2010年6月

憧れの地平

2010年6月30日(水曜日)

昨夜はもしかしたら、と胸躍らせてサッカーの中継を見た。いくつもチャンスはあったが、パラグアイの執拗な圧力に胸がつぶれそうだった。

 

 

ゲームは得点のないままPK戦になった。PK戦は悲壮だ。何万人の観衆の前で国の威信を背負って一人で攻撃を受けるキーパー。処刑に近い残酷さを感じた。それがある選手がキックを外した瞬間、残酷さはそのキッカーに飛び移った。

 

ゲームの運不運は過酷だが、大会を可能にしている平和の有り難みは尽きない。

 

 

さてこの度の8強入り。代表チームが憧れの地平を目前にしていたことがサッカー素人の私にも分かった。選手たちに手応えがあったにちがいなく、本当に惜しかった。

新しい地平、見晴らしのいい世界はなんとしても憧れだろう。キックを外した選手のトラウマは深かろうが、変わらぬ憧れが彼を癒していくように思われた。

 

 

不肖私には、のんびりした気楽さへの憧れがつのる。印刷所に申し分けないが、明け方まで関わっていた図録の制作を遅らせてもらっている。もう少し丁寧にしてみたいのと体がそう望んでいるようでもあって。しかし諦めたわけではないのでそう遠くならないうちに、と考えている。

バラ
妻が仕事場で作っているバラがほぼ終わった。これは花盛りのころの写真です。

チマキと笹餅

2010年6月29日(火曜日)

 

笹餅
 
チマキ 
   

 梅雨の盛り、連日頂き物をして恐縮を禁じ得ない。昨日は笹餅、本日はチマキを頂いた。いずれも梅雨時の越後の味覚だ。

 

  ところで一昨日の夕刻から夜にかけて上越一帯も豪雨に見舞われた。移植の穴堀りをしていた庭で、突然放水を浴びせられるような雨にあってずぶ濡れになった。梅雨の終盤、気温の上昇と共に雨は油断できなくなる。

 

 田では、晴れ間をみてあぜ道や農道で草刈りが盛んに行われていた。梅雨が明ければ一帯の水田は生気に溢れ、頸城平野は壮大な美観となることだろう。収穫まであと3ヶ月、無事なお天気であってほしい。

淡路の先輩から鯵、そして西方の人

2010年6月26日(土曜日)

渦潮の海 
一年中荒海の鳴門の渦潮(同封されていた写真)

 

 昨日、学生時代の運動部でお世話になった淡路島の先輩からトツカアジが届けられた。他所のアジとは「まるでレベルが違う」としたためてあった。外見は普通のアジに見えるが名は初めてだった。

 

 送り主のA氏は昭和30年代後半、母校の軟式庭球部を医学部リーグの団体戦で全日本制覇させたエースだった。氏の身体能力と勝負勘は文字通り群を抜いていた。 

 振り返ると学生時代に交わった西日本(関西・四国・九州・一部東海も)の級友、先輩は私などとは随分違っていた。男っぽく勝ち気、顔立ちも精悍。同じ日本人なのに異国の人の印象さえあった。

  「いいか、相手がこう来たらこう行くんや」、部員たちを見回して檄を飛ばすA氏。眼差しには熱さと冷静さが共にあった。

 

 さて頂いたアジを昨夜は手巻き寿司に、今夜は塩焼きにした。添えられた手紙に寿司メシの要点が記されていた。その通りに作った妻は出来上がりの加減を絶賛した。淡路のお寿司屋のレシピに準じているらしい。

 そして今夜、こんなに美味しいアジがあろうとは、と声を揃えて塩焼きを食べた。

 

 鯵は普段でも関脇以上の美味しさだが、この度のトツカアジは明らかに横綱を倒そうという勢いがあった。親交ある王元監督にも送ると書いてあった。

 

 A氏は仕事をセミリタイアして釣りを始められた。同じ部活で、補欠を争っていた私などを忘れないで下さり光栄だと思っている。また全日本を制した当時のA氏のペア(前衛)が新潟県・県北の先輩だったことも密かな誇りだ。

 

 電話で礼を述べると、塩焼きを今日に遅らせたのは正解だということ。また、鳴門の荒潮で揉まれた魚は日本海の上品な魚とは違うんだ、と先輩らしい言葉を頂戴した。

 

 所変われば品変わる、そして人も。私が知った西方の人たちは、おしなべてハキハキとして勝負強く、情が厚い。こちらへ帰って35年、たまに電話や手紙でA氏に接すると、ただただ有り難く元気になる。

素晴らしい。

2010年6月25日(金曜日)

 夜更かしのデンマーク戦、まさかまさかのチャンスを次々ものにして素晴らしかった。選手たちの何とタフなこと。また直後のインタビューでは、寝不足の私たちに「ゆっくり休んでまた応援して」というコメントまであった。選手は強い上にこまやかで、それがまた嬉しい。

 代表選手のサッカーをみて、私たち日本人はまだ進化を続けているんだ、と希望を感じた。 

今朝のカーテン
朝のカーテンが祝福して揺れる 。 

 

 

なのに国技・大相撲の恥ずかしいこと。変われるのだろうか。

草取りして月

2010年6月24日(木曜日)

午後からの休診日で夕刻に庭の草取りをした。美術館を営んで3年、展示とともに大切なのは庭。庭に大切な作業は草取りだとなかば悟っている。

雑草
妻が取った分も。まだまだ取り切れない。

草取りは無心の時間という点で精神にもいい。またある種修行の感じもする。終えて手を洗うと庭も気持ちもさっぱり。

月

今夕の月、本当はもっと大きく見えるのに。

 あまつさえ遅くなって月に気がつく時など、自分も花や草であるかのような気持ちがよぎる。

 家に帰って昨日頂いたタケノコを食べた。下さった方が「ジャガイモやタマネギなどは入れないで」というタケノコ汁が美味しかった。桑取のタケノコ。この時期なのにとても柔らかく味も濃かった。

尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。

2010年6月23日(水曜日)

 尾神岳、浦川原、桑取、そして秘密。これらはいずれも今年頂いたヤマタケノコ(ヒメタケノコ)の産地だ。毎年決まった方が得意の場所に出掛けては分けて下さる。ある方は決して場所を明かさず、秘密ですと仰る。

 

タケノコ
 そろそろ最後、今日の桑取のタケノコ。

 

 昔、子どもたちとさかんに出掛けた尾神岳、浦川原は月影小学校と雅楽、濱谷浩さんの桑取、そして秘密の場所。それぞれ何がしかの思いを絡ませて楽しませて頂いている。麗しい山の土と水が育てたタケノコは味・香り・歯ごたえ、見た目、みな良くて飽きることがない。

 

 その昔昭和30年前後、毎年家族で池の平へ出掛けて池廼屋さんに泊まった。翌朝おにぎりを作ってもらいイモリ池を通って先へ歩く。すぐ右手に東大の寮があって、そのあたりから小さな谷川に沿ってワラビやタケノコが沢山採れた。持参した飯ごうに川の水をすくって味噌を溶き、コッヘルで炊いてタケノコ汁を作った。カッコー鳴く草原の昼食は美味しかった。毎年採り続けても無くならないタケノコに少々驚かされる。

百合のような人

2010年6月20日(日曜日)

 今日、堀口すみれ子さんは高田寺町の長養館で二代陶齋・齋藤尚明夫妻と昼食の後、遊心堂を訪ねておじいちゃんと旧交を温められた。

 

 滞在中の彼女は、ゆかりの上越で父・堀口大學を語れることへの感謝を何度も口にされた。
 今日衣食は足りている、それらと共に学芸をより身近に。このたびの来越ですみれ子さんが残されたエッセンスはそのようなことではなかったか、と思った。

 午後も半ば、数々の出会いを残して直江津から帰途につかれた。すみれ子さん、本当にお疲れ様でした。そして有り難うございました、またぜひいらして下さい。

 

6月の庭

キョウガノコなど

 

 見送りをして樹下美術館に戻ると、梅雨空のもと庭の生気は旺盛だった。ナツシュウメイギクが静かに咲きそろい、キョウガノコとアスチルベは鮮やかで、アジサイは負けじと花足を早め、百合が出番を待っていた。

      すらりとして気品があり、堀口さんは百合のような人だった。

堀口すみれ子さんの講演会

2010年6月19日(土曜日)

 今日、樹下美術館は陶芸ホールで堀口すみれ子さんの講演会を無事終えた。大切な人と満席のお客様を迎えて、何故か直前は火の用心を心配していた。

開始前の場内 
講演前の場内

                       

 すみれ子さんは、講演が近づくにつれて上越を訪ねることが、そこへ帰るような気持ちになった、と最初に述べられた。お住まいの湘南の風が一気に上越へと吹き込むのを感じた。

すみれ子さん


  堀口大學の生誕から海外、そして高田の日々までが澄んだ声と貴重な写真で語られた。心に響く詩や楽しいエピソードも交えられた。そして肉親ならではの自然さで、大學の伝える父とは、母とは、詩人とは人とはが語られた。

 3才の大學を残して逝った若き母を襲った病は結核だった。青春時代に大學も喀血する。病をとおして母と同一化しようとする若き日の心情は切ない。

 最後に大學がかって上越で得た交流と友情が述べられ、すみれ子さんご自身の三郎さん(陶齋)の思い出で終えられた。

 

 お疲れも顧みず懇親にもお付き合い頂き、最後はジャズバーまでお連れして夢のような一日が終わった。どうか明日また無事でありますように。

 

 堀口すみれ子様 ご来場の皆様、ご協力を仰いだ関係者の皆様、スタッフ、本当に有り難うございました。

Gentle Rain  

2010年6月16日(水曜日)

We both are lost
And alone in the world
Walk with me
In the gentle rain
Don’t be afraid, I’ve a hand
For your hand and I
Will be your love for a while

I feel your tears as they fall
On my cheek
They are warm like the gentle rain
Come little one you’ve got me in the
World and our love will be sweet
very sweet(rvery sad)

Like the gentle rain
Like the gentle rain

Gentle Rain:Composed by Luiz bonfa.  Astrud Gilberto sings

薔薇

Roses are in their latter bloom now.

梅雨の晴れ間に夕焼け

2010年6月14日(月曜日)

 

西の方 

漁船の集魚灯が一つ

佐渡 
  北に紫の佐渡ケ島

 

 梅雨入りが報じられたが、今日の当地は夜半から朝にかけて降っただけだった。

夕食を終えて気がつくと障子が赤々と染まっていた。急いで行った四ツ屋浜から見る海は感動的な夕焼けだった。北の方角には紫がかった佐渡の島影が静かに浮かんでいた。

 

 今まで何度か書かせていただいた通り、自分は何十年来旅行らしいものをしていない。それで今夕の夕焼けなどを見るにつけ十分に有り難くなる。

 

 昨日、存在するものは旅をすると書いた。しかし上記のような毎日は私にふさわしい旅だという実感がある。出掛けない者にも旅があるとすれば、時間は全てのものを旅させていることになろう。はたして旅とは、、、。

 

 さて夕焼けの良いところは、「また明日!」と言うようにすーっと終わってしまうところだ。また、これだけダイナミックな瞬間なのに、テレビと違って音楽もなければ全く音がしないのも素晴らしい(時に波音、風音、ねぐらに帰る鳥の声はありますが)。

高岡からのお客様、そしてシーグラス

2010年6月13日(日曜日)

 北陸も梅雨入りと報じられている。北陸地方である当地上越市は久しぶりに一日曇り空、なんとか雨は避けられた。

 

 今日は富山県高岡市からご家族のお客様があった。ホームページをご覧になって訪ねて下さったようだとスタッフから聞いた。展示とカフェを喜んで下さり、窓口で弟の本「フォルテシモな豚飼い」を求められ、シーグラスの絵はがきも沢山お買い下さった。その後、当館でお世話になっているラ・ソネさんへ向かわれたという。

 

 ところで樹下美術館の窓口カウンターには他の施設のイベントチラシ類が置いてある。それらの一つ一つの重しに大きめのシーグラスを乗せている。
 高岡からのご家族に10才くらいのお嬢ちゃんがいらして、シーグラスをとても気に入られた。スタッフがどうぞと勧めると、手に取られたのが写真のグラスだったと聞いた。

 

紫のシーグラス 
高岡へ旅立ったシーグラス。長径4㎝くらいだったろうか。

 

 一連の話はみなうれしかった。シーグラスの方は海岸で見つけた時の写真がパソコンにあった。去年11月21日の日付だった。

 

 海を旅したガラス片が年月をかけておだやかなシーグラスになる。それが近くの海岸で私と出会って樹下美術館の窓口へ。そして今日、高岡の少女に気に入られてまた旅立った。

 

  存在するものは旅をする、、、。これは万物の法則かもしれない。ちょうど、7年の奇跡の長旅を終えた小惑星探査機はやぶさがオーストラリアでカプセルを落とす時間になった。

チマキ

2010年6月12日(土曜日)

 午後、お年寄りの急な腰痛を往診した。骨折でなくてほっとした。

 

チマキ 
 

 大おおおばあちゃんの診察を終えると、年配のご夫婦はちまき作りに戻られた。奥さんが笹にお米を詰め、ご主人が巻いていく。近くの作業所で出荷用を作り、家では自分たちのを作るという。

 

 立派な笹が使われていた。銅鍋で煮ると笹の色が青いまま褪せないと聞いた。見てると呼吸のあった仕事ぶり、出来たらお持ちしますと仰ってくださった。
 これからの季節、梅雨空とチマキはうるわしい田舎の風物詩だ。お宅のまわりの田んぼがいよいよ生気を増していた。

 

 その昔、アカシアの花などを食べようとした私たち。後によそからチマキを頂くことがあった。砂糖入りのきな粉を付けて、あまりの美味しさに頭がヘンになりそうだった。

昨日が三周年だった。

2010年6月11日(金曜日)

あなた昨日が開館日だったのよ、と夕食中に妻が言った。三周年行事などと騒いでいたのにその日のことを忘れて過ごしていた。

あわてて振り返れば2007年6月10日に開館して間もなく中越沖地震。昨年の私のまちの美術館展出展、今冬の大雪、多くのご厚意。何とか無事に越えた三年間は文字通り日々新たな経験だった。

まもなく記念行事の一つに堀口すみれ子さんの講演会が館内ホールである。お陰様で申込みが定数になり、予約を締め切らせて頂いた。またとても良いタイミングでサントリー(株)関係者の方々の訪問予定が知らされた。それぞれ光栄で嬉しい。

ところで先日、あるお客様が館内のノートに他の方たちのおしゃべりがうるさかったと苦情を書かれた。当館では静かに過ごしたい方がほとんどだ。いわれる「賑わい」は他に任せて、ある種静けさを楽しむ場所であればと思っている。和やかさと静けさ、気遣い合う心、これも楽しみ方の一つであろう。

話変わって、庭の芝生が少々良くない。それで素人判断ながら、肥料が少し入った土をうす目に撒いて水遣りを毎日続けている。
夏至も近く、日が長くなった夕食後の作業は気持ちがいい。すぐ近くの田んぼで連日蛙たちが盛大に初夏を謳歌している。

目土

 恥ずかしながら今夕の小生の写真です。これまで顔も出さず失礼致しました。今後ともどうか宜しくお願いいたします。

海を旅した陶片の女の子

2010年6月9日(水曜日)

 食事の部屋の書棚に海へ行った時に少しずつ拾った陶片が置いてある。シーグラスと同じで、海に捨てられた茶碗や皿など(またそのかけら)が海底を旅して割れて細かになり、角がとれたものだ。おしなべておだやかな形状になっている。

 なにしろ海はあらゆるものを揺すって揉んで洗う。固くトゲトゲしたものなどみな小さく丸くする。最後は砂にそしてミネラルまでしたいのだろう。ありあまる時間と何かのはずみで命まで作ってしまったのだから、海のなんという根気と力だろう。

 

 いっぽう地上は社会などもあって複雑だ。しかしそこで我々も海と同じようにゆすられ揉まれ洗われる。最後はやはりミネラルだろうが、できれば文化を創ることを期待されている。偉そうにする必要はないが、茶碗と私たちの違いはそのへんかもしれない。

 

 さて昼食後、何気なく陶片をみていると一つのかけらが気になった。 

IMG_2893 
さわやかな陶片

 

 手に取ると突然女の子の顔に見えた。上目づかいで真剣に前を見ている。あごから頬の線も愛らしく愛着を覚えた。

 

 不思議なもので一度そう見てしまうとあたかも女の子が描かれたような気がしてくる。実際は波、渦巻き、秋草などが描かれているようだ。

 

 かけらと私たちは異なる存在だが、こうして楽しく出会えるのも何かのおぼしめしにちがいない。

 

顔 
顔・長径3,5㎝ほど

 

裏
裏側・高台があり、大きめの皿のようだ

 

淡紅色のアカシア、そして大連など

2010年6月6日(日曜日)

赤いアカシア 
珍しいのではないだろうか。

  

 15年くらい前、当時上越市大潟区は大潟町で、町の広報誌にリレー随想というコーナーがあった。次の人を指名してコラムをつないで行くもので随分続いていた。思えばこんなところも合併前の良いところだった。

 

 私の番になって、町の貴重な樹木というようなタイトルで書いた。その中で赤いアカシア(ニセアカシア)を一つとして挙げた。

 

 赤といっても薄い赤むらさき色である。よく見ないと分からないが、大潟区蜘蛛ケ池(くもがいけ)の県道沿いに二本ある。かなりの巨木で、久しぶりに花の時期を通ったらやはり赤っぽく咲いていた。心なしか香りを強めに感じたのも15年前と同じだった。
 大潟区はアカシアが多い。あたり白一色の花に囲まれてひっそりと色を帯びる姿はけなげだ。

 

 ところでアカシアといえば、昔、家の庭のへりに厄介者のような感じで樹があった。戦争後、中国から引き揚げてすぐの頃、母がそのアカシアの花を炒めて食事に出したことがあった。
 真っ白でいい匂いの花を母と採るのは楽しかった。花がフライパンの中で茶色に炒められていく様をありありと覚えている。
 しかし食卓に出たものは食べられなかった。苦かったのか家族全員がダメだったように思う。

 

 この時のことは素晴らしい期待が見事に外れる人生最初の記憶かもしれない。

 

 それにしてもサツマイモのツル、アカシアの花、たぶんほかにも、、、。当時母に知り合いもなく、家にはお金も無かった。それで普通は食べないようなものを美味しいよ!と言って料理にした。アカシアの炒め物も初体験だったようで、もしかしたらと思って作ったらしい。最悪の結果に、空腹の家族の落胆と母への非難は如何ばかりだったろう。

 

 ところでその昔、若い母の看護婦として最初の赴任地が旧満州大連だった。大連は大都市で、黒々とした木肌のアカシア並木やヤマトホテルがあったと聞いた。父と出会う直前だったらしい。それが耳に残っていて学生時代に「アカシアの大連」(清岡卓行著、1969年度芥川賞受賞作品)を読んだ。良い本だった。

 

 済みません、話が色々になりました。

貴重な明治生まれ

2010年6月2日(水曜日)

  美術館たる者、たとえ小館であっても図録一冊出せなくてそれとは言えない。このところ決めた期限が迫って懸案の制作に追われる毎日となった。いつしか大小400点に迫った分量もあるが、日頃の整理の甘さを痛感させられている。

 

 それで毎日のように明け方まで格闘が続く。若ければもっとはかどるのに、一日は35時間くらい、一ヶ月は45日くらい欲しい、など考えるまでになった。それに何とかノートも、、、。

 

 さて一先ず色々置いて、私が在宅でフォローしている方に明治生まれの人が4人いらっしゃる。いずれも女性でそのうち3人は100才を越えられた。4人のうち3人の方が杖で室内を歩行され、デイサービスへも通われる。お一人は押し車を使って近隣を散歩される。

 残念ながら今日訪ねた方は骨折後に寝たきりとなられた。よくうとうとされているが、私たちが訪ねると一転して言語が冴える。今日の話をつないでみると次ぎのようになった。

 

 「おや先生、相変わらず惚れ惚れするようないい男ですねえ。私がもっと若ければ本当に惚れるところですよ。
  これでも学校時代の私は飛び競争の選手で、試合で直江津や柿崎までよーく歩いて行ったもんです。マイクロバスなんて無かったですから。
 その時の先生がまたいい男で、私を好きだったらしいです。しかし私はまだ若かったからそんなことは分からなかったんです。今なら惚れるのに残念だったですよ、本当に。 しかし先生は男前だ、お帰りは気をつけて!先生もお元気で!」

 

 すらりとして長身、言葉もきれいで、いつも似たようなことを仰る。要は褒めてやるからさっさと用事を済ませて帰りなさい、という風にも聞こえて、さすがだと思う。

 よく面倒を見られている息子さんと、同行の看護師がくすくす笑いながら聞いている。

 

 今日は明治生まれの女性から多めに褒められて疲れが和らいだ。それにしても彼女たちの存在は非常に貴重だ。お会いしてお話できるのを幸せに思う。

 

  ミヤコワスレ ヒメサユリ 
樹下美術館隣接の庭のミヤコワスレ 同じにヒメサユリ(乙女百合)
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