2021年8月

窓字、袋字そして窓絵、齋藤三郎の展示作品から。

2021年8月29日(日曜日)

前回に続いて齋藤三郎の焼き物の話です。
現在のテーマは書を中心とした展示です。文字をそのまま書いたもののほか、器に丸や菱などの枠を開け、その中に文字を書く「窓字」がよく見られます。
また文字の輪郭を縁(ふち)取る「袋字(ふくろじ)」も好んで書かれています。

窓字と袋字。
以下、展示の一部からまず窓字を挙げてみました。

 

色絵湯飲みの窓字。丸い窓に春・百・花の三文字が書かれています。

 

鉄絵手付き鉢に二重丸の窓字で「客来一果」。

 

鉄釉壺に二重丸の窓字で「富」の窓字。反対側に「貴」と書かれています。

 

染め付け湯冷ましと煎茶茶碗の丸い窓に「忘却」と「香」の窓字が見えます。

次ぎに袋字です。

湯飲みの「忘却来時道」の袋字の部分です。
まず臈(ろう)で文字を書き、上から藍の釉薬を掛け、
浮き出た文字に縁取りをして袋字にしたようです。

 

文房具揃えから良寛詩「吾与筆硯有何縁」の袋字。

 

以下の窓は菱型の窓を開け、袋字が書かれています。

 

色絵柿文鉢「秋収冬藏」の袋字の窓字。

 

色絵椿文鉢「露結為霜」の袋字の窓字。

何か呼び方がややこしくなりましたが、いずれも手の混んだ作業ではないでしょうか。
文字の縁(ふち)を囲むのを袋字と呼ぶとはなるほどと思います。それぞれの文字や部首を崩せば袋になりますね。

 

ちなみに窓を開けて中に絵を描く手法を「窓絵」と呼びます。
以下展示の中から窓絵の一部を掲載しました。

蝶の窓絵の染め付けタ湯飲み。

 

椿の窓絵の急須。
赤い地に釘で良寛の詩も彫られている。

 

「忘却来時道」の額に水注の窓絵。

 

素早い筆さばきで丸や二重丸を描き中に文字を書く。
早くても乱れない。
そのことも味や見所であり、齋藤三郎の手筋の良さに驚かされます。

以上、何か呼び方がややこしくなりましたが、いずれも手の混んだ作業ではないでしょうか。
窓字、袋字、窓絵は“皆に喜んでもらいたい”という齋藤三郎一流の「もてなし」の現れではないかと思っています。

齋藤三郎の展示替えで全ての作品に書字が見られるようになり,館内の雰囲気が変わりました。

2021年8月25日(水曜日)

今年の齋藤三郎(陶齋)の展示は「齋藤三郎の絵と書」です。
本日水曜日の休館日はその後半(明日8月26日から)の展示に向けて、12点の展示替えを行いました。

これによって全ての作品に文字が入った展示となり、場内の雰囲気がかなり変わりました。文字があることで、人の気配や和やかな雰囲気が漂うように感じますので不思議です。

以下は追加した12点の中から一部をご紹介しました。

 

文房具:焼き物による筆、鞘、硯、硯屏(けんびょう;塵よけ)、水滴、筆架です。
硯と硯屏には良寛の詩から“吾与筆硯有何縁云々”が書かれています。

硯の脇にも書かれた全詩の読み下しとして、

吾と筆硯と何の縁か有る
一回書き了れば又一回
知らず此の事 阿誰にか問わん
大雄調御 人天師

が読め、口語訳として、

わたしと筆や硯とは どんな縁があるのだろうか
一回書き終わったのに またまた一回
このような縁についてわたしは知らないし、そもそも誰に尋ねたら良いのだろう。
ただ知るのは御仏だけだ

という意味のようです。

赤絵の福貴長春文 灰皿。
よく富貴長春と書iと書いていましたが、福貴となっています。
中国の言葉で、幸福と長寿は貴いという意味です。
一方で富貴は牡丹、長春はバラという意味もあるようです。

 

 

杉田敬義(父)宛書簡屏風。
手紙を貼って茶道向きの屏風にしました。

 

手紙にはススキが描かれ、品のある文字がしたためられています。
最も古い作品の一つ「弥彦鉄鉢茶碗」を置き合わせました。
昭和23年頃、弥彦神社で行われた茶会に呈されたお茶碗です。
書かれている文字は残念ながら読めませんでした。

 

 

先日ブログに書きました二合半の看板と「染め付け街道屋どんぶり」

正面右奥に展示しています。看板は陶齋がひいきにした店の為に書いたものでしょうか。味の良いどんぶりとともに館内に和やかな雰囲気が漂いました。

 

かって展示した色絵番茶器揃えです。
梅、椿、竹の模様とともに釘彫りで詩文が書かれています。

詩文を調べてみますと、良寛の詩だと分かりました。

読みとして、
間庭(かんてい)百花発(ひら)き
余香(よこう)此の堂に入る
相対して共に語る無く
春夜 夜将(よるまさ)に央(なかば)ならんとす

訳として、
静かな庭に沢山の花が咲き、香りがこの部屋に入る。
共に向きあい語るともなく過ごす春はもう真夜中になろうとしている。

何度か書きましたが、齋藤三郎の森羅万象への理解と高い教養にあらためて驚かされます。
同時にそれを理解したファンたちが居たことにも驚くのです。

文字が入ることによって作品にいっそう和みや深みが現れるようであり、その様式は齋藤三郎の骨頂の一つではないかと、実感させられました。

愛用の財布が傷んだ。

2021年8月24日(火曜日)

これまで財布は主に二つ折りを使った。札がきれいに収まる長財布も良いのだが、何故か二つ折りだった(いまだ学生気分が抜けないのかも知れない)。

現在のは5,6年前にイトーヨーカ堂で求めた。売り場の財布は沢山種類があるため、買うとなると中々簡単には決まらない。だが、この斜めに青白赤の三色がある財布は一目で気に入り、即購入し精一杯愛用した。

 

こんなに気に入ったものは2度と巡り会わないかも知れない。

 

その財布の硬貨入れ部分が大きく傷んだ。

札入れとの境界だけが布地で、そこが破れてしまい、硬貨が札入れに移動し落ちるようになった。

カードのほか診察券も増えたので、そのことも考えて新しいのを選ばなくては。悩まずに良いものと出会えれば良いが、無印良品へも行ってみたい。

スズメの親鳥と若鳥 黒い蝶 積乱雲。

2021年8月22日(日曜日)

先日のブログで涼しさのあまり、果たして残暑はあるだろうか、と書いたが翌日から30度を超える日が続いています。

そんな日頃の何処へも行かない日曜日、いくつか目にしたものを記しました。

 

水盤にいたスズメ。くちばしの根元が黄色く今年生まれた若鳥。

 

向こうは親鳥。
黒っぽく古びた感じだが、僅か1,2年の違いで貫禄十分になる。
上掲の若鳥や下の手前の若鳥の親かどうかは分からない。

スズメのつがいは春~夏に数回産卵、子育てをするので、年間10羽を超えるヒナ・若鳥を育てる可能性がある。若鳥は今ごろまでに一定数減るが、数の上では親より圧倒的に多数になる。
そのため今頃は、くちばしに黄色味を残す若鳥ばかり目立つが、本日黒々した嘴の親を見て珍しさに少々驚いた。

スズメは1年半~2年余の命を生きるという。一旦成長すれば親子に関係なく、集団の中でそれぞれ一生懸命に生きて厳しい冬を越えるらしい。

 美術館裏手の水田で。
豊穣のお裾分けに浴するスズメ。

集団で田で食餌するスズメたちは庭の樹と行ったり来たりしていた。食事は鳥たちにとって水浴びと同様に無防備な時間でもあるため、捕食者の猛禽に備えて繰り返し樹木に戻るらしい。樹木の無いところでは電線や家屋などを往き来しているようだ。

 

カラスアゲハかと思われます。

 

同じ個体です。
いずれもいい加減なピントでファインダーも見ずに撮りました、お許し下さい。

蝶が来るよう、昨年ブットレアとヒヨドリバナ、それにフジバカマを植えました。ブットレアは3,4ヶ花をつけ、現在一つだけ咲いています。その場所で初めて蝶を見ましたので非常に嬉しかったです。

 

昼過ぎ関田山脈に出ていた積乱雲。
一部で降水し、遠雷も聞こえました。

夜になって近くで雷がゴロゴロと鳴り、風が吹きかなり激しく雨が降りました。

頼りの薬 お声がけ。

2021年8月20日(金曜日)

昨日は退院して二週間目の再診があった。
8時からレントゲン、心電図、採血を受けた後診察。早い時間から各部所が仕事を開始していることに驚いた。

経過は順調だが腎機能に若干問題が残っている。自分を支える大切な臓器なので用心深く守って行きたい。

初めての通院。診察を終えてから、会計までの手順が分からず、帰るまでに手間取ってしまった。

 

一日一回朝食後の薬。
1回分をガチャガチャのケースに取って一気に飲んでいる。
ある時期から少し減るようです。胃に障ることもなく喜んで服用している。

 

間もなく満月の今夕の月。随分明るかった。

精一杯の診療をしているが、何かと皆さんに声を掛けて頂き感謝に堪えない。
本日の患者さんには「お達者になられ、お目出度うございます」と言われた。
昔風の物言いはいいなあ、と思った。

以下は昨日頂いた葉書の冒頭です。

拙ブログ再開まで喜んでいただき、私の方こそ嬉しい限りです。

本日は高校時代の同級生A君夫妻が訪ねてくれたと聞いた。やはりステントが入っているということ。いつも和やかなA君。不謹慎ですが、そんな話も何故か心強いのです。

鵜の池のアイガモ 「Early Autumn(初秋)」 田の雀。

2021年8月19日(木曜日)

少々の蒸し暑さが戻った本日、午後の休養を有り難いと思った。

今夏はチョウトンボを見ていないと思い鵜の池へ行った。

 

 

もうチョウトンボの時期は終わったらしく姿がなかった。
静かな湖面をすいすい渡るアイガモが涼しそうだった。

 

夕刻の四ツ屋浜で美しい入り陽が見られた。

池も海も初秋の趣きが漂っている。今後果たして30何度というような残暑はあるのだろうか。

以下は今ごろがピッタリの「Early Autumn」です。

 


多彩な活躍をしたスタン・ケントン楽団と自らのピアノによる「Early Autumn」。

 


戦前からの大御所ジョー・スタッフォードの「Early Autumn」。

今夏前半の熱暑、後半の低温は稲には良かったと聞きました。

その香ばしい田んぼに群がる雀。
農家の方には悪いのですが、雀には生涯で最も幸福なひとときではないでしょうか。

8月26日(木曜日)から齋藤三郎の一部展示替えを行います。

2021年8月18日(水曜日)

今年度の齋藤三郎(初代陶齋}作品の展示テーマは「齋藤三郎の絵と書」です。
秋に向けて8月26日から一部展示替えを致しますので、掲載してお知らせ致します。

かって他のテーマで展示した作品もありますが、三郎独特と言われる文字が書かれたもの追加し入れ替えました。

 

手付鉢に窓を開けて「客来一果」
縦横12,7×21,5㎝

 

 

辰砂(辰砂)の地に万葉集から一首。
“天雲に近く光りて云々”
縦横13,8×21,2㎝

 

染め付け妙高山文角皿
21,3×21,3㎝12

 

その裏面に深田久弥著「日本百名山」から妙高山の一節。
齋藤三郎は深田久弥と親交がありました。

 

 

まっ赤な灰皿に銀で「福貴長春」の文字。
6,0×9,2×9,2㎝

 

 

過日ご紹介しました「染め付け街道屋どんぶり」

 

 

同じ日に紹介しました「二合半」の看板。
縦横49,5×59,5㎝

 

今春、良寛の詩文がしたためられた陶硯(右)が加わり、文房具一式が全て揃いました。
左手前に筆{筆管)2、筆鞘2 筆架、左奥に硯屏(けんびょう)、右奥に水滴。
陶硯と硯屏の黄彩に青い染め付けの文字がきれいです。

 

硯裏に齋藤三郎の書き付け。
良寛の楷書を手真似して書いたのでしょうか。

 

軽やかに蝶が描かれた染め付けの湯飲み。

 

裏表の蝶の間に花と開の文字が記されています。

 

寒山詩から「忘却来時道」縦横34,5×46,5㎝
すっかり仙境が気に入り、もう来た時の道を忘れてしまった、という意味。
街道屋どんぶりの「道」と字形がよく似ています。
ともに昭和20年代中頃の作品と考えられます。

 

以前にお出ししました「どくだみ文」の湯飲みに「百・花・春」が窓に書かれています。

 

父敬義宛の書簡屏風。
書簡20,0×101,4㎝
地に描かれた秋草の絵も爽やか。

齋藤三郎は色々な言葉を良く知っている人だと、いつも感心しています。
昔の芸術家の常識だったのかもしれません。

8月26日(木曜日)からお出し致します。作品の文様と引き立てあう味わい深い筆をどうかご覧ください。

昨日のF夫妻、名立の雲 私が好きな「Laura(ローラ)」。

2021年8月16日(月曜日)

日によって体調に若干波があり、まだ活動範囲を工夫せざるを得ない。
昨日はF夫妻が見舞いに寄って下さった。樹下美術館開館を心配し作品を援助して戴き普段ゴルフで一緒させていただいている。ほぼ同年の同業でもあり、心こもった同情と励ましを受け、心に沁みた。

夫妻を見送った後、糸魚川に向かった。谷村美術館とフォッサマグナミュージアムに寄った。その昔、谷村美術館は母を連れて何度か来た。溌剌とした仏像が良かったのもあるが、私と一緒というのが良かったのだろう、幸せな顔をしていたのを思い出す。
エヴァ・グリーン。時を経ても新鮮さが維持されている同施設の努力に畏敬を禁じ得なかった。

フォッサマグナミュージアムの化石を含めた鉱物はいつ観ても美しくロマンがある。今回フォッサマグナを見つけたナウマンの列島成立論に異を唱える森鴎外の立場を知り興味深かった。

以下は午後遅くの名立谷浜サービスエリアの空です、

 

はるか水平線上に能登半島が見えた。

 

秋を思わせる爽やかな空。

 

以下の曲「Laura(ローラ)」は1945年の米国映画の主題歌で、私の好きな曲の一つです。
揚げた演奏はいずれも後年のカバーです。

 


モーリス・アルバートの「Laura」。

 


ロシアより愛を込めてを歌ったマット・モンローの「Laura」

 


大御所エラフィッツ・ジェラルドの「Laura」。

その昔、通販でこの映画のDVDを買いました。刑事が被害者とされる女性にすっかり魅了され、捜査が混乱するという軽めのミステリーでした。
映画の娯楽性と主題曲のロマンティックな曲調から、それが終戦の年に作られたとはとても信じられませんでした。

どこかミステリアスで、ほどよい高まりを有した曲は、非常に多くのミュージシャンによって演奏されています。

倒れる1週間ほど前に見た夢 その2 ジムノペディ 夢枕の級友K。 

2021年8月14日(土曜日)

樹下美術館のカフェには「午睡」(120×180㎝)という大きな絵が掛かっている。カフェは小さいので北側の壁一面を占めている。
実は氏の作品に若い女性がピアノと一緒に描かれた「ジムノペディ」や「白昼夢」があった。開館にあたり、それをもとに大きな絵を描いて下さいとお願いした。
ご苦労された絵を巻いて持参され、大島画廊で裏打ちして白い額を付けた。壁に掛けると好評を博したが、後に元上越教育大学の音楽教授だった後藤先生が、画中の譜面をご覧になり、これはサティのジムノペディ一番だと仰ったことを耳にした。

全体の「午睡」。
随所に篠崎氏らしさがちりばめられ、ファンタジー一で杯。

 その譜面。
描き込まれた篠崎氏がさすがなら、読み取った後藤教授もさすがだと思った。

もうひとつジムノペディに話がありました。倉石隆の絵を求め始めたころ、奥様が作品はカフェにでも飾って下されば、と仰いました。そして音楽が掛かるならサティがいいのでは、と仰ったのです。

 

完成した美術館の一角に出来た倉石隆の小振りな展示コーナー。
作品の人物たちにカフェからサティが聞こえてくるかもしれません。

試しにYouTubeからジムノペディをカフェに流すととても合うのです。これを機会にCDを用意し、館内に掛かるようにしたいと思っています。よく似た静かなフレーズが繰り返される曲はとても落ち着き、良い環境音楽でもありましょう。

ところで本日は2回目の夢の記載です。1回目の夢から覚めるとすぐに委細を手帳に記入しました。書き終えると再び夢を見るかも知れないと考え、枕元に手帳を置いて目を閉じました。

 


眠りにいざなわれそうなジムノペディ一番。

するとまた見たのです。かなり鮮明でしたので、目ざめると急いで手帳に書きました。
面白く無いかもしれませんが以下それを載せてみました。

“どなたか地元の文化関係の要人たちと、展覧会を観るため上野に向かって歩いている。道すがらあちこちの街角に魅力的な絵が掛かっていて、それらを撮りながら歩いた。
いつしか皆とはぐれ、御徒町かアメ横ふうな路地に入り、食事屋を探している。小さな店のカウンターに座り、主人と話をする。当夜は祭らしく、周囲は華やいだ祝祭的な雰囲気が漂っている。
すると友人Kが入って来たが、間もなくやって来た酔客と一緒に出て行く。しばらく待ったが帰って来ないのでKを探しに店を出る。路地沿いの店はみな雰囲気が良く、それぞれは一つの大きな屋根に覆われているように思われた。店は明るく、通りから中の賑やかな様子がよく見える。

その一軒でKが他の客と話していたので入店して私も加わった。
皆はコロナでどの会社がダメージを受けたかという話をしていた。私はドイツで生産しているH社の影響が大きいといい、ドイツの物流は東西では無く南北が主流なので余計影響がある、と述べた(実は、私はそのような事を何もしりません)。すると確かに、などと言い皆は頷くが、Kはつまらなそうな顔をして店を出ようとする。私はKに待ち合わせ場所を告げ待っているように話す。

店を出て約束の場所に向かうが、持参しているはずのカメラをどこかに忘れてきている。途中池と芝生がある大きな公園で休んだことを思い出し、そこへ行ってみる。賑わっていた公園の芝生の上にカメラとバッグがあった。急いでそれを手にすると傍らの夫婦が泥棒ではないかと怪訝な顔をしてじろじろと見た。カメラがありほっとして帰りを急いだ。

途中の街中に見上げるように大な寺があり、中から歌声や、カネ太鼓の音が聞こえてくる。真っ黒で古い寺院だが、内部は5階ほどの高さまで巨大な吹き抜けになっている。吹き抜けを囲むそれぞれの階には、祭装束の沢山のグループが詰めている。グループの先頭で白い浴衣を着たリーダーたちが旗を振り、カネや太鼓を鳴らし、その後に若衆が列を作っている。

目をうばわれたのは、子供たちの二つのグループだった。赤い線が入ったおそろいの白いはっぴを着て、吹き抜けのむこうとこちらの回廊で行儀良くしゃがみながら出番を待っていた。写真を撮ろうとするが、なかなか構図が決まらず諦めて寺を出た。

しかし知っているはずの帰り道が分からない。近くの見覚えがある大きな料亭を囲む垣根に沿って進んだ。やがて垣根は行き止まり、そこには垂直な梯子が付いていた。おっかなびっくり伝って降りると見慣れた柿崎の通りに出た。路上でKがケータイをいじりながら、こちらを見ると、にやりと笑って「いったい何処へ行っていたんだよ」と言った。”
Kが柿崎いるなんておかしい、と気づいて目が覚めた。

さて夢にはKが盛んに出て来た。6年間の大学と足かけ8年の医局が一緒、医局のバイトも4年ほど一緒に行った。下宿を訪ねレコードを貸しあいゴルフをし、好みの音楽や女性の話をした。舌が非常に肥え、食べ物に凝り、自分で料理を造り 勉強熱心だった。
後に郷里に帰ると1年一度、主に年末の東京で夫婦一緒に食事をするようになった。途中から実験室が一緒だったN夫婦が加わり、四人は樹下美術館にも訪ねてくれた(食事会のことは何度かブログに書きました)。

私達が70才を迎える頃、その会で“これから80才になるまでの間、普通は半分の人が死ぬぞ”とKが笑いながら言った。おしゃれでロマンチストなのに彼は時にドキッとするようなことを平気で言う。その時、みんなで顔を見合わせ、だれが先になるか話した。するとオレかも知れないとKが言い、少なくとも杉田は最も後だと皆が言った。この手の話では何故か私が最後ということになっていた。

そんなKが私が倒れる1週間ほど前に突然夢枕にたった。かって陽子線治療などという最高度の治療を受けたK。電話をして大丈夫かと尋ねようと思ったが、縁起が悪すぎると考えて止めた。
その後間もなく、当の私が致命傷になりかねない発作を起こして倒れた。夢の中でKは、実は危ないのはオレでは無くてお前なんだぞ、と伝えていたのかなと思った。

退院して三日目に電話をした。電話口の声は前にも増して滑舌良く元気そのものだった。治療後すでに5年は経っているという。件の夢と私の発病を話し、夢を見てあなたを心配したが、実は自分の番だった、と言った。すると最初は笑ったがすぐ絶句した。Nに知らせたらしく、間もなくNから電話がきた。
80直前のいま、Kの言ったことは相当に当たっていると、ぞっとしながら色々振り返っている。

前回と異なり、夢に登場した人物は公園の夫婦以外、ほとんどが男性でした。

 

倒れる1週間ほど前に見た夢 その1。

2021年8月12日(木曜日)

発症して20日目、退院して1週間が経過した。
不思議なことに年令を重ねてからの出来事は何故かすぐに遠く、小さく、軽く感じるようになる。これが4,50代だったらもっと骨身に滲み、深く痛手が刻まれるのではないかと漠然と思う。
恐らく万事鈍感になっているせいにちがいない。このようなことは主観なので、年取って重い病気などをされた方に、貴方はどうですかとお尋ねしてみたい。

本日私より随分若い同業のご夫婦にお会いした。
この間のゴルフは欠席されましたね、と言われ、実は入院していましたと返答すると、エッ本当ですかと驚かれた。
それで7月24日の顛末をお話ししのだが、ほかでも時々同じ場面に遭遇する。そして説明する度に出来事は遠くへ、少しずつ小さく、軽くなっていくような気がする。

年令に関係無く、一般に心というのはそのような面を持つのかも知れない。
悩みや苦しみを抱えた人には少しでも自分のことを話してもらう。繰り返し、ゆっくり深めて広げて聴くということが大事なのは、その過程で傷が小さくなるという事実があるやに想像される。

さて実は倒れる1週間ほど前、鮮明な夢を2回見ました。つまらない話ですが、珍しく手帳に書きとめていましたので、ネタ切れの本日それを書かせてもらいました。

 

以下不鮮明なところも多々ありますが、ほぼ書かれたとおりの内容です。

“母校の病院だろうか、とても古く大きな建物に入って行く。
自分が紹介して糖尿病の治療を始めた人が、紹介の礼を言いたいと既に訪ねて待っているはずだった。その人はふくよかな女性で、小学4年生の担任だった近藤先生のように思われ懐かしい感じがする。部屋の隅で美しい膝掛けをして腰を下ろして座り、他の女性(母のようでもある)と楽しげに談笑している。
私はその人と話したいが二人とも気がついてくれない。するとふと女性と目が合い、こっちへ来てと言われ、近づくのはいいが、女性たちは談笑を止めないため、あきらめて部屋を出て階段を降り廊下を歩いた。

廊下に着物を着た若い女性が立っていて、あのひとたちはいつもああなんです、と言って挨拶した。
傍らの妻が、もう出ましょう、と言い大きな建物を後にする。

出るとすぐ花畑のような場所に幅が10メートルほどある横長の絵看板があった。それはダリの南国風な絵のようであり、オモトと思われる植物が沢山描かれている。妻は何かしらと言い、私はオモトだよ、と言うと、妻はオモトなら花ではなく実ではないかしら、と言い、そう言えばそうだなと思う。花畑にはさんさんとした陽光が射して華やかだった。

そばに平屋の建物があり、入ると明るい館内で植物画の展覧会が開かれている。作品はどれも月並みで、おにぎりをほおばりながら眺めた。すると案の定係りの女性が来て、食べ物はご遠慮ください、と言って容器を差し出した。それは黒い紙を蛇腹式に折りたたみ、金のふち取りをあしらった美しいゴミ袋だった。おにぎりをそれに入れると、女性はだまって去って行った。

何か参考に出来る作品はないかと、観て回るがみな大雑把なものばかり。みると会場の奥の一段高い所に美しい絨毯が敷かれ、派手な衣装をまとった年配の女性があぐらをかいて座っている。
光景はペルシャ風だった。
見ていると突然女性が立ち上がり、まるで若者のように素早く歩き、館内の人と話をしてはまた素早く戻る。動作のあまりの早さにとても驚く。
女性は作品展の会の主宰者のようであり、自身の作品は白いカラーの花が沢山描かれた大作だった。画面一杯の花と輝くような緑の葉が速筆で描かれ、精密画ではなかったが、迫力を感じた。

場面が変わり夕刻の上野駅周辺にいる。
お兄さん寄っていかないか、と近づく人。本を手に手に売っている大勢の人。腹話術のような声をだして小さな子供を操る大道芸人もいた。
雑踏のなかで、私の切符を持っているはずの妻とはぐれてしまい、どうやって連絡しようかと手帖やスマホをいじり、いつものように思案しながら目が覚めた。”

以上長々となりました。
私の夢の最後は忘れものを探す、あるいは人とはぐれて最終電車の切符を買うために、どこかの駅をうろうろするという、情け無いものが多い。挙げ句に途中で夢ではないかとうすうす気がついては目を覚まし、ほっとするというパターンが少なくない。

実際こうして面白くも無い夢を載せるのは、行儀の悪いことなのでしょう。また分析が出来る人なら、私の心理を即時に読み解くにちがいありません。
しかし年令のせいでしょう、何を指されようとさほど気にならなくなりました。ただただ鈍くなってしまっているのです。

それにしましても何故でしょう、夢の主な登場人物は私以外みな女性でした。
実は同夜続けて鮮明な夢を見て、それもまた手帳に書きました。今度の登場人物はみな男性でした。わけても学生時代からの友人Kが現れたり消えたりしたのが不思議でした。
次回よろしければそれを書いてみるつもりです。

病んでこれから 夕暮れの鳥追いと電車 私のオリンピック。

2021年8月9日(月曜日)

本日月曜日は休日だった。
ダンベル運動や歩行を行っているが、一定以上の動作を続けると幾分息が上がるので休みはとても有り難い。また盆休みが近いため、身体を慣らせられるならばと期待している。盆明けには待ちに待った看護師が復帰することも心強い。

出来るなら仕事を続けたいと願っている。
このことで、毎週水曜日午後を休診にしようと考えている。これまでも木曜日午後が休診だったので、週半ばの午後二日を続けて休診にさせて貰えるなら、一週間の流れが穏やかになることが期待される。
皆様にはご迷惑をお掛けすることはとても心苦しい。ただ処置や観察が必要な在宅患者さんがいる場合、出来れば午前中に伺って用件を満たしたい。

もう引退して好きな事をやったら、と勧めてくれる人もいる。
これまで小さな美術館と庭を営みブログを書き、週一短時間老人施設に出る。そもそも診療時間の実動はフルの日で一日5時間程度、精々25人前後を診ているだけなので、さほど負担を感じず、ある意味楽しんでやってきた。

ただこのたびはコロナ、特に昨年末年始からのPCRとワクチンの受け入れと実施がストレスだった。申請と委託の.電子手続きで心労し、実施に進む過程で一時手詰まりを感じ、いざ実施(特にワクチン)すると申し込みが殺到、オーバーワークに移行した。自院のほかに施設と集団接種は問診医としても参加していた。
悪いことにストレスも慣れる。
後半ではオーバーワークにある種充実感を覚えるに至り、これが悪かった。ついに身体が強制的な停止命令を下して私を倒したと考えている。

回復すればそれで済む話ではない。第一が年令、さらに疾病が残したダメージで原状回復はもう期待できない。一定の生活縮小をはかり、くれぐれも妻には健康でいてもらいたいと願っている。

さて以下は今夕の鳥追い凧とほくほく線上り電車です。

 

 

入院中、YouTubeで「銀河鉄道の夜」の朗読を聴きました。
ここでも「家路」の曲が出てくるのです。

台風が低気圧に変わり前線が通過した模様で、いっとき猛烈な風が吹きました。

昨日は五輪のことを少し書きました。申し分けありませんが、叫び格闘し息を切らす選手を私の心臓が歓迎しませんでした。それで入院中、競技はほとんど見ませんでした。

ただボクシングの入江聖奈選手の誠に潔く朗らかなインタビューと、密が無く静かに進行するゴルフ(女子ゴルフ)を時々見ていました。

五輪が終わる 意味不明な言葉 本日の近隣。

2021年8月8日(日曜日)

どれだけ私達の幸福になったのか分からないが、オリンピックが終わった。
このような行事は15年20年後にはかなり形を変えているのではないだろうか。

このたびとても奇異に感じたのは以下の一件だった。
コロナの渦中、オリンピックの延期はOKで中止は反日というのが分からなかった。そもそも耳慣れない反日というのが分からない。
前首相ともあろう要人が意味が分からない言葉を以て、今日やってはいけない人間の分断基準めいたものとした事に、ぞっとして気持ち悪くなった。

それにしてもこれまで莫大な経費が掛かったと思うが、こと感染による犠牲者が抑えられるよう祈るばかりだ。

本日昼の潟川。
尾神岳よりで夏雲が壮大にはじけていました。

今夕の四ツ屋浜。
遠くの台風が影響しているのでしょうか、雲がきれいでした。

心筋梗塞に襲われたのは美しい晩だった。

2021年8月7日(土曜日)

去る7月24日。突然心筋梗塞に襲われ救急搬送され、閉塞した冠動脈の拡張手術を受け、12日経って昨日退院した。
当初は低下したままの血圧、深刻な不整脈と腎・肝に波及した異常。ペースメーカーや臨時透析が考慮されたが、治療の拡大が図られいずれも回避された。
医療チームの粘り強い総合力によって助けられ、いくら感謝しても足りない。

疾患は狭心痛や胸の違和感などの予兆がよくみられる。しかし私は以下のように突然だった。

去る7月24日夕刻、二組のご夫婦と上下浜はマリンホテルハマナスの芝生のビアガーデンに集った。この1年、中のお二人が手術を受けられ無事回復されたこと、高齢者のコロナワクチン接種が大方終わったことなどが集合理由といえば理由。是非という特別な訳でも無く、久し振りに食事をという趣だった。

 

芝生の丘で暮れる海を見る。

 

日没して空の色が変わる。

 

気の置けない話に潮風。

 

あまり飲めない私は途中でオレンジジュースに変えた。
東の山のあかね雲から大きな満月が上り、夢のような時間になった。

 

当夜最後の写真。
なかなかピントが合わなかった。

時は過ぎ、迎えの車が来るまで終戦後、満州からの引き揚げの話になった。私を入れて引き揚げ者が二人いて、私も話した。
奥地の奉天から出港地、青島(チンタオ)までトラックや客車、貨車による不安な移動と受けた襲撃。集結した青島の雨のテント生活と桶による配食などを話した。
話ながら、口が達者で何事もやる気はあったが、実際はとても体が弱かったと親から聞いた幼い自分が浮かんだ。

青島の話のあたりから、両肩甲骨の間に強い凝りのような痛みが出現し、同時に両方の顎関節に固さと痛みを感じ始めた。すると皆さんの声がどんどん小さくなり急に視野が狭くなった。

記憶はそこまでで、気がつくと妻に抱えられ芝生に横たわっていた。
あなた、あなた!と耳元で妻が叫んでいる。
突然立ち上がると少し歩き、崩れるように倒れたという。

美しい夜が暗転する。
救急車も来た。
他のお客さんにも迷惑を掛けているのが分かる。
急性のアルコール中毒だから大丈夫、家に帰る、と言った。大して飲んでいないけれど本当にそう思った。
だが救急隊によってさっさと車に乗せられ車は走り出した。

終始真っ青な顔に冷や汗を浮かべていたらしい。
車中脈を触れてみるが分からない。
寒さで体ががくがくする。次ぎに意識を失ったらそのまま死亡するかもしれない、と思った。
自分から搬送先を口にし隊員にお願いした。

病院に着くと緊急検査で直ちに急性冠不全症候群(私の場合心筋梗塞)が指摘され、循環器内科のチームが呼ばれた。
心臓が頼りなげに奇妙な鼓動を打っている。
身体の全てが受け身にシフトし、最低ラインで必死に私を守ろうとしているように感じられた。
調律が完全房室ブロックと聞いて、悪いと思った。

チームが到着し、導尿後カテーテルが留置され、オムツがあてがわれた。素早く剃毛され、そけい部と手首の動脈からカテーテルやチューブ類が挿入され、ペースメーカの仕度もされた。始まったカテーテル手術(PCI)は日をまたいだ。

治療後に運ばれた集中治療室の時間は不思議だった。四角い壁に囲まれ部屋の高い所に可愛く丸い時計が掛かっている。朝、薬を飲んで眠り、昼かと思うとまだ8時半だったり、昼に眠って目ざめて夕方かと思えば2時前なのだ。極めてゆっくり、異次元的な時間が流れている。
これはこどもの時間ではないのか。現に自分はオムツを着け便器で排便をしている。

2日間の絶食のあと初めて食事が出た。わずかに味付けされた野菜と小さな2個のおにぎり。野菜をとても美味しいと感じた。黙々と噛んでいると脳裡にドボルザークの「家路」が響いてきた。
すると倒れた海辺で話した満州の引き揚げがまた蘇る。
母がこしらえたリュックを背負い、前日まで張り切っていたのに、本番当日の私は早々に歩けなくなった。父が弟のリュックを、元気な弟が私のを、代わって自分が背負ったのはホーローのオマルだったという。家路のメロディに包まれながら不意に涙がこぼれた。

以上が発症と治療および集中治療室の概要でした。

本日退院致しました。

2021年8月5日(木曜日)

去る24日に入院し13日目の本日、午前に無事退院致しました。
重篤で合併症が多い心筋梗塞。
当初は血圧が上昇せず不整脈を生じ、かつ幾つか血液に懸念材料がありましたが、循環器内科チームの粘り強く慎重な治療のお蔭でいずれも克服され、当初の予想よりも早く退院になりました。

院長はじめ主治医医師、看護師、助手の皆様、配膳やお掃除の皆様、誠に有り難うございました。常に適切で親切、本当に有り難うございました。

以下入院中の写真です。

 

カテーテル抜去後の止血のため右前腕を圧迫固定。
これが結構痛い(7月26日)。

左前腕の点滴。
{7月27日)

 

集中治療室から一般病床に移ってきた。
トイレは左の自動ポンプ点滴台を連れて移動する。
(7月30日)

 

 ほっと一息。
(8月1日)

 

退院日が決まってシーツ交換。
とても良い気持(8月3日)。

 

病室の5階を隅々歩いてみた。中々良い眺め。

 

退院前日の昼食。米飯120グラム、1回総カロリ400キロ㎈。
{8月4日)

さて本日退院日。
入院も初めてなら退院も初めて。どうして良いものやら、ただ早く起きて靴を履き、ポロシャツとズボンに着替え妻の迎えを待ちました。

久し振りに車のハンドルを握り、ソロソロと帰って来ました。
涼しかった病院に比べ、外がこんなに暑いとは。

 

 昼少し前美術館に寄り、昼食にミルク紅茶とホットサンドを半人前食べました。

 

入院中の猛暑続き。少々やつれた芝生に撒水しました。

それから辺りの田んぼを一回り。

 

鳥追いのカイトが気持ち良くそよいでいる。
退院を祝ってくれているように思った。

 

早い米は稲穂をビッシリ付け黄変し始めている。

退院してまずは美術館そして田んぼへ。
猛暑のなか、みな静かで気持が安らぎ、なにか半分あの世にいる感じがしていた。

短い午睡の後「縄床」さんへ散髪に行った。
聞けば、
“先生はゴルフの後一杯飲んで倒れた”という風に伝わっているらしい。
倒れた7月24日前後のことは後ほど書かせて下さい。

「多くの皆様にご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。また身に余るご心配を頂き深く感謝いたしております。」

ご報告 2021年8月2日

2021年8月2日(月曜日)

私、樹下美術館館長は、去る7月24日夜、急性心筋梗塞を発症し、現在病院医療を受けています。

病院スタッフ皆様の懸命なご努力と高度な医療によりまして無事峠を越え、リハビリに入ったところです。
皆様にご心配とご迷惑をお掛けしましたこと、誠に申し訳なく思います。

おかげさまで今週いっぱいリハビリののち退院のスケジュールが立ちました。
それに沿えるよう精一杯療養に専念するつもりです。

皆様のお顔を思い浮かべて励みにさせていただいています。

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