2014年8月21日

齋藤三郎(陶齋)の辰砂 志賀重人、棟方志功、河井寛次郎各氏らの関与。

2014年8月21日(木曜日)

昨年から樹下美術館ではいくつかの齋藤三郎(陶齋)の器に花を活けて展示しています。
日本広しといえども、美術館の器展示物に花を入れてご覧頂いているのは当館くらいかも知れません。

本日は入り口正面にある辰砂の器にムクゲとイトススキが入っていました。

さてこの器のうわぐすり(焼き物を発色させる顔料)である陶齋の辰砂(しんしゃ)について記してみます。
わずかに紫を含む紅色の辰砂は陶齋(齋藤三郎)が好んだうわぐすり(釉薬)の一つで、生涯に亘って制作しました。

「辰砂は難しい」
しかし高田で制作を始めたばかりの頃の陶齋はそう漏らしたそうです。
このことは小生の両親からよく聞きました。

辰砂の主成分である銅は、温度を上げると窯の中で容易に気化して器にとどまらない性質があるのです。
焼成は窯の酸素を遮断する還元焼きで仕上げますが、タイミングと具合が極めて微妙です。
さらに器の土選びから釉薬の濃度、窯の炊き方冷やし方、個々の器の遮蔽など細かな条件の調整が必要でした。

これらは築いたばかりの大きくて素朴な登り窯ならば、なおさら微妙であり、
成功の暁には得に言われぬ上品な辰砂が現れたにちがいありません。

トップ本日の樹下美術館でムクゲが生けてあった辰砂鶴首花瓶(しんしゃつるくびかびん)。
(陶齋は花を生けると書いています)

思い通りに進まない陶齋は昭和27年、辰砂を自在に操る京都の名工、河井寛次郎に教えを請うことにしました。
寛次郎と陶齋の師・富本憲吉は民芸運動などを通して旧知の間柄だったことも、幸運の一つとして考えられます。

そのころ陶齋の許には最初のお弟子さん・志賀重人氏がいました。
登り窯を築いて3年、多忙な陶齋に代わって志賀氏が寛次郎を訪ねることになりました。

3展示中の鉄絵蝋抜き辰砂草文角瓶。

志賀氏がまず向かったのは版画家・棟方志功の所でした。
当時、陶齋と棟方は戦前からの旧交を再開させていました。
棟方は訪れた志賀氏の目の前で制作に取りかかると、短い滞在中にたちまち20枚の作品を仕上げたといいます。

2収蔵されている辰砂丸文小皿。

陶齋は志賀氏の京都行きの費用に充てるため、予め棟方の援助を求めていたと考えられます。
棟方はすでに気鋭の版画家としての地位を固めていました。

1展示中の辰砂葉文コーヒー碗皿。

志賀氏が携えた貴重な版画は一ヶ月に亘る京都滞在と河井氏からの指導を大いに助けました。
勉強家の志賀氏が十分な技術を習得して帰ったのはいうまでもありません。

さて樹下美術館には20点ちかい陶齋の辰砂作品があります。
私は難しいとはいえ、辰砂は昭和23年初窯など早い時期から一定レベルで焼成されていたとずっと思っていました。
しかし安定した作品が出るようになるのは昭和27~28年からということになります。

高田に於ける棟方志功展昭和26年4月、高田品川軒に於ける棟方志功展。手前が棟方氏、右に陶齋
後ろ左に専念寺ご住職、右住職のご友人T氏。
この夢のような光景は齋藤三郎なしで実現しただろうか。
写真提供:齋藤尚明さん。

以上一連のことは先日お訪ねした上越市大潟区の専念寺ご住職からお聞きした話でした。
氏は早くから陶齋と交流し、初窯の窯出しに立ち会い、志賀氏を知り、棟方とも出会っていました。

斯くお話から、陶齋の辰砂誕生には、偉大な芸術家たちが好意的に関与していたことになります。
驚くべき齋藤三郎の人間関係と言わざるをえません。

それにしましても私は館長とは名ばかり、三郎を巡ってますます知らないことばかりです。
今後も新たな事実との出会いが期待されますし、作品への親しみの為にもそのことを願っています。

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