2025年1月

小春日和のハクガン 冬の降水雲?

2025年1月13日(月曜日)

今どき大雪でも良い時期なのに明るく晴れて温かかった成人の日の祝日。

午後再度のハクガン探索に出たが昨日空っぽだった場所に本日は沢山いた。気持よい空に下、十分に食べたのかみなくつろいでいる風だった。

くつろぐハクガンの回りに
マガンあるいヒシクイがいる。

 

陽を浴びて気持ち良さそう。

コハクチョウは県道脇の狭い所にいた。
マガンやハクガンに遠慮しているのか。

鳥を見た足でジョーシンへ行きPCのキーボードを新調しL版の写真プリント紙を買った。キーボードは、一カ所キーが剥がれてしまいボンドでくっつけていたが再三剥がれてダメになっていた。それにサイズが小さくて私には不向きだったため新たに求めた次第。サイズが大きめで打ちやすくなった。

帰路、行く手遠くに白い雲が幕でも降ろしたように見えていた。昨日見た雲と同じ現象ではないかと考えられる。
部分的に降水(冬なのでミゾレや雪)しているところへ陽が射しているのではと想像された。だがおかしいことに、それらを降らせる上部にあるはずの大きな雲が無いのが解せなかった。

地上まで届いている明るい雲。
そこではミゾレか雪が降っているのだろう。
雲の向こう側では暗く見えているはず。

今度時間があったら雲の所まで行ってどうなっているのか確かめてみたい。

1月のブログは本日まで13日連続投稿になってしまいました。明日特別なことが無ければお休み予定にさせてください。

ところで昨日の最後に、本日のお天気は崩れると書きましたが、見事に外れました。予報はそうだったのですが、難しいものですね。

冬期休館して間もな一ヶ月が経ちます。3月15日の開館までふた月、その前2月23日には小山作之助生誕160周年行事があり、大潟コミュニティプラザで私の拙い講演予定です。そろそろスライドやレコードなどを準備しなくてはなりませんし、運営とさらに具体的な話もしなければ。

昨日、今日の鳥と空。

2025年1月12日(日曜日)

もう年だというのに今年になってブログを毎日更新していることになりました。これまで三日、四日と空けることがあったのにどうしたことか自分でも分かりません。肝心な内容の良し悪しは皆さまにお任せするほか無いことも情け無く思います。

年末年始の旅行を長々と書いたことがアクセルになったのでしょうか。年を取って記事がいたずらに長くなる傾向があり気を付けなければと思っています。

さて本日は11日、12日の土日に見た鳥と空です。
実は昨日午後、何となく気配のようなものを感じて目星を付けていた場所でついに今期の初ハクガンに出会いました。やはりこの寒波でとうとうやって来たのです。
この日まだ朝日池には遠方からのウオッチャーの姿がありませんでしたので、飛来早々に見たのかもしれません。

仲良くほかの雁と混じっている。

小さなグループが時々やって来る。

ハクガンを花に例えれば“黒い斑入りの白い花“ということになります。このような花は想像出来ますが実際あるならとても珍重な事でしょう。それが雁にみられるのですから、この鳥が如何に珍しがられ、皆が首を長くして待っているかが分かります。

昨日は数十羽でしが。今後次々にやって来て壮大な群を見られればと期待しています(出来れば300~500羽も)。

以下は昨日の頸城区の空です。

水田から北の方角。
雲が幕のように下りていました。

そして本日日曜日の空は晴れ、風も無く穏やかなお天気になりました。
午前中は溜まっていた書類を書き午後からまた田へ行きました。水鳥の観察に関して言えば私は水上でプカプカしているのを見るよりも田んぼで食餌をしたりまどろんだり、移動や飛ぶのを見て撮る方が好きです。

昨日と同じ場所にハクガンの姿はありませんでしたが以下の鳥を見ました。

コハクチョウ。

 

タカ

タカは何種もいますがお互いよく似ていてるので名は詳しく分かりません。しかしこの時期、鳥たちの場所にしばしば現れます。野鳥の捕食者ですが、本日は二羽のカラスに追われて逃げまわっているのを見ました。本気を出せばカラスくらいやっつけるのですが、遊んでいたのでしょうか。

モズ

小さい捕食者モズ。私はこの鳥の姿が好きです。昨年秋から鳴き声だけは聴いていましたが初めて撮りました。宮本武蔵の絵「百舌(もず)」のように静かでした。

 タゲリ。
またお目に掛かれて幸運です。

 ハクセキレイ。

飛翔するハクガン。
隊列が整っていない。

場所を変えるとハクガンは他の雁の群とともに新柿線の吉川区の空を旋回していました。地上に下りることなく飛ぶだけで、ついに遠くへと去って行きました。タカに突っ込まれたのでしょうか、100羽近くの群でした。現在一帯に何羽くらい来ているのでしょう。

晴れて寒い日は空気が澄んで遠くの山が良く見える。

本日は佐渡島がきれいに見えました。望遠で撮るとよりはっきり見えます。右の端、雪に覆われ一段と高いのはどんでん山でしょうか。

今日は晴れて良かった。明日の空は早くも崩れるようです。
本日の朝日池には新潟ほか遠方の三重や大阪など他府県を交えたウオッチャーさんの車が見られました。

本日もな長くなりました。

音楽家飯吉さんご兄弟、兄汐澤靖彦さんのご逝去。

2025年1月11日(土曜日)

当欄でかってお載せしました指揮者の汐澤靖彦さんが去る7日にお亡くなりになりました。当日Yahoo!ニュースに出ていましたが、本日お載せ致します。

汐澤さんは本名飯吉靖彦と申され、中学時代からピアノで有名でした。お父さんは潟町中学校の校長先生だったと思います。当持の同中学校は吹奏楽が盛んで、近所の同級生たちはピッコロ、小太鼓、トランペットなどで一緒に演奏していました。
学生服の靖彦さんは時に我が家でピアノを弾いてくださりスターの雰囲気がありました。

直江津高校から進んだ東京藝術大学卒業後は読売日本交響楽団の創立時のバストロンボーン奏者として長く活躍、その後著明な吹奏楽団の指揮者とともに広く後進の指導に関わられ、東京音大名誉教授に任ぜられました。

当ブログには2015年、上越タイムス首都圏版での記事掲載2023年の白金フィルのコンサートの記事を書かせて頂きました。
23年には氏の友人から是非楽屋でお会いしてと勧められていましたので、当日お訪ねしますと、非常に喜んでくださり、お元気なのと「弟がお世話になりました」と仰ったのが心に残っています。

弟さんの馨氏は新潟大学芸能科で学ばれた後ジャズに進みピアニスト、作曲、アレンジャーとして活躍され、NHKにもレギュラーとして出演されました。
私どもにも何度かお寄りになり、私達も氏のライブ演奏をよく聴きに行きました。

一昨年指揮後の汐澤靖彦氏と
東京芸術劇場の楽屋で。

東京で演奏する馨氏。

馨さんは既に亡くこのたび靖彦さんもお亡くなりになられ本当に残念です。お二人の歩まれた道は違いましたがそれぞれの音楽に捧げられた情熱は熱く、幸せなご兄弟ではなかったでしょうか。

この度の汐澤靖彦さんのご逝去に対し心から哀悼の意を申し上げます。

脅しの如く大雪と言われながら 夜は「ハウルの動く城」をちゃんと観た。

2025年1月10日(金曜日)

降るぞ降るぞ、平地も降るぞとテレビの予報が言い続けた。東京の用事へ行った妻は何日も前から列車はどうなる、ほくほく線ににようか北陸新幹線にしようか迷い続けた。結局予定していたほくほく線が運休と聞き、新幹線に変更し遠い上越妙高駅へ向かった。

警報級とも言われ繰り返し予報された寒波は結局さほどのものではなく、当地で10センチ前後、山間でも数十㎝の積雪だったのではないか。警戒を促すのは良いが、この度は大雪、大雪、大雪とまるで脅しの如く言われ、逆に多方面のキャンセルなど混乱を招いたことはなかったのだろうか。

今夕の上越市大潟区四ツ屋浜の通り。

夜9時から「ハウルの動く城」の放映があるというので観た。ジブリは「千と千尋の神隠し」くらいで、以後観たこと無かった。普段時間が無いからと言い訳して殆ど映画を観ない。しかし今夜くらい観ようと夜9時からテレビの前に座った。CMも入れて11:30まで、思ったより長い放映だった。


倍賞千恵子さんのエンディングの歌。

見聞するだけだったこのアニメは人の行為と世界を魔法と魔界という舞台に置き換えながら戦争に焦点を当てた意味深長な映画だった。自動車などから時代は第一次世界大戦のころか、まだ世界が植民地と覇権に血眼になっていたころと考えられる。
そんな世界で良心の若き魔法使いハウルが過酷な魔法をもってしてもボロボロになるほど戦争というものを終わらせるのは困難だが不可能ではないと訴えていた。当然のことだがそのための鍵は「愛」と「暴力を嫌う不屈の哲学」ではないかと映った。

さらに“愛は若者から哲学は老人から”の振り分けも暗示されていたように受け取った。
今まだ戦争は絶えず、勇ましい人が多いこの世で平和を訴え続けるのは本当に根気のいる仕事だが決して徒労などではない。必死にそれに挑戦する貴重なアイコン、スタジオ・ジブリには長く頑張ってもらいたいと念願した。

ソフィーの声が倍賞千恵子さんだったのをエンドロールで知った。彼女の声は本当にいいですね、普段の歌も好きですが。

私は哲学というものを上手く説明出来ませんが、感情的にならず勤勉で、世界を広げ自らを省み、心静かに他者をも慮る態度のようなものではないか、と今のところ考えています。

本日の冬鳥 彼らの幸福とは。

2025年1月9日(木曜日)

厳しい寒波が来ている。終日強風が吹き荒れたが雪はさほど降らず美術館や仕事場の積雪は5センチ程度のままだ。だが今夜から明日一日は相当に降ると予報されている。

ところで待ち焦がれているハクガンは何時飛来するのだろう。昨日外来で鳥に詳しい方とお話したところ北の飛来地(八郎潟)の積雪次第であり、この度の寒波によってそろそろやってくるのではないか、と聞いた。

それで本日はまだかとばかりホッカイロを幾つも付けていつも見に行く所を回ってみた。私が観察できるのは頸城平野のわずかな一角だが、残念ながら目にすることはなかった。

以下はこの日のアトリと僅かの雁です。

季節風を防げる高台の下の田には色々な野鳥がやってくる。本日はアトリの群が跳び回っていた。かってアトリの非常に大きな群を何度か観たことがあるが、目にしたのはそれらの何分の1、まあまあの群だった。

雪まじりの強風の中あっちへ行ったりこっちへ来たり。田に下りたと思うとすぐ飛び立つ。飛び回るのは良いがちゃんと食餌が出来ているのか心配になる。忙しく移動するのはタカなどの捕食者から逃れるためのようだが、それにしてもである。

群が近づいて来た時の写真。
よく雀が混じっているが、
本日の写真からはアトリ一色だった。

いっとき吹雪のなかのガン。
ヒシクイかマガンか判然としない。

春爛漫の季節とは真反対の冷たく荒れる日の冬鳥を見ていると、こんな過酷な環境を選ぶ鳥たちの幸福とは何だろうと思ってしまう。しかもようやく春の訪れが近づく頃には、もうこ居られないとばかり北へ飛び立つのだから。

多分彼らが帰る北国の大地には淡い春の陽光と柔らかな若草が待っていて、気に入った伴侶とともに抱卵し子育てをするのだろう。そこにおける秋までが最も幸せな時間だと想像できる。それに対して今どきの当地は、凍り付くふる里を避けるための避寒地であり、彼らの野性からすればこの程度の気象なら何とも思わないのかもしれない。

時には翼へのあこがれはあるが、私には渡りなど絶対に無理で、せいぜい吹雪を耐える彼らを見てはその身を案じることしか出来ない。

京都滋賀の旅 最終日は延暦寺。

2025年1月8日(水曜日)

4泊5日の京都滋賀旅行は本日延暦寺を参拝して終わる。この日は延暦寺のみなのでいつもより遅く出発した。

初めて来て色々お世話になった山科駅。

この度はケータイにSuicaを入れてきた。初めのうちは不慣れだったが、次第にさっさと改札出来るようになった。ちなみに全部で13回の改札、4670円を電車代に使った。
一方タクシーは12000円ほど乗っている。がめつく言うと二人とも昼食を摂らない分およそ2600×4日=9200円を節約できているので、一定分タクシーの埋め合わせにはなっている。

比叡山ケーブルカー坂本駅。
京阪電駅からバスで10:30ころ到着。

昭和2年に建てられた駅舎は国の有形文化財に登録されている。

縦長の窓や灯り
が文化財的。

窓外にはうっすらと雪。

時々現れる晴れた琵琶湖を眺めながら11分で延暦寺駅に到着。

ベンチの雪。

鐘楼のある階段上から見た
改修中の根本中堂。

護摩祈願が行われる根本中堂は2026年まで10年がかりで大改修中。受付で二人分の祈祷を申し込む。ともに「家内安全」と「健康祈願」にした。間もなく暗い堂内で20人分ほどの護摩祈祷が始まった。
私達はやや高い所の椅子に並んで座る。不動明王を祀った祭壇の前に僧が座り読経を始める。こちらから見えないが6、7人の若い僧が堂内に居て経を唱和する。
祭壇に小さな火が灯され、僧は経を唱えながら絶え間なく印を結び法具を操る様子。大勢の僧の唱和が堂内に響き荘厳な雰囲気になってくる。前段は辺りを清め、不動明王をたたえながら呼び寄せる儀式と思われた。
読経の響きが高まると護摩の火は一段と大きく立ち上り明王が現れたらしい。
祈願を申し込んだ者の県と名、祈願内容が読み上げられていく。終盤、私達一人一人の祈祷になった。祈願を書いた護摩木が焚かれあらためて炎が立ち上った。唱和のなか何とも言えぬ有り難みがこみ上げ胸が熱くなる。終わってお札とお守りを一式もらい暗い堂から出た。妻は目を赤くして感動したと言った。

護摩供養
延暦寺ホームページから。
まさにこのように見えていました。

外でずっと梵鐘が鳴り続けている。祈祷を終えて鐘楼へ行くと次々に参拝者が撞いていた。

  お年寄りがお孫さんとおぼしき人と
撞くと、拍手が起きた。

私達も列に並んで撞いた。

さて以下は中学二年生の秋に行った関西修学旅行における延暦寺・根本中堂の写真です。
当持は二眼レフが大流行。みな親にせがんだカメラをぶら下げて歩いた。私は父に連れられ柏崎のカメラやさんで買って貰った。

如何にも山中の寺院に見える。
周囲は狭いが正面はどうだったのだろう。

根本中堂は大きくて恐らく二眼レフには入りきらなかったのであろう、右手に回って斜めから撮っている。

比叡山を占める延暦寺は150余の堂塔があるといい世界文化遺産になっている。他にも魅力的な所があったが、護摩祈祷を受けたあと鐘を一つ撞くと晴ればれとしてしまい、他所を見ることなく下山することにした。

早いか遅いか、長いか短いか、歳月はどちらも合っている。修学旅行から70年近く経ったが、振り返ってただ一言“何とか生きて来ました、本当に有り難うございました”としか言えない。

足を揃えたらと言われて
撮ってもらった。

 

敦賀駅で。
新幹線が逞しく見えた。

私達の旅行は不思議と買った切符よりも早く帰ることになる。このたびも買い換えた。

どっとお腹が空いたので京都で買ったお弁当を車中で食べ、帰宅すると延暦寺のお札を並べて妻作のはりはりとお蕎麦を食べた。

はりはり。

祈祷と祈願のお札、それとお守り。
運転、作業、健康にいっそう気を付けけよう。

 濃茶を練って旅行の無事に感謝。
石山寺で求めた井筒製のお菓子が美味しい。

旅行中は慌ただしい晦日にも拘わらず、2日もお付き合い頂いたAさんご夫婦には感謝に堪えません。お陰様で何倍も楽しい旅になりました。どうかお元気で、またお会い致しましょう。私達も身体に気を付けその日を楽しみに致します。

何日も長々と書き連ねて失礼致しました。今年もどうか宜しくお願い致します。

本日は終日風と共にみぞれが降り辺りは再び白くなっています。今後の二日間寒波の再来です。

七草粥に大根のバター煮 蝋梅。

2025年1月7日(火曜日)

本日1月7日は強風に見舞われたが暖かかったため、平地の雪は殆ど消えてしまった。
今日は七草がゆの夕食。珍しく妻の方から撮ってみたらと言う。そんな時に限って上手く撮れないのですが載せました。

粥と豚汁。

 

いつも頂くお宅からの大根。
良い味でした。

蝋梅。

昨年植えた仕事場の蝋梅がけなげに黄色の蕾と花を付けていました。一枝とって玄関に飾るといい匂いが漂っています。午後の往診で寄ったいつものお宅の庭でも良く香っていました。うちの蝋梅はこのお宅のを真似て植えた次第です。
荒れる寒い時候に咲く蝋梅。しかも長く咲くので感心します。

ブログのヘッダーも蝋梅に替えました。

旅行の最終日、延暦寺は次回にさせてください。夜になってザーザーと雨が吹きつけ始めました。次の寒波が近くで待っているらしく、冬本番はまだ先です。

2024年大晦日の 渡岸寺十一面観音、八幡掘、ラコリーナ近江八幡 日本という国は。

2025年1月6日(月曜日)

さて12月31日大晦日は旅行4日目となり、滋賀県・湖北地方の 長浜市高月(たかつき)を目指した。
渡岸寺は高月駅から徒歩10分ばかりの所にある。一帯の寺には優れた観音像が安置されているというが、特に渡岸寺の十一面観音は日本屈指と称され明治30年に特別国宝指定となっている。

旅行前に、ここは是非という知人の言葉もありこの日は特に早く出かけた。懐かしい米原で東海道本線を北陸本線に乗り換え7駅目が高月。 風景は山が近い京都と違ってとても平坦だった。

高月、 渡岸寺の地図。

一帯に賤ヶ岳や姉川の古戦場があり往時の戦渦は過酷だった。

当日は爽やかな流れがお伴。

駅から続く道案内。

寺院は地域で良く見る中ぐらいの伽藍。

目的の十一面観音は他の仏様とともに収蔵庫に収められていた。

極めて繊細緻密な国宝十一面観音。
衆生を救わんと圧倒的な聖気。
( 渡岸寺発行の絵はがきから)

奈良時代に作られた本仏像は室町時代の度重なる戦乱の際、地域の人々によって土中に埋められたという。寺は向源寺だが、今も積極的に観音を護る土地の名が冠され「渡岸寺の十一面観音」と称されている。

先の両陛下と現陛下の
皇太子時代に行啓
された記念碑。

境内のコゲラ。

続いて彦根へ。是非ともお城を見たかったが大変な混雑。時間を区切って入場するようになっていて長時間待たなければならない。残念だが非常に立派なお堀を見て近江八幡へ向かった。彦根城は一大観光地化していた。


近江八幡は先ず遠い湖畔の曹洞宗長命寺へ参り、駅に戻りながら観光することにしてタクシーの客になった。
運転手さんには、いかつい外見とは裏腹にこまやかな対応をしてもらった。

寺院は湖畔から240ートルの高さにある。車は幾つも曲がりながら坂を上り駐車場に着いた。そこからは徒歩で三つの急な石段を上らなければならない。上ろうとすると運転手さんが事務所から専用の杖を2本持って来てくれた。
それを手に上り始めるなり妻は、私には無理と言い、写真を撮ってくるからと私一人が行くことになった。

途中の階段から見下ろす。

 170段ほど上り長命寺境内に着いた。赤く塗られた諸堂は丹精され、冬なのに杉とともに濃い緑に囲まれていた。照葉樹林文化という言葉を思い出した。

向こうに鐘楼が見える。
建物配置のリズムと
赤が印象的な境内。

当寺の建造は3,4世紀、開基は聖徳太子と言われる由緒があり、建物はじめ阿弥陀仏、勢至菩薩、釈迦三尊像、十一面観音などは重文指定されている。

鐘楼を回ると目の前に開ける琵琶湖。

そろりそろりと下り、待っていた妻にカメラのモニターを見てもらい、良かったよと伝えた。

因みに前回触れた1818年生まれの高祖父・杉田玄作じいさんが40ページにわたって綴った文久2年(1862年)の「上京日記」には近江八幡(八万)のページがあり、本日出かけた長命寺を記した図が見えた。
※この時代の上京は京都へ行くことですね。

遠くの山に長命寺、手前の集落は八万(八幡のことであろう)と記されている。小舟木という地名も見える。
やはり私達は文久時代に祖先が旅した同じ場所を移動していたようです。

身内のことで大変恐縮ですが、見聞する玄作さんは何かと立派で、恥ずかしい私は穴があったら本当に入りたい。あの世から何てヘマな奴だと腹立たしく見られていると思う。
実際どう生きれば良いのか、残りの人生を何とか頑張ったら勘弁してもらえるだろうか。

さて現実に戻り、駅へ向かう車は途中八幡掘へ。

鬼平犯科帳のエンドロール
が聞こえてきそうな眺め。

運転手さんに撮ってもらう。

江戸の設定である鬼平犯科帳はよくここで撮影されたという。吉右衛門の犯科帳が好きだった弟に見せてやりたかった。

以下は当日最後の訪問地

ラ コリーナ近江八幡。

このような場所だと
子ども達は元気になる。

“土や水、自然とともにあるお菓子づくり”という「たねや」。裏手の広大な敷地に栄養たっぷりと見受けられる用土作りの一角が見られた。

人口的な社会構造が進む反対則で「自然」「健全」「健康」のコンセプトはいっそう一般化すると予感した。

日本は世界の何処よりも平和志向が強く健康な質と可能性を有する希な国だと信じられる。
よそ見をせず、そのことに価値と自信と希望をもって大晦日の振り返りとした。

ホテルで大晦日の夕食。

この度の京都・滋賀旅行は明日1月1日の比叡山延暦寺が最後の目的地。延暦寺では護摩炊きをしてもらう手はずになっている。

本日1月6日、実生活の仕事始め。長い正月休みだった。診療所スタッフに石山寺のおみやげと僅かなお年玉を配った。

本日の外来は平穏だったが、休み中本当に無事だったのか気がもめる。

京都、滋賀の旅 3日目の大津。

2025年1月5日(日曜日)

申し分けありません、本日の分は量が多く全てが終わらないうちに出てしまいました。一度公開をお休みにして記入を続け再度公開致します。

ブログ再開です。
山科に宿泊して3日目、12月30日はいよいよ初めての滋賀県見物となる。以前から石山寺、三井寺、坂本、近江八幡、彦根、湖北などには興味があった。観光すべく地図をみると着目すべき名所旧跡のあまりの多さに戸惑いをおぼえた。

限られた日数に照らし30日は石山寺→三井寺→坂本を巡る予定にして出発した。ぽっと出の田舎者がまず利用したいのはJR.線だ。当日もそうして大津まで行き、タクシー利用で石山寺へ向かった。この日初めから京阪線を使えばタクシー代をかなり節約出来ることが後で分かった。

タクシーはお金が掛かるが、特にドライバーさんが年配なら土地の人の本音が聞けるので勉強になる。この日田舎者の私達を乗せたドライバーさんはご機嫌で、真面目で大人しい滋賀県人を盛んに誇り、あちこち指さしながら琵琶湖の景観を損ねた大手デベロッパーの悪口を連ねた。

交通の要所、瀬田の唐橋や琵琶湖大橋では車を止めて撮影させてもらった。

最初の目的、東寺真言宗の石山寺はかなり遠くに感じられたが、参拝者は多く今なお大河ドラマの影響が続いているのを実感した。

石山寺東門。

この時期を旅すると花や緑が乏しい。しかしどこの社寺も正月を前に清々しく掃除され、晴れやかに飾り付けられているのが唯一良い所。簡単なようだがあの降り続いた落ち葉の片付け一つとっても、ここまでのお掃除は大変だったのではないだろうか。

参道からチラリと見える牛車が大河ドラマの雰囲気を伝えている。

 

石山寺の名の通り境内には荒々しい岩石が随所に顕れている。居ながらにして幽山の赴きが味わえるこの場所はかって貴族に喜ばれたのも頷ける。紫式部が源氏物語を書いた小さな部屋を開いた花頭窓から覗けるようになったいた。
ここで文筆し、万一詰まったならば寺院の何処かを歩き、夜ならjば月を眺めればまた筆が進んだことだろう。

 

私に石山寺と言えば多宝塔。この優美な塔を中高の歴史教科書や切手で何度も見て、いつか本物を観たいと思っていた。
あちらこちらから眺めて撮った。伸びやかに翼を広げ、待っていましたという表情だった。白い部分は高貴な鳥のようで美しい。

どうしても地図だけでは分からないのが境内の山坂。当寺はかなりきつく少々疲れて参拝を終えた。

私は善哉、妻は石山餅。
叶匠壽庵(かのうしょうじゅあん)製で、
妻は喜んだ。

2021年夏、心筋梗塞を起こして以来1日2食の生活。妻もそれに習ったので二人とも旅先で昼食が頭に浮かぶことは全く無い。

次の三井寺駅までの帰路は先ずバス、そして便利な京阪電車に乗った。

見るも楽しい電車のイラスト。
車内からちゃんと外が見える。

三井寺についたは良いが寺までの長い坂道に驚き早々と参拝を断念した。

代わって美しい琵琶湖疎水の脇を
ゆっくり歩いた。
豊かな水の流れは春を思わせた。

大津市役所。
それでも三井寺を諦めきれず
ここで降りて再び目指してみることに。

たまたま降りた市役所前の通りはさながら公園だった。植え込みは良く手入れされ、植栽された並木の樹木は生長に配慮して根部は以下のように処理されていた。

こんなに手間の掛かることをしているのはここくらいではないだろうか、さすがである。樹木も植え込みも市民も幸せであろう。
通りがかった地元の人に聞いてみたところ、まだ遠いらしい三井寺を本当に諦めた。歌舞伎にもなっているあの梵鐘くらいは眺めたかった。

まあいい、再び電車で楽しみな日吉大社の比叡山坂本駅へと向かった。到着すると昨日夕食をご一緒したA氏ご夫妻が待っていて下さった。私達を寒さに晒さぬよう先々で待っておられとてもかたじけない。

 

坂本駅から南側一帯は山に向かって緩やかな坂道が続き、左右に多数の社がある。当地は山王神社、日吉大社、日枝神社の総本山格の神社ということ。各摂社なども多く祀られ一大聖地と見受けられた。

延暦寺の里坊が混じり、各所に神仏習合が現実のものとしてみられる。紆余曲折や諍いはあったことだろうが、日本独自の緩やかさが今日両者を上手く共存させている。果たしてそれを宗教と言うだろうかは後にして、緩やかさもはや妥協を越えた心の習慣の如く、私達にしみ込んでいるように実感される。

いよいよ本日のハイライト、かってA氏がメールで知らせて下さった樹下神社へ来た。明らかに「樹下宮」と示され、この世に「樹下神社」は本当にあった。

随所に金をあしらった美しい樹下神社。
左右の勾欄にどんと構えた狛犬が頼もしい。


名は同じ「樹下」だが、こちらは「じゅげ」と読む。調べると驚いた事に大津~湖西一帯に十数もの「樹下神社」がある。他では先ず無い神社名を、何も知らないまま偶々私達も名乗り「樹下美術館」とした。
長い歴史を有し、晴れ晴れとして眼前に鎮座する神社と同じ名であることに何とも言えぬ有り難みと密かな誇りをおぼえた。

広大な日吉大社の参道の多くに重厚な石垣があしらわれている。当地坂本一帯は全国の城郭をはじめとした土木事業に於ける石垣造成で名を馳せた石工の集団「穴太集(あのうしゅう)」の本拠地だ。

広大な日吉神社境内と出入りする大小の通りには立派な石垣が連なっている。重厚だが白い石肌ということで、他では見られない明るさが印象的だった。

五角形の大きな石が積まれている。
不正形な周囲を小さな石がしっかり
囲み何とも楽しく仕上がっていた。

現在お城は修理程度、新たな垣の石積みも耐震の問題があり昔のように繁忙ではないようだが、海外で新たに評価され依頼があるという。
樹下美術館では地元柿崎は黒岩の石を使い駐車場や南側の土留めに石積みをした。作業を見ていたが滑車を組み立て、時には一人で器用に作業が進められていた(事故が起きないか心配だったが)。

清々しくも師走の日吉大社の神社を一回り、最後に延暦寺の本坊である滋賀院門跡を訪ねた。上掲2枚の写真はそこまでの通りの一角です。

「滋賀院」
重々しい黒瓦屋根。
対して今度は白壁が美しい。

院内には比叡山ゆかりの品々が
展示されている。

小堀遠州作の庭。
やはり石である。

閉門ぎりぎりの滋賀院は格式高い門跡だった。しかし何故か童心に返り、そっと忍び込み、わくわくしながら観て回った印象がある。

坂本を堪能したあとA氏夫妻の車で湖西は志賀にもあるという樹下神社へと案内して頂いた。

夕暮れ時に着いた「樹下神社」

鳥居の額の「樹下神社」。

日吉大社と異なり、ひっそりとして厳か。
目の前の琵琶湖と漁業の守り神
だったかもしれない。

このあたりまで来ると琵琶湖も奥まっていることが実感された。車を返して大津市内の逢坂にある食事処「佳山(かせん)」へ。長時間の運転をされたAさんには感謝を禁じ得ない。

さて「佳山」は小さな古民家で、雪国の者からするととても軽々した構造だ。しかし十分に使われた美しさと、オーナーの趣味の良さが現れている。
年末の難しい時期にA氏の奥様が探しに探し当てた店だった。

 

手作り風な机に古く簡素な椅子。それが皆ばらばらなのも「味」に感じられるのだから不思議だった。ガラス戸越しに懐かしげな坂の街道が見え、あの百人一首の蝉丸を祀った神社がすぐ裏を走る京阪線を挟んで背中側にある。意識するともなく遠い時代に包まれた。

立地といい建物造作といい、こんなに趣味が良ければ料理は美味しいに決まっている。
きれいな人が急で簡素な古い階段を音も無く上って料理を運んでくる。

マグロの赤身のひと皿から始まった。
深い藍の皿に赤身が映え濃厚な刺身だった。
以下お料理のなかから。

ダシが効いた鶏肉のミンチ。

美しい碗に甘鯛の汁物。
鮮やかな京野菜のあしらいも嬉しい。

室内の随所に生活骨董が見られた。これは簡素ながら呼び鈴のようだ。仏具かもしれない。京都は骨董の宝箱であろう、とても羨ましい。

マダラ白子の揚げ物。
いずれの料理のツマも見事に細く、
心入れが嬉しかった。

料理はまだあったが、心根の澄んだお二人との楽しさに多分撮り忘れている。
最後は甘味とお抹茶だった。

右下の可愛い落雁は
あるじのお手製。

実はこの場所は今から160年ばかり前、私の高祖父・杉田玄作が歩いた街道沿いかもしれないという話になった。車が行き交う店の前の暗い谷間のような場所を通過する長い坂道が、京都へ入る古い街道だと聞いたからだ。

1818年(文化15年)生まれの医師玄作は関西の薬問屋まで途中予約した病人を診ながら旅し、道中日記を付けている。文久2年(1862年)44才で明日訪れる予定の近江八幡を通過していることなども記されていた。

本日は大変に長くなりました。今後これ以上長いのは無いことでしょう。
蝉丸ゆかりの逢坂で食事したことから、古い先祖の足跡に近寄ってしまい、どこか村上春樹の小説のような時空を体験した食事でした。玄作の上京日記は古文書に詳しい方に読んで頂き、後日また触れたいと思いました。

最後に蝉丸の歌

これやこの 行くも帰るも 別れては
知るも知らぬも 逢坂(あふさか)の関

当夜の会食に相応しい一首です。いずれにしてもまたここで逢いましょうと理解しました。

次回は高月渡岸寺と近江八幡です。飽きたと言わずにどうかお付き合いください。

本日1月4日、最近の雪模様、コハクチョウなど。

2025年1月4日(土曜日)

新年になって続けていた京都、滋賀の旅日記。本日はお休みさせて頂きこの数日の雪などを掲載させて頂きました。
1月1日夕刻、関西から帰った上越妙高駅の駐車場に心配した雪は無く、そのまますっと帰ることが出来幸運でした。

3日になって午後からいっとき静かに降り始め、一度止みましたが夜から再び降り今朝まで20㎝ほど積雪しました。

 

3日午後の美術館横の草地です。
いっときシンシンと降りました。
ブログのヘッダー(表紙)は
この時の美術館です。

 同じ日近隣の水田にいた
コハクチョウの若鳥です。
同じ動作をすると可愛いですね。

 4日、いつもの妻が作った夕食。

明日5日日曜日で長い正月休みが終わります。明日からふたたび旅の残り12月30日の大津、坂本、31日湖北、近江八幡、1月1日比叡山延暦寺を掲載していきたいと考えています。思えば贅沢な旅をしたと、あらためて振り返っています。

今のところ気温は下がり、廊下では吐く息が白くなりますが風や雪は止み静かな夜です。

京都、滋賀の旅 2日目の京都。

2025年1月3日(金曜日)

京都滋賀の旅、12月29日、2日目京都です。宿の山科近辺から勧修寺、随心院、長岡京へ飛んで粟生光明寺、戻って智積院、涉成園、京都庵an、清水寺、八坂庚申堂を回るてんこ盛りの予定、ダメなら中止も交えた予定で朝早めに出発。

初めに庭を観たかった勧修寺が年末のため閉門ということで小野小町の随心院へ。
更衣として宮仕えをした歌人小町は死後平安時代後期にはすでに美女、恋多き女として語られ始めたらしい。当院は小町が住んだ山科区小野にあることなどから小野小町ゆかりの寺院として今日に到っている。

 

 

 

 

金剛菩薩と薬師如来。

 

上掲は百人一首九番目、
古今集から採られた小町の
「花の色は」の歌碑。

“花の色は 移りにけりな いたずらに 我が身世にふる ながめせしまに”。つまるところ春の長雨をぼんやり眺めている間にも私は老いていく、という心境を歌っている。恋多き絶世の美人ならではの嘆きかもしれない。
因みに、我が身世にふる:時の経過とともに、花が冒頭にあるため春の雨降りが想定され、最後にこの寺の創始者が「雨降り僧正」と呼ばれていたことへも掛かるのではないかと想像しました。巧みな歌作りは小町の凄さを伝えているようです。

上品でどこかなまめかしい随心院を後にJR東海道線の電車で長岡京へ。ここでは時代劇の斬り合いシーンで好んでロケされている西山浄土宗総本山「粟生(あわお)光明寺」の石段を観ることが目的。

 

 

粟生光明寺の幅広い石段。
時代劇俳優が颯爽と
殺陣を行うシーンジが浮かぶ。

東京の寺院であるはずの階段ロケがここでよく行われている。それほど広く、段差の低い石段と静かな寺院の雰囲気は時代劇撮影にぴったりだったようです。

長岡京はタケノコでも有名らしい。全国的に名を知られた筍料理の店があるというのでいつか連休などに来てみたい。
JR東海道本線で京都駅へ。駅の最も奥まったところに関空行き特急「はるか」専用ホームがあった。老いも若きも行き交う人の殆どが外国人なので異国にいる感じ。

 

何て可愛い電車。

近くの庵anで行われる舞妓さんによる抹茶のお点前体験に参加するため烏丸通りへ。

コンパクトデジカメの充電ケーブルを忘れて来ているのでヨドバシカメラで買った。上掲写真の椅子に座り、飲み物を求め一服、烏丸通りを上る。

 

スケールの大きさに
驚かされる東本願寺の御影堂門。

妻の実家の宗派はここが総本山。

午後1時に始まる舞妓さんとお抹茶体験場所に向かう。東本願寺の近くだったので時間通り着いたが、あいにく舞妓さんの都合がつかないため中止になったと知らされた。とても残念だったがお坊さんも教師も舞妓さんも忙しい年の瀬は仕方がないのか。

早々に勧修寺と舞妓体験の予定が飛んで、午後は東福寺又は智積院→清水寺→八坂庚申堂→夕食のコースになった。出来るだけ清水寺に近ずくため智積(ちしゃく)院へ。

真言宗智山派、智積院参道と本殿。

清々しや
華やかな五色幕。

五色幕の色は釈迦の身体を表し、緑(青)は髪、黄は体、赤は血液、白は歯、紫(黒)は袈裟を表しているという。

境内の木にカシラダカ。

 

境内の智積院会館で再度一服。
妻の善哉。

私はお抹茶。
良く点てられていた。

京都に来るたび清水寺に寄った。しかし智積院で乗ったタクシー運転士さんは「今日は清水寺には近づけない」と言い、行ける所までにましょうとなった。
やっと七味屋本舗の角まで来たが、その向こうは人であふれかえっていた。

ここで清水寺を諦める。

本日三つめの訪問中止で懐かしの八坂庚申堂へ三年坂を下る。

 

天台宗金剛寺境内の庚申堂は入り口に「日本最初 庚申尊」と彫られた碑がある。当寺の本尊が庚申信仰の本尊・青面金剛菩薩であるため、古来その寺として親しまれている。

お堂は2019年2月、庚申信仰への興味から寄った所で、以後来5年が経った。お堂は「光る君へ」で新たに取り上げられ、映えをねらって訪ねる若者の様子も変わり無かった。ただ私は年を取り少しく変わり、お目出度くなっている。

きれいなくくり猿に願い事を書いて写真のように奉納する。「生きがいを見つけられますように」「頭が良くなりますように」「成長できますように」などと書かれている。我が幸せよりも真剣に書いた若者たちの幸せを祈った。

さて、てんこ盛りの予定のうち三つを達成できなかった京都2日目。お陰で夕食の6時まで余裕が生まれた。八坂神社前から祇園花見小路へ出て時間まで一帯を散策した。

花見小路は混雑していたが裏の通りは静かだった。何時か来てみたい食べ物屋さんをなどを見つけては夢を膨らませた。

次第に食事の時間が近づく。

四条通りを渡り向こうの花見小路へ。
入ってすぐの中華「青冥(ちんみん)」が食事処。
小ぶりなビルの5F にある。

食事は中華で相客は大津に住んでいらっしゃる大手企業の要人。かって上越市に赴任された4年間、ご夫婦と親しくお付き合いさせて頂いた。去られた後も樹下美術館を訪ねて頂いたりメールを交換したり親交が続いた。


2019年に次いで2度目の
「青冥」のピータン。

先様お二人は奥ゆかしくも楽しい常識人。最初のピータンを撮ったものの再会に夢中になり後の料理をすっかり撮り忘れた。このたびは忙しい時節を顧みず、私の方からお誘いして明日また二度目の会食をすることになっている。

食後地下鉄駅まで皆で歩き宿の山科へとご一緒させて頂いた。

すっかり更けた夜の祇園四条。
地下鉄入り口は明日に通じる明るさだった。

長くなりました。

年末は山科に4連泊して京都、滋賀へ。

2025年1月2日(木曜日)

正月2日目です。
皆さま、いかが新年をお迎えでしょうか。一帯の平野部は現在小雪で、樹下美術館周辺には積雪が見当たりません。

実は妻と私は年末12月28日午後にこちらを発ち京都および滋賀へ行き、1月1日夕刻に帰ってきました。予め当欄で予定をお知らせすることも可能でしたが、昨今の留守は物騒なのでブログは予め作成し、日時を指定して予定投稿による公開という形にさせて頂きました。

遅くなりましたが本日から何回かに分けて年末~元旦の旅日記を掲載させてください。
それでは一日目です。12月28日(土)午前の仕事を終えて上越妙高駅から北陸線に乗車しました。積雪が多ければ東京→東海道新幹線を考えなければなりませんでしたが、当面ドカ雪の予報はなく北陸新幹線とサンダーバードで往復してきました。

まず以下は上越妙高駅の一コマです。ホームで見た若いこの人は何をしているかお分かりでしょうか、お掃除ではありません。

長い棹の先についているのはマイクです。彼は駅のアナウンスやチャイムなど音のコレクター(マニア)でした。鮮明な録音を極めると場内を越えてスピーカーへより近づくことになるらしいのです
因みに、私はこの駅の発車メロディー「夏は来ぬ」の作曲者小山作之助の弟のひ孫です、と告げるとすげーなー、と感心してくれました。鉄道は本当に様々な趣味を産んでいて、時々放映される「鉄ちゃん」番組は面白いですね。

京都が近づき琵琶湖が見えると
急に異国の気分に変わる。

夕刻無事京都着。宿は駅の直前「京都山科 ホテル山楽」でした。同ホテルは朝食はありますが基本夕食は無く、駅周辺にあまたある店で摂るという初めて経験するシステムでした。

大正ロマン風のホテルロビー

ホテルが作成した食事処の地図で目星をつけ、暗くなってから散歩がてら出て、近くのお寿司屋さん「初美」で食べました。

お寿司はもちろん、特に
やなぎ鰈の焼魚は美味だった。

但し大晦日はホテルの夕食が可能ということ、楽しみにして予約しました。

今回は初日から同じ宿の4連泊を予定、生涯初めての試みでした。それにしても山科は2日目の京都、3日目の大津周辺と坂本、4日目の湖北と近江八幡、元旦の比叡山などいずれも移動や交通の手間が省け、大変便利な所だと思いました。

年末のため閉まるところなど予定外のこともありましたが、宜しければ次回京都以後もご覧頂ければ有り難く思います。

謹賀新年 年頭の意識目標。

2025年1月1日(水曜日)

今年また謹賀新年の日となりました。恙ない方もご不幸に見舞われた方も、万事塞翁が馬として、様々に新年をお迎えのことと存じます。
そしてまた幸も不幸も綯える縄の如し、だれ彼なくめぐり巡るのではないでしょうか。
そんな事を心のどこかに置いて、先ずは一つ年取ってしまったことを有り難いとして迎えるのが新年かもしれません。

かって亡き母は90を過ぎて明らかに変わり成長しました。自を守っていた固さが取れ、見栄も防御も消えて柔らな人格になりました。これは傍目にも気持ち良く、良く言えば知的な印象が表に現れているようでした。

一連の変化は私達が母を出来るだけ多く外に連れ出したり話をすることで変わってきたように思われました。結果として私達が変わったので母も変わったように思われました。

「人に対して不平不満を言うなら、まず自分に向かって言ってみる」。言い古されていますが、年頭に当たってあらためて今年の「意識目標」にしてみようと思いました。“人間いくつになっても成長できる”と言い聞かせながら。

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