なぜ当家に前島密の扁額があるのか 小山作之助兄弟とマツ夫人。 

2013年5月16日(木曜日)

私の家に端正な扁額が残っています。前島密の揮毫で、上越市は潟町の古い医院の待合室に掛かっていました。重々しい玄関をくぐって上がった待合室は8畳間、その真ん中に八角の小さな染め付け火鉢がありました。
戊辰戦争後、高田藩において謹慎し、後に新政府の太政官となり、次いで東京大学教授となった会津藩士・南摩綱紀(羽峰)の屏風が火鉢を囲み、いっそう格調を漂わせていました。

正明堂明治42年初秋に前島密(号・鴻爪子こうそうし)から祖父・杉田直次郎に贈られた「正眀堂」。
「正眀堂は」医院の号でありましょう。
直次郎のことを杉田国手清鑒(こくしゅせいかん)と書いています。
国手は医師への尊敬語で鑒は鑑(かがみ)の事です。清鑒は澄んだ鏡という意味でしょうか。

当初、漢字「眀」は明るいという意味かと考えていましたが、調べてみますと「みょう」と読み、「見る」という意味のようでした。
ですから正眀(しょうみょうorせいみょう)は「明るく曇りない様」ではなく、「正しく見る」、という意味になろうかと思います。医療の場にぴったりな文字であり、密翁の髙い教養に感嘆しました。

 ※鴻爪という言葉にも立派な境地がこめられています。
※明治44年、密はすべての公職を退き神奈川県は横須賀で隠居生活に入りました。

大正10年作之助の長男藩氏結婚式で作之助の母トヨ(弘化2年1845年1月)生まれの小山作之助の母・トヨ。撮影は大正10年5月。
トヨは筆者の高祖父(祖父の祖父)の医師・杉田玄作(文政元年1818年生まれ)の次女です。
祖父直次郎のお母さんですから曾祖母になります。

玄作は1839年の蛮社の獄事件で逃亡する高野長英をかくまった嫌疑で取り調べを受けました。このことは恩師の笠原大川の書き付け(新潟県立文書館)や吉村昭の毎日新聞連載小説「長英逃亡」に見られています。

1:小山作之助と杉田直次郎(明治20年代後半)さて、文久3年1863年生12月まれの小山作之助と、
13才年下の明治9年1876年10月生まれの弟・直次郎です。
明治20年代後半、直次郎が千葉医学専門学校に入学した頃と考えられます。撮影は東京下谷の写真館です。

直次郎は、母の実家の当主で医師の杉田貞蔵(嘉永3年11月生まれ)に子が無く、明治20年に貞蔵の養子となっていました。また貞蔵は甥である作之助の上京後の困窮時代を経済的に支えました。(貞蔵の写真はどうしても見つかりません)

還暦祝賀会の日の作之助夫婦小山作之助の還暦祝賀会・大正13年5月における松(マツ)夫人(明治9年1月生まれ)。
作之助は前夫人を明治31年1898年に亡くし、9年後に前島密家から養女格のマツさんを迎えました。

昭和15年頃の祖父丸囲み少し逸れますが、祖父・直次郎の晩年です。妻トワの実家で昭和15年頃の現上越市新保古新田。
丸囲みが直次郎、その隣にトワの兄・野口孝治(大正時代に立憲国民党の衆議院議員)、その右トワ、孝治の後ろに新婚時代の父母がいます。
トワに抱かれているのは姉で、私はこの写真の2年後に生まれました。

二冊の本左・前島密の伝記「鴻爪痕(こうそうこん)」、小山マツさんの二編の寄稿がある。(大正9年4月27日初版、昭和30年12月15日改訂再版発行)
右・マツさんが刊行した作之助遺稿「国歌 君が代の由来」(昭和16年6月27日発行)

途中余計な写真が入りまして申し分けありませんでした。結局、前島密の扁額「正眀堂」は翁の養女格であるマツの義弟へ贈られたもので、直次郎の開院祝いだったのではと考えています。

 

●前島 密:天保6年1月7日(1835年2月4日)ー大正8年(1919年)4月27日84才没は上越市が生んだ偉人。 ※誕生日の違いは明治5年(1872年)に採用されグレゴリオ暦(西暦)による訂正です。

いずれ小山マツの人となりと美しい文字などを掲載したいと思います。

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