若き日、お年寄りたちは早乙女として隣町の田植えに行った。

2016年5月12日(木曜日)

先日昭和10年生まれの方から、娘時代の何年か毎年、
隣町の農家に行き田植えをした話をお聞きした。

数日後昭和4年生まれの方が、同じ話をされたので、少々
驚いた。
お二人とも頸城区の農家から大潟区へ嫁がれている。
お話はいずれも実家に於ける娘時代の体験だった。

田植えをする娘さんたちは「しょうとめ?そーとめ?(早
乙女)」と呼ばれたらしい。

当時の年令と住所は異なっているが早乙女として田植え
に行った先は偶々いずれも現在の柿崎区の上直海(かみ
のうみ)だった。
お聞きした内容はおよそ以下のようなものだった。

15才~20才ころ田植えの時期が近づくと親は新しいカス
リの生地を買ってきて、娘達は自分で野良着を縫った。

田植えは近所の娘さん達5,6人とバスに乗って行った。
新井柿崎線を長峰で降り、そこから上直海まで数キロ歩
いた。

田植えの身支度はピンクの腰巻きをしっかり付け、上から
新しい野良着を着て黄色の帯を締めた。
手甲、きゃはんをつけ、赤いタスキを掛け、手ぬぐいで顔を
覆いすげ笠を被ると身が引き締まり、晴れがましい気持ち
になった。
雨降りでは持参した箕をまとった。

男衆は苗の仕度をし、格子を置いて植える目安を付け、
植えるのはもっぱら早乙女の仕事だった。
午前午後の途中に休みがあり、お茶とともにボタ餅やキナ
コ餅などの甘くて美味しい食べ物が出された。
それらは大きな朴の葉にくるんで用意された。
お昼は足を洗って上がり、昼寝をしてから午後また植えた。

一日が終わった夕食に赤飯とともに、刺身や煮物に焼き魚
など贅沢なご馳走が振る舞われた。
行った農家で2晩ほど泊まったが、若かったせいか辛かっ
たり、腰が痛くなるなどの記憶はない。

こちらの田植えの時に、今度は行った先から娘さん達が来た。
彼女らを迎える前に、朴葉を取りに行くのは自分たちの仕事
だった。
(地元の娘さんと遠来の娘さんと一緒に田植えをするのかは
お聞きしていませんでした.。
両地を結ぶ親戚筋が早乙女の往来を「いっこう?」として取り
まとめているようでしたが、これも詳しくお聞きしていません)。

IMG_0413
↑本日午後、のどかに晴れた上越市大潟区は潟田の眺め。

男衆が段取りをつけ娘さんたちがが本番の苗を植える。
お話から田植えは通常の農作業と異なり、豊作を願うハレ
の神事でもあり、産む能力を有した早乙女たちは田の神の
使者の役をも委ねられているように思われた。

お二人とも思い出しながら気持ちが昂揚されるのか、生き
生きと話してくださった。

昨今の社会は一見自由で便利だが何かに付け複雑で、自
身の立場や役割を明瞭に把握するのにしばし困難を伴う。
そのうえ人生は長く、存在理由の曖昧さはさらに広がろうと
している。
較べて昔の人の人生は短い。
それで農村などでは年令などに応じて立場、役割が適宜一
般化され諸般無駄の無いよう計られていた風に見えた。

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