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本日第21回卯の花音楽祭 被爆ピアノ。

2025年7月21日(月曜日)

本日海の日の祝日、午後上越市頸城区の希望館で第21回卯の花音楽祭が午後1時30分より行われた。日本の近代教育音楽の基礎を築いた「夏は来ぬ」の作曲者で上越市の偉人小山作之助。その人を讃えて始まった音楽祭は毎年今ごろ開催される。
作之助の顕彰をきっかけにして地域の音楽活動を維持し発表、そして聴くことは幸福であり貴重なことだと思う。

会場の希望館。

プログラム。

休憩を入れて約2時間半、以前に比べ出演団体が整理され、疲れず聴けるようになった。吉川区、頸城区、大潟区、地域合同の卯の花合唱団の各コーラス、大潟小学校および中学校、そしてゲストが参加した。
ゲストはソプラノ平原和泉さん、ピアニスト岩舟杏子さん、そして異彩なことにピアノは広島で被爆した楽器「被爆ピアノ」だった。

それぞれ熱演され、個性や方向のバリエーションが明瞭で楽しかった。大潟中学校吹奏楽部は「ラ・レーヌ・ヴィクトリア」を演奏した。

演奏前のチューニング時間です。

ヴィクトリア女王の輝かしい生涯を描いた曲ということ。静謐から始まり、隆盛した文化、商工業の発展など様々な偉業が織り込まれ、高らかに歌って終わった。途中インド風の旋律が聞こえたのは東インド会社の大貿易が表現されていたのかもしれない。訓練されたアンサンブル、劇的な打楽器が素晴らしかった。
優れた指導者に恵まれ部員が維持(あるいは増えているかも?)活躍されているのは頼もしかった。

ゲストの部で、広島で被爆したピアノを往時に近い状態で管理保存し、各地でコンサートをされている調律師・矢川光則さんがピアノとともに紹介された。

このピアノを上越市で活躍されている岩船杏子さんが伴奏し広島市出身で大潟区在住の平原和泉(ソプラノ)さんが「夏は来ぬ」、シューベルトの「アヴェマリア」、「一本の鉛筆」、「いのちの歌」を歌われた。

被爆した100才近くのピアノはある種チェンバロのような優しい音になっていた。それでも「アヴェマリア」の低音は美しくも重厚に響き、祈りの歌はピアノのかっての持ち主や被爆した広島市民、そして私達の心を慰めるようだった。

新潟市からお出での上越教育大学名誉教授の後藤丹先生と今年もお隣同士の席。本日演奏の上越市民の歌「このふるさとを」、「靑田川のうた」は先生の作曲。卯の花合唱団の「夏は来ぬ」は先生の名編曲。会場で紹介され先生はお立ちになり、元気に会釈され嬉しかった。

ゑしんの里茶会が終わった。

2025年7月14日(月曜日)

昨日懸案の(不安の)席持ち、ゑしんの里茶会が終了しました。一席25人を7席行う茶会。大寄せの席持ちから長く遠ざかっていましたが、今更ながら茶会(お茶)は私にとっては厳しい修行の場だったと反省仕切りです。

昨日の搬入と会場下見、予行演習を終え本番の本日は早朝起床。着物に着替え慌ただしく出発。会場ではお水屋の仕度、花の整え、釜の火加減などが一斉に始まっていました。

催事ホールの楽屋のような場所が水屋。そんな環境でも場数を踏まれた宗香先生お社中が仕度を終え、始まりに向けて着々と準備が進みました。

第一席が始まり皆さまの反応に手応えを感じました。しかるにお点前をしながらお客様の対応は難しく、後のお点前を宗香社中の方々にお助け頂き、亭主として点前座脇に座り専らお話をさせて頂きました。

現代もののお道具が色々と混じる席。一番喜んでいたのはお道具ではなかったでしょうか。

本日は懐かしいギンヤンマが沢山飛び交いキセキレイが窓際までやってきました。良い環境の会場です。

雲間から妙高山。
用いた淡々齋の茶杓の銘が「千峰」でした。

待合に掛けた『梁塵秘抄」の冒頭。昭和の終わり頃新潟市で求めた高橋玄洋さんの掛け軸。当時梁塵秘抄はちょっとしたブームだったような気がします。「仏はつねにいませども云々」も「遊びをせんとや生まれけむ云々」ともによく目にしていました。

直江津のお茶人A先生に懐かしい、良い軸でした、と褒めて頂きました。

本席の「独聴松風」は坐忘斎お家元の筆。
香合は懐かしい当県・新井野正直さんの
「かわせみ香合」。

このたび茶会の肝は水屋であることをあらためて実感させられました。9人が組んで、25人前後のお客様のために夏菓子を三つずつ6~7個の器に盛り次々に運び出す。大勢のお客さまのために一斉に茶碗を洗い湯を通し、茶を盛る、湯を注ぐ、茶筅を振って点てる、点てた茶を運ぶ。本日、これが7回繰り返されました。

ほかにお客様の移動を観察したり、私以外だれ一人ぼーっとしている人は居ません。進行に精出しながら次の仕事も仕度する。万事心得たベテランさえここに貼り付いたままです。さらにお点前が回ってくると若手が飛び出して行く。一体何という動きでしょう、久し振りの大寄せの水屋は話に聞く寺修行を目の当たりにするようでした。

お社中の心こもったお点前も大変参考になりました。どれだけ活かせるか不明ですが兎に角勉強になったのです。

宗香先生、お社中の皆さま、本当に有り難うございました。
また茶会の亭主冥利とは自らの数々の反省にほかならないようです。

最後に別席の長野からお運びの田中祐翠先生のお席に座りました。ゑしんの里に相応しい野点趣向でした。
先生のご健康な姿、お詠みになった短歌、仏具をあしらった重厚ななお道具に感心し、きびきびと進められる複雑なお点前やお運びをされたお弟子さんの様子も心に残りました。

このところもたつく私の周辺で絶えず動き回った妻にあらためて感謝を禁じ得ません。
最後に暑い日なかお越しのお客様がた、本当に有り難うございました。

これからが夏本番、日をまたいでしまいました。

言い訳出来ないお茶の点前 懐かしい風 となりのトトロ。 

2025年7月9日(水曜日)

本日休館日の水曜日。午後いっとき美術館で来たる日曜日の薄茶点前の稽古をした。この度は御園棚(みそのだな)を使ってする立礼。あらためて茶室に座る点前と違うように感じる。

30年も経つだろうか、渡辺宗好先生の許に通っていた時に行われた催事ではなん無く出来たのに、今日あちこちでつまづく。仕方が無い、遠ざかりや年のせいもあろう。

だがいかなる訳があっても人前での点前は心だけでは通用しない。有り難い試練と考えて残りの日を稽古に励みたいと思う。


「風の通り道」(となりのトトロから)
 STUDIO GHIBLI INC.
Compose: Joe Hisaishi Arranger: Maho Fukami

7月の庭のひと隅。

本日午後気温は32度前後あったが北風が吹いていた。そのためムッとする暑さではなくどこか子ども時代の夏に似ていると感じられ懐かしかった。

本日の蝶とカエルと雲そしてピアノ。

2025年6月29日(日曜日)

昨日は頑張って「お乳盲腸」を書きましたので、本日は簡単に夕刻の庭の蝶とアオガエルそして四ツ屋浜の雲の写真だけにしました。

長くじっとしていキアゲハ。
その後猛烈に羽ばたくと勢いよく舞い上がりました。

 

オカトラノオの上のアオガエル。

 

四ツ屋浜の夕雲。飛行機雲が二筋。
穏やかな音楽のようでした。

梅雨の中休みなのか過ごしやすかった土曜日。過日のテレビ放映の影響でしょうか、若い方たちや新潟方面からのお客様が見えられました。そろそろかなと思っていた同級生U君夫妻も顔を見せてくれました。


「人生のメリーゴーランド」

皆さま、有り難うございました。本日は6月らしい良い空でした。

小津安二郎監督映画「麦秋」を観て。

2025年6月12日(木曜日)

さる6月9日、小津安二郎監督、1949年(昭和24年発)の作品「晩秋」の感想を記しました。太平洋戦争が終わって5年目の映画でしたが、このたびの「麦秋」の舞台は7年目の同じ鎌倉です。
ほぼ東京圏の文化都市、鎌倉の映画に観る生活水準の高さにはさらに驚かされ、かつまだ敗戦の影が垣間見られていました。

以下皆さん御存知の方も多いと思いますがあらすじを記しました。

主人公紀子は28才の独身OLで、二人のこどもがいる兄康一夫婦と父母の三世代7人で暮らしている。周囲と家族は紀子の未婚を心配している。

「晩春」と同じ北鎌倉駅看板。

康一は東京の大学病院へ通う勤務医、紀子は都内商社で専務の秘書をしている。ある日専務から条件の良い見合い話を持ちかけられる。

都内で友人達とお茶をする紀子。未婚、結婚組に別れてどちらが良いかで話は尽きない。壁の絵が当時よくあったモダニズム。お茶を飲むのに皿も手に取りみな上流。

日本古来の古風な生活感と進む復興。映画は海外で観られることも強く意識していると感じられた。

康一たち家族は見合いに対してはっきりしない紀子にいらだつ。ある日電車模型が欲しい二人のこどもは、康一が買って帰ったものが全く違っていたので父をなじる。康一が折檻すると二人は家を飛び出した。

家を出たこどもが歩く海岸道路。人っ子一人見えず向こうに江ノ島が見える。戦争で供出された鉄柵が無いままの石柱が痛々しい。

そんな折、康一の部下である医師・矢部に秋田の病院への移動が決まる。もとから家同士が親しかった矢部には先立たれた妻との間に幼いこどもがいた。矢部は戦争に行ったまま消息不明になっている紀子の兄と同級生だった。

矢部の秋田行きに餞別を持参した折、矢部の母は秋田行きを嘆き、紀子に“貴方のような人がお嫁さんなら良いのに”と漏らす。この言葉に紀子は突然“私で良かったら”と言う。

紀子の返事を喜ぶ矢部の母。

友人に矢部との話を打ち明ける。
向こうに淡島千景、こちらは原節子。

矢部との急な縁談に波立つ一家。
軽率だと言って兄が激しく叱る。

兄嫁が紀子の気持ちを確かめるべく二人で浜辺を歩く。

紀子の決心は固く、矢部は子持ちで40才だが一人でフラフラしている男性よりも信頼出来る、秋田の生活にも耐えると言う。

紀子の気持が家族に伝わり一先ず皆は受け入れる。これを機に父夫婦は郷里の奈良県大和に引っ込み、兄は開業、紀子は秋田へ移り家族の形ががらりと変わることになる。

紀子は受け入れた家族への感謝とバラバラになる一家を想い嗚咽をもらす。

大和へ帰った両親は“みな離ればなれになったが私達は良い方だ、欲を言ったら切りが無い”とつぶやく。

麦秋の大和路を花嫁行列が行く。
夫婦は“どんな処へ嫁ぐのだろうね”と言う。

さて映画はNHK「尋ね人の時間」が放送されていた時代でした。人物たちはその話をします。実際出兵後、行く経が分からない紀子の兄が物語に影を落としていることが伺われます。
当時私は小学4年生でしたが、どこへ行っても夕方になるとこの放送が聞えてきました。戦争で行く経不明になった人を探す定時番組でしたが、明瞭な音声が印象的でした。

「晩春」では自らの結婚で取り残される最愛の父を気遣い、「麦秋」は一つ屋根の下に住んだ家族の分散に責任を感じる。いずれもも当時の濃密な家族関係をひたすら写し出していました。

昭和21年3月、父母と私達こども四人は満州から佐世保に引き揚げました。ところが当時新潟の実家は祖母のほか疎開と出産で12人もの叔父伯母従兄弟が住んだり出入りしていました。そこへ私達が加わると18人!です。
佐世保上陸後、佐賀の母の家に一旦身を寄せた私達でしたが、父は実家のてんやわんやを嫌って中々帰ろうとしなかったと聞きました。当然ですが同じ時代でも家ごとに事情は様々ですね。

2018年5月、熊本で老健施設を伴う開業をしている先輩へ地震見舞いに米を送ったことが縁で九州旅行をしました。以下の写真はその帰路、車中から見た佐賀県は母の実家近くの麦秋です。

生前母が言っていた通りで、
五月の実りは不思議な眺めでした。

この映画で最も滲みた言葉は、大和へ帰った父が呟く“欲を言ったらきりが無い”です。年取ることは多くを諦めたり、要点を絞ることになりますので余計心に響きました。

劇中、当時ならではの相づちや早口に過ぎた昔を感じました。

「晩春」の感想がとても長くなりましたので、このたびは短くなるよう努力しました。しかしまだ長くて申し分けありませんでした。
両映画のカットはいずれもYouTubeのカラー版「晩春」と「麦秋」のスクリーンショットでした。アップ主さま、本当にお世話になり有り難うございました。

小津安二郎監督映画「晩春」を観て。

2025年6月9日(月曜日)

本日はブログをサボっていた間に見た二つの映画「麦秋」と『晩春」のうち晩春のあれこれを記したいと思います。
2019年年末と2024年2月に鎌倉を訪れた私には舞台がそこというだけで興味津々でした。というのも撮影が昭和24年と26年どきということで、私は小学校二年生、および4年生のころです。
一文無しの引き揚げ医師家族はひとまず最貧を越えたとはいえまだ貧しさを引きずっていました。映画でみられる文化都市鎌倉の生活と人はどんなだったかは非常に関心がありました。

最初のショット、右から書かれた北鎌倉の駅看板。
2019年の旅行はこの駅から帰った。
駅看板は丁寧に保存展示されているそう。

まずお茶会場面(裏千家流に見える)。
この時代に着物を着てお茶会など
当時知るよしも無かった。

原稿を書く主人公・紀子の父周吉と
手伝う出版社の服部。
周吉は妻を失い独り身。

父は娘の紀子を「オイッ!オイッ!紀子!お茶!」という物言いで用事を頼むが、未婚の娘紀子はそんな父を支えるのが生きがい。目下父の悩みは年頃を過ぎようとする紀子の結婚のこと。

ある晴れた日服部と紀子がサイクリングに出かける。

素朴な七里ヶ浜付近

茅ヶ崎まで、途中にコカ・コーラの看板もある。
付近に米軍の演習地があったそうです。

今の湘南一帯は一大観光地だが、このサイクリングでは人っ子一人居ない。
余談ですが、途中砂浜で休憩した二人は、焼きもち焼き(嫉妬)について話をする。その時切りそこなってつながるタクアンと嫉妬を関連づけて笑いあう。意味が分からなかったので調べてみた。
すると“焼きもち焼きの人が切るタクアンは皮でつながる“などがあった、焼きもちで頭がいっぱいだと料理の手許が疎かになるらしい。嫉妬からいきなりタクアンの話題になったので、フィルムが切れているのかと思った。

さて服部とサイクリングに行った紀子の事を聞いた父は、二人の関係を尋ねるが、何にも無い、第一彼には婚約者がいると、紀子は笑う。

ある日東京に買い物に出て、
銀座で叔父と出会う。
まるで洋画のような場面。

一人暮らしの叔父から再婚したと聞いて
紀子は「不潔」と言ってからかう。

独身を続ける紀子を心配する叔母・まさは東京で働く四国の名家の次男・佐竹との見合いを強く勧める。紀子は堅く断り、私は父を支えるのが幸せと言い切る。しかしその父には招来を共にしたい女性がいるようでもあり、紀子が執拗に問い詰めると最後に「うん」といい、紀子は不機嫌になる。

ある日父周吉は叔母まさと鶴岡八幡宮へ参拝に行く。この間紀子はいやいやながら見合いをしている。まさはそのことが気が気でならない。

二人の宮参り中、まさがサイフを拾う。
周吉はすぐ届けろというが、
縁起が良いから後でという。

上掲の写真は観光客などの賑やかな姿がありません。撮影で止めているのでしょうか、余りの静けさに驚かされます。

 

お見合いの話を承諾したと告げる紀子に、
結婚は甘くは無い、よく考えろと諭す友人のアヤ。
アヤは離婚経験者。

アヤの家には籐いすなど上等な家具があり東郷青児の絵画が飾られ、美味しそうな自家製ケーキが振る舞われる。大きなケーキなど当時夢の又夢。

 

紀子の結婚承諾に叔母・まさは大喜びする。
父が直接紀子に念を押すと「はい」と頷く。
言うまでもなく素晴らしい杉村春子。

紀子の結婚話がきまり、父娘と叔父夫婦ら5人は京都旅行に出かける。

清水寺や竜安寺をを楽しむ。

最後の親子旅行を終えた二人は帰り支度しながら楽しかったと話し合う。まだ父に心を残している娘は本当はお父さんが好き、お父さんとずっと一緒に居たいしこのままが幸せと話す。
すると父は、それは違う、私はもう56であとは無いがお前たちはこれからだ。結婚は初めから幸せではないかもしれない、すぐに幸せになれる考えはむしろ間違っている。
幸せは待っているものではなく新しい夫婦が新しく作り出すものだ。一年先か2年かかるか、10年先かその時はじめて本当の幸せがあり、その時本当の夫婦になれる。
お前の母も最初から幸せでは無かった、長い間には色々なこことがあり、台所の隅で泣いているのを何度も見た。お母さんはよく辛抱してくれた、お互いに信頼と愛情を持つんだ。お前が私に持ってくれたような温かい心を今度は佐竹君に持つんだ。そこにお前の新たな幸せが生まれてくると、一気に諭す。

最後に、きっとお前なら佐竹君と幸せになれる、そしてこんな話しをしたことを思い出す時がくると言うと、紀子は笑顔を見せて、心配かけてすみませんと誤る。

嫁ぐ日。
長い間お世話になりました。
いい奥さんになるんだよ。

婚礼が済み寿司屋でアヤと飲む周吉。
この場面の月丘夢路は素敵。

飲みながら父は、私に決めた人がいると言ったのは、紀子に結婚を承諾させるための一世一代の嘘だったと明かす。聞いたアヤは、叔父さんにはいいところがあるわと言って周吉のおでこキスをする。

結婚式を終え誰もいない家に帰り
リンゴの皮をむく周吉。

全てが終わり一人家に帰った周吉が傍らのリンゴを手に取りむき始める。剥きながら突然手が止まり、映画が終わる。この場面で監督は笠に慟哭を示唆したようだが、笠は私には出来ないと断り、黙ったままの形で終わりになったという。

さて感想は色々ありました。映画が完成したのは1949年(昭和24年)、私は小学2年生でした。
その第一は前に書きましたが今と全く異なる鎌倉の静けさです。ロケのため人止めをしていたかもしれませんが、それにしてもです。

2019年暮れの鎌倉駅。

同じく鶴岡八幡宮。

 

同じく市内。
すでに外国人もいっぱい。

第二に結婚観や親子関係の相違です。まだ戦前の意識、習慣が濃く残っていたようで、父親がおい!と娘を呼びつけ、結婚は見合い第一。しかし家柄や出来の良い次男がもてはやされることなどは、今でもありそうです。それにしても婚礼間近に親子でしんみり語り合う場面などは夢物語として写りましたし、父はとても良い話をしています。

第三に結婚話は当人同士でなく、家族や友人など多くの人が強い関心を寄せ、意見を言うことです。このようなことは現在どんな風なのでしょう。

第四に戦後4年目、映画の喫茶店、寿司屋、小料理屋はとても上等です。当時こどもの私は直江津の「くさのや」、髙田の「いづもや」はあこがれでした。

第五は当持から鎌倉は東京との行き交いが便利で、通勤や買い物など一部生活圏を共にしていたことをあらためて認識しました。

第六は俳優達で、和やかに振る舞う原節子が見せる機嫌、不機嫌、怒りはシーンごとの雰囲気を象徴的に支配するほど秀逸。杉村春子の素晴らしさが物語に生命を与えていました。

さて皆で賢いふり、分かったふりをして事が進む現在。比べて何事もゆっくり進んでいた昔のほうが経験や考える時間が今よりもあり、人生の齟齬はむしろ少なかったかも知れないとまで思いました。現在人間は本当に頭良く賢くなっているのでしょうか?

次回は同じ監督で2年後完成の「麦秋」にしたいと思います。

とんでもなく長くなりました。

「名探偵ポアロ」のアール・デコ。

2025年6月6日(金曜日)

ようやく暑くなってきました。
寒がりの私も本日は半袖、しかし白衣はまだ長袖でした。年のせいもありますが、これまでのところ特に朝夕の寒さは多くの方が感じられたのではないでしょうか。

今後は30度に届きそうなお天気模様ですが、テレビは梅雨が早そうだとも伝えていますね。私の好きな6月とは少し様子が違うようです。

さてなか4日も空けてしまったブログ。過日麦畑を取り上げ映画「麦秋」のことをコメントしました。そこで映画がYouTubeにあれば観てみたいと記しました。ためしに検索しますとありました。
初めて観た作品でしたが色々興味深かったため、同じ小津安二郎監督作品で時代が近い「晩春」もありましたので観てみました。それをブログに載せようと考えたのですが、撮影地が双方とも鎌倉、よく似た演出や撮影法、ストーリーも何処か似通っていて、年のせいでしょう、頭の中で作品が行ったり来たりしてまごつきました。

本日場面のスクリーンショットがまとまりましたので出来れば明日でも「晩春」を載せてみようと思っています。

本日はこのところBSで観られる「名探偵ポアロ」から、場面中目にしたアール・デコ風の調度品をお出ししてみました。1930年代を主な時代設定としているようですからドラマはアールデコ様式が流行した時代のど真ん中。テレビを観るたびにそれらしい作りやフォルムを探して楽しんでいる次第です。

以下テレビのショットですが、自宅のはあまり高級なテレビでないため画像は粗いのですが、前回の放映は特にそれらしい品が多く見られましたので撮ってみました。宜しければどうかご覧下さい。

スタンド。

 

手鏡。

 

置物。

 

手すり。
ああ美しいアール・デコ。

 

壁飾りの六角フレーム。
右側のジグザク照明も。

 

衝立でしょうか、
反射してますが素晴らしいアール・デコ。

 

いつものポアロさんの事務所の棚。
半円のあしらいが気になります。

以上場面隅っこの切り取りと古いテレビのため写真が粗くて真に申し分けありません。
1930年前後のおよそ20数年にわたり流行した(ある種熱狂的に)アール・デコ。舟、飛行機、自動車、ビル、時計、アクセサリー、食器、髪型、服装、ガラス、調度品etc。円と直線、シンメトリー、波形、鋭角線などが意識された独特のデザインです。
どういう訳か私はこれが好きで、アールデコを目にすると醒醒します。日本にも我が母校、昭和大学や山の上ホテルなどアール・デコ調の建物がありましたが、全館アール・デコは大阪の高島屋デパートだそうです。デパートは近時、新改築されましたが保存的見地で行われたようなので是非観たいと考えています。

そのようなわけで夕食時間になると「ポアロ」を楽しんでいる次第です。それにしましても制作スタッフのこだわりは乗り物からして凄いですね。苦労もされているlことでしょうが、現場は楽しいのではないでしょうか、羨ましい限りです。

近いうちに初めて観た映画「晩春」と「麦秋」を載せてみたいと思っています。

フカミ美術主催、須坂市のお茶会へ。

2025年6月1日(日曜日)

本日6月1日、当地はポツポツ降り私が好きな清々しい6月の空ではなかった。
そんな本日我が県のお隣、北長野は須坂市で上越市のフカミ美術主催「緑陰茶会」があった。10時20分からの席に伺うべく車で髙田インターから信越道で向かった。

濃茶席に続いて薄茶席に伺った。お濃茶席(井上宗皋先生)は普願寺、お薄席(最上宗裕先生)は田中本家博物館だった。お互いの会場は隣り合っている。

主催「フカミ美術」のパンフレット。

 

普願寺の参道。

 

田中本家博物館入り口。

濃茶席の待合に掛かった「月にほととぎす」の絵、薄茶席の「瓢絵賛」とも時節や禅味が清々しい一幅だった。
本席の不味公および大徳寺大順和尚筆の掛け軸は難解だったが、ご亭主の説明により心に響いた。

お道具類の趣向や由緒に席主さんのもてなしの気持がこもり美味しいお茶を飲むことができた。両席がともに富士釜だったのもどこかで席主さん同士の心が通い合ったものと思われ心温まった。

以下はお濃茶席で拝見した床のあしらい。

お濃茶席の床。

不味公の筆による軸「無位真人出入面門」は臨済録からの出典ということ、難しい言葉だった。
“人間(自我)はただの肉だが、その中に真の人(仏)がいて様々な経験によってはじめて成長あるいは仏に近づく”という意味らしい。
未熟な自我(肉切れ)のまま生きることの愚かしさを戒めているのではないかと思われ、身につまされる。

二席を回ると早くもお昼になり、きれいで美味しいお弁当をほおばった。

点心(お昼弁当)席から見た庭。

田中本家博物館行きは三回目になった。館の流れは山国信州らしく淀みがなく澄んだ水音で心が洗われる。
高速道路を使って一時間少々の須坂市。しかし蔵通りの景観、路傍の流れ、郊外のリンゴ畑や葡萄畑の果実園は旅情が漂い、訪ねるたびに来て良かったと実感する。

出かける時はぽつぽつと降り県境ではかなり濃い霧に見舞われた。しかし帰りはそれも晴れ、清々しい信州行きになった。

小林古径記念美術館での呈茶 蘇った小山作之助のひ孫、故中島幸子さんのヴァイオリン。

2025年5月25日(日曜日)

昨日お知らせした小林古径記念美術館の古径邸画室に於ける呈茶が無事終了しました。小生の話後、お運びによる二席の呈茶は両席とも同じ様にお入り頂き大変喜んでいます。

茶会でレコードを掛けるのは知る限り初めて。どんな結果になるのか想像が付きませんでした。しかしお聞きした限り概ねご好評を頂きました。
ご家族でクラシック畑に関係され、オーケストラでチェロを弾く方がおられるお客様からはとても感動した、と直接耳にいたしました。
また一席目は呈茶時にレコードを切りましたが二席目ではそのまま掛け続けて、と仰って頂き最後まで皆さまと聴きました。

小山作之助の亡きひこ孫、大潟区生まれザルツブルグに渡った中島幸子さんのレコード。凱旋公演における東京フィルとのヴァイオリンコンチェルトはモーツアルト3番でした。演奏は力強くも爽やかに歌い、45年前の幸子さんが生き生きと蘇るようでした。

帰路作之助の「夏は来ぬ」を口ずさみながら田植えが始まった水田の道を走りました。小雨が降ったり止んだりの道に花が見え、良いひとときだったことを感謝しながら帰りました。

 

山の端に雨の八重雲ひき退きて越の田面に水光るらむ

 

 

 

小雨模様のなかお集まり頂いたお客さま方、水屋をお手伝い下さった有沢宗香先生社中の皆さま、主催のフカミ美術さま、ご親切にして頂いた小林古径記念美術館さま、大変お世話になり深く感謝しております。

本人は謙遜していましたが同級生、一嶽君の「喫茶去」はとても良かったです。

明日の呈茶と講話に備えて。

2025年5月24日(土曜日)

明日25日日曜日に小林古径記念美術館の古径邸画室に於いてフカミ美術主催の毎月の呈茶があります。今月の会で小生が地域の文化について上越出身小山作之助の音楽系譜に関して、ひ孫のヴァイオリニスト「中島幸子さんと欧州」をお話しすることになっています。

この演題は今年2月23日、大潟コミュニティープラザで行われた「小山作之助生誕160周年記念フェスタ」で講演したものと概要は同じです。この時と来場者さんがダブらない見通しからお引き受けした次第です。

当日は有沢宗香先生お社中にお手伝い頂き、水屋からお抹茶をお運びする薄茶の呈茶です。お茶の前段に30分ほどの話と5分ほど故中島幸子さんのレコードを掛ける段取りになっています。

昨日主催の深見氏と家内とともに会場の下見に行きました。机、コンセント、レコードプレーヤー,掛け軸の配置などを確認してきました。

古径さんが物珍しそうに
後ろでご覧になっていました。

内山順一(号:一嶽)君の「喫茶去」
氏は中高時代の同級生で
寺町、善導寺の前のご住職です。

緑うるわしい会場。

明日は午前10時と11時の2席です。10時の席が定数ごえとなり、11時の席に少し余裕があるそうです。

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