奉公 その2:東京や名古屋で 

2011年12月30日(金曜日)

普段お年寄りには「生まれはどちらですか」などとよく聞くことにしている。するとお話の中で奉公のことに出会う。

 

当地域では現在80才を過ぎているおばあさん達お年寄りの戦前のこと。尋常小学校(6年制)や高等小学校(2年制)終えると都会への奉公はかなり一般的だった。奉公はとくに尋常小学校を終えて出たようであり、当地上越市の頸北地域では主に冬期間ごとに行った模様だ。そのほかの時期は家で田んぼや漁を手伝い、獲れた魚やサツマイモの行商も手伝った。

小さな子どもたちも何かと家のために頑張ったのだ。

 

もちろん高等女学校へ進む人もいたが、裕福な家庭などで一部だったと聞いている。

 

ところで製糸工場に関して悲惨な話を聞く。しかし奉公を話す老人達は、わずかながらもお小遣い、嫁入り修行、きれいになれるなどと言われ、あまり悪印象を話す人はいなかった。

 

以下わずかですが、皆さんからお聞きした奉公のことを記してみました。 

このあたりでは名古屋へ奉公に行った人が多い。名古屋には当地出身で信用できる人が居たのでその人の世話になったと聞いている。
奉公はもっぱら子守だった。子どもをおぶってよく近くの神社で過ごした。神社には子守をする仲間が集まり、お互いのお屋敷や故郷の話をした。お小遣いが出るともんじゃ焼きを食べに行った。もんじゃやきはとても美味しかった。

最初長野県の製糸工場へ行ったが、途中で東京の女中奉公に変わった。顔や言葉が良かったので選ばれたと思った。子守はしなかったが、掃除洗濯から次第に来客の仕度、奥さんのお伴で外出するようになった(子守などの下女中(しもじょちゅう)と奥さんに付く上女中には厳格な区別があったらしい)。

直江津のお菓子屋で女中をしたあと、東京の大森(特に昔の大森はお屋敷街)へ奉公に行った。引退した社長さんの大きなお屋敷だった。女中さんが5,6人もいて驚いたが、どうして沢山いるのか分からなかった。
よくお客さんが来たので言葉遣いがやかましかった。奥様、旦那様、お嬢様、左様でございます、などと盛んに仕込まれた。

名古屋に行った。仕事のほとんどは子守であとは家事のお手伝いだった。他の家の子守の人と友達になった。「この子の在所は山ではないらしいね」と言われたことを覚えている。何のことか分からなかったが、訛りがひどくなかったのかもしれない。

 

さて、10代半ばで親元を離れ遠い都会の他人の家へ行く。人も地域も全く異なる環境で使われながら生活された娘さんたち。その度胸や忍耐に深く感心させられる。無事に生きてこられ、今日お会いできるのはある種物語だ。

 

今日の四ツ屋浜

 今日の四ツ屋浜

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