2013年1月24日

原発、県民投票条例案が否決されて。

2013年1月24日(木曜日)

上越市大潟区は信じがたいほどの無雪状態で冬の後半を迎えている。ただ明日から寒波と予報が伝えた。

 

さて昨年6月下旬から二ヶ月間にわたって柏崎刈羽原子力発電所の再稼働に関する県民投票条例の実現を目指す署名集めがあった。微力ながら自分も受任者となり皆様の貴重な一筆ずつを頂いた。
文字通り手弁当で行う僅か二ヶ月の署名活動。署名は捺印も必要としていた。それでも反応は全県下に及び、法定の4万筆を超える6万8千の意思表示は重かったはずである。

 

原発は一旦シビア事故となれば立地地元を越えて深刻な影響が拡大する。また平時静かであっても不安はぬぐえない。
条例が目指したものは、施設再稼働に関連した意向を聞くのに地元自治体だけにしないで広く県民も、というもので、まっとうな提案であった。
しかし昨日県議会が開かれ、知事が修正して提出した条例案およびある党の修正案も大多数の議員によって否決された。
多数党は議案を形式論に転嫁させ、意味・内容の議論という議会の責任を十分に果たさず終了した。あたかも裁判所のごとくであり、新潟県議会は遠く鈍く恐ろしい所だと思った。

 

すでに中越沖地震で影響を受けている発電所の課題は残る。一方経済構造に直結しているだけに関係者の生活不安は大きいと思われる。当原発の技術課題は会社が、稼働可否判断と補償は国が責任をもって対応すべきは論を待たない。しかしそれらの過程で中間を繋ぐ県議会は、なぜ当事者足りる全県民の意向と真摯に向き合おうとしないのだろうか。

 

私の仕事場はおよそ柏崎刈羽から30キロすれすれにある。やはり不安である。もっと近くの人を思えば胸が痛む。原発の安全性は人間の頭脳と技術の範囲だ。しかし自然現象と原発自身の人知を超える本質は人を不安にさせる。そもそも原子力発電所の安全性とはどんな概念だろう。

 

【安全な原発の成否とは次のような事かもしれない】

今後どうしても原発が必要ならば首都圏(あるいは大都市)に作ることを絶対条件にすべきだ。それにより問題が分かりやすく浮かぶ。
実際、多リスクの首都である、安全は基準を越えてとことん追求されるであろう。だが果たして万全というものが完成するだろうか。そして最も高いハードルが別にある。都民の意向であり、どんなものなのか想像もできない。

 

生産(経済活動)と生活はしばしば衝突する。しかし多くは工夫・妥協によって何とか均衡を保とうとする。そんな中で使用済み核燃料や廃炉を含め原子力発電だけは、住民の心身健康と創造的な生活に対して埋めがたい溝を生じせしめる。

 

国策、、、。昨日の県議会では何の響きも無くこの言葉が使われた。国の冠の前に善良勤勉な県民が無力のまま置かれるのは悲しいことだ。課題は流動し国策といえども生き物であろう。柔軟な部分を有してなければ現実に対して深刻なズレを免れない。

 

不安の無い清澄な郷土、無力感の漂わない新潟県であることを心から思い願っている。

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