我が家

佐渡島って人が住んでいるの? 石田三成 鬼平犯科帳 仙台育英の長谷川投手 平富の料理 ポルケッタ・ボーノ・モルト ラ・ペントラッチャ。

2017年8月20日(日曜日)

世の中には変わった家族がいて、そんな一家と昨日食
事をした。

行きの車で佐渡の話になった。
「え!佐渡って人が住んでいるの?」と一家の中学生の
妹が言った。
順徳天皇が佐渡島に流されたのは習ったけど、いま佐
渡に人が住んでるなんて習ってない、というのだ。
「そんなこと言ったら佐渡の人に怒られるよ」
「いいよいいよ、Fちゃんは天然だから」
周りの誰かがフォローする。

その妹はいま小栗旬に夢中だ。
一家の家にはテレビはあるが一切放送番組を見ない。
何十年来見るのはビデオ、DVDだけで、現在「天地人」を
全巻見終わった所だという。
そこで石田三成を演じている小栗旬が好きになったらしい。
「そんな役者知らないと言ったら本当に馬鹿にされたよ」と
父親が嘆く。
父親とはこの度宮城県から来訪した私の弟だ。

彼は何十年も前一時期スペインで暮らし、その後イタリア
へも行った。
私と違って昔から猛烈に食にこだわる。
スペインでは豚を、イタリアでは鶏を研究し、宮城県でそれ
らの生産を仕事にしている。

昨夜イタリア料理の「ラ・ペントラッチャ」へ一家を誘った。

 

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↑中高生の姉妹が飲んだレモネードとオレンジジュース。

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前菜のチーズと生ハム。

 

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食事が始まると地元の仙台育英が勝った知らせが入った。
中高生の姉妹はハイタッチをして喜んだ。、育英の長谷川
投手が特に好き、と姉が言う。
なぜなら、一家はDVDの鬼平犯科帳が大好きで、中村吉右
衛門演ずる鬼平の苗字が長谷川だから余計好き、ということ
だった。

鬼平犯科帳といえば、しばしば劇中登場する「平富」の料理、
わけても鯉の皮の酢の物にうす焼き玉子の千切りと針生姜
をあしらった料理などは本当に美味そうだ、日本料理も素晴
らしいと父親。

 

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ピザ。

テナガエビの生パスタなど次々美味しく食しながら弟は店員
をからかい食や仕事への情熱を促す。
オーナーも弟に興味を持ったのか、品のたびに顔を出し、な
にやらイタリア語を交えて話をする。

「ポルケッタ、ボーノ、モルト!」と突然弟が口走ったのは以下
の料理の時だった。

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ポルケッタはローストした豚肉。
香辛料や香草が巧みに仕込まれ非常に濃厚な肉料理。

弟は口にするなり、しばらく黙りこみ涙を浮かべた。

「ポルケッタ、ボーノ、モルト!」
オーナーが厨房のスタッフ達に大声で叫んだ。
スタッフも声を上げて応えた。

ああこういう世界のために弟は苦労してきたんだ、幸せ
ではないのか、とこちらも目頭が熱くなった。

それから二本目のワインを飲んだ。

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ラベルに買い付け主のオーナーの名が入ったワイン。
イタリアの土と情熱が高く香った逸品。

 

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ビスケッタは一緒に出された貴腐ワインに漬けて食べる。

これをかけると余計おいしいもんね、と姉妹はデザートの
アイスクリームとジェラードにバルサミコ酢を一杯掛けて
食べた。

弟はポルケッタを一切れ残し、オーナが来ると持って帰って
もいいか、と尋ねて包んでもらった。

ああそれにしても我が佐渡島を無人島とは。

この家族は料理上手な奥さん以外みな天然で、時代遅れ
で、のどかで真剣だ。

関根日出男先生のご逝去 ひどい寒波。

2017年1月23日(月曜日)

チェコの音楽と文学の研究家・関根日出男氏が 逝去さ
れ、訃報はチェコ共和国大使館のFBに 載っていた。
(HPは「関根日出男先生 逝去の報に接して」として大使
の追悼メッセージを掲載)

お通夜が昨日22日日曜に行われ、参会した。 氏は義兄と
は申せ、私など遠く足許にも及ばず、 兄弟の列に加わるの
も恥ずかしくなる格違いの人。

厳しくもユーモアを解され、お話は有益で楽しく、 多くの人
に敬愛される人生を歩まれた。

港区で耳鼻科開業の傍ら永年チェコ名著の翻訳 及び音楽
家の探求と紹介を通して日ーチェコの文 化交流と親善に尽
くされた。
1959年、チェコ・フィルの演奏会を聞くや即不治
の病「チェコ病」に罹患してしまったと自ら記されて いる。

診療後の同所に於けるチェコ語研究のグループ ワークは四
半世紀に亘り継続され、チェコ訪問は 20回に及んだという。

お通夜会場は環八は砧のあたり、隈研吾氏の早 期に当たる
設計の実にモダンな(一種驚きの)企 業ビルを改装した建物
だった。

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↑4階建てのエレベータホールを仰ぎ見る。 宿泊、控え室な
どの施設も充実していた。

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↑会場入り口に置かれた先生の紹介記事。 私のお気に入り
の病気は「チェコ病」、という先生を チェコ語と英文で紹介す
るもので、医学雑誌では ないかと思って見た。 額帯鏡を付け
られた在りし日のお姿がりりしい。

参列者は親族と日チェコ友好関係者、音楽と言語の ご友人た
ちで、仰々しい医師会や薬剤業界の贈花も 無く、実質を重んじ
られた先生らしいしめやか、かつ 和やかな通夜だった。

会食に本場所優勝の稀勢の里にクリスタルガラス の友好杯を
授与された後、マーシュ・ドゥプ チェコ 共和国大使が参会され
た。
大使は姉の所へ来られ、通訳を介して丁寧な慰め と感謝
の言葉を掛けてくださった。

また樹下美術館で3回の演奏会をされたチェリスト の竹花加
奈子さんとお母様にもお会いした。 家族で長く関根先生のお世
話になった、と仰られた。

図書館で20冊の本を予約したばかり、お元気で未だ 探求の途
にあった88才の急逝は真に残念だ。 拝見したご逝顔(私の造
語)は囲んだ親族よりもにこ やかで安寧、かつ不思議なほど生
気を放っていた。
微笑して私たちの話を聞いているようでもあり、「まだ まだ君も
頑張れ」と励まされているとも感じた。

翌日月曜日は診療がある。東京駅近くのビジネスホテ ルに泊
まり、本日暗いうちに起きて朝一番の北陸新幹 線で帰宅した。

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↑明けはじめた戸田あたりの車窓。

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午前8時半ころの上越妙高駅。非常に寒く、駐車場 で一泊した車
に雪と氷が貼り付いていた。グラウンド は消雪パイプによって雪は
無い。

午前の仕事を終え、眠気に襲われたが、朝日池をね ぐらにハクガ
ンが飛来している、それも200羽を数え ると大潟水と森公園のス
タッフから聞いて、昼休みに 田んぼへ出かけた。 (3年続けてハ
クガンの姿を見られないく寂しい年が続いていた)

田んぼの様子は後にして、本日積雪は少なかったも ののまことに
寒かった。

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本日在宅回診中の一コマ、先を行く我が看護師。

祖母の遺影の裏 父と祖父母。

2016年8月29日(月曜日)

一昨日の話で、しかも仏壇のことで申し分けありま
せん。
実はある高校生の縁者の宿題で家系図を作ると
いうのがあり、それについてこちらで調べたものを
作成してお手伝いをした。

いわゆる描いたものではなく、戸籍をもとに作成し
たので大昔まではさかのぼるものではないが、か
なり手間どった。
念のため滅多に見ない仏壇の位牌を裏返したり没
年月日など出来るだけ確かめた。

先祖たちのことはともかく、お壇の中の1枚の写真
が気になった。
写真は全部で4枚あり、祖母、父、叔母、母の遺影
が見える。
父のは弟が撮ったスナップで、母のは私が撮った。

 

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上の矢印は父、下のは祖母の写真。

祖母のは写真好きだった父が撮り自ら現像したも
のと思われるが、それが気になった。
22,5×17,5㎝の白い額に入り、さほど大きくは
ないが、全体が白々しているので少々変わった印
象があった。

そもそも父は叔父叔母たちと違ってほとんど先祖
の話をしなかったし、仏壇も参らなければ墓にも
行かない人だった。

子供の頃、お墓や仏壇が好きだった自分にすれば
大変不思議なことだった。

その父は二つのことで両親を恨みに思っていたふし
がある。
一つは多産で、祖母は19才から44才までの25年
間に12人を出産している。
その事は兄弟たちの学費不足として長く影響したと
いう嘆きをを父から聞いたことがある。
あるいは寒い日、新聞紙をフトンに足して寝たという
苦学の浪人と学生時代、帰省するたびに小さな兄
弟姉妹が増えていて困惑したと、漏らした。

もう一つは借金だ。
祖父母は大正7年と聞いているが家を建てた。
二階建ての入院施設に続く住居は、部屋数が60畳
の広間を入れて13室の木造三階建てという普通で
ない建物だった。
現在でいう億単位の家、そうでなくとも素封家出の祖
母はお金の掛かる人だったらしく、田舎医者の祖父
に際限ない借金がかさんでいったらしい。

返済に行き詰まった夫婦は家の書籍、書画はじめ
フトンまで売り払い、現金を求めてここを捨て北海
道の寒村の診療所へ移り、父は大学の研究生活を
中断して渡満、満鉄病院の勤務医となって背負った
借金の返済につとめたという。
これは母から聞いた。

父は後々まで借金と祖父母を疎み恨んでいた風に
見えていた。

祖父は私が二歳になるころの昭和18年に亡くなり、
祖母は小学5年の春、昭和27年に亡くなっている。
祖母の火葬場で末の叔母がわんわん泣いて皆にか
らかわれ、お通夜で、普段静かな父が酔って枕を背
負い、「赤城の子守歌」を歌って踊った。

さて祖母の写真である。

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↑父が撮って現像したと思われる遺影。

このたび仏壇の位牌を見終わり、眼前の祖母の写真に
手が行った。
撮影した父が裏に何か書いてないか、と思った。

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↑写真立ての裏側。
裏板をはずしてみる。

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↑別な紙が1枚挟まれていた。
厚さなどを調節する当て紙かと思った。

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↑裏返すと祖父の写真が現れた。
この写真は初めてだった。

祖母の写真の裏に祖父が密かに重ねられている。
別々に置かず重ねた子、そうされた父母。
突然現れた祖父に驚くとともに、胸が熱くなった。

人の心の真意は分からない、開けて覗いても分
からないものは分からない。
だが何気ない所に形として残っていることもある
ということなのか。
物語は、終わればみな普通の人に帰るという事も。
思いもよらぬ父の行為にしばらく動けなくなった。

祖父の写真から思い当たる1枚があった。

 

1943年10月
昭和18年10月祖父を囲んだ写真。

病身となり北海道から家に戻った病床の
祖父を祖母と大勢の子、孫が囲んでいる。
満州から私たち子供を連れて里帰りした父母
も一緒だ。

あらためて見た祖父母の遺影の服装はこの時と
全く同じだった。
皆で撮る前にそれぞれ1枚ずつ撮ったのだろう。

生後8カ月の弟が後方で母に抱えられ、
1才8ヶ月の自分は父の膝の上に、
3才の姉が祖父母のそばにいる。
借金返済はまだ終わらず、
「簡易」の扁額が見えている。
(小山作之助の長男・藩氏が父の後ろに見える)

以上大変長くなりましたが、祖母だけ額に
入れ祖父を裏に重ねた遺影には、父の祖母への
思慕と思想の一面が現れているように思われました。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

ちなみに祖父・直次郎は日本教育音楽協会の
初代会長で唱歌「夏は来ぬ」の作曲者・小山
作之助
の弟です。
小山作之助:文久3年(1863年)12月11日~
昭和2年(1927年)6月27日。
祖父杉田直次郎:千葉医専出身医師、明治9
年(1876年)10月25日~昭和18年(1943年)
12月13日。
父杉田敬義:慶応大学出身医師、明治39年
(1906年)2月1日~昭和59年(1984年)11月
14日。

 

 

鬼平犯科帳一家。 

2016年7月26日(火曜日)

雨が待たれる、と書いてみたら昨日本日と雨降りとなっ
た。
特に今日は終日の雨で時には強く降った。

他所は分からないが、すくなくとも当上越地域で一定の
貯水が進むことを期待したい。

ところで昨日午後、宮城県の弟夫婦が二人の娘を連れ
てやって来て本日昼帰った。
養豚、養鶏を生業としている一家の生活は長年慎まし
く、ラジオは聞くが新聞取らず、テレビはあるが番組は
見ずDVDだけかける,というものだ。
これは忙しいのと、騒々しさやお節介が嫌いなためな
のだろう。

彼は外国人のステイを引き受け、代わりに営農の手伝
いをして貰うことを続けている。
過日、そのことで某大手テレビのワイド番組の取材を受
け、放映の時にワイドショウ-というものをついでに見た
らしい。
多くが芸能や政治のゴシップネタだったのか、内容につ
いて何て馬鹿馬鹿しいと嘆いていた。

その家族が長く楽しんでいるのがDVDだ。
以前は「パイレーツ・オブ・カリビアン」のシリーズだった
が、それが終わった今は中村吉右衛門主演の「鬼平犯
科帳」になったようだ。

昨日皆して寿司を食べに行った所、店に入るなり一同
「クッ、クッ、クッ」と口をふさいで笑いをこらえている。
どうやら初めて見る寿司屋の親方の顔が登場人物の
一人にそっくりだったらしい。

これで火が付いてしまい、品が出るたび、何かを回した
り、頼むたび、まして親方が来ようものなら大盛り上がり
で、「ちょいとお尋ねしやすが」、「まっぴらご免だよ」など
と、状況に応じて誰かが咄嗟の役になりきり、随所で「鬼
平犯科帳」が展開された。

そして帰りの代行の車中、下の姪が江戸時代が一番好
きということで、祖先が記した天誅事件の事を私が話す
と、それまで黙っていた運転手さんが「面白い話ですね」
と言った。
「運転手さんは何時代が好きですか」
「江戸時代です」
「ええー、じゃどんな番組が好きですか」と誰かが聞く。
「鬼平犯科帳です」
まさかの一言に一同ぎゃっとなり、眠っている人も起きた。
家が近づくと、
「その先を右に曲がってくんねえ」
「合点だ」
「おっとそんな先まで行っちゃいけねえ」
「へーい」
などと言いながら到着した。

あくまで慎重にハンドルを握った運転手さんのセリフは
短かっかったが、どこかで演劇をやっていたのではと
思うほど声が良く、セリフもうまかった。

「ちきしょうめ、あいつに一本取られちまった」と、家に帰っ
て弟が言った。

 

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お寿司やさんで、昨年東京の高校へ進学した姉は自分
で作ったというワンピースを着ている。

中2の妹は黒澤明監督が好き、と言った。

本日の学校保健委員会 大潟町小学校のオリジナル朝食本 昔の我が家の食事。

2016年6月23日(木曜日)

本日午後私の小学校母校、大潟町小学校で学校保健委員会
があった。
学校、PTA,区事務所保健師、同管理栄養士、学校医で構成
された22人の委員会だった。

学校、PTA主導でタイムリーなテーマが取り上げられるが、
生活習慣は例年共通する。

前段で健診結果、食生活、体力テストが報告され、後半は朝食
の課題がグループ毎に話し合われた。
食事は何度でも、繰り返すほど意義が深まるテーマだ。

朝の迎え方、メニューのバターン化と工夫、量、前夜の問題まで、
短時間のうち集中してにこまやかに話合われた。

最後に私の総括があったので、夜間(睡眠中)に実は消化と代謝
の活動が極めて活発に行われていること(副交感神経の活動)を
話させてもらい、関連づけて朝食の意義と要点を述べさせても
らった。

以下は本日頂いた今年3月に刊行された同校オリジナルの冊子。


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「大潟町小学校オリジナル 我が家のおすすめ朝ごはんレシピ」
著者・大潟街小学校、協力・同校PTA,同校後援会。
印刷・第一印刷所 全27ページの労作美本。

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朝ごはんはいいこといっぱい! 朝ごはんで、やる気スイッチオン!で
始まり、キャッチも内容もとても良い。

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定番メニューからバリエーションまで15人の提供者のレシピ
をもとに9人の作成協力隊が再現し、教師が撮影、メモや栄養
教諭のアドバイスなどが付く。

伝えたいことを伝えるには、本気か否かが最も肝心であろう。
形だけ整えトライしてみました、では伝わらないし残らない。

よくぞ完成させたと驚かされた冊子から熱心さが伝わり、手に
取ると幸せな気持ちがした。

 

ちなみに同校の潟町村小学校時代、わが家の朝食はカユと菜っ
葉と味噌汁。
昭和20年代、貧しかったせいもあるが、およそ絶対的権力者の
祖母に合わせた食事であり、小学校なかばのころまで、弁当はメ
ザシと漬け物ばかりだった。
私自身、当時の食事を旨いと思った記憶は皆無、食いしん坊の
弟はいつもカンカンだったことを覚えている。

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本日はせいぜい20℃前後で、大変寒かった。

貴重な水、貴重だったポンプ。

2015年5月27日(水曜日)

暑くなり、水が貴重な季節になってきた。
地元上越市大潟区は沿岸の砂丘地で、地域によって昔から水で苦労してきた。

私が小学校低学年の頃まで、我が家は100メートルほど先の井戸から水を運んでいた。
水を汲んだ桶をテンビンの前後に掛けて担ぐのである。
水汲みは嫁が行い、重い桶は揺れるし途中に坂もあって辛い仕事だった
佐賀県出身の母は「越後に来て雪で悩むのはいいが、水で苦しむとは思わなかった」と言っていた。

先祖が井戸を掘ったらしいが、出なかったと伝えられていた。
見かねた父は名人という「井戸源」さんに頼み、夏に向かって井戸掘りを始めた。

組まれたやぐらの滑車を使い、ロープをくくり付け、枠で囲った穴へ降りて行く井戸源さん。
やぐらの脇には掘った土砂が日に日に高く積まれていった。
学校から帰ると「出た?」と毎日母に聞いた。
出てもいい深さを十分越えても駄目で、母は井戸源さんが心配だとよく言った。

それがある日ついに「出た」。
きれいな水を期待したが、実際は茶色く濁っていた。
それでも何日かすると澄んできて、水はとても冷たかった。

鉄管と電動ポンプを取り付て高い水槽にくみ上げ、水道組合を作り近隣に配管した。
深井戸のせいでどんな年も涸れることなく、後々まで父は感謝された。

ポンプ (2)空き地に残されている手こぎポンプ。
ポンプは畑でよく見るが、旧国道沿いの空き地のは家庭で使っていたものだろう。

後に自治体の水道が整備され、わが家の井戸は厚いフタをされてそのままになっている。
事情によって家が壊された沿道の空き地に、ぽつんとポンプだけ残されているのを目にする。
貴重だった水、貴重だったポンプが潰されずに残っているのも分かる気がする。

頑張れ野尻湖。

2015年4月20日(月曜日)

昭和20年代中頃から、私たちは春秋によく野尻湖を訪れた。
池の平の「池廼家」さんとともに野尻湖の「藤家旅館」にはとてもお世話になった。
独特の大きな声の当時のご主人が運転するモーターボートで巡った湖畔の新緑や紅葉の美しさは忘れられない。
食卓のワカサギの天ぷら、信州味噌の味噌汁、野沢菜漬けなどは香りまでよみがえる。

img122母が昭和24年1月生まれの妹を抱いている「藤屋」さんの桟橋。
このころから父は齋藤三郎さんの作品を集め始めたようだ。
(私は前列右端)

 

弁天島で昭和27、8年ころの弁天島で。
たいてい野尻湖は静かだった。

ところで上信越高原国立公園とよばれていた時代、妙高山も黒姫山も戸隠も、
そして野尻湖も等しくその中に含まれていた。

それが平成27年3月27日に同国立公園から切り離されて、妙高戸隠連山国立公園が成立した。
公園の名称に妙高と戸隠、二つの名が躍り出て冠された。

ではあの美しい野尻湖は?と思わず考える。
そして黒姫山も。

以下は環境省のホームページの冒頭にある案内文である。
「妙高戸隠連山国立公園は、平成27年3月27日に、32番目の国立公園として指定されました。
新潟県と長野県の県境に位置し、妙高山、飯縄山などの火山と、戸隠山、雨飾山などの非火山が連なり、
多様な山々が密集した公園です。堰止湖である野尻湖は、ナウマン象の化石の発掘でも有名です」

野尻湖が飯縄山や雨飾山とともに書かれてほっとしたが、黒姫山や焼山はここでは「など」に括られている。
野尻湖はナウマン象の化石発掘もあろうが、なにより妙高山と黒姫山に抱かれた美しく大きな空間スケールが命だ。
世界に冠たる絶景として、野尻湖には連山と協調してさらに頑張ってほしい。

鉄ちゃんというわけではないけれどその2 昭和34年9月8日の三等寝台券。

2015年3月16日(月曜日)

私の切手帳に二枚の寝台券が残っている。
昭和34年(1959年)9月、高校三年生の夏休みが終わったばかりという時期、父と上京した時のものだ。

上京の目的は、父の母校の大学病院へ行き、前年の春に見つかった私の肺結核を手術するか否かの判断を仰ぐためだった。
続けていた服薬と切り替えた注射薬カナマイシンの効果を問うことでもあった。

寝台券昭和34年9月8日、21時42分直江津発の三等寝台105、106番下段の特殊補充券。
父とは向かい合っていたと思う。
よく眠れずに上野に到着したのではなかったか。

非常に苦手だった父と一緒の上京。しかしそれが苦痛だった記憶が無く、道中の父は優しかったのかもしれない。

早朝上野からの国電は空いていてパラパラと居る通勤客はとても疲れているように見えた。
目黒で目蒲線に乗り換え、大岡山で降りた。
姉が居る石川町の小さな家に向かったが、朝日の道を歩きながら「9月になっても暑い」というような会話をしたように思う。

翌日だったか、信濃町の病院で断層X線撮影などの検査をした。
仕事がある父は早く帰った。

検査の結果は手術の必要は無く、現行の治療続行で良いという結論だった。
日本が世界に誇ることになる新薬カナマイシンの効果が出ていたのだ。
この時私は一才年上の従兄弟と後楽園球場で王、長島の試合を見るなどして一週間も滞在した。

決定の経緯はよく分からないが、残りの2,3学期を休学して治療に専念、来春もう一度三年生をやり直すことになった。
このことで焦るばかりだった気持ちが落ち着くのを感じた。
一才年下の弟と同学年になることなどの我慢は仕方が無かった。

ただ美しい英語教師A先生の許へさらに一年通えることだけは嬉しかった。

鉄ちゃんというわけではないけれどその1 懐かしいはくたか特急券。

2015年3月9日(月曜日)

このブログの欲張りなカテゴリーに「ほくほく線特急「はくたか」&乗り物」があります。
書き始めた頃に、このようなカテゴリーが出来るとは思ってもみませんでした。
それが2012年4月4日の記事からほくほく線、特にはくたかに興味を持つようになり、
以後はくたか廃止が迫るにつれ、一種とりこになり撮ったり書いたりを続けました。

いわゆる「鉄ちゃん」という方達は車両や車体の形式やそれらの変遷などに詳しく、写真もしっかり撮られます。
それに比べて私はそのようなことに疎く、夕刻の空や雲、あるいは四季の表情をはくたかに重ねて満足していました。

昨年秋、田んぼで東京から来たという熱心な鉄道ファンの若者に私のゆるい写真のことを話しますと、
「情景写真としていいと思いますよ」と言われました。
なるほどと、安心させて頂いた次第です。

ところで中学生時代から何とか残っている切手帳があります。
切手は学生時代に売ってお小遣いにしてしまいましたが、一緒に入れていた数十枚の切符が残りました。

先日何十年振りにそれらが入っている小さな箱をあけました。
中に「はくたか」の特急券が一枚ありましたので、大いに驚きかつ喜びました。

切手帳中学時代からある切手帳の外観。中はぼろぼろ。
縦横19,6×14㎝

切手帳の中身思い出につながるものもあった切符。
厚い切符などが入ったために余計傷みました。

はくたかの特急券灯台もと暗し、昭和49年(1974年)10月28日(32才)発行の「はくたか」特急券。
直江津18時10分発上野行、前日の地元潟町駅発行でした。
電話で直江津駅に空席を確認後、手書きとハンコで記入し最後にガチャと日付印字器を通すなど、
色々手を掛けて発券されたのだろう。

パーキンソン病だった父はこの年2回だったか入院しました。切符はそのうちの1回に際して急遽帰郷した時の帰りだと思われます。
上野には深夜に到着したことでしょう。翌年5月、勤務していた大学病院を辞めて家に入るきっかけとなった出来事だったと振り返られます。

次回は更にさかのぼって昭和34年(1959年)9月、高校三年生の時、父とともに上京した際の寝台券と、それにまつわる事を書ければと思っています。

吹雪の一夜が明けて 入学祝。

2015年2月10日(火曜日)

昨日からの寒波による吹雪は夕方に雨に変わって収まった。
午後の2カ所の在宅も無事に回った。
上越市大潟区の積雪は30㎝足らずで済んだ。

以前も書きましたがこんな日の妻は朝から忙しい。
高田育ちなので自動的に心身が動くようだ。

雪かき1雪で丸くなった車の除雪。

雪かき30分ほどで全体が現れる。

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入学祝二人の若い縁者が進学し祝いを送った。一人は自由学園へ進み入寮する。
学園のHPに〝生活の中から全てを学び、高い知性と品性を育みます〟とある。

亡母は同学園創立者の一人羽仁もと子出版社雑誌「婦人之友」を長く読み、
後に「明日の友」を購読していた。
偶々かもしれないが、今日の入学は70年の母の願いが叶ったようにも見える。
月並みだが天国で喜んでいるような気がするし、身内としても嬉しい。

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