お年寄や昔の話(聴老)

施設の血圧のなるほど 老人、高齢者の定義。

2017年1月6日(金曜日)

晴れはしないが雪も降らないお天気が続く。
本日今年初めてある老人たちのホームの回診
に伺った。

たまたまテーブルを囲んでいた4人の方の血
圧がいずれも115/55前後と一致していた。
「よく揃っていますね」と思わず言うと、
「皆で同じ物を食っているからじゃないの」
男として一人だけ混じっているお爺さんが仰った。

私は二つの施設を担当しているが、ここではホー
ムの一部、わずか7人が受け持ち。
昨年問題を生じられた何人かの方も、本日静か
にテーブルを囲んでいた。
たった一人の男性としてくだんのお爺さんは、ど
のおばあさんの髪の色がどう変わったかもちゃん
と知っている。
かなりのお年だが女の中の男一人としてますま
す冴えてきた。
だが中には生活が単調すぎて自分の名を忘れて
しまった人もまじる。
しかしそれはそれ、別れ際に手を振るのを見て、
頑張って生き着いた先がここなら、同じテーブル
を囲む皆さんは、ここはここ、幸せではないのか
と思った。
一方でこのような光景が一般化したのは最近の
ことであり、まだまだ課題もあろう。

さて高齢者の年令基準を65才→75才に遅らせ
る案が示されて、大賛成。
しかしその間を「准高齢者」などと呼ぶのは如何
にもお役所の手抜き仕事風で賛成出来ない。
「成人」のままで良いと思うが、年金を貰いにくい
というのであれば、年金をそのままにして新たに
「達人」と呼ぶのはどうだろう。
私なら一度はそう呼ばれてみたい気もする。

今後「成人」→「達人」→「老人」→「長老」→「高
老」などとして、「高齢」を止めてはと思う。
「高齢」は数量的また物理的で無味乾燥である。
「老」なら畏敬や言祝ぎが込められ、「人」として
の姿、形が浮かぶ。
孫にも衣装、案外衣装としての呼び名は大事だ。

ところで近時、公人的な人から老人を忌み嫌う青
臭い駄説を聞く。
世代替わりが進行する長寿社会は日々新たで複
雑である。
取り組みがいのあるスケールの大きな仕事を前に、
早々に匙を投げるようでは政治家やジャーナリスト
として真に情けない。

長くなりました。

年末年始はどこかに隠れたい カンムリカイツブリ。

2016年12月13日(火曜日)

「いやですね、年は人が取るものだと思っていた
のに」
昨年の今頃であろう、患者さんから聞いたぼやき
だった。
「年は取るのでなく、たまには人にくれて減らした
い」。
こんな言葉も聞いた。
いずれも率直で、言い回しも上手く感心した。

年を取るがイヤなのは死が怖いからではない。
例え体に気を付けて元気な人でも、いつしか膝、
腰、尻、あるいは手首や指などまで、次第に痛く
なり、なぜか物事が億劫になるのが実感される
のでイヤなのである。
それはまた、かって自分があなどっていた人の
ようになって行くからでもあろう。

本日、まもなく70才になる女性がこう仰った。
「また年を取るなんてイヤだわ、どこかに隠れて
いようかしら」
なるほどであり、出来れば私も隠れてみたい。

 

IMG_8840
昨日近隣の池で見たカンムリカイツブリ。
夏には黒っぽい部分などが赤茶色になるらしい。

鳥インフルエンザ以来、どこか可哀想な水鳥たち。
騒動が健全に収束し、鳥たちがちゃんと復権しま
すように。

煙突女学校 心打たれた中卒の人のアルバム。

2016年11月2日(水曜日)

私のノート(ブログ)には「お年寄りや昔の話(聴老)
という欄がある。
日頃診療で出会う高齢者の若き日のご苦労は別世
界の如くだが、およそご本人は「当たり前だと思って
いた」と仰り、そのことがまた凄いなあ、と感心させら
れるのである。

ところで私の世代からしばらく先まで、中学校卒業で
就職した方は少なくない。
自分は村の小学校を卒業後、高田市の中学校に入
ってしまい、小学校時代の級友とは突然縁が薄くなり、
分けても中学校で就職した人たちの事は殆ど知ること
が無かった。

読み返せば2011年のノートに「煙突女学校 世が
世なら」
があり、中卒で就職した女性の事を書いてい
る。
その人は私より二つ上で、嫁ぎ先で超高齢の親を介
護されていた。
その介護ぶりが上手で感心して、書いた。

家にお金が無かったので高等学校ではなく、富山の
紡績工場へ行きました。
工場には煙突があったので、煙突女学校と呼んでい
ました、と聞かされた。
紡績というと、どこか女工哀史の古く悲惨な職場イメー
ジが浮かぶが、あっさりと語られた不思議な「煙突女
学校」に少々驚き戸惑った。

その人と診療でお会いするうち、職場が開けた場所
であった事、福利厚生のほか作法や修養教養の場
が整えられ、成長できる所だったことが分かってきた。
ただ具体的なイメージはうまく浮かばなかった。

持ってきました、と最近アルバムを持参された。
整理された白黒写真には、配慮された人間関係、ク
リスマス、メーデー、寮生活、歓送迎会、研修や旅行
など初めて接する世界が次々に現れ、まるで映画で
も観るような一冊だった。

昭和30年代、高度成長期へと入って行くまさにそ
の現場で、中学卒業の人々が前線の繊維産業を引
っ張り、生き生きと働ていたのを見て思わず感動を
おぼえた。

いま彼女は何の匂いもさせず、ごくごく普通に明るく
振る舞われる。
一方で世間には介護や透析を受ける人、あるいは障
害者をバッシングする無知傲慢な人も居て、(ある作
家のように)いずれ必ず悔い改める。
最初から物事が分かっている人と、そうでない人、、、。

分かっている人の中には、アルバムの主のように貧し
さが出発点にあった人が少なからずいるのではない
かと考えさせられる。

 

1
入社間もない頃、茶道にのっとった手の組み方を
している。

 

旅行先で
1960年20才のころ、静かな迫力を放ち、みなスタイリ
ッシュで大人に見える。

写真に添えられた文章も優しく立派で、自分が恥ずかし
くなった。

煙突女学校の卒業生さんたちに幸あれ。

娘時代に勤しんだ機織り(はたおり)。

2016年9月9日(金曜日)

診療所に通ってこられる方からお若い頃の体験などをお聞きする
と思いがけない話に出会う事がよくある。

皆様から生い立ちや体験をを聴くようになったのは、10年数年前、
亡き母の晩年に、口癖だった昔話を面白いと思うようになってからだ
った。

高齢者の方たちは、家族から“同じ話ばかりする”と言ってよく疎ま
れる。
だがちゃんと聞いてみると、意外な出来事や体験が語られるので出
来れば上手く何度でもお聞きすることをお勧めしたい。

仕事中なので時間が少なく、何度かにわたってお聞きすることがあ
るが、このたびの方は一ヶ月後、再度伺った。

旧松代町から当地へお嫁に来られた85才の方で、機織りの話を
された。
祖母が嫁入りに持参した機織り機が家にあったことがきっかけだった。
祖母の機織りを見るのが好きだったが、早く亡くなられたという。
残された機械を見るにつけ、もったいないと思うようになり、10代中
頃から二年間十日町の講習所へ通った。

同所には機織りに関係している専業の家の娘さんばかりで、ゆかり
のない素人は自分だけだった。
最も難しく大切な技術に機結び(はたむすび)があった。
切れた絹糸を、織った後も分からないように小さく結ぶ方法で、これ
をまず習得させられた。

二年の講習後、実家でカイコを飼っていたのでマユから糸取りまで
行い、糸ヨリは十日町の業者さんに依頼した。
機織りは面白く、市松模様のふとんなども織ったが、主に絹で白布
を織り着物に仕立てた。
織り終わると、巡回して来る染め屋さんの見本帖を見て染色をお願
いした。
嫁に行くまで70反を織って着物に仕立てた。

 

IMG_6978
良ければ貰って下さいと言って持参された着物。

 

IMG_6987
細部を見た妻が、今では行われないような丁寧な仕立てだと言った。

思い出として、兄の婚礼の際、絹で背広を作って贈ったことや、後に
母に機を教えたが、自分が嫁に行った後も長く織っていた事が忘れ
られないと仰った。

これまで農作業、奉公、炭焼き、出稼ぎ、出兵など皆様から色々話
を聞いたが、機織りは初めてだった。
普段何気なく暮される皆様の昔話は自分の知らない世界が多く、
内容に「時代」「家族の温かさ」「その人らしさ」が感じられ、心打た
れる。

昔話は、要点をうまく質問したり、誘導した方がスムースで、概して内
容に気負いや飾り気が無いため、ある意味聞きやすい。
話を聞く前と後では、互いの親しさが増すことが実感され、仕事の面
でも有意義だと思っている。
また、このようなことは認知症の予防にも役立つようだ。

聴き方の一つとして、以前ほかの方からお聞きした似たような部分を織
り交ぜて伺うと、「よく知っていますね」などと言ってより詳しく話して頂
ける。

ああ先人、佐渡に骨を埋めた都会の女医さん。

2016年7月3日(日曜日)

先日、佐渡へ向かう汽船待ちという東京のご家族が当館にお
寄り
になった。
お孫さんご夫婦と一緒の高齢のご夫婦、93才の老紳士は可
愛い犬を連れ、庭を巡られた奥様には、羨ましいと仰って頂い
た。

別れ際にお会いしただけだったが、ご自分の早稲田中学時代、
會津八一の講義を聴いたことがあると仰った。
カフェに會津八一の本があったことからそんな話になった。

それから一週間ほど経って、思いも掛けず會津八一の本が8
冊送られて来た。

同封のお手紙からご本人は長年地域に尽くされた大正生まれ
の産婦人科医だった。
激変する経済と社会、大陸進出、太平洋戦争、戦後の大混乱。

荒波に翻弄される進学事情、兵役、仕事、家庭の様子が垣間
見られる。

大正生まれの方達は苦労されている、とはかってある僧侶がし
みじみ語った言葉だ。

恵送本
↑我ら新潟県民の誇りの一人、會津八一の関連書物。
幾冊かの本から八一が如何に教え子たちから敬愛されたか、が
分かる。
書物は適時カフェの図書に入れさせて頂くことにしました。

お手紙に、自らの出兵を前に訪ねた奈良薬師寺のことと、八一の
短歌がしたためられていた。

末尾に、時代の波に押される如く昭和15年に東京から佐渡に渡
り、僻地医療に携わり平成14年89才で同地に骨を埋めた女医
である姉の記載が見えた。

この度の佐渡行きは彼女が眠る羽茂の祭と墓参りが目的だったと
いう。
戦時下の医師達は次々軍医として出征したため、地域は極端な医
師不足に見舞われたはずである。
姉君は帰郷の機会を失いながら、無医村化した佐渡で60余年間、
最後まで献身的な医療を遂行、昭和52年に勲五等宝冠章の叙勲
を受けられている。
傍ら手紙主の学費も支え、恩人に値する存在だった。

ハイヒールで颯爽と都会を歩いた女医さんは、羽茂において袴に
下駄の往診姿で納棺されたという。

思いもよらぬ先人の足跡を読み目頭が熱くなった。

昔の農村の娘さんのこと R君から八ッ橋のお土産。

2016年6月29日(水曜日)

過日昭和4年生まれのおばあちゃんから娘時代の事をお
聞きした。
その人の父親は病弱なため農作業から身を引いていたら
しい。
家には7反の田があり、仕事は長女のその方が中心にな
って働くことになった。
母親に次々と子供が出来たので自然にそうなった。
小柄だったが、少女時代から牛を使って田を起こし,代掻き
を行い、苗取り、田植え、草刈り、稲刈り、ワラ仕事などみな
行った。
稲刈り後は稲を干すはさ木に上って稲束を受け取り、上ら
ない時は束を竿で刺して持ち上げ、はさ木に上った人に渡
した。

近所や親戚の助けも借りたが、あくまで責任は自分の肩
にあった。

戦時下の村で男たちは次々と出兵し、行き詰まった農家か
ら田を任されるようになった。
7反だった田はついに1町5反にもなり、小学生になった弟
たちも手伝ってくれるようになった。
後年、姉ちゃんは働いている姿しか思い出せない、と弟に
言われた。

稲刈りを終えた秋~春、村の娘は都会へ女中奉公に行った。
自分も行きたかったが、“裁縫を習わせてやるから奉公は駄
目”と親から言われた。
自分が奉公に行ったら帰ってこないんじゃないか、と親は心
配したらしい。

この方は可愛いお顔のお年寄りだ。
加えて働き者であれば若き日都会で見込まれたうえ、長い
奉公や嫁入り話などを親は恐れたのかもしれない。

さて裁縫は当時の娘さんの大切な修養の一つだ。
小生の同級生のお母さんはかって裁縫の師範で、冬にな
ると近隣の村から大勢の娘さんたちが泊まり込みで習いに
来たという。
場所は違うが、くだんのおばあちゃんもそうして習っている。

話変わって終戦後のこと、高等学校に行かせてもらえず、
中卒で煙突女学校に行ったという方の話を聞いたことがあ
る。
煙突女学校とは紡績工場のことで、なぜ学校かと言えば、
工場の外見が学校に見えなくもない事が一つ。
また工場では仕事のほかお花、裁縫、習字、社会学習など
の時間が設けられ、学校のような側面もあった事に由来して
いるようだった。

振り返れば農作業や奉公、裁縫や煙突学校などの事で、皆
さん最初は遠慮されるが一旦語ればちゃんとした言葉で話を
される。
苦しい時代を生き抜いた体験が奥底のプライドとなって、生
きているように感じられるのである。
較べて一旦事あれば多くの詭弁を弄し、終始うろたえる最高
学府出という某知事などは、本当に滑稽に見える。

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本日、京都へ修学旅行に行ったという孫から八ッ橋が送られて
きた。
何年か前、ある孫が同じ先の八ッ橋を送ってくれた。
焼いた八つ橋は自分の関西への修学旅行以来の好物だ。

 

IMG_0397
↑懐かしい聖護院八ッ橋。

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齋藤尚明氏の湯呑で茶を飲み、さっそく美味しくいただきました。

R君、旅行は楽しかったことでしょう、本当に有り難うございました。

夏の炭焼き小屋で父と食べたくじら汁。

2016年6月21日(火曜日)

夏至を迎え夏の盛りとなった。

先日、昭和21年生まれで桑取村横畑(現上越市)
ご出身の女性から炭焼きの話を聞いた。
仕事の合間なので短時間だったが、興味深かった。

遡ること中学時代の村はまだ炭焼きを行っていて、
山中に炭焼き小屋があった。
土曜日午後、学校から帰ると父の小屋に行った。
一人で入る山は怖く、突然大きな鳥が飛び立つ時
など特にびっくりした。

出来た炭を俵に詰めて運ぶのが仕事だった。
一つ30キロもある俵を二つ背負って山を下りた。

炭焼きで忘れられないものにくじら汁がある。
かたまりで買った塩くじらが小屋に置いてあった。
夏になるとユウガオやナスが入り特に美味しかった。
炭火でコトコト煮て父と食べたのが忘れられない。

 

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鉄砲百合
樹下美術館で賑やかに咲き始めたテッポウユリ。
あちらこちらで咲いて気持ちの良い眺めになりました。

鵜の池の舟着き場。

2016年6月18日(土曜日)

昨日は、かって上越市は大潟区の鵜の池で、舟を
使って牛馬の飼い葉を刈っていた事を書かせても
らいました。
当時の船着き場とおぼしき場所は見当が付いてい
ましたので、本日午後行ってみました。

長崎集落の東の端で、鵜の池の西側に近い所です。
かねて農業用水の取水を行う水路だろうと漠然と思
っていた場所でした。

160618鵜の池の船着き場
水門で休んでいたご近所のお爺さん。
向こうの鵜の池へと水路が開けている。

お爺さんから以下のような話をお聞きしました。

・ここには各家が持っていた田舟が置かれ、賑
やかだった。
・近隣では主に牛を飼っていた。
・池は牛が好きな「カツボ」という草が沢山生え
ていたので主にそれを刈った。
・葦(ヨシ)も生えているが軸が固く、牛は喜ば
なかった。
・自分は夕方に舟を出した。
・刈った草はそのまま牛に与えたが、冬は藁に
米や麦のぬかを混ぜて与えた。
・夏、池が干上がった時にカンジキを履いたが

自由なほど足が埋まることは無かった。

兵役で大陸へ行ったというお爺さんは遠くを見
ながら昔話を話してくれました。
つゆの晴れ間、心地良い風が吹いていました。

池のふちからトコトコ電動カーに乗って現れた
老人は患者さんでした。
土曜日午後は良いひと時でした。

※草にぬかを混ぜて動物に与えたと記載しまし
たが、それは冬期間にワラを与える場合のこと
でしたので訂正させていただきました。

昔は鵜の池に舟を出し、飼い葉(牛馬の餌)を刈ったらしい。

2016年6月17日(金曜日)

上越市大潟区の二人の方から、その昔鵜の池に舟を
出して飼い葉を刈ったとお聞きした。

今春以来皆様に昔の田植えの話を聞いてきたが、およ
そ農家は農耕用に牛馬を飼っていた。
牛も馬も毎日餌として大量の草を必要とする。
草刈りの時間は早朝か夕方、中には朝暗いうちから遠
くへ出かけたという人もいた(しかも少なからず子供が
関わっていたらしい)。

場所は田のアゼや土手や道ばた、あるいは共同ないし
私有の草刈り場だった。
そんな中でAさんBさんから、「鵜の池」に舟を出して草
を刈ったと聞いて驚いた。

舟は底が平らな田舟、池は浅いので棹さして進み、舟一
杯刈ったという。
本日年配のBさんによると、夏はしばしば池が干上がり、
目的地まで行けなくなったらしい。
そんな時は途中まで舟で行き、カンジキに履き替え干上
がった池の底を歩いた、という事だった。

 

名称未設定 1
↑県道78号線を挟んで上方(東より)が朝日池、左下方
が鵜の池。(Googleマップをキャプチャーしてマーク)
Aさんの集落は朝日池に近いがそこに草はあまり無い。
そこで県道を越えBさんの近くの鵜の池まで出かけた、
という。

 

IMG_4112
↑本日の朝日池。向こうにAさんの集落がある。
周辺に飼い葉向きの草は少なく、池面にヒツジグサが多い。

 

IMG_4119
↑本日の鵜の池。周囲や浮島部分は多くの草に覆われ、
なるほどここで刈ったのか、という景観が残る。
草で言うと二つの池は大きく異なる。由来が人工的か自
然的かの相違かもしれない。

朝日池や鵜の池には中学時代までよく釣に行ったが、
かって舟で草刈りが行われていたとは思ってもみなかっ
た。

池が干上がるほどの炎天下の池底を歩き、鎌を振るい
背丈ほどの草を刈る。
それを背負って何度も舟まで通い、岸へ運び、そこから
荷車かリアカーに積んで家まで帰ったのだろう。
毎年、毎夏、、、何という苦労だろう。

いつしか皆で同じことをしていた時代からテレビの時代に
なり、同時的に農業の機械化も始まる。
若者はどっと都会へ出た。
比較的若かった長男のAさんは、農業がばかばかしくなり、
勤め人に転身したという。

機械化に対応して圃場や水管理など全体が製造業と平
行して様変わりして行ったのはそれとなく目にした。
結果、多くの農家は機械化された大農式の営農家に仕
事を委託するようになって今日に至っている。

ところがそれ以前のことを全く目にしていないのも不思
議なくらいだ。

以前ブログで田植えの事を書かせて頂いたように、見よ
うと思えば舟による草刈りも見る事が出来たはずである。

その事で言えば、物事は見たいと気づいた時(自分にそ
の価値が何とか分かるようになった時)、しばしばそれは
すでに終わっている。

遅きに失したが、この年になって少しばかり関心分野が
広がり、喜んでいる。

それにしても日頃何かと頭の良い人ばかりに目が行き、
どうすれば生きるにふさわしいか、いつまでも現実は悩
ましい。

昔の田植えの続き。

2016年5月16日(月曜日)

過日お二人のお年寄りから早乙女として田植えをした話
を記載した。
手植えによる盛大な田植えは当地で歩行型田植機
が普及する昭和50年代後半~60年前半あたりま
で続いたいたようだった。
※但し後に兼業農家が圧倒的となり、自家用車が普
及し田植えは次第に地味になっていったという。
機械化では稲刈り機に較べ田植え機の機能と構造は
は複雑で、現在のように大がかりな実用が可能になっ
たのは最近らしい。

先日記載の後、さらに何人もの方から昔の田植えの話
をお聞きして早乙女の追加や新たなことがらなど掲載し
ました。

先日の疑問や追加など。

田植えのため早乙女たちが往き来する事の呼び方?
「ユイ(結い)」や「ユイッコ」と呼んだ。
(※前回早乙女を「しょうとめ?」と書きましたが、「そうとめ」
かもしれません)

田植えに行った場合、行った先の娘さんたちも一緒に
植えたのか?
一緒に植えて、多いときには10人を越えることがあった。

娘さん達は苗を植えたが男は何をしたのか?
苗床から苗取り、苗運び、苗結び、格子や定規で田の目
安を付けるなどを行った。

男の子たちは何をしたのか?
植える人のために、田んぼに束ねた苗を投げたり、格
子持ちも若い男の仕事。昼食や水も運んだ。

【新たにお聞きしたことなど
多いときには一週間から10日で4,5カ所を回り、と
ても疲れた。
上着、腰巻き、タスキ、手甲やきゃはんは自分で縫った。
但し半幅の帯だけは買った。
田植えばかりでなく「植え直し」という作業があり大変だ
った(初期の田植機の頃かと思われます)。
(昭和13年生まれ 吉川区川崎のご出身)

子供の時から田仕事を見ていたので、初めての田植
えも平気だった。子供時代の田仕事は半分遊びみたい
な感じだった。
(大正12年生まれ 吉川区梶のご出身)

田植えの前の日、食べ物を包む朴の葉を取り行くが、
木が高いので男の子が登って葉を落とし、女の子は下で
拾い集めた。
近郷近在、老若男女が大勢入り交じって話の花が咲き、
田植えは一年で一番大騒ぎの楽しい行事だった。
(大正6年生まれ 名立区桑取西横山のご出身)

結いの往き来は当初バスだったが、後にタクシーで迎
えが来るようになった。
早乙女に出る人が少なくなったためだと思う。
(昭和11年生まれ 大潟区内雁子の男性)

服装はハンチャと言うカスリの上っ張りを着る。
袖の先の内側に白布をつけそれを折り返して表に出
した。
黄色の帯は当初メリアスで縫ったが後に買うよう
になった。
昼食の煮しめが特に美味しかった。
朝早くから夕方遅くまで植えたが遅くなると余計にお
金を貰った。
自分は一人っ子で我が儘に育ったが、誘われて初め
て結いに行き、みなと同じ仕事が出来て嬉しかった。
近隣の田植えにはチャリンコで行った。
(昭和13年生まれ ご実家吉川区西の島)

家が地主だったため田植えをした事がなかった。
戦後、貯金を封鎖され、広い田と山の巨木を取られ
た。
ある日突然田植えをさせられ、さんざんな目に遭った。
みな上手にドンドン先へ行くのに、自分は田の中に
取り残されて動けなくなった。
その年、吉川区の泉谷や竹直へも行ったが、もう無
理だと思い、看護婦の勉強をすることにした。
(昭和8年生まれ 大潟区農村部の女性)

田植えに限らずお年寄りの若き日の話は夢まぼろし、
あるいは物語のようです。
いま10代、20代の人も5、60年経ったら懐かしい
昔話を生き生きと語って貰いたいと願うのです。

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本日診療所の上越市大潟区はひどい暑さにみまわれた。
33、4度の気温はこの日全国1位となった模様。

一転して明日はぐっと冷え、場合によって半分程度まで
気温は下がりそうだ。

本日の田植え
本日の田植えはほくほく線を背景に8条植えの乗用田植機。
(大潟、頸城両区のあたりで)。

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