お年寄や昔の話(聴老)

JCVの取材を受けていた 17年前の新潟日報社。

2017年10月21日(土曜日)

去る10月10日、在宅医療についてJCV(上越ケー
ブルビジョン)の取材を受けた。
来る22日の上越市長選挙に向けた番組で、医療福
祉の課題を取材したいという事だった。

何故私なのかよく分からなかったが、かって1999年
秋、新潟日報の一面で月~金曜日まで「きしむ老い
のささえ」として医療介護の特集シリーズが組まれた。
ある週、自分が取材された。
月曜から五日間、午前の外来と午後の在宅回りに記
者とカメラマンが付いた。

翌年3月、介護保険施行直前に「きしむ老いのささえ」
を中心に、欧州の取材を交えた書物「豊かな年輪 高
齢・少子化の時代に生きる」が新潟日報社から出版さ
れた。

326ページの本には関係者、取材者双方の熱意が
あふれ、いま手に取っても今日的な課題が全て先取り
さた力のこもった一冊になっている。

このたび17年ぶりの取材を受けてると、根底は当時
と変わらないが、一層進んだ高齢化と家庭の介護力
の低下、それに伴った施設介護の急増など、やはり
時代による如何ともしがたい多様化と変貌をあらため
て実感させられた。

このたびの放映は15日だった。

1
「アリとキリギリスではないが」などと言って、老後につ
いて若いうちから考えておくことは良い、と話している。

拙宅にケーブルビジョンの設備がないので美術館のスタッ
フが自宅で放送を撮っていてくれた。
この年でTVに写されるなど、本当に恥ずかしいことだが、
年と共に何を言うかは迷いが無くなってきた。

2
101才と間もなく100才になる方のお宅の訪問も取材
された。
ふだん看護師さんには6キロの往診カバンを持っても
らい、患者さんの抱き上げや体位変換、導尿、浣腸、
褥瘡や傷の処置などで色々助けてもらっている。

選挙に関連した番組であり、数分の場面だったが良くま
とめられていたと聞いた。

以下は2000年3月に発行された「豊かな年輪」からです。

 

3
「豊かな年輪」新潟日報社発行。
プロのカメラマンの撮影で、非常に高度な写真になっ
ている。

書物から小生の一部を載せました。

4

 

5
以上17年前当時の回診の一コマ。
介護保険施行前夜の時期であり、寝たきりあるいは
それに近い人を対象に70件ほどの訪問先があり、
看護師さん二人について貰っていた。

当時私は58才、紙面を見た先輩の先生から「おまん、
もう58かね、早いもんだねえ」と言われた。
その先生はすでに亡く、私は当時の先生の年令にな
っている。
高齢者の問題は正に自分のものになった。
書物表題の「豊かな」は今日も重要な課題であろう。

台風一過 急な老人のうつとプチシュー。

2017年9月18日(月曜日)

本日台風は朝がたの風雨を残して北東へ去った。
上越地方には甚大な被害がなかった模様だった。

日中雲が多く時折雨も降ったが夕刻には青空が覗いた。

1
西の空は一瞬黄金に焼け電車が下っていた。

2
優しく、大きなドーナツのような雲がやってきた。

さて本日は敬老の日、以前ドーナツではないがこんなこと
があった。
ショートステイを利用されているある女性が、帰宅後いつも
と様子が違う。

めそめそと涙をこぼし、笑顔も消え、うつむいてばかりいる。
こんなことは初めてで、直前の施設では元気だったという。

脳梗塞の方で会話が出来ないが、普段話しかけるとニコ
ニコと反応される人なので信じがたかった。

急に生じた感情変化はふとした事で治る事があるかもしれ
ない。
「何かお菓子をあげたらどうでしょう、プチシューで良いと
思いますが、買って帰り、すぐにお茶と一緒にお出してみ
ませんか」

「プチシューですか」
「はい、いいと思います、上手く行ったらそれで終わりにし
て、出来れば続けるのは避けてみてください」という事にな
った。

何日かして相談されたお嫁さんから電話があった。
買って帰った日、お菓子を見た途端パッと笑顔になった。
以来めそめも、うつむくこともまったく無くもとの人に戻り、
菓子の催促もなかったと、声を弾ませて仰った、

これには自分も驚いたが、以下の理由が考えられた。
一つは単に甘くて美味しいものが突然出たこと。
(甘みは幸福中枢を刺激する)
もう一つは,お嫁さんを「良い人」として再確認出来たこと。

その時はかなり長期の施設利用だった。
現在おしなべて施設のスタッフは優しく、接遇が上手い。
居場所やスケジュールにもすっかり馴れ、そこは心地良い
場所だったに違いない。

それがあれほど好きだった自宅に帰ってみると、見慣れな
い家に人(お嫁さん)がポツンと居て、悲しくなっていた事
が考えられる。

なによりも美味しいお菓子を出してくれた人がとても良い人
で、それがうちのお嫁さんだったことを思い出したことは大
きい。またそこが自宅であることが分かったことも。

老人の忘れっぽさは善し悪し二面がある。
意味の無いことにこだわり、同じ話を繰り返す老人に、
「今、雨ふっているかね?孫の○○ちゃんは傘を持って行っ
たかねえ」
と言うだけで、こだわっていた話から離れることを経験する。

高齢の老人たちは安心が何よりの薬である。
それらを見た目、雰囲気、直感で区別している。
意地を抑え笑顔を作る、時には突然の甘いお菓子も必要か
もしれない。

およそだが80才半ばをすぎると、お年寄りは半年、一年で
変化することが少なくない。
こどもも複雑だがお年寄りもそうだ。

荒れ模様の一日 驚くべき昭和一ケタの人たち。

2017年6月21日(水曜日)

午前から雨模様となり畑をする人は口々に恵みの雨、と仰った。
およそ収穫の楽しみはタマネギ、ジャガイモから始まり、例年今頃
から苗の成長を見て枯れ始めたものから恐る恐る掘ってみるとい
う段取りのようだ。

良いと言う人より悪いと言う人が多く、悪いのは雨不足と日照の不
足が原因だという。

さて過日私より一回り高齢の方が、もう膝が滅茶苦茶と仰った。
嫁に来て未経験だった田畑の仕事を長年したのが第一の原因それ
に大家族で家事も尋常ではなかったらしい。
ちなみにお弁当は毎日9つ作った時があったという。
夜勤をする人には二つ必要だったとも。

もうお一人、同じく一回り上の方にご兄弟は何人とお訊きした時のこ
と。
「7人です、みんな女なんです」
「5女6女が生まれるあたりから一番上の姉は、もう嫁に行けないと
言って嘆いて怒ったそうです」

小生は5人兄弟で、戦争直後疎開で残った人達を入れて一時一つ屋
根の下に10人前後の人が住んだ時期があった。
当時風呂水、飲料水とも坂道を歩いて近所のつるべ井戸から天秤棒
の前後に水桶を下げて「水担ぎ」をした。
居候たちの誰も助けて呉れず、産後の義理の妹親子も居て洗濯物も
大量、毎日が地獄のようだったと嘗て看護師だった母が漏らしていた
(母は大正生まれでしたが)。

それにしても先の昭和一ケタのお二人の話は驚くべきもので、時代と
は言え絶句を禁じ得なかった。

 

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荒天の中、19:15過ぎに左方(西へ)下って行ったほくほく線の電車。
午後から強く風が吹いた。

 

木目込み雛を作ったおばあさんはカレーをルーから作っていた 寒鱈のソテー。

2017年2月14日(火曜日)

先日は大正11年生まれのお年寄りからチョコレ
ートを頂いた。
もちろん介護者(娘さん)が用意して下さったもの。

本日伺った方は101才。
見て下さい、おばあさんが作ったおひな様です、と
隣室に案内された。
お嫁さんが仕度して飾られていた。
昨日は車椅子のおばあさんを交えてこの部屋で食
事をしたそうだ。

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↑木目込み雛(きめこみびな)というもので、人形
の原型に付けられた筋目に布の端々を埋め込ん
で作られる。
おばあさんの戦後の女中奉公時代に真多呂(また
ろ)という老舗の人形店のキットを完成させたもの
だという。
床の間の立派な軸もおばあちゃんの書。

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↑雛はやや小型で丸みのある幼顔が特徴らしい。

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ぼんぼりや梅の花で、待っている春に気づかさ
れる。

この方の奉公先は東京都内の一部上場企業の
社長さんのお宅だったそうで、夫人に気に入られ、
熱心に料理など教えてもらったという。

後こ当地に帰られてからもカレーは20種の香料
を調合してルーから作り、店にしか無かったハン
バーグやスウィートポテト、プリンなどを自作し、
カツオのたたきはワラを焼いて身をあぶって作っ
た、とお嫁さんが仰った。

最近瞑目してベッドで過ごされるが、伺うと満面の
笑みを浮かべられる。良い笑みはチョコレートのお
ばあさんや、これまで元気に長生きされた方たちに
共通している。
また一生懸命働き(学び)、悪意から遠く、心が澄
んでいる印象も皆さん一緒だ。
昨年106才で亡くなった明治生まれの方は身を粉
にして長く魚の行商を続け一家を支えられた。

このような方達は介護者とも上手く行き、途中出会
う幾つかの困難もなんとか越えて来られる。
お嫁さんも立派で、この度の雛の仕度と仕舞い一
つとっても実は大変なことなのだ。
私たちは親を看る最後の世代ですね、と仰ったが、
その通りであろう。

 

たらのソテー

弟からの寒鱈は本日ソテーになっておしまいになった。
本当にごちそうさまでした。

YouTubeに木目込み人形(真多呂人形)の動画がありま
した。これを見てどういうものか少し分かりました。

少しずつ寒さが緩む気配です。

施設の血圧のなるほど 老人、高齢者の定義。

2017年1月6日(金曜日)

晴れはしないが雪も降らないお天気が続く。
本日今年初めてある老人たちのホームの回診
に伺った。

たまたまテーブルを囲んでいた4人の方の血
圧がいずれも115/55前後と一致していた。
「よく揃っていますね」と思わず言うと、
「皆で同じ物を食っているからじゃないの」
男として一人だけ混じっているお爺さんが仰った。

私は二つの施設を担当しているが、ここではホー
ムの一部、わずか7人が受け持ち。
昨年問題を生じられた何人かの方も、本日静か
にテーブルを囲んでいた。
たった一人の男性としてくだんのお爺さんは、ど
のおばあさんの髪の色がどう変わったかもちゃん
と知っている。
かなりのお年だが女の中の男一人としてますま
す冴えてきた。
だが中には生活が単調すぎて自分の名を忘れて
しまった人もまじる。
しかしそれはそれ、別れ際に手を振るのを見て、
頑張って生き着いた先がここなら、同じテーブル
を囲む皆さんは、ここはここ、幸せではないのか
と思った。
一方でこのような光景が一般化したのは最近の
ことであり、まだまだ課題もあろう。

さて高齢者の年令基準を65才→75才に遅らせ
る案が示されて、大賛成。
しかしその間を「准高齢者」などと呼ぶのは如何
にもお役所の手抜き仕事風で賛成出来ない。
「成人」のままで良いと思うが、年金を貰いにくい
というのであれば、年金をそのままにして新たに
「達人」と呼ぶのはどうだろう。
私なら一度はそう呼ばれてみたい気もする。

今後「成人」→「達人」→「老人」→「長老」→「高
老」などとして、「高齢」を止めてはと思う。
「高齢」は数量的また物理的で無味乾燥である。
「老」なら畏敬や言祝ぎが込められ、「人」として
の姿、形が浮かぶ。
孫にも衣装、案外衣装としての呼び名は大事だ。

ところで近時、公人的な人から老人を忌み嫌う青
臭い駄説を聞く。
世代替わりが進行する長寿社会は日々新たで複
雑である。
取り組みがいのあるスケールの大きな仕事を前に、
早々に匙を投げるようでは政治家やジャーナリスト
として真に情けない。

長くなりました。

年末年始はどこかに隠れたい カンムリカイツブリ。

2016年12月13日(火曜日)

「いやですね、年は人が取るものだと思っていた
のに」
昨年の今頃であろう、患者さんから聞いたぼやき
だった。
「年は取るのでなく、たまには人にくれて減らした
い」。
こんな言葉も聞いた。
いずれも率直で、言い回しも上手く感心した。

年を取るがイヤなのは死が怖いからではない。
例え体に気を付けて元気な人でも、いつしか膝、
腰、尻、あるいは手首や指などまで、次第に痛く
なり、なぜか物事が億劫になるのが実感される
のでイヤなのである。
それはまた、かって自分があなどっていた人の
ようになって行くからでもあろう。

本日、まもなく70才になる女性がこう仰った。
「また年を取るなんてイヤだわ、どこかに隠れて
いようかしら」
なるほどであり、出来れば私も隠れてみたい。

 

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昨日近隣の池で見たカンムリカイツブリ。
夏には黒っぽい部分などが赤茶色になるらしい。

鳥インフルエンザ以来、どこか可哀想な水鳥たち。
騒動が健全に収束し、鳥たちがちゃんと復権しま
すように。

煙突女学校 心打たれた中卒の人のアルバム。

2016年11月2日(水曜日)

私のノート(ブログ)には「お年寄りや昔の話(聴老)
という欄がある。
日頃診療で出会う高齢者の若き日のご苦労は別世
界の如くだが、およそご本人は「当たり前だと思って
いた」と仰り、そのことがまた凄いなあ、と感心させら
れるのである。

ところで私の世代からしばらく先まで、中学校卒業で
就職した方は少なくない。
自分は村の小学校を卒業後、高田市の中学校に入
ってしまい、小学校時代の級友とは突然縁が薄くなり、
分けても中学校で就職した人たちの事は殆ど知ること
が無かった。

読み返せば2011年のノートに「煙突女学校 世が
世なら」
があり、中卒で就職した女性の事を書いてい
る。
その人は私より二つ上で、嫁ぎ先で超高齢の親を介
護されていた。
その介護ぶりが上手で感心して、書いた。

家にお金が無かったので高等学校ではなく、富山の
紡績工場へ行きました。
工場には煙突があったので、煙突女学校と呼んでい
ました、と聞かされた。
紡績というと、どこか女工哀史の古く悲惨な職場イメー
ジが浮かぶが、あっさりと語られた不思議な「煙突女
学校」に少々驚き戸惑った。

その人と診療でお会いするうち、職場が開けた場所
であった事、福利厚生のほか作法や修養教養の場
が整えられ、成長できる所だったことが分かってきた。
ただ具体的なイメージはうまく浮かばなかった。

持ってきました、と最近アルバムを持参された。
整理された白黒写真には、配慮された人間関係、ク
リスマス、メーデー、寮生活、歓送迎会、研修や旅行
など初めて接する世界が次々に現れ、まるで映画で
も観るような一冊だった。

昭和30年代、高度成長期へと入って行くまさにそ
の現場で、中学卒業の人々が前線の繊維産業を引
っ張り、生き生きと働ていたのを見て思わず感動を
おぼえた。

いま彼女は何の匂いもさせず、ごくごく普通に明るく
振る舞われる。
一方で世間には介護や透析を受ける人、あるいは障
害者をバッシングする無知傲慢な人も居て、(ある作
家のように)いずれ必ず悔い改める。
最初から物事が分かっている人と、そうでない人、、、。

分かっている人の中には、アルバムの主のように貧し
さが出発点にあった人が少なからずいるのではない
かと考えさせられる。

 

1
入社間もない頃、茶道にのっとった手の組み方を
している。

 

旅行先で
1960年20才のころ、静かな迫力を放ち、みなスタイリ
ッシュで大人に見える。

写真に添えられた文章も優しく立派で、自分が恥ずかし
くなった。

煙突女学校の卒業生さんたちに幸あれ。

娘時代に勤しんだ機織り(はたおり)。

2016年9月9日(金曜日)

診療所に通ってこられる方からお若い頃の体験などをお聞きする
と思いがけない話に出会う事がよくある。

皆様から生い立ちや体験をを聴くようになったのは、10年数年前、
亡き母の晩年に、口癖だった昔話を面白いと思うようになってからだ
った。

高齢者の方たちは、家族から“同じ話ばかりする”と言ってよく疎ま
れる。
だがちゃんと聞いてみると、意外な出来事や体験が語られるので出
来れば上手く何度でもお聞きすることをお勧めしたい。

仕事中なので時間が少なく、何度かにわたってお聞きすることがあ
るが、このたびの方は一ヶ月後、再度伺った。

旧松代町から当地へお嫁に来られた85才の方で、機織りの話を
された。
祖母が嫁入りに持参した機織り機が家にあったことがきっかけだった。
祖母の機織りを見るのが好きだったが、早く亡くなられたという。
残された機械を見るにつけ、もったいないと思うようになり、10代中
頃から二年間十日町の講習所へ通った。

同所には機織りに関係している専業の家の娘さんばかりで、ゆかり
のない素人は自分だけだった。
最も難しく大切な技術に機結び(はたむすび)があった。
切れた絹糸を、織った後も分からないように小さく結ぶ方法で、これ
をまず習得させられた。

二年の講習後、実家でカイコを飼っていたのでマユから糸取りまで
行い、糸ヨリは十日町の業者さんに依頼した。
機織りは面白く、市松模様のふとんなども織ったが、主に絹で白布
を織り着物に仕立てた。
織り終わると、巡回して来る染め屋さんの見本帖を見て染色をお願
いした。
嫁に行くまで70反を織って着物に仕立てた。

 

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良ければ貰って下さいと言って持参された着物。

 

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細部を見た妻が、今では行われないような丁寧な仕立てだと言った。

思い出として、兄の婚礼の際、絹で背広を作って贈ったことや、後に
母に機を教えたが、自分が嫁に行った後も長く織っていた事が忘れ
られないと仰った。

これまで農作業、奉公、炭焼き、出稼ぎ、出兵など皆様から色々話
を聞いたが、機織りは初めてだった。
普段何気なく暮される皆様の昔話は自分の知らない世界が多く、
内容に「時代」「家族の温かさ」「その人らしさ」が感じられ、心打た
れる。

昔話は、要点をうまく質問したり、誘導した方がスムースで、概して内
容に気負いや飾り気が無いため、ある意味聞きやすい。
話を聞く前と後では、互いの親しさが増すことが実感され、仕事の面
でも有意義だと思っている。
また、このようなことは認知症の予防にも役立つようだ。

聴き方の一つとして、以前ほかの方からお聞きした似たような部分を織
り交ぜて伺うと、「よく知っていますね」などと言ってより詳しく話して頂
ける。

ああ先人、佐渡に骨を埋めた都会の女医さん。

2016年7月3日(日曜日)

先日、佐渡へ向かう汽船待ちという東京のご家族が当館にお
寄り
になった。
お孫さんご夫婦と一緒の高齢のご夫婦、93才の老紳士は可
愛い犬を連れ、庭を巡られた奥様には、羨ましいと仰って頂い
た。

別れ際にお会いしただけだったが、ご自分の早稲田中学時代、
會津八一の講義を聴いたことがあると仰った。
カフェに會津八一の本があったことからそんな話になった。

それから一週間ほど経って、思いも掛けず會津八一の本が8
冊送られて来た。

同封のお手紙からご本人は長年地域に尽くされた大正生まれ
の産婦人科医だった。
激変する経済と社会、大陸進出、太平洋戦争、戦後の大混乱。

荒波に翻弄される進学事情、兵役、仕事、家庭の様子が垣間
見られる。

大正生まれの方達は苦労されている、とはかってある僧侶がし
みじみ語った言葉だ。

恵送本
↑我ら新潟県民の誇りの一人、會津八一の関連書物。
幾冊かの本から八一が如何に教え子たちから敬愛されたか、が
分かる。
書物は適時カフェの図書に入れさせて頂くことにしました。

お手紙に、自らの出兵を前に訪ねた奈良薬師寺のことと、八一の
短歌がしたためられていた。

末尾に、時代の波に押される如く昭和15年に東京から佐渡に渡
り、僻地医療に携わり平成14年89才で同地に骨を埋めた女医
である姉の記載が見えた。

この度の佐渡行きは彼女が眠る羽茂の祭と墓参りが目的だったと
いう。
戦時下の医師達は次々軍医として出征したため、地域は極端な医
師不足に見舞われたはずである。
姉君は帰郷の機会を失いながら、無医村化した佐渡で60余年間、
最後まで献身的な医療を遂行、昭和52年に勲五等宝冠章の叙勲
を受けられている。
傍ら手紙主の学費も支え、恩人に値する存在だった。

ハイヒールで颯爽と都会を歩いた女医さんは、羽茂において袴に
下駄の往診姿で納棺されたという。

思いもよらぬ先人の足跡を読み目頭が熱くなった。

昔の農村の娘さんのこと R君から八ッ橋のお土産。

2016年6月29日(水曜日)

過日昭和4年生まれのおばあちゃんから娘時代の事をお
聞きした。
その人の父親は病弱なため農作業から身を引いていたら
しい。
家には7反の田があり、仕事は長女のその方が中心にな
って働くことになった。
母親に次々と子供が出来たので自然にそうなった。
小柄だったが、少女時代から牛を使って田を起こし,代掻き
を行い、苗取り、田植え、草刈り、稲刈り、ワラ仕事などみな
行った。
稲刈り後は稲を干すはさ木に上って稲束を受け取り、上ら
ない時は束を竿で刺して持ち上げ、はさ木に上った人に渡
した。

近所や親戚の助けも借りたが、あくまで責任は自分の肩
にあった。

戦時下の村で男たちは次々と出兵し、行き詰まった農家か
ら田を任されるようになった。
7反だった田はついに1町5反にもなり、小学生になった弟
たちも手伝ってくれるようになった。
後年、姉ちゃんは働いている姿しか思い出せない、と弟に
言われた。

稲刈りを終えた秋~春、村の娘は都会へ女中奉公に行った。
自分も行きたかったが、“裁縫を習わせてやるから奉公は駄
目”と親から言われた。
自分が奉公に行ったら帰ってこないんじゃないか、と親は心
配したらしい。

この方は可愛いお顔のお年寄りだ。
加えて働き者であれば若き日都会で見込まれたうえ、長い
奉公や嫁入り話などを親は恐れたのかもしれない。

さて裁縫は当時の娘さんの大切な修養の一つだ。
小生の同級生のお母さんはかって裁縫の師範で、冬にな
ると近隣の村から大勢の娘さんたちが泊まり込みで習いに
来たという。
場所は違うが、くだんのおばあちゃんもそうして習っている。

話変わって終戦後のこと、高等学校に行かせてもらえず、
中卒で煙突女学校に行ったという方の話を聞いたことがあ
る。
煙突女学校とは紡績工場のことで、なぜ学校かと言えば、
工場の外見が学校に見えなくもない事が一つ。
また工場では仕事のほかお花、裁縫、習字、社会学習など
の時間が設けられ、学校のような側面もあった事に由来して
いるようだった。

振り返れば農作業や奉公、裁縫や煙突学校などの事で、皆
さん最初は遠慮されるが一旦語ればちゃんとした言葉で話を
される。
苦しい時代を生き抜いた体験が奥底のプライドとなって、生
きているように感じられるのである。
較べて一旦事あれば多くの詭弁を弄し、終始うろたえる最高
学府出という某知事などは、本当に滑稽に見える。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

本日、京都へ修学旅行に行ったという孫から八ッ橋が送られて
きた。
何年か前、ある孫が同じ先の八ッ橋を送ってくれた。
焼いた八つ橋は自分の関西への修学旅行以来の好物だ。

 

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↑懐かしい聖護院八ッ橋。

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齋藤尚明氏の湯呑で茶を飲み、さっそく美味しくいただきました。

R君、旅行は楽しかったことでしょう、本当に有り難うございました。

2017年10月
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