の部屋からの眺めです。カレンダーの裏に描かれていますが、なんとも愛らしくて気に入っていました。

 

去る8月10日午前8時55分、その母が自宅で永眠致しました。享年96才、私たちに見守られた最後はあっけなくかつ安らかでした。

 

前後しますが、7月末から反応が低下し、8月2日に脳梗塞を併発。波はありましたが昏睡を続けていました。前回のノートに月を書きました9日深夜、いっときうっすらと眼を開けました。分かる?と問うと虚空を見る目に涙が浮びました。
別れが告げられた瞬間だったかもしれません。 その後また深い眠りに戻り10日の朝を迎えました。

 

 遺影
かって板倉区「ゑしんの里」を訪ねた時の写真を遺影に用いました。
 

 五重塔・岩波文庫 
五重塔(幸田露伴著・岩波文庫)
幼少に台風で失った職人の父を懐かしむように、座右に置き愛読していました。

 

色々お付き合い頂いた皆様、ご心配くださった方々、(株)リボーンのケアマネさん、ヘルパーの皆さん、訪問入浴のスタッフさん、真に有り難うございました。

 

老いた母と暮らせたことを感謝しています。 

草取り 草むしり 月を観る

2011年8月9日(火曜日)

今日は一段と気温が上がった。母は昏睡を続けているが幸い肺炎を免れている。夕刻の仕事を終えると庭仕事に樹下美術館へ行った。

 

妻が先に来ていて、水を遣ったり草を取ったりしている。バトンタッチという顔は汗まみれで、髪や泥や葉っぱの切れ端がくっ付いていた。

 

さて、草取りは一本でも余計に取らずには居られない。そう言えば病院時代の高知の同僚は草取りといわずに草むしりと言ってたな、と思い出した。

 

一時間するかしないかで日が落ちかかり月が出ていた。上弦のうちは早い時間が見頃だという。吉田拓郎の旅の宿の二人は明るみの残るうちから飲んでいたのか。またその方が歌の風情も上がりそうだ。

 

月 アマガエルの目線で

草取り終えて手なぐさみにと地面にポケットカメラを置いて自分を撮ってみた。

健康な三角関係

2011年8月8日(月曜日)

 四ツ屋浜の夕べ
また明日と言って夕陽がしずみ、また明日もと二人は感じる。

二人と太陽の関係は健康的だなあ。

(立秋の上越市大潟区四ツ屋浜)

雲の一日

2011年8月7日(日曜日)

母のケアや、若者、子供の来訪で忙しかったが、雲が楽しい一日だった。

 一行書
巻雲が縦一行に何かを揮毫した。
読めないが涼しい字だった。

雲のサッカー 
 
 たまたま撮った雲がサッカーの最中で、ゴール前のきわどい場面が写っていた。
鳥がアシストしたボールを馬がヘディング。
ワニのフォローも猛烈だ。
大男の雲キーパーはセーブできたのか? 

湖国のお菓子 埋もれ木

2011年8月6日(土曜日)

妻の知人から頂いた彦根のお菓子でお茶を服した。お菓子の御銘は「埋もれ木」。いと重(いとじゅう)菓舗の御製と聞いた。

お茶碗はせっかくの夏なので昔求めた加藤土師萌(はじめ)の平茶碗で頂いた。

手芒豆(てぼうまめ・白インゲン)の飴を求肥(ぎゅうひ)で包み、和三盆(わさんぼん)糖と抹茶でまぶしたというお菓子、埋もれ木。

 

もっちりほろりの甘味の後、お茶がさわやかだった。

 

お菓子とお茶

 

埋もれ木は徳川幕府大老の大茶人・井伊直弼が若年を過ごした館・埋れ木の舎から採られた銘ということだった。

彦根はとてもいい町らしい。その昔、息子が卒業旅行で友人達と彦根などを訪ねると聞いたことがあった。えっ、彦根、地味だなあと思った。しかし当時私が知らないだけで、若者達の選択は良かったのだ。

 

湖国・滋賀県は籠もり身の私にとって憧れの場所の一つ。秋田県、岩手県、三重県、山口、広島、佐賀、、、そう言えば日本中どの県もみな行ってみたい。

世の中をよそに見つつも埋もれ木の 埋もれておらむ心なき身は   井伊直弼

心なき身にもあはれは知られけり  鴫立つ沢の秋の夕暮れ      西行法師

最後は夏侘び?となってしまいました。

樹下の花 夏を彩る

2011年8月5日(金曜日)

花数少なくなる夏の庭。いま濃い緑の中でちゃんと目だって咲いているのは、花の心得通りだ。

キキョウ キキョウ
暑さ気にせずいつも賑やか
ムクゲ
ムクゲ
沢山の蕾を付けて秋に向かってスタートした。
カノコユリ
カノコユリ
最も遅く咲く百合の可憐。
カシワバアジサイ
カシワバアジサイ
真っ白に開化して二ヶ月、グラデーションを見せながらまだ粘る。

海水浴日和 頑張る鵜の浜温泉

2011年8月4日(木曜日)

気温は30度を超えたが、からっと晴れた。今頃のこんな日は海水浴場が賑わう。

 

20110804の海 

 

近くの鵜の浜海水浴場の駐車場には県外の車がずらりと並んでいた。温泉ホテルにも沢山車が入っていて地元民としては嬉しい。
潮風の浜辺は楽しい叫び声でいっぱいだった。

 

鵜の浜温泉は1956年の噴出ということ、帝国石油のガス試掘中の出来事だった。中学生だったらしい私は公開されたばかりの湯を見に行った。国道の海側の砂地に蛇口がしつらえられていた。湯がほとばしり出ていてわくわくした。

 

以来半世紀余、鵜の浜温泉の皆さんは本当に頑張っている。

色絵黄蜀葵(とろろあおい)文鉢 陶齋初期の欧風

2011年8月3日(水曜日)

父の蒐集をつなげて齋藤三郎を集め、2007年6月に樹下美術館へ到達しました。美術館を始めて良かったことの一つは、新たな作品や古い時代の作品に出会えるようになったことです。

齋藤三郎は戦前、近藤悠三と富本憲吉への師事を経て昭和23年高田に登り窯を築くと、本格的な作陶活動を始めました。

先月中旬、珍しい色絵黄蜀葵(いろえとろろあおい)文鉢が樹下美術館へ巡ってきました。箱書きにある“黄蜀葵”は読めませんでした。ネットで打ってびっくり、トロロアオイと読むのですね。
裏面の署名わきに初窯と記されていましたので、まさにS23年高田における開窯第1号作品群に相当します。

色絵黄蜀葵文皿
色絵黄蜀葵鉢
柚子文鉢の裏面
色絵柚子文鉢の裏面

筆の穂先を生かした描画と異なり、一様な輪郭線で描かれた黄色の花に細い葉が配されています。九谷風かつデザイン性の強い当作品に一種欧風の印象を受けます。

欧風なものとして同時代の色絵柚子文鉢の裏面があります。色とりどりの美しい三角模様が輪として楽しく描かれ、大変エキゾチックです。

 

これらヨーロッパ風な紋様は、師である富本憲吉が渡英までして心酔したイギリス人ウイリア・ムモリスの影響が陶齋にも及んでいるのではないかと考えられます。モリスは19世紀のアーツアンドクラフト運動を牽引するモダンデザインの第一人者として旺盛な活動をしました。

黄蜀葵の器は残念ながら顔料の剥落がかなり見られます。同じ初窯作品でも以下の鉄絵や染附(そめつけ)は見事に仕上がっています。黄蜀葵は、二度焼きを必要とする色絵磁器焼成の試行錯誤を物語る貴重な資料としても大切にしたいと思っています。

 

鉄絵葉文鉢
鉄絵葉文鉢
染付け繪変わり皿
染附繪変わり皿

ちなみ黄蜀葵はオクラと近い植物で夏の一日花。和紙をすく時に繊維のつなぎとして用いられてきた、と言うことです。

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