2013年8月

明日から主体展 1979年の朝日新聞日曜版を倉石隆、司修(つかさおさむ)両氏の作品が飾った。

2013年8月31日(土曜日)

明日は9月となり、早いというほかない。

その9月1日から東京都美術館で第49回主体展の本展が始まり、その後京都、名古屋を巡回する。
主体美術協会による主体展は来年が満50周年に当たる。その記念企画として、昨年度から同会の草創に参加された物故会員5人を選び、一点ずつを「礎の作家たち」として特別展示をしている。

今年vol2の同企画に倉石隆氏が選ばれた。5月に同協会の担当が来館され当館の「琢也」を決めていただいた。大変に光栄でまた楽しみである。

 

ところでおよそ35年前、1979年(昭和54年)2月4日の朝日新聞日曜版の文化面一面を倉石氏の「髪」が大きく飾っている。連載記事・紙上創作展における〝おんな〟シリーズの掲載だった。

倉石氏記事紙面で倉石氏は、〝本当のことが描いてある絵は強い。ひかれるのはそういう絵だ。(途中略)僕は人間を好んで描くけれど、美人とかチャーミングな女の絵は苦手だ。(途中略)一生懸命、美人を描いたつもりが、怖いとかいわれてしまう。迫真という言葉は、僕には魅力的だけれど、それを目指すとき、甘美なドラマの主人公のように、万人に好かれることはまず無いと思っている〟と述べている。

 

「髪」の3週間後の同シリーズは司修氏の「卑弥呼の時代」だった。主体美術協会のベテラン、中堅が続いていたのである。

司氏記事

紙面で司氏は、〝戦災で街が焼けて、バラックがあちこちに建ったころだった。つぎはぎだらけのモンペに黒く汚れた木綿のシャツを着て、姉が洗濯をしていた。(途中略)僕は子供心に美しいと思った。喧嘩よりしたことのない姉に対して不思議な感情を持った。(途中略)街中で、電車で、仕事で出会う美しい女性は、姉が重なって見えてくる。その姉も事故で他界した。僕は古代人の中に姉を送りたいと思っている〟と述べている。

年の違う倉石、司の両氏は仲が良かったと聞いている。一昨年9月、樹下美術館で司修さんに倉石隆についてのご講演をお願いした。
明日、東京都美術館で同氏の記念講演会が予定されている。司氏は「卑弥呼の時代」当時、すでに第7回講談社出版文化賞のブックデザイン賞に輝くなど多彩な活動のスタートを切っていた。

 第49回主体展の案内。

ほぼ同い年の友人宅で。

2013年8月29日(木曜日)

今夕ある友人宅に招かれ(押しかけ)てご馳走になった。

食卓1

食卓2

食べ物飲み物、お話、ともに新鮮で5時間もお邪魔してしまった。

緑一色の庭 身にしみるツクツクボウシ 残った宿題。

2013年8月28日(水曜日)

夏から秋へ、本日当地の気温は30度に届かなかった模様。

いよいよ庭は花少なく、良く言えば緑一色となった。それはそれでいいのか、緑がきれいだと仰るお客様に出会う。

花なき庭と蝉の声さて木々では声をからしてツクツクボウシが鳴いている。

拙句) 花絶えて緑一色樹下の庭

拙歌) 木立にて何をか為さむ空蝉の尽くし尽くしと鳴くぞ哀しき
→ 木立にて何を為すらむ空蝉の尽くし尽くしと鳴くぞ哀しき
(ダメはいくら直しても変わりませんね)

彼らオス蝉は良き妻を得るまで皆して鳴き続ける。あたりのメスを求めてあるいは「尽くす尽くす」と訴えているのでしょうか。

さて子ども達の夏休みが終わる。本日の通りで小学生とおぼしき女の子とお母さんが玄関先の階段に並んで座っていた。お母さんが通りを見ながら絵を描き、子どもがのぞき込んでいる。宿題が残っていたのだろう、微笑ましかった。

秋を迎えて 水鳥 残照。

2013年8月26日(月曜日)

日が短くなり始め夏~秋へ季節は移る。新旧の暦に照らす暇もなく、気象や生き物そして気分・感情まで移ろうのを感じる。

昨日日曜日、4組のゴルフコンペは妙高CCだった。高原のコースでかろうじて100を切り2位のお土産を頂戴した。31もついているハンディキャップのおかげというほかない。

潟川 昨日日曜日夕刻の潟川。水鳥の影に秋を感じる。

さて潟川は上越市の大潟区と、吉川区と頸城区の一部の水田から水を集め、大潟区犀潟の新堀川を経て海に排水されています。
昔は小舟が往き来して稲を運んだと聞きました。筆者の子どもの時も我が子たちともこの川で釣をしました。よくフナが釣れ、ハヤやナマズを釣ったという人もいました。

四ツ屋浜の残照昨夕の大潟区四ツ屋浜の残照。秋の旅情が漂う。

7月始めの日没は19時15分ころだったのですが、今や18時25分ということです。

アメシロ退治 まことにタフなヨットレース 美術館は人生最後のレース。

2013年8月24日(土曜日)

秋を迎えて厄介なアメシロの二回目の繁殖時期になっている。。今夕、アメシロが巣をかけている木に梯子を掛けて大枝を切った。それを細かに切って焼いた。本当は枝など切りたくない所だが、消毒が効かない場合もあり致し方ない。当分格闘が続きそうだ。

慣れない梯子、枝きり、たき火、ともに汗だくになった。

さて色々と過酷なものがありますが、競技としてヨットのオーシャンレースがある。
9レグをかけて世界一周を争うボルボ・オーシャンレース(VOR)などはその一つだ。
艇が見えなくなるほどの大量のスプラッシュ(しぶき)、危険な傾斜角、遭難の領域を猛烈なスピードで帆走する。
落水を免れているのはしっかりハーネスを装着しているからにちがいありません。

超過酷なレースだが優勝はトロフィーのみで賞金は無い。

ヨットでほぼ30年前ありし日の小生?レース後の帰路、富山湾沖だと思う。
このときのレースは輪島-舳倉島往復レースだったのか。
当日夜半から朝にかけ、余りの悪天候のため棄権艇が出はじめレースは途中中止となった。
めったに行けないので舳倉島だけは廻った。

当時の数年間、およそ30フィートのレースヨット「オレンジペコ号」を皆で所有し乗り組ませてもらった。
艇は6人が寝泊まり出来、能登や佐渡のレースに参加したりクルージングを楽しんだ。
とび職、サラリーマン、機械リース会社の整備工、自衛隊員、、、皆さんは様々に能力がありレースは強かった。
仕事が多忙を極めるようになって、船を下りたが、クルー各氏には本当にお世話になった。

こんな写真を引っ張り出すと大変懐かしく、ある種別人と出会っている感じがする。
年を取ったが、人生の最後に美術館の維持という自分との戦いに参加しているようにも感じられる。

蘇った芝生。

2013年8月22日(木曜日)

あちらこちらに灰色のまだらを生じていた芝生がきれいによみがえった。約一週間、朝夕たっぷりと散水した後、昨日はしっかり雨が降った。

日陰や樹木の周囲など貧弱だった所も濃くなった。芝刈り直後で散水のタイミングも良かった。

樹下美術館の周囲およそ450㎡の芝生はお客様への眼ぐすりになれば、と思っている次第です。

007

 

芝生2均等に緑が帰って来た今日の芝生。

昨日の雨のせいでしょうか、本日は幾分涼しく感じられました。

予報通りに雨が降った。

2013年8月20日(火曜日)

予報通りに降った雨。しっかり降って当地の田畑や庭にとって慈雨となった。このたびの予報は正確で少々驚いた。

「百姓にとって雨は悪いはずがない」。洪水や鉄砲水がまず無い上越市大潟の農家で聞いたことがある。

百日紅驟雨に煙る仕事場の百日紅(さるすべり)。雨も日照りも気にしない風で、ある種驚異的だ。

ただいま23:25、遠くにわずかな虫の声。すこしでも涼しくなりますように。

夏の話が二つ。

2013年8月19日(月曜日)

明日はとにかく雨が降るらしい。近くの家庭菜園で、早々に夏の畑に見切りをつけ、秋に備えて耕やし始める人を見るようになった。暑さのなか、乾いた畑にモウモウと土ぼこりが立ち可哀そうなくらいだ。しっかり降って是非とも慈雨になってほしい。

さてお二人の以下のお話に感心している。

超ご高齢の方にこの暑さは厳しい。しかしあるせがれさんの介護は非常に熱心だ。
「朝食はいつもの時間だと全く口を開けなくなりました。しかし時間を遅らせると反応するようになりますね」
相手に合わせていく、なるほどである。こうして一日2食になることもあり、それはそれで良いのである。

「ウトウトしてなかなか口を開けない時は〝婆、さあさあ畑の草取りに行くでね〟と声を掛けるとぱっと眼を開けて少しは食べます」
まず眼を開けてもらう、これも上手だ。介護者はお母さんが最も夢中だったことをちゃんと知っていらっしゃる。

手を掛けるだけでなく深い愛情と洞察。せがれさんには同行の看護師ともども感心させられている。
「少しでも親と話をしていたいのです」と本日の帰り際に仰った。

夕刻来られた方が仰った。
「夏休みは次々に子ども夫婦や孫がきて、今日やっと皆帰りました。私は夏の我が家を〝民宿・赤字〟と呼んでいます」

 

6月の四谷浜6月の四ツ屋浜の夕暮れ。このところ空に入道雲も見られない。
明日はどんな雲からどんな雨が降るのだろう。

日曜日のメガソーラー 仙人草 お嬢さん ラ・ペントラッチャ。

2013年8月18日(日曜日)

今日も当地は34度まで上がり、明日も同じような予報が出ている。部屋にいればエアコンの世話になり、心配したお年寄りたちがちゃんと反応しているのもエアコンのおかげかもしれない。

それにしても以前Yahoo!やGoogleなどの検索サイトで刻々示されていた発電の需給表示が消えて久しい。これだけ暑いのに何故だろう。

024今夕の上越市大潟区渋柿浜の「INPEXメガソーラー上越」(国際石油開発帝石)。夕日を受けて眩しい。
冬期の雪を落とすため傾斜を強くしてあるらしい。

 

019今盛りの仙人草。密集して白い塔のようになっているのも見かける。

 

お客様カフェにノートや資料を持参されていたお嬢さん。
子どもの頃よく私の所へ通ったと仰った。今日は大勢のお客様に来ていただき感謝しています。

 

ラペントラッチャお盆は何かと忙しなかった妻の慰労で訪れたラ・ペントラッチャ。テラス席を中から妻の携帯で。

チーズリゾット、肉料理、サラダみな美味しかった。ある席のご家族の所へバースデーケーキが運ばれた。するとスタッフが揃ってイタリア語でハッピー・バースデーを歌った。歌が終ると賑わう店内のテーブルから拍手。上越市は美味しい店が沢山あるようで、「もてなし」は有望ではないだろうか。良い日曜日だった。

樹下美術館の草花 厳しい残暑の中で。

2013年8月17日(土曜日)

厳しい暑さの中、樹下美術館の花も暦に従って咲いている。愚痴など聞こえないが耐えているのだろう。

 斑入りキキョウ先日来お出している斑入りの桔梗。
これが最後の花になった。名残惜しいが、是非来年も咲いてほしい。
この花から種を採ってみたい。

 

ホオズキ昨年初めて植えたホオズキが青から赤へ色を濃くしている。しかし頂いたお宅を失念していた。

ホオズキの家は数軒あって、たまたま先日伺ったお宅のを見て、ああここだと思い出した。
「いただきましたよね」と話すと、「元気ですか」と奥さん。

 カノコユリ樹下美術館に咲いている紅白のカノコユリから、白花。

拙歌) 涼しやと声するかたを振り向けば樹下のたそがれ鹿の子白百合

樹下美術館が出来る頃、設計された大橋秀三さんにどんな花を植えたらいいですか、とお尋ねした。
「白い花なんかいいんじゃないですか」と仰った。
白い花は目立つし安心も出来る。

樹下美術館では、少しだけ白花を意識している。
いま氏に聞けば「そんなこと言いましたっけ」と仰りそうだが。

戦没者追悼 死者への最後の救済。

2013年8月15日(木曜日)

5日間のお盆休みが終わる。残暑ますます厳しく各地はまさに災害の様相を呈している。

休みの間、ある朝ほぼ同じ時刻にお二人の高齢者の看取りがあった。十分な介護をされたご家族は落ち着いておられ、長く親切にされたご本人も幸せだったのでは、と思った。ほかに蜂に刺された方、高度な脱水で入院して頂いた方、いずれも若い人だった。

休みの間、図録の原稿改訂に集中し、またマツ婦人が編んだ小山作之助遺稿集「国歌 君が代の由来」を読んだ。引き締まってきた図録だが、ある立派な方にお会いした際、〝ぜひ早く作って見せてください〟と言われた。マツさんと「国歌 君が代の由来」の方はそのうち簡単にご案内してみたい。

ほかに来年の個展に向けて描いていた下絵が17枚に達した。しかしまだ介護保険関連の書類などが7,8通も残り、今夜の仕事になっている。

お陰様で珍しく宿題に集中できたが座ってばかりいたので座骨神経痛に悩まされた。しかし昨夜の熟睡でかなり和らぎ、ほっとしている。

夕陽と船夕刻、庭の散水をして渋柿浜漁港に寄ると、夕日を背景に貨物船が直江津港から出港した。

 さて終戦記念日の首相の言葉は、おもに戦没者を追悼する内向きのものだった。私はそれでいいと思った。追悼は死者の生前をしのび、死を悲しむというものである。ただ惜しむらくは、もう一すじ心こめていただければと思った。

家族に厚く育まれ、愛され、学び励んだ若者が遠い戦地で散る。ある者は衰弱の果てに意識朦朧となり、自らの手足に沸いたウジを食べながら死んだ、と看護婦だった母から聞いた。戦没者への追悼は英霊とした後の感謝や慰めだけでは不十分に思われる。

死や戦の悲惨さは普遍かもしれない。しかし彼らは特別な人々である。偽りはなかったのか。人とも思われぬ酷で膨大な死に対し、よしんば公人による心からの詫び一言あれば最後の成仏を得られるのでは。

38年、往診や訪問で多くの家の座敷に戦没された兵士の遺影をみてきた。母が愛した弟も少尉としてレイテで戦死している。戦後68年、まだ遅くはない。もののふといへども道に情はあろう。詫びることは大切な礼であり力にも変わる。隣国との真の友好などは、その後から始まるのかもしれない。

首相が内向きに語れば韓国大統領の言葉も単純だが未来を指向していた。あきらめるのは早い。道のりは遠くともアジアなら温和の質を生かして平和の実を取りに行ける。利益は追求すべきだろうが枯渇も避けられなくなった。平和なくして何が成立するだろう。

平和のために戦の用意をする、こんなことはそのうち時代遅れになろう。

10人でカレーを食べた 槿は月を待っていたのか。

2013年8月14日(水曜日)

今夕は学童5人と大人5人でカレー屋さんで食事をした。三日で2回のカレー、異論もあろうが美味しく食べた。

連日の暑さで芝にまだらが生じ、朝夕の散水が必要になった。以前にも同じことがあったが、一両日ずぶずぶまで行ってみよう。

 

011庭の槿が勢いを得ている。夕刻間近、可憐な花はいかにも涼しげだ。

拙句) うち揃い何をか待つや槿花

拙句) 月煌々暑気を払いて上りたり

013食事を終えて帰ると煌々たる半月。澄んだ光は眩しいくらいだった。

なるほどなるほど、槿たちは〝私たちは昼間一生懸命咲いて涼のつとめをしていました。

もうそろそろ休みます。次はお月さんの番ですね。間もなくですかお月さん〟と言っていたのでしょうか。

うーん、あるかもしれませんね。

涼しい赤倉 四万十市の意外な暑さ。

2013年8月12日(月曜日)

南三陸町から弟たちが来ていて、昼食はみなで赤倉観光ホテルのカレーを食べた。大きなビーフがいくつも入りサラダと珈琲が付いた。塩あまながら濃厚で美味しかった。

標高1000メートルのホテルは薄曇り。妙高山は見えなくて残念だったが涼しい。

時間が無い弟一家とは帰路給油所へ案内して別れた。彼は体力の要る仕事をしているので健康が気がかりだ。いつまでも元気でと祈りながら帰って来た。

 

ホテルから

 

ノコンギク駐車場脇でノコンギクが咲き始めている。

各地で40度を超える一日。高知県四万十市は国内観測史上最高となる41・0度だったという。四万十といえば清流を思い浮かべるが、史上最高気温とは驚いた。

明日の上越市は高田で12時に32度、湿度56%と予報されている。湿度が低い分やや爽やかなのか。

母の三回忌 油断出来ない夏の脳梗塞。

2013年8月10日(土曜日)

本日は母の三回忌だった。母は小生を宿し血液を共にし産み、ある種ふるさと的。その点父は、生成の契機にDNAを届けただけなので〝ふるさと〟感はややクールだ。

パーキンソン病が進行していた父はおよそ20年前、突然に生じた腸閉塞のためわずか半日で自宅で亡くなった。肩を貸して母とともにレントゲン室まで運んだ日のことが鮮明に思い出される。

両親は明治と大正の夫婦で、特別睦まじいという風でもなかった。今よしんば遙か小さな星にでもなっていて、子どものように眠ったり笑ったりしていればなあ、と思う。

 


マンハッタン・トランスファーによるCHANSON・D’AMOUR(シャンソン ダ ムール・愛の歌) 

 

読経西念寺さんご住職の読経。

本日昼に発症した脳梗塞の高齢者の方を速やかに受け取って下さった病院さんに大変感謝しています。この時期、メディアは盛んに熱中症を取り上げる。一方脱水によって濃縮された血液が関係する突然の脳梗塞も夏独特の怖い疾病であろう。

明日から5日間のお盆休み。暑さは続き、気になる方がいて油断できない。

カノコユリが咲いている日に「琢也」が運ばれて行った。

2013年8月8日(木曜日)

樹下美術館の庭にカノコユリが盛りを迎えている。点々と咲きはじめ厳しい暑さに涼しい。

カノコユリ赤カノコユリ。 カノコユリ白白のカノコユリ。

早いもので来る9月1日~16日まで東京都美術館をかわ切りに京都、名古屋で開催される第49回主体展が迫ってきた。

来年50周年を迎える同展は、昨年から記念事業として物故となられた〝礎の作家たち〟5人を特別展示している。今年は樹下美術館の倉石隆氏がその一人に選ばれた。
本日午後、作品搬出が行われた。作品は「琢也」。5月に主体美術協会から企画委員さんたちが来館され厳選して頂いた一枚だ。

DM主体展のDM兼招待券。

 

琢也搬出前の「琢也」。

 

搬送保険が掛けられ、専門の業者さんの車に乗って出発した。

ささやかでも美術館を営んでいると色々なことに出会う。この度は、〝やっていて良かった〟と、特別な感慨を覚えた。

我が家も梅を干す 「まー」と言うお年寄り 単純な誕生・多様な死。

2013年8月7日(水曜日)

昨日在宅で伺ったお宅の庭に梅が干してあった。本日は我が家でも妻が干した。昔ながらのローテクは目に優しく心和む。(梅は家で採れたものと頂き物が半分ずつだったということです。)

 

梅干し作り

 

本日の新潟県上越市の最高気温は32度。週間予報は30~33度と示され、関東以西などよりやや低目のようだ。

日中お二人の高齢者が38度まで発熱されたが一過性だった。
盆はショートステイの利用が増える。来客に忙殺されたり介護者も一息つきたい。しかし如何せん患者さん自身急な弱りが見える時期でもあり、予約はしても利用の可否は気がもめる。

本日伺ったお年寄りは間もなく100才になられる。半年前まで大声を出されていたが、この数日は「まー」としか言わなくなったという。額を撫でて「どうですか」と尋ねると小さく「まー」とおしゃった。
〝すみません〟が短くなって、ついに「まー」だけになったと聞いた。やはり生まれた姿に戻るのか。

それにしても死は絶対運命にもかかわらず、自分のこととなると具体的なイメージを容易に作り難い。それは誕生と異なり遙かに多様で、人生の複雑さが深く絡んでいるように見える。
生まれた姿に帰るとはいえ様相は人の数だけ異なろう。死は誕生と同じく一瞬だが万差を経る。私たちは、あたかも生涯をかけて回り道をさせられている如くだ。このことはおそらくDNAの計らい(戦略)であろう。しかし全てを彼らの手にゆだねる訳には行かない。

可能な限り健康に留意すること。これはDNAによって複雑に仕組まれた生死を少しでも単純化し、かつ豊かなものへと導くことの根本にちがいない。

美味しい茗荷と忘れん坊。

2013年8月6日(火曜日)

茗荷・ミョウガを頂いた。随分昔、東頸城から大潟へ来られた方からだった。山地を思わせる場所に住まわれ、山菜を植栽され、季節ごとに頂き物をして恐縮している。このたびの茗荷も美しく、さすがだと思った。

 

ミョウガ頂いたミョウガ。

 その昔、我が家でも茗荷が採れた。私は子どもの頃から茗荷が大好きで、季節が近づくと待ちきれずに庭の隅へ探しに行った。

中学生の下宿先で、茗荷を食べると忘れっぽくなると初めて聞かされた。
実は拙生は小さな時からの忘れん坊。小学校の登校の際、友達を呼びに行ってはしばしばそこにカバンを置いてきたり、運動会の帰りに着替えもせず、短パンにハチマキをしたまま歩いていて笑われました。恥ずかしい話ですが、後年、往診先から聴診器が届けられたことは一回二回ではありません。

およそ茗荷と忘れん坊は関係ないと言われています。しかし頭が妙にすーとする独特の香りを嗅ぐと、どこかで関係あるのではと思ってしまう今日この頃です。

もう一輪斑入りの桔梗が咲いた 再びの熱暑と高齢者の脱水。

2013年8月5日(月曜日)

梅雨明けしていて再び蒸し暑さが戻って来た。気温が上がりお年寄りには厳しい気象となった。特に超が付くような高齢の方は温度感覚が鈍く、暑さを訴えることもなく厚着のまま平気で過ごそうとされる。

一方で身体は敏感に反応していて、密かに脱水が進行した結果、倦怠、食欲減退、反応や動作の鈍化が急に始まることがある。本日は三人の方にこのようなことが起こった。30度を境に数度の上下で全く状況が異なる夏、お盆に向かって心配される。

 

斑入り桔梗一昨日掲載しました斑入りの白桔梗がもう一輪咲きました。
大変愛らしく涼しげです。カフェの正面やや奥でひっそりと咲いています。

小さな樹下美術館はゆっくり育っているのか。

2013年8月4日(日曜日)

日曜日の本日、上越市高田の蓮を見に来られた方たちが次々お見えになった。

また、「飾って」と仰って珍しい茶花(ちゃばな)をお持ちいただいた方。濱谷浩氏の貴重な写真集を持参くださった方。そして小林新治先生をお連れされた方達、どうも有り難うございました。

さらに柏崎市のグループの皆様は、昨日アップした斑入りの桔梗を熱心にご覧になってました。拙ブログで知ったということ、有り難うございました。

小林先生と 居合わせた皆様もご一緒して小林先生を囲んでいる。

小林先生はお元気で、お話は興味深くあっという間に二時間が過ぎていた。新潟県と仏教、芸術家と故郷、日本画と西洋画の本質、芸術・アート・絵画、政治と芸術、岡倉天心と妙高、小林古径の神髄、文化の価値など々、話は尽きなかった。

先般、上越市立総合博物館で古径の下絵を沢山観たばかりだった。日本画の世界に於いて下絵は台所のようなもので、人に見せる物ではない、という観念があったという(本画は正装、下絵は作業着また下着?)。

しかし博物館で見た古径の下絵に、人間らしい努力の跡などもありありと見られ、感動とともに新たな親しみを覚えたのも事実です。先生のお話から、上越市が所有する古径作品の貴重さにあらためて共感できたのは収穫でした。

途中から別の席でお茶を飲まれた方が帰り際に、「とても良いお話を私たちも聞いていました」と仰ったという。皆様のおかげで小さな樹下美術館は独特でゆっくり育っているのではないか、と感じた午後でした。

斑入りの桔梗 デッキのお茶 鵜の浜温泉の人魚像。

2013年8月3日(土曜日)

晴れ間が覗き暑くもなく過ごしやすい日でした。

まだ完成しない図録は作品数とページを10%ほど減らして身軽さを目指しているところです。最近ようやく来年5月予定の拙個展の下絵を描き始めました。

何事も集中出来るまで時間が掛かるのは年齢のせいだと思っています。一方で時間スピードだけ上がりますので、割り切りのようなものが必要なのでしょうか。

 

斑入り桔梗夕刻が近づいて美術館へ。随所の桔梗の中に一本、紫の斑が入った白桔梗がありました。

新品種というのではなく、何か脆弱因子が関係して起こったのでしょうか。せっかくですからいくつかの蕾も是非斑入りを咲かせてほしいと願っています。咲きましたらまたご報告致します。
追加:何年か前にもこのような花が咲きました。紫と白をかなり沢山植えていますので自然交配かもしれません。今年は種を採ってみます。

水田とお茶レ・ドゥさんのケーキを薄く切ってもらい、デッキでお茶を飲みました。
器は2002年の拙個展で皆様に珈琲をお出しした時に使ったリモージュのデミタスサイズ。
戸外のお茶に合っていると思いました。

 

トレーの青空カフェのトレーを丸型から取っ手の付いた四角いものへ変えてみています。
青空が写ってきれいでした。

 

人魚像今夕の上越市は鵜の浜温泉の人魚像。

きれいな夕焼けの海で人魚像が雰囲気を出していました。この像は陸を向いています。歓迎?の意味かなと思っていましたがやはり不自然ですね。本当は故郷の海を見たいのでは、と思いました。振り向くわけにも行かず、可哀想です。

高田と自転車の女性。

2013年8月1日(木曜日)

その昔、中高時代を高田の学校へ通いました。当時から漠然と感じていたことの一つに、高田地区は自転車が多いということがあります。何故と考えたこともなかったのですが、もしかしたらという事を思っています。

皆様はとっくに分かってると思いますが、高田はとてもフラットな街で自転車に向いている、と。特に市街地では橋などごく一部を除いて本当に平らです。

小生の大潟区はさほど急ではありませんが、坂があります。なかでも東側では数百メートル行くにのに一つや二つ坂道に出会います。下りはサーッと走りますが、自転車といえば汗をかきかき車体を揺らすイメージがありました。

中高時代に下宿した家は寺町で、ご主人は新大高田分校の事務をされていました。関東大震災まで東京の紙問屋におられ、仕事の足として如何に自在に自転車を走らせたかよく自慢されました。高田においても通勤自転車を大事にされ、しばしば頑丈そうな車体を磨かれるのを目にしました。

さてその高田の若き日、密かに目を奪われたのが自転車の女性でした。それも女学生ではなく大人の女性が素敵に見えたのです。

こぎれいな服装に帽子、、、颯爽と街を走る姿は印象的でした。

ある時そのことを齋藤尚明さんに話したところ、自転車ねえ、そうかもしれません。しかしもともと高田は美人が多いと思いますよ、と仰った。

雪深く閉ざされた冬から春へ。解放されたフラットな街、高田の女性と自転車は、今も昔も似合っていると思う今日この頃です。

 

015夕刻の壕の蓮。

8月になりましたが、新潟県の梅雨は明けていません。豪雨のため寺泊の市街地で崖崩れが起こりました。春に見たばかりの町でしたので、驚いています。

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