福島を見ていて思い出した 新潟県で原発を阻止した町長

2011年4月19日(火曜日)

昭和53年から十数年間、個人的に辛い時期が続いた。高速道路で、トンネルが見えると入り口に激突したい衝動に何度も駆られた。

 

助けて欲しい、すがりたいと思いながら歯を食いしばった。そんな中で仕事と患者さんが一貫して自分を支えてくれた。皆様には今でも感謝でいっぱいだ。

 

魔の十数年、修行のつもりで本を読んだ。一日1,2ページしか読めないような本でもノートを付けながらかじりついた。遺伝/進化論、心理・行動学、フランス近代思想や評論。無理とわかっていてもエッセンスに触れたかった。

 

 今それらはみな忘れたが、合間に読んだ良寛と西行、それに啄木の味は淡く残った。

笹口さんのお酒 笹口孝明氏の家が蔵元とは知らなかった。

先日申し込んで到着した清酒、とても嬉しい。

 

また当時の週末はよく新潟の講演会や講習会に行った。当初高速道路がなかったのでしばしば海岸を走った。

 

日本海は変化に富んだ表情があり、柏崎から角田浜まで海沿いの景観には慰められた。ある春、刈羽から荒浜の先へ抜ける松林を歩いたことがある。なだらかな丘、清々しい松林、見えてくる海、とても素晴らしかった。

 

しかし間もなく一帯に高いフェンスが連なり、いつしか全貌叶わぬ巨大な原子力発電所となっていった。清々しい景観に代わっておびただしい鉄塔と送電線が巡らされ、無味無骨なコンクリートの巨塊が出現した。それはまた後の中越沖地震の煙によって、世界最大の原発であることを全国に知らしめることとなった。

 

さらに、あろうことかその45キロ先、新潟県が誇る景勝地、越後七浦の角海浜に、もうひとつの原発(東北電力巻原子力発電所)が計画されていた。佐渡に対面する無垢な海岸線に二つの原発とは何という粗暴。新潟県はどこまで落ちれば気が済むのだろう、と思った。

 

 この土地を遠くから訪ねる人は原発関係者以外いなくなるかもしれない。越後は麗しかったのではなかったか。

 

 結局、角海浜に原発が建つことはなかった。様々な曲折を経て1996年に笹口孝明町長が登場した。氏は国・県知事・元町長と議会与党・電力会社・推進地元など圧倒的な力を相手に、同調する住民と共に闘った。女性の力も大きかったと聞いている。

 

1998年8月、町長は自らの判断で炉心予定の町有地を建設に反対する同志に売却した。建設推進サイドはそれを違法と主張、提訴そして執拗な抗告へと推移した。しかし2003年3月、最高裁は合法の判断を下し、ついに電力会社は計画を断念する。

 

次々と襲った嵐の中でどんなに苦しかったことだろう。きわどい局面を迎えるたびに氏は明晰な言葉と行動によって乗り越えた。並外れた信念に感動して手紙を送ったことがある。

 

原発は緑の国土を損ない地域の創造力を減衰させ人を退ける。しかしまったく正反対のことを述べる人がいるのも事実だ。国土・生活・カネについて、感覚や認識の違いで分かれるのだろう。

 

10数年前、巻がもめている頃、ある会に所属していた。当時の講話で“新潟県に原子力発電所はもう要らない、都会に作ればいい”と話したことがあった。まばらな拍手だった。

 

 いま笹口孝明氏を振り返る。氏は巻町ばかりでなく、出雲崎、寺泊、弥彦、角田、岩室、国上山、見附・燕、そして新潟市の住民をひとまず安心に導いた。我々とて同じであり、来訪者もほっとした事だろう。
また、一帯の海岸を明治、江戸、鎌倉、平安・奈良、、、さらにその先人達が見てきたであろう風光として保全された。巻原発が建たなくて本当に良かった。

 

斯く間一髪新潟県は救われたのではないだろうか。笹口氏いなければ新潟は最も近づきたくない県の一つになっていたかもしれない(現にそうでないことを願うばかりだが)。

ネットで見た現在の笹口氏は、死にものぐるいの当時と異なり穏やか印象だった。いつかお目に掛かってみたい。

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