2019年2月

1958年(昭和33年)の小野喬選手を囲む写真 上越市の体操。

2019年2月27日(水曜日)

小生の地元、上越市大潟区九戸浜に来年3月開場を目指して上越市体操アリーナ(仮称)の建設が進行しています。
国内最高レベルの規模を有し、来る五輪ではドイツチームの事前合宿の練習場になる予定です。

大潟区は体操競技が盛んで、中学校体操部は着実な歴史を刻み、上越市大潟体操アリーナを練習拠点に活動する体操クラブが充実。レインボージムナスティックス大潟は周辺から多くの人を集めるようになりました。

 

ところでわが家にオリンピックで活躍した体操の小野喬選手を囲む写真があります。
小野選手は1956年メルボルンオリンピックの鉄棒競技で、初めて日本人として金メダリストとなり、次のローマオリンピックでは初の団体総合優勝に貢献しました。
1964年の東京オリンピックは日本選手団主将として選手宣誓を務め、オリンピック選手として4大会連続で代表に選ばれました。そして全ての大会でメダルを獲得、4大会連続メダルは男子として日本人最多の記録として残っています。

さてその写真です。
1958年(昭和33年)10月8日、大潟町中学校の体育館が新装なり、お披露目に新潟大学髙田分校の選手とともに小野喬選手と後輩2選手が招待演技をしました。


選手招待時、旧大潟町「池之端」に於ける記念写真。
中央に品川監督と小野選手、同日ともに演技した慶応大学体操部の2選手が写る。
前列右から二番目に元県議会議長、当時町長の藤縄清二氏、左から二番目に父。
小野選手と同窓の父は、選手招待の一助になれたことを喜んでいました。

体育館の新装と小野選手一行の模範演技を機に、地域は指導者にも恵まれ、その後体操が盛んになりました。またそれ以前から上越地方の男子体操で高田高校、女子は直江津中学校、直江津高校による目覚ましい活躍があり、広くその基礎が築かれていました。

平成20年の上越市大潟体操アリーナを経て、来年3月の上越市体操アリーナの完成へ。
上越市が体操の盛んな町として、今後五輪におけるドイツとの交流ほか体操界への寄与。さらにトレーニングおよび健康づくりへと、有益な場所となることを心から願っています。

関係者の長年のご努力に敬意を表し、来る施設の発展を祈っています。

辺りに早春の兆し。

2019年2月24日(日曜日)

気温は10度を維持し晴れ間の午後、柿崎海岸へ行った。帰路は大潟水と森公園の一角を歩いた。マフラーは車中に置いた。

 

海岸育ちの私も子供の頃から、春の気配を知ると海へ行った。

 

キラキラと波に光がまぶされる。

 


大潟水と森公園。
枯れ葦のグラデーションが優しい。水上回廊の修理で入れない場所があった。
ミズバショウが膨らんできているので、花の見頃には通れるようになるのではないだろうか。

この後も数日晴れるらしい。これで済めばこんなに楽な冬はない。樹下美術館も開館に向けて慌ただしくなってきた。お知らせなどはもう少々お待ち下さい。

今春は本を沢山購入し、半分ほど入れ替えをする予定です。

春待つ樹下美術館

2019年2月23日(土曜日)

当地の本日は概ね晴れて少し気温も上がった。
向こう一週間のお天気は4勝2負1分けのイメージで、今どき有り難い予報になっている。
すでに2月は下旬、樹下美術館は開館まで22日と迫り、やはり早い。

あれもこれもと今年の予定を考えたものの、どれだけ実現できるか。とにかく開館までの残りを一生懸命頑張り、気分も新た今年の開館を迎えたい。

以下は本日の樹下美術館です。
雪は大方消え、所どころ気の早いクリスマスローズーが開花していました。

 

向こうのカフェの窓に掛かる雪除けも、近々外れるはずです。

 

 

 

 

 

何株かのクリスマスローズーは既に見頃となっていました。

 

 

眠りから覚めつつある蕾。

 

今夕ある集まりがあり、良い時間を過ごしてきた。

床の間飾り。
雛飾りの花、あるいは花を内裏雛に見立てて置いたものか。
いずれにしても格調あるあしらいだった。

奈良国立博物館仏教美術資料研究センターは我が上越市の大先輩による設計だった。

2019年2月20日(水曜日)

前回2月18日の記事の最期に旧奈良県物産陳列所、現奈良国立博物館仏教美術資料研究センターを載せました。
ウィキペディアに関野貞(せきのただし)の設計と出ています。

帰ってから妻が関野貞を調べて、この方髙田の人だ、と言ったのです。確かに越後国中頸城郡高田町(現上越市)と記されていました。
髙田藩士の子息で「慶応3年12月15日(1868年1月9日) – 昭和10年(1935年)7月29日[1])は、日本の建築史学者、東大教授。文化財の保存に努めたことで知られる」とありました。

 

窓が特に印象的だった建物は明治35年(1902)に年に竣工。後に国指定重要文化財になっている。
写真では分かりませんが、両翼を広げるようなデザインは、氏の卒業論文である宇治平等院、鳳凰堂のイメージだということでした。

その以前に建てられた奈良国立博物館が洋風のため不評を買い、関野氏によってこのような形になった経緯があるようです。和を知り尽くした上で、それだけに留まらずイスラムの意匠へも広げた、若き日の心意気を感じます。

東京大学を卒業後辰野金吾および伊東忠太氏の指導を受け奈良県技師となった関野貞。奈良の古建築の調査研究と取り組み、1889年には平城宮址発見という偉業を達成されていました。
後に朝鮮半島を中心に、東アジアの史跡調査と文化財保護に尽力、フランス学士院の賞を受けておられます。

このような事を知り、私の不明を恥じている次第です。
訪れた当日は公開日ではありませんでしたが、興福寺から東大寺へ向かう通りで降り、外観の一部を眺めて、写真を撮りました。
師である辰野金吾の設計になる奈良ホテルが近くにあり、建築物を通して結ばれている師弟の絆を思っています。

近代文化遺産見学案内所のホームページの以下に大変詳しい写真がありました。
https://bunkaisan.exblog.jp/16960158/

想像以上のダイナミックさに驚かされます。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その4(庚申塔その18)奈良。

2019年2月18日(月曜日)

去る2月9日に上越妙高を発って出かけた京都、奈良行を三回に亘って記載させて頂いた。
疾風のごとく回った京都では曲がりなりにも社寺を訪ね、窓を眺め、二つの庚申堂を訪ねた。
2月11日、最終日の奈良は予め訪問先のメモをホテルのフロントに渡し、観光タクシーさんに予約してもらった。

9時出発の当日、最初は昨夜の奈良町庚申堂へ。前夜暗がりで見た屋上のお猿さんを確認して撮るためだった。


空を見ていた猿は二匹の小猿を抱いていた。てっぺんの三猿が可愛い。

貴重な仏を訪ねる前にお猿さん、運転手さんが笑っていた。
私よりも少々若そうなその方は生粋の奈良っ子。腕白時代は東大寺や興福寺の境内を遊び場とし、大抵の池で釣りをしたという。
才媛を奥さんに、どこか火野正平に似た雰囲気。訪問先の寺院と時代の裏表を知り尽くしている風にお見受けし、終始楽しませて頂いた。

興福寺へ。
東金堂で薬師如来と脇侍の日光月光の菩薩を拝観。菩薩のモダンな表情が印象的だった。

 


近くで見る五重塔。
遠目の優美さと違い、軒先まで吹き出すように組まれている斗栱(ときょう)が凄まじい。内陣に穏やかな釈迦三尊が安置されているという。

 


幾度となく焼失復興を繰り返し昨年再建なった中金堂へ、妻と運転手さんが歩く。堂内に本尊と釈迦如来、薬上と薬王の両菩薩が脇侍し、さらに四天王が固めている。元々は藤原鎌足が蘇我入鹿の打倒を祈念して安置したという如来。厳しい表情をしている。

興福寺は藤原氏の絶大な権勢をそのまま表すものというが、運転手さんは説明で藤原不比等を何度も口にした。どこか江戸っ子のような氏は「不死人」と発音しているように聞こえた。

 


国宝館の入場券。
圧倒的な千手観音菩薩に迎えられ、遠い存在だった阿修羅、沙羯羅(さから)、須菩提(しゅぼだい)の前に立てた。
眉が感情を目は意思を、唇が両方のバランスを取っている。ある意味みな私などよりも遙かに生き生きとしていて、話し掛けたい衝動に駆られる。技法といい、古代の人はかく微妙な像を良くも造ったものだ、とため息が出る。

東大寺へ向かった。
私たちの予定にゆとりがあったのか、間もなくお水取りという二月堂を丁寧に案内してもらった。

 


見学者向きに準備が進んでいる。

 


当日の松明となる竹が用意されていて、緊張感が漂っている。
竹は根を付けてバランスにするという。

 


大仏殿へ。これでも創建の三分の二という。いったい材の切り出し、運搬、削り、、、クレーンも無い時代、どのような足場を組み、如何なる滑車やロープを用いたものか。

 

 


大仏殿前の八角灯篭のうち、銅鈸子(どうばっし)の音聲菩薩(おんじょうぼさつ)。


齋藤三郎さんから頂いたらしい樹下美術館が収蔵する拓本の掛け軸。
大変丁寧に採られていて、こちらの方がすっきり美しく見える。

秋篠寺へ。


本堂。お目当ての芸妓天は力みが無く、恥じらいとも取れる表情が見えて親しみを覚える。
一時は大ブームとなりにぎわったという。
一面苔むす庭が美しい。随所に万両が赤い実をつけている。苔が欠けている所は万両が採られた跡だと、運転手さんが嘆いた。

 


庭隅に満開のアシビ(馬酔木)。

続いて初めて伺う唐招提寺へ。
鑑真和上の命がけの渡来の物語は今日も心を打つ。

 


鼓堂(仏舎利塔)と向こうに講堂。

 


境内を和上の墓所へと向かう。簡素な泥煉瓦の塀が何故か懐かしい。
霊廟には中国の要人も訪れていて、日中の長い絆に触れることになる。想像以上に広い伽藍を歩いていると、天平の修行僧たちの明るい歓声が聞こてくるような気持ちがよぎる。

続いて最期の訪問場所、薬師寺へ。


昭和51年再興の金堂を仰ぎ見る。

 

 


昭和56年再興の西塔。
伽藍はただ美しいとしか言いようがなく、冬であることを忘れた。


休憩所に薬師如来の台座のレプリカが展示されていた(人物はレプリカではありません)。
裏側に回ると力神の下に白虎と青龍が浮き彫りされている。

 

 


西面の白虎。

 

 


東面の青龍。

 

この彫刻を拓本に採った風炉先屏風が樹下美術館にこれまたある。
長く実物を見たいと思っていたが、この度レプリカで見ることが出来た(金堂のこの二面は裏側にあるため上手く観察出来ない)。

 


昭和50年代後半だったか、新潟三越で薬師寺展があった。その時売り出されていた風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)。売り上げは多分薬師寺復興に資されたはず。今まで自信がなかったが、ようやくこの目で台座を確認し、晴れて説明できるようになった。

最期に北のはずれ、通りに面した所で何本もの梅を見た。
この度の旅行で最も良い開花に出合った。

 

 

午後3時半ころに近鉄奈良駅でタクシーさんとお別れした。何事においても含蓄ある話をされる方で、とても楽しませて頂いた。
近鉄特急で京都駅へ。中学時代の修学旅行以来3度目の奈良行きが終わった。

 

到着した京都で1時間近く時間があり、駅ビルを楽しんだ。

 

 


昨年の九州旅行で初めて見てすっかり好きになった駅ビル。
前は西の高い所へ行き、このたびは東側へと上ってみた。

京都に続き、ようやく奈良を終了しました。わずか二泊三日の旅行でしたが、長々と連ねて恐縮しています。
このたび奈良では色々考えさせられましたが、薬師信仰の厚さから、病が如何に恐れられていたかを思いしらされました。

帰り来て遠き仏をおぼゆれば み影にそひし薬師白梅

また当時庶民はこの壮大な寺仏を参詣し拝観できたのでしょうか、と興福寺で運転手さんに尋ねてみた。
「とんでもない。不比等の権勢」と返された。

およそ文化は時間を掛けて上から下へと流れて広がる。
では今日我々は上にどんな文化を戴いているのだろう。
後からでないと分からないものなら、今見えないのも事実のうちか。
それとも超情報化時代、今見えなければ本当に何もないのか。

翌日追加:興福寺から東大寺への道すがら、変わった窓の建物がありました。


旧奈良県物産陳列所(奈良国立博物館仏教美術資料研究センター)。
明治後期、関野貞による設計で、国の重要文化財にも指定されているということです。斗栱を用い、瓦を葺き、蛙股(かえるまた)や高欄などの和の様式にイスラム風の窓をあしらうなど、大変凝った建物でした。
ここのことは予め調べていましたが、京都の本願寺伝導院の窓とともに目の当たりに出来て幸運な事でした。

珍しく鵜の池にハクチョウ、長峰にアトリ 構築は根気、解消は一瞬。

2019年2月16日(土曜日)

昨日午後、大潟水と森公園の東側を通った時に、鵜の池にハクチョウの群がいるのを見た。
普段はすぐ隣の朝日池にいるのに、鵜の池に沢山来ているのは珍しい。

そもそもこの池にハクチョウが来なかったのは、猟が許可されていたたため、と聞いていた。後に禁漁区となり、以来随分と経った。白鳥たちはお知らせなどを読めないので、安全を確かめながら少しずつ時間を掛けてやってきたのだろう。自然界と私たちは、そのように根気のいる関係にちがいない。

何事も構築は時間を要するが、駄目にするのは一瞬、という点が怖い。

 


雪を踏み踏み近づいて撮りました。

 

本日昼休みの吉川区は長峰でアトリの群を見た。数年前にも見たが1000羽単位という規模ではないだろうか。
とにかく沢山いて、近傍の木と行ったり来たりで忙しい。群には猛禽が付いていることが考えられる。それから逃れるために絶えず樹木へと移動をくりかえすのではないか。

 

 

 


ひるがえってこちらに向かう時に群は腹を見せて、一瞬ぱっと白くなる。

群にスズメが混じったいた。


大きさは両者ほぼ同じ。飛んでいる時も良く似ているので、区別がつかない。
しかしスズメのほうが明らかに数は少ない。なにかしらスペックが異なるはずだが、厳しい季節をよく一緒に行動できるものだ、と感心する。

早いもので、京都奈良へ出かけてから一週間が経とうとしている。奈良の記載の前にハッサクや鳥が入ってしまい、奈良が少々遠のきました。近く記したいと思います。

二日で3,40センチ積もった雪が昨日からの雨風で半分に減ってきた。この後気温が10度を越える暖かな日が控えているらしい。

二日続きの雪 ドック健診 ハッサク。

2019年2月14日(木曜日)

昨日に続いて雪が降った本日木曜日。午後からドック健診を上越医師会の健診センターで受けた。
自宅ではまず見ないウエストが昨年より1センチ増えて、79センチだった。
もっと頑張らなくては、と言うと、スタッフの人が十分ですよ、と仰る。でも年を考えればやはり減らしたい。

 


本日の上越市大潟区の様子。

健診を終えて昨年同様に回り寿司で食事をした。

 


帰路に寄った朝日池。ハクチョウとハクガンの姿は無く、カモがのんびりしていた。

地震以来音信を続けている熊本の医師からハッサクが送られてきた。
さて厚い皮をどう剥こうか、と考えていたところ、これが付いている、と言って妻が小さなプラスチック片を差し出した。

 


頼りなく見えていた鳥さんピックの凄いこと、すいすいと皮がを切り裂く。

 


ピックは薄皮を取るのにも便利。

 

 


みな食べてしまった。

 

先日の旅行で奈良の記事が残っていました。申し分けありません、今日は一日お休みして次回にいたします。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その3(庚申塔その17)八坂と奈良町の庚申堂。

2019年2月13日(水曜日)

庚申信仰、あるいは庚申行事に興味を持ったのが昨年6月。
このノートにカテゴリーまで設けて気ままに地元周辺を見聞していた。その中で、庚申信仰と関係行事が盛んだったのは地方であり、長く政治文化の中心だった京都、奈良には何故か少ない、という事を知った。

そこへこの度の京都、奈良行き。調べで、京都および奈良市内に庚申堂、あるいは庚申信仰に関係する社寺があることが分かった。いずれも訪問予定の範囲に収まっているので是非もなく訪れた。

以下は去る10日日中の京都は右京区の猿田彦神社と、東山は金剛寺の八坂庚申堂、そして夕刻の奈良市の奈良町庚申堂の様子です。

 

 


山之内庚申と呼ばれる平安時代の創建になる猿田彦神社。
訪問日はやや閑散としていたが、庚申の縁日はとても賑わうという。猿田彦神社は私の地元ではまず見ることが無く、リアルな猿のお迎えは嬉しかった。さすがは京都、京洛3大庚申の一つとして古式漂う神社だった。

ところで、
猿は庚申(こうしん)の民間信仰で重要な位置にある。関係としては、まずその名から申(さる)として直結。また国造り神話における尊(みこと)を天上から地上へと導いた猿田彦の道しるべ、および農耕と生産の司としての意義。さらに人の身中にあって悪事の元凶とされる三尸(さんし:三匹の虫)を制止する青面金剛(しょうめんこんごう)の働きを手助けする存在(見ざる、言わざる、聞かざるを以て)などであろう。

しかし、神道から発した猿が何時、何処でどのように道教の三尸説と、さらに仏教の青面金剛と交わり、一大信仰と行事に結び付いたか私にはよく分からない。事実は、60日に一度集う守庚申、のちの庚申待ち行事は平安時代の貴族、僧侶から鎌倉の武士へ、そして広く江戸期の庶民、さらに明治、大正へと、長きに亘り継続されている。
信仰の内容は現世利益、先祖供養、地域存立、娯楽に親睦など多義的である。そのなかで猿田彦神、猿、青面金剛のそれぞれは、存在理由を最大限に発揮し、時代と地勢にストーリーを合わせながら、人々を引きつける力(特に地方の農漁村において)を有していたのは本当のようだ。

何かくどくなってしまいましたが、以下今日の京都、奈良の庚申堂は幸福そうだった。

まず八坂庚申堂。


平安時代の創建という庚申堂。門前に庚申尊の石塔。
上部に三猿(さんえん)があしらわれ、日本最初と読める刻文がある。貫禄十分な碑だった。

 

 

 

 

 


くくり猿を買い、願い事を記入して奉納する。みな率直で愛らしい。
“欲を捨てると願いが叶う”とは、上手く考えられているフレーズ。

猿田彦神社は庚申日以外は閑散なようだが、八坂庚申堂は地の利を活かして大賑わいしていた。着物の若い女性が沢山いて、彼女たちから中国語が聞こえてくる。しかし言われるほどの大声は控えられているように映った。庚申信仰の三尸思想は元々中国の道教に由来しているのと春節でもあり、人気になるのだろう。

当日午後遅く、前記した本願寺伝導院を最後に、京都を発って奈良へ向かった。
以下はその日、夕食までの時間に出かけた奈良庚申堂と奈良市奈良町の様子。

 


暮れる通りを人力車が通った。

 


奈良庚申堂にて。一帯は元興寺の伽藍だった地域。
町の庚申信仰は、奈良時代の元興寺における天武天皇と青面金剛逸話に発しているようだ。

三猿が水飲みの水盤を支えている。本尊という青面金剛は良く見えなかった。

 


軒下に仏を記した提灯。庚申さん、青面金剛、吉祥天女、地蔵菩薩が左右に並ぶ。
青面金剛と地蔵菩薩は分かるが、なぜ吉祥天女なのだろう。

 


すっかり暮れ、月が上っている。屋根の猿が凍る空を見上げていた。

以下は奈良町の一角。
下町の風情が漂い、町の明かりが寒さを和らげてくれる。

 


身代わり猿(京都ではくくり猿)を軒下に吊すのが奈良町の流儀らしく、とても良かった。
そういえば京都の八坂庚申付近でも、そこここに軒下のくくり猿を目にした。

 


街角の吉祥堂の看板。ここは奈良町資料館でもある。大きな身代わり猿が下がっている。


脇からみた資料館。吉祥天女が冴えている。ここは店舗でもあり、猿の人形ほか土産を売っている。
資料館のホームページに吉祥天女と奈良町の関わりが出ていた。
宴の振る舞いに吉祥天女が関係して奇跡が起きる話は、どこか庚申待ちに於けるご馳走とそのご利益を思わせた。いにしえの貴族版庚申さん?に繋がる話なのか。

来る時は道に迷ったが、帰りはスムースにホテルに戻れた。
以下はその時の町並み。

 


軒下の魔除け。

 

 


酒蔵、漢方薬店、カフェ、レストランの明かりが暖かい。

 


7時から宿で夕食。老舗ホテルはビーフシチューが似合う。昼食を摂らなかったのでゆっくり噛みしめて食べた。

庚申堂と古い町並み、、、。しっくり安心の取り合わせだった。

京都奈良で三カ所の庚申堂を参拝した。小ぶりながらいずれも参内できる境内と堂を有している。普段地元で庚申塔の石塔ばかりを目にしているため、規模の大きな庚申堂と神社を訪れ、信仰の原型と歴史の深さに触れて満足だった。

再三の冗長をお許しください、次は最終回、奈良の寺にします。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その2 京の窓めぐり、深く優しい詩仙堂。

2019年2月12日(火曜日)

午前9時にタクシーさんと待ち合わせてホテルを出発。窓から窓へ忙しい京都見物となった。

西本願寺からスタートした。本当はここで遠目にでも、映画「利休にたずねよ」で聚楽第として撮られた飛雲閣を見ることが出来ればと思ったが、そもそも普段の公開はなく、さらに修復中とあって叶わなかった。
しかし壮大な境内で華麗な唐破風門を見て、転輪蔵の花頭窓を見ることが出来た。

 


転輪蔵。中に赤い回転式の書架があるという。どんなものだろう、一度は目にしたい。

西本願寺を辞して金閣寺へ。

 


鹿苑寺金閣。私の中で銀閣寺と共に元から花頭窓の寺として漠然とあった。
輝かしいのに静かに見えるのは不思議だ。黄金が邪悪を跳ね返しているからか。

 


実は金閣寺はこのようにごった返していました。

 

次は大徳寺。大徳寺内の各塔頭は公開日など特別な日以外は参内出来ないが、門と玄関は眺める事が出来る。

 


大徳寺仏殿の花頭窓。

大徳寺塔頭の光臨院の外部。

 


大徳寺塔頭、梅がほころびかけていた光臨院の唐門。客待に設えられた花頭窓が爽やか。

 


光臨院の広く明るい花頭窓。

他に三玄院など、いつか公開日に訪ねて禅味茶味の院内を拝観したい。

続いて東山は銀閣寺へ。

 


道すがら見たおそば屋さんの二階が花頭窓。

 


金閣ほどではなかったが賑わっていた銀閣寺。庭は頑張っているものの、建物は大丈夫だろうか、やはり古い。いずれ全面修復が必要では、と心配した。新しい銀閣というのもイメージしづらいが。

 


休憩所の花頭窓の前を次々に人が通り過ぎる。

銀閣寺を出て哲学の道を眺めた。

 


春を待ちきれない人達が歩いたり憩ったり。

 


銀閣寺近傍で見た半円の窓。わずかに裾が広がっていてこれも花頭窓か。

詩仙堂へ。
昭和43年早春の夕、大学を卒業した生徒全員が京都に集まった。私は前泊して嵯峨野を巡り、最後に詩仙堂を訪ねた。バスを降りた道中、着物を着た二人の女性と出会った。就職が決まり、京都で着物を着たくて東京から持参したと、晴れやかに話をされた。時代は巡り、いま大勢の外国の人がレンタルで着物を着て、楽しそうに歩いている。

 

 


詩仙堂の上品な窓を眺めるのは、このたびの目的の一つ。
庭は思ったよりずっときれいに手入れされていた。季節は違うが、昔はもっと草木が茂っていた印象がある。


非常に複雑な屋根の構成そして窓。庭の静寂と建造の複雑が対比的。

 


堂内に架かっていた「関」の一文字。関は禅の重要な概念の一つで、悟りのために越えなければならない境地の関門。
茶席でもよく関の掛け軸が架かる。この額も“ここにたやすく入るな”という喝を表している。

 


時を知らせる巡照板(じゅんしょうばん)は禅寺で用いられる鳴り物の一つ。
「生死事大」は「光陰可惜」が続く禅語。生死は頭脳・感覚ある者の絶対命題であろう。仏道を歩む者はなおさらであり、寸暇を惜しんで修業せよ、と告げている。禅であればさらに作務を行い座れ、と取れる。

病院時代に再訪したので、この度三度目だった。寒さもあろうが、場所の空気が深く染みこむ気がした。

 


ししおどしが響く詩仙堂は自然と座る人が多い。

深くて優しい詩仙堂から近傍の野仏庵へ。

 


下地窓の外腰掛けは大きな石仏と隣り合わせ。野仏庵はかってのある事業家の庵。門をくぐり少々急な路地を上る。


御抹茶を飲んで一息ついた。

ここがこの度で最も北に当たる。
再度下って禅林寺(永観堂)へ。

 


唐破風門とずらりと並ぶ花頭窓にうっとり。

 


禅林寺境内のお堂。左右の丸窓がのどか。
モミジの名所ということ、変化に富んだ広大な境内を再訪したい。

 

さらに近くの南禅寺へ。

 


講堂側面の花頭窓。

 


三門といい南禅寺は何でも大きい。


三門の左右にある山廊の花頭窓。

湯豆腐も食べずに時は過ぎる。

法観寺まで来た。

 


法観寺は八坂の塔前で尺八を吹く人。


陣笠を被ったワンちゃんと一緒。尺八はとても良い音色で、妻はおひねりを渡しに行った。

最後に失念していた本願寺伝導院に寄ってもらった。

 


サラセン様式が加味されているというかなり奇抜な建物。

 


三階部分の拡大。花頭窓の原型を思わせる窓を見ることが出来た。

ついに奈良行きの時間が近づき、京都駅でタクシーとお別れした。我がまま勝手な駆け足を助けて頂いた運転手さんに感謝を禁じ得ない。
何十回と訪京する人がいるけれど私は七度目で、みな駆け足。機会があったら禅林寺と南禅寺でゆっくり過ごし、大徳寺は芳春院、光臨院などの公開日に是非再訪したいと思った。

さてこの日ほかに、庚申関係の山之内猿田彦神社、八坂庚申堂を廻った。その模様を奈良の庚申堂と併せて次回記載させて頂きたいと思います。

とりとめなく非常に長々となりました。

冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その1 宵の八坂や中華など。

2019年2月12日(火曜日)

平成31年が明けた正月、新年の計に京都、奈良行きの計画が何となく上っていた。
急だったが切符と宿が取れて、去る2月9日午後、上越妙高駅を発って出かけてきた。予報どおりの寒波で寒かったが、奈良京都に一泊ずつした。

初日夕刻に京都駅に近いホテルに到着したものの、チェックインカウンターは何筋も長蛇の列。中国の春節に相当する時期で、大変な混雑だった。
列に並ぶヒマがもったいなく、クロークにカバンを預けて宵の街へ出かけた。宿から近い八坂神社→八坂庚申堂はこの度の目的地の一つだった。

30数年前の大晦日に、子ども達と夜の八坂神社を訪ねた折の煌々たる提灯と渦巻く人出が脳裡に残っている。この日も若者を中心に賑やかだった。

 

 

 

帰路の食べ物屋さんの二階の窓。所変われば窓変わる?窓を見るのも目的の一つ。

 

八坂神社からの帰路、入ってみた細い路地。両側にひっそっりと割烹が並ぶ。

 

その静かな路地に「静」の張り出し。お静かに、ということなのだろう、徹底している。いつかこの通りの店に入ってみたい。一見さんで大丈夫だろうか。

京都で中華というのも変かもしれないが、7時に四条河原町の店を予約していた。初めてなので見つけるのに少々迷ったが、良い散歩だった。

 

冬の夜の祇園花見小路。

四条河原町のビルの五階が店。京都の人達が普段使いされている雰囲気の店だった。片隅に座り、空いたお腹を満たした。
京都だからと言って、おばんざいや京料理への執着は全く無い。京都で中華を食べてみたい、それだけのことだったが、期待以上に爽やかな料理で、美味しく頂いた。

 

好物のピータン。これまで食べた中で一番美味しかった。

 

滑らかな口当たりと香り良い水餃子に熱い紹興酒を少々。

 

白湯のおそばに豆板醤を溶いた。

 

中華なのに店はずっとジャズが流れている。
帰りのレジでは誰が歌うのか「My One And Only Love」が聞こえていた。

お目当ての一つ八坂庚申堂を明日に持ち越しにして、ホテルに戻ると、チェックインカウンターはすっかり空いていた。

 

※2月9日と11日の記事は、出かける前に二日分を予約投稿したものです。実際には出かけていて、ややこしくなってしまいました。大変申し分けありません。

美味しいのだが、、、冬の食卓。

2019年2月11日(月曜日)

何故か定かではないが、冬に食欲が進むのは仕方がないことかもしれない。人に言っているうちに、自分も冬前に比べて1,3キロ肥ってしまった。それで減食に取りかかり、一週間経ってまず0,7キロ減った。

もう一週間して元へ戻りたいと思うのだが、妻が一生懸命作るので本気にならないとおぼつかない。
冬は冬で多くの旬があり、暖かい食べ物が主ともなれば余計美味しく感じるから、少々辛い。

以下このところで目に付いたものを挙げてみました。

 

 
訪問先のお宅で戴いたフキノトウに美術館の庭で採ったのも混ざった。


チリメンジャコを散らしたサラダ。


去る日のおでん。


過日は、宮城の弟から誕生祝いといって送られたタラなど。


三日前は焼きカレー、さすがに謝って少々残した。

一体妻は何処で色々覚えてくるのだろう。弟のタラも戴いたルッコラもまだある。私がこんな風に出すとまた余計に作るかもしれない。

“遊ぶ”と“稼ぐ”。

2019年2月9日(土曜日)

強い寒波が来ていてとても寒い。今年の不思議な事には、寒い割に大して降らず、今朝もも5センチばかりの雪がふんわりと積もっただけだった。

ところで昨日は多くの方が今冬運動不足をかこっていることを書かせて頂いた。それが本日来られた方は、犬がいるので寒いけれど結構歩いています、と仰った。確かにその通りであり、付け加えなければならない。

一方本日、「毎日遊んでばっかりです」、と仰る方がいた。但しこの場合の“遊ぶ”は、仕事をせず何かにうち興じる、という意味ではない。
往々にして皆さんは何もしないで“怠ける”ことを“遊ぶ”、と仰る。この言い方は他でも同じだろうか。開業当初、それを豪遊のことかと思い、お金持ちがいるんだなあ、と感心していた。

似たことで反語に近いものにも出合った。“稼ぐ”である。
「おまん、そんなに稼ぎなさんな」。
開業した最初の冬のこと、仕事を終えて暗くなった駐車場の雪掻きをしている時に言われた。声を掛けたのは通りがかった同級生だった。
それを聞いた時、自分はさほど金儲けに熱心ではないのに、誤解されているのかと思い、とても気になった。
後で“働き過ぎないように”という、いたわりだと分かるまで何ヶ月もかかった。

いずれも標準語だが一般的な意味を少し変えて使われている。聞きようによっては、大人の言葉づかいのように伝わる。子供や中高生時代には知らなかったので、帰郷して初めて聞いた時には少々うろたえた。

 

本日の朝日池。

暖冬でもコタツと相撲 お年寄りの厚着。

2019年2月7日(木曜日)

今冬の当地は小雪などではなく、今以て無雪の様相で過ぎている。
ある種歴史的のようであり、90才を越えるお年寄りも、こんなのは初めてと仰る。夏は異常に暑かったので、冬は一転寒いのではと心配の気配が漂っていたのだが、異常な暖かさ。一体何が原因なのかさっぱり分からない。

ところで多くのお宅では、体が動くお年寄りが雪かきの係だ。例年ならば通勤する家族の為に、少なくとも車庫の前を朝夕に除雪しなければならない。中でも除雪車が寄せた硬くて大きな雪塊の始末は骨が折れる。しかるに暖冬の今年、それも一度あったか無いかで過ぎている。

楽な冬になり極端な運動不足を否めない。
毎日どうしていますか、と尋ねると、
「寝転がっています」
「テレビばっかりです」のほか、例によって
「コタツと相撲をとっています」
「コタツ番です」
「コタツのホゾです」
など、,どこか自虐を交えて仰る。
相撲を取ったり、番をしたり、ホゾになったり、という訳であるが、本当の所はじっとしているというのが実状であろう。

事のほか運動不足となった冬。それなりに気にされて、晴れた日の外出と歩行をされる人もいるが多くはない。それで屋内歩行や足踏み、ラジオ体操などを勧めなければならない。また動かない分、食事を軽くする事も大切と連日お話している。

話変わって、毎冬のことだが、お年寄り、特におばあさんたちの厚着には驚かされる。
7.8枚を重ねて来られる。
だから心音を聴こう、となると大変だ。
ブルゾン1枚(時には2枚)、カーディガン1枚、セーター2枚、メリヤス肌着2枚、下着2枚、合計8枚も珍しくない。
付き添いの方と袖を引っ張り、肩をはずし、外側だけでも脱いでもらう。このレベルの厚着のほとんどが85才以上の方だ。

その日の暑さ寒さに関係なく、厚着は確固として決まっているように見える。いくらご家族や私が話しても、寒いからと言って、ある物みな出して着るという。厚着は長年の習慣と安心、こうなると一種信仰のようでもある。

朝日池に集まるバードウオッチャー クリスマスローズ、ふきのとう、ルッコラ、夕暮れの海。

2019年2月5日(火曜日)

大雪の年でも、2月になると穏やかな晴れ間が訪れる。大抵一日だけで、長くは続かないが、日射しに強さがこもり、春遠からじを覚える。

昼食を摂ってから朝日池に向かったものの、白鳥もハクガンも居なかった。
でも池の堰堤にはずらりとバードウオッチャーの車が並んでいる。全国とは言えないが、新潟はじめ長野、群馬の隣県、関東、関西の車もある。付近の森にいるらしいオジロワシの出番を待ってい人も居るようだ。

例年集まる沢山の車。良いお天気なので、お仲間同士、鳥を待っている間も楽しいことだろう。

 

美術館に寄ると、間もなく見頃を迎えそうなクリスマスローズ。

 

午後訪問診療をしたお宅でフキノトウを戴いた。右側の小さなのは私が樹下美術館の庭で取ったもの。
ほとんどよその人に採られるので、小さな残り物を有り難がってる。

お宅からルッコラも頂戴していた。うっとりするような早春の色だ。

 

夕刻の四ツ屋浜。こんな海をみていると、もう春と言ってもいいのかな、と思ってしまう。

樹下美術館の冬期休館は半分を過ぎた。例年ここまで来ると急に開館までの足が速くなる。

深刻な当地の勤務医事情 近くにコハクチョウ、遠くにハクガン。

2019年2月3日(日曜日)

今週末にかけてある高齢者の方の腹部症状が思わしくなかった。病院はどこもインフルエンザなど冬期独特の忙しさ。何とか入医院を回避できれば、と綱渡り的な状況を禁じ得なかった。
昨日点滴を試み、今朝の往診では少しだけ水分が収まるかに見えた。しかし往診後まもなく全て嘔吐した、という知らせ。

柿崎病院さんに連絡を試みると、見せて下さい、という仏のような返事をもらった。本日日曜日の当直は院長だった。食べれないのと、検査も必要でしょうからと仰った。
昨日から年令を問わず重症の方たちに忙殺されている、とお聞きした。
眠る時間などまず無いに違いない。
おそらく殆ど休めずに、また明日の常勤に入るのであろう。
何かと良い事ずくめに伝えられる上越地方だが、医師不足による病院の事情は本当に深刻だ。
最も大切なことが最も深刻、これは紛れもない上越地方の真実。

院長の犠牲的な取り計らいで何とか昼から出かけることが出来た。
柿崎区の水田にコハクチョウの群が居た。院長に申し分けないと思いながら群を眺めた。

 

午後の数時間は良く晴れた。背景は米山。

 

用事で外出の妻が用意したサンドイッチを車中で食べる。

 

 

 

群に次々と白鳥が降りてきた。コハクチョウといえどもとても大きい。

 

 

カメラを覗いていると自分が舞い降りる錯覚におそわれる。

飽かず群を眺めた後、当地に飛来したというハクガンを探したが見つからなかった。
昨日の上越タイムスは150羽の再来を伝えている。
暮れる頃、大潟水と森公園を歩き、それから朝日池に寄った。

朝日池の遠くにハクガンが沢山居た。何羽いるのか、かなり多い。
相変わらす自分たちだけでまとまっている。
着いたばかりなので、日中食餌をせず休んでいたのだろうか。

一本の白い線のように見えるハクガンの群。

暮れているのとレンズサイズのため、これが精一杯。
遠目にも愛らしさと一種神々しさは変わらない。
忘れずに来てくれたこと、何かの思し召しか、有り難い。

冬の本州では秋田県の八郎潟と、当市の朝日池のみ往き来するという貴重なハクガン。今年また夕陽の水田で出合えれば幸運だ。

ハーモニー。

2019年2月2日(土曜日)

最近Yahoo!のポータルサイトで以下の広告を目にしていた。
楽しそうなので開いてみた。すると海辺をドライブする車内のカップルが歌を歌う。どこかで聞いたようなメロディを口ずさんだ。

サビの部分なのか、途中をハーモニーにして楽しそうだった。若い人たちはこうして普通にハーモニーを楽しむのだろうか、新鮮に映った。

 

私たちは時に何か歌おうとなると、およそ皆で同じメロディを歌う。いわゆる斉唱だ。そういえば、民謡や浄瑠璃などの古い音曲もハーモニーはつかない。普段、生活で2人居れば2人が、10人なら10人で同じ節を歌いがち、単調である。
しかるに西洋音楽では、何部かでハーモニーを効かせ、コーラスを楽しむ映像やレコードに接してきた。歴史的にも宗教歌、民謡、歌謡、オペラなどでハーモニーは古そうだ。和声に従ってメロディのほか複数の旋律が合わせられると、曲に膨らみと豊かさが生まれる。

一方、不勉強ながら、我が国はじめ中国や韓国など東アジアの伝統音楽に、ハーモニーの印象は浮かばない。
同じアジアでも、フィリピンの歌では、大らかなハーモニーが付けられるのを、その昔ラジオでよく聴いた。
また人生ただ一度の海外、1970年代なかばのタヒチで、庭や桟橋などで聴いた歌や購入したレコードの殆どがコーラスだった。
フィリピンはキリスト教国である。タヒチもまた教会が多く、日曜の礼拝と午後の盛大なピクニックを目にした。かようコーラスによるハーモニーはキリスト教がもたらした文化の一つではないのか、と考えてみている。自信がないので、機会があれば詳しい人に尋ねてみたい。

ちなみに以下タヒチの歌を載せてみました。

 


尻切れになってしまいましたが、幸せなシーンです。声も良いですね。

 

我が国のハーモニー(コーラス)は明治時代以後と考えられる。学校で熱心に教えられたものの、日頃はおよそ斉唱の域を出ない。そんなわけで上掲したコマーシャルの車中の二人が、ハーモニーを楽しむ様子は新鮮だった。

進行する和声に従って異なるメロディで合わせる。響きは色彩を帯び、豊かさをもって膨らみ、心地良い。あたかも1+1が3や4、あるいは別次元の高度な音を生む調和作用を覚える。
比べて斉唱は部分として上手く使えば効果的だが、それだけだと単調である。1+1は1のままであり、音量が増すだけに留まろう。

ひるがえって、社会に於いても多様性の受容はハーモニーとして幸福と文化の生成を促し、地域と国の豊かさの源になるにちがいない。
逆に同一のみを図るのであれば、個人の対立や孤立を生じしめ、社会の硬化と衰弱を招こう。

カローラのコマーシャルから長くなってしまいました。

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