明け暮れ 我が家 お出かけ

長生きのお陰色々。

2025年10月20日(月曜日)

一昨日の投稿でタイトルを忘れて掲載してしまいました。もともと忘れものが多かった私ですが、年のせいもあるのでしょう、遂にタイトル無しの投稿が出で申し分けありませんでした。

ところで昨日妙高市の松が峰カントリークラブで同業のゴルフがありました。雨の予報が曇り時々雨程度になり、当日は殆どカサも挿さずに済む空になりました。

アマチュアゴルフには80才以上のために最も前から打つゴールドティーを使っても良いという温情があります。囲碁、将棋にも強さに応じてハンディをつけて対戦出来ますがスポーツでそれがあるゴルフは本当に貴重です。

ちなみに当日80才以上の方が三人いました。それ以下の方たちは「いいなあ」と仰いますので私達は「年を取るのとどちらがいいですか」などと言うのです。こんなことを言い合いながら日頃のお世話を感謝しあうなど和気藹々と過ごしました。

12人の参加でしたがお陰様で95で回り3位、他にドラコン賞(決めたホールで最も遠くへ飛ばした人の賞)ももらいました。折角もらった有り難いハンディを大切にして続けたいと思った次第です。

帰路クラブハウスから駐車場の眺め。
雄大な妙高山は雲の中でした。

以下の品は去る9月27日、当地域で行われた敬老会のお祝い品です。当日二人とも欠席で、遅くなりましたが本日妻が役所に行ってもらった来ました。

地元生産者さんのお米が二合、
地元の蔵本の清酒「かたふね」
それにインスタント味噌汁です。

私は敬老会に出たことがありませんがこんなお土産があるなら楽しかろうなと思いました。役所の方々には心から感謝です。
ゴルフ、敬老会の祝い品、大谷選手、庭の世話、美術館や医療を通した皆さまとの交わりなど、やはり長生きをして良かったと思うこの頃です。

本日は寒い日でした。間もなく本当にもうすぐ白鳥が飛来することでしょう。近くでギッ、ギッとモズの高鳴きが聞こえました。

加齢で不自由になる生活を「老化ゲーム」で。

2025年9月28日(日曜日)

時間と日によって涼しい、寒い、蒸す、暑いなど色々な空が現れて落ち着かなかった9月は終盤になってきた。ゴルフに行ったり八千浦の中学生さんたちが来館されたり,新発田市から亡き同級生の奥様一同が見えたり、元気だった方の悪化と回復や遠縁の相続放棄手続きなど、何かと忙しかったのは事実。

いっぽう加齢により日常生活の場面や動作において何かと神経を使うようになっているため、この半年ばかりは普通に過ごすのにも新たに漠然とした忙しさのようなものを感じるようになった。

つまり外出の身仕度、自宅や出先での忘れもの、要注意な運転カ所、他者への失礼、座位からの起立歩行、階段の昇降、靴の脱ぎ履き、あらかじめのトイレ、服薬のチェック等々用心が増え続けるのである。
これらは面倒な気遣いだが、意識し動作するたびに何故か近時面白い、あるいは楽しいと感じるようになった。
日常次々現れるこれらの一つ一つがその昔子供から借りて行ったゲームのようではないかと感じられるのだ。

ゲームなら危機を越えるたびに強くなっていく。しかし加齢によるリスクはいくら回避出来ても、最早強くはなれない。ただ「無事」というごく小さな喜びが一瞬かすめるだけであるが、しかしそれで十分ではないか。

今後ますます不自由は増え、ゲームには限界がありそうだ。だが待てよ、この先にはまた別次元の新たなゲームが待っているかもしれない。今は深く考えず淡く期待しておくことにしてみよう。但し深刻な認知症だけは避けなければ「老化ゲーム」は成立しないかもしれない。精一杯そのことだけは気を付けよう。

台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る その2。

2025年9月4日(木曜日)

さて昨日の続きです。昭和40年代、父の急な入院で急遽帰省することになる。秋だったのか、大きな台風が去ったばかりの上野駅は全面運休。意を決して駅前に並ぶタクシーに声を掛け、直江津まで行ける車を探し乗車した。本日はその続きになります。

道中記憶のあるエピソードは夕暮れの大宮からだった。大宮が近づくと運転手は駅に寄っても良いですか、と聞いた。こんな日の駅には足が無くなった人が大勢いる、もし良ければ相乗りは構わないかという。
車中色々話ながら来たが運転手の人柄については不安を否めなかった。災害時だ、一先ずいいですよと言うと車は駅に着き運転手は降りて行った。激しく雨が降るなか二人の中年女性を連れて戻ると私が助手席に移り三人の相乗りになった。

車中のことは詳しく覚えていないが、かなり走って相客の二人は雨の中を18号線沿いで降りた。私は再び後部座席に移動しウトウトした。

何度もうたた寝をくりかえしながら高崎市に入った。深夜の街で、碓氷峠の状況を聞いてみます、と言って車は電話ボックスの脇に停まった。雨のボックスでなにやら話す運転手。間もなく戻ると、110番で聴いてきました、峠は大丈夫のようです、と言った。

深夜際限なく曲がる雨の峠は怖くて眠られなかった。そもそもすれ違う車も無く暗い峠は不気味だった。
なんとか峠を越えると今度は千曲川の安否確認だった。小諸と上田でそれぞれ電話あるいは無線を使って道路状況を尋ねたように思う。
長野市を越えたあたりから夜が明け道路沿いに泥をかぶった水田や果樹園が続いた。

まんじりともしないまま上越市に入ると目がしゃんとしてきた。直江津駅近くの18号線は一部冠水し、迂回しながら浜線に向かうと港町の佐渡汽船周辺も水浸しだった。そこを慎重に越え一晩かかけたタクシー帰郷が終わった。

家に到着すると3万何千円が掛かっていた。運転手は相乗りをしたので3万円でいいと言い、母から残りを出してもらい、礼を述べて別れた。

上野駅で燃料と距離を計算したうえ乗車を引き受け、大宮で困っているであろう客を拾い、峠や川の状況を確かめながら当地まで無事運んでくれた運転手さん。不安を払拭出来ないまま乗車したのが途中から責任感のある人だ、と印象が変わった。

見舞った父はイレウス管が挿入され回復に向かい手術を免れたが退院まで代診を続けた。

あたかも台風を追うように一晩走ったタクシー帰郷。50数年経ったが二度と無いことだろう。

仕事場のブットレアに来ていたキアゲハ。
アゲハ類はこの花が大好き。
去ってはまた戻る。

今朝方の雷雨 その昔、台風直後の上野駅から大潟町へタクシーに乗る。

2025年9月3日(水曜日)

深夜の寝床で激しい雷鳴で目覚めた。音はゴロゴロ、ゴロゴロと遠く近く鳴り続けた。ウトウトしているといつもと違い恐怖感はなく壮快な打楽器のようだった。同じことが早朝にもあって似た感覚で聴いた。その後目覚めたのは激しく降る雨音で、ザーザー、ザーザーひっきりなしの土砂降りだった。

仕事が始まると直江津に近いスタッフが出勤の模様を興奮気に話してくれた。激しい雨中、家まわりから国道を含め相当に深い水を跳ね分けながら走り、とても怖い思いをしたということ。朝寝坊の私が知らないだけで、外はそんなに酷かったのかとびっくりした。

昼のテレビニュースで上越市、とくに直江津一帯の豪雨被害の状況が大きく取り上げられ、あらためてその凄さを知った。氾濫と違っていずれの映像もあふれ流れる水が澄んでいることで何故か余計に恐ろしく感じた。

当地頸北地域で近隣の水害をj直接目にすることは滅多に無い。ところで昭和40年代のある日父が腸閉塞症状で緊急入院した。一般に腸閉塞は重病、急遽当地実家へ駆けつけなければならなくなった。
当日は台風が去ったばかりだが雨風は続き、夕刻の上野駅ではほとんどの列車が運休になっていた。意を決して駅前に並ぶタクシーに、どうしても直江津方面まで帰らなければならない、出してくれないかと聞いて回った。

何台も断られた後、ある運転手が燃料と距離を計算し、待つ事しばし、行きましょうと言ってくれた。サイフには2万円ほどあり、足りなければ家に着いてから助けてもらうつもりで乗車した。

さて大変申し分けありません、時間が来ました。
続きは明日掲載するつもりです、どうか宜しくお願い致します。

お盆14日は柏崎市の木村茶道美術館へ。

2025年8月14日(木曜日)

本日午前はそよ風吹く懐かしい空。これが昼過ぎから相当にきつい暑さになった。そんなお盆の14日、妻の兄上と柏崎市の木村茶道美術館をご一緒した。

今年初めての美術館は涼しく第一展示室の茶碗展を席入り前に観た。28点の名碗はみな素晴らしかった。4番目に谷本光生さんの伊賀が現れてとても懐かしかった。昭和60年の新潟三越で初めて求めた茶道具が氏の茶入だった。

谷本氏自身が会場におられ、私が求めると傍に付きっきりで箱に入れ真田紐を結び名札をつけて下さった。このときまだ茶を習っていなかったが、やろうと決めた買い物になった。

加藤唐九郎の志野茶碗。

若尾利貞の鼠志野。

席が始まりました。

宗旦の竹一重切り花入。銘「ヨゴレ判官」
花はハツユキソウ、ワレモコウ、イトススキ。

釜は大西定林の「瓢形霰文
(ひょうけいあられもん」
古鏡の蓋が付いている。

 

素晴らしかった笹文の絵唐津水指。
お点前は江戸千家さんでした。

左に次客さんのお茶碗「御本三島暦手」
(ごほんみしまこよみで)
その胴に書かれた縦縞が暦らしい。
風情がよくてジロジロ見てしまいました。
拙主客は右の長入「赤楽馬盥(ばだらい)」茶碗。
夏の夢を思わせて素晴らしかった。

拝見。
宗旦の茶杓「弁慶」が見える。
気温が上がった昼に涼しいお道具組みだった。

床脇にひっそり紫陽花蒔絵茶箱。
(江戸末期)

最上屋さんお製のお菓子「宇治の里」を口にして南山園お詰めの抹茶「瑞宝」を美味しく頂いた。
ご一緒された方は茶席は初めてと仰ったが席の風情と館長さんの話を喜んで下さり、良い昼だった。

夕刻、理髪店に行った。あるじは、夕日が西に戻り始めましたねと仰った。暑い暑いと言っている間に暦が進み、知らず年かさを増やしているようだ。

スタート時間を遅らせてもらったゴルフ。

2025年8月7日(木曜日)

本日木曜の休診日。日頃庭を手伝ってくださるK氏と米山水源カントリークラブを一緒した。天気は昨夜から本日午前までかなりの降水が見込まれていた。
8時21分のスタートに会わせて起床するとじゃんじゃん降っている。スタート時間を遅らせて貰えれば雨に遭う時間を少なく出来そうだった。念のためゴルフ場に電話をすると1時間少々後にしてくれた。

 9時30分ころ、スタート前のコース。
雨仕度をしたが、小降りに変わっている。

 

 

1ホール回ると晴れて来た。

 

K氏が写真を撮りましょうと言った。

48-52で丁度100。二ヶ月ぶりにしてはまあまあのラウンド、K氏は98だった。
大げさではなく、いつ最後のゴルフになるかもしれない年令になっている。明らかに歩くのも遅くなった。不思議な事だが気持の通りに足が早く動かない。
写真を撮りましょうは面はゆかったが記念に撮ってもらった。氏とは何十回ラウンドしただろう。

茶室開きに招かれて。

2025年7月17日(木曜日)

本日昼、かねて茶室開きに招かれていたお宅を訪ねました。
蹲いを使い、にじり口を入るや茶の別世界が待っていました。茶室は三畳台目で神代杉の名木があしらわれています。
決まり事の中に個性を反映させ、茶室を作るのは茶人の夢。あるじご夫婦の創意工夫と長年の念願が詰まったお部屋は詫び寂びとともに暖かな愛情こもる空間でした。

蹲(つくばい)。

 

紫野(大徳寺のこと)雪窓の筆で
「壺」一文字のお軸。

茶味あふれるお道具。


気持ちの良い畳の香に包まれ、ほどよく湧く釜の湯音を聴きながら建立までの逸話を聴き、美味しいお菓子と濃茶、そして薄茶を頂きました。ご主人夫妻とお二人の相客に混じり、私達も和気藹々のひと時を過ごさせて頂きました。

頂いたお昼の美味しかったこと。

あるじご夫妻、お心入れのお支度は大変だったことでしょう。存分に楽しませて頂きました。どうかお疲れ残りませぬようご自愛なさって下さい。本日のお茶はきっと長く心に残ることでしょう。貴重なひと時を本当に有り難うございました。

頂いて帰った菓子楊枝。
材として用いた古竹で作られました。
良い記念です。

「健康で長生き」。単純ですが幸福の要素であることを噛みしめたひと時でした。

穂高のオアシス「岳沢(だけさわ)小屋」の姪 山が好きなS氏 宮城県を経由した「お乳盲腸」。

2025年7月6日(日曜日)

やはり暑かった本日。当地髙田で33,1℃、浜松では37,4℃もあったらしい。会う人ごとにこの先の暑さ思案し合った。
それでも海風がそよげば短時間なら外で草取りや水まきができる。

そんな日の午後、姪が宮城県からやって来た。昨秋亡くなった弟の若き長女Nちゃんが寄ってくれた。溌剌として自立する彼女は山に目ざめ遂に数年前から槍ヶ岳山荘グループの岳沢小屋で働くようになった。本日は実家に行き長野県に帰る途中の下車だった。

テレビが無く自立を重んじる独自の家庭環境で育った彼女は自由学園を卒業後、私達が思ってもみなかった道へ進んだ。ニコニコしながら真剣に人の話を聴くのは妹のHちゃんも同じで、同学園を卒業したHちゃんの方は上高地で働いている。

Nちゃんが尋ねた時間に新潟のS氏が来館中だった。氏も山がお好きで二人で話の合うこと、楽しい会話が弾み傍らの私達まで和やかな気持にさせられた。Nちゃんは当地の米山と火打山を登りたいらしく、近いうちに実現したいと言った。

もう10年は咲き続けているリアトリス。
紫もあったがいつしか白だけ残った。

近くの合歓の花。

美術館の水盤に来たカワラヒワ。
暑いのでシジュウカラ、ヒヨドリ、雀、
カラスなども次々に訪れていた。

ところでNちゃんは私のブログを観ているらしく、上越妙高駅まで送る車中、“うちのお父さんからも「お乳盲腸」と言う言葉を聞いたことがある“と話した。あれれ、私と姉だけの話だと思っていた言葉を弟も共有していたとは。

幼年に保育園で叫んだ「お乳盲腸」をある日姉が弟に伝え、時間を経て本日姪から私に返ってきたということのようだ。果たして弟はどんな風に聞かされたのだろう。しかしわざわざ詳しくNちゃんに訊く話でもあるまい。
「お乳盲腸」はごく近い身内だけが頭の隅っこに残す、あまり痛くない焼き印(ブランド)のようなものかなと思いながら無事上越妙高駅に到着した。
※アメリカのカウボーイが自分の牛に押す焼き印がいわゆるブランドの語源だといいます。

それにしても弟が昔話の人になってしまったのはどうしても寂しい。

「お乳盲腸」とは何だったのか。

2025年6月27日(金曜日)

加齢に従い当座のことは忘れるが大昔のをよく覚えている現象が強くなります。一方直近の出来事は生々しさを引きずっていて、特に自分が関係することなどを書くのは尻込みせざるを得ません。
その点昔の事、わけても幼少の出来事は絵本の一ページを開くごとく案外簡単に思い出されます。過日の予告では「豚小屋の雨宿り」か「鐘の鳴る丘」を記そうと思っていました。しかるに本日は西念寺さんの保育園時代について、最近姉から聞いたばかりの事を忘れないうちにと考え、急遽記載させてもらいました。

何度も書きましたが、私達家族は財産を没収され、昭和21年3月、父母とともに6才の姉、4才の私、3才の弟、0才の弟の一家6人で中国の「青東(ちんたお)港」から佐世保港へ引き揚げました。祖父母が作ったった多額の借金返済のために父が泣く泣く決行した渡満の結果という訳です。
満州鉄道病院の勤務医だった父は最後に無一文になりましたが、10年掛けて借金だけは返せたのは不幸中の幸いだったかも知れません。

満州時代の私たち子供はいつも家の中で過ごしたようです。家では姉弟と母、そして姑娘(くーにゃん:中国人の若いお手伝いさん)が一緒ということでした。それが引き揚げて潟町の実家に来ると叔父伯母従兄弟などで家はごった返していて、いつも外で遊びました。

満州時代に知らなかった「友だち」。驚いたのが彼らの強い個性と体力でした。5才になると(不定期だったかもしれませんが)より多くの同年がいる西念寺さんの保育園に通います。

とにかく私は体力や脚力が駄目で、一方口や歌だけは達者だったと親から聞いていました。一才年下の弟がしっかり歩くそばで、年上の私は何かを歌いながらお尻を漕ご漕ぎ移動していたということです。

さて本日のお題「お乳盲腸」は数ヶ月前に会ったばかりの姉から次のように聞きました。覚えの無いことでしたがひたすら赤面しながら聴きました。

ある日、何かの用事があり姉は保育園にいる私を迎えに来たときのこと。
お堂に入ると私が「お乳盲腸!」「お乳盲腸!」と聞いたことも無い言葉を叫びながら走り回っていて、とても恥ずかしかったと言うのです。

初めて聴く「お乳盲腸」は今の私にも衝撃的でした。一体5才の自分はどこで誰からそんな言葉を聞いたのでしょう。そして何の為に叫んでいたのでしょうか。

5才といえども自分の行為です。聞きながら、とても恥ずかしかったのですが、しかし何となくその時の気分が蘇るような気がしました。
とにかく何かをして注目されたかったに違いありません。

当地では「乳」としか言わないはずですので「お乳」は母か姉から「女性だけの部位」として耳にしていたのでしょう。「盲腸」は開業した父が当時Jよく診ていた病気でした。大抵診察後柿崎の外科医に手術を依頼する電話を掛けました。電話は恐縮と緊張感がありましたが「もうちょう」は滑稽な響きがあり、大人でいえば少しく「卑猥」な感じがしないでもありません。

無個性で虚弱な私は保育園でより大勢に囲まれます。周囲の個性と強靱さの中で、一体自分は何をアピールすれば良いのでしょう。毎日考えていたと容易に想像出来ます。恐らく造語、一種性的な「お乳盲腸」が浮かんだ時、これで勝負だ、と直感したのではないでしょうか。親が「医者」であることもアピールできるではありませんか。

姉が来たとき、お堂でそれを歌うように叫び、何人かが付いて騒いでいたと言います。
その時の私は虚弱と無個性の劣等感から開放されどんなに良い気分だったことでしょう。

しかし家に帰ると姉や両親からひどく叱られたはずです。
「お乳盲腸」の開放と勝利は一瞬にして罪悪感に変わり、一日で終わってしまったようです。

姉から聞いた話は恥ずかしくまた滑稽です。しかし遠い一件は今日まで私のどこかで「無個性と虚弱のコンプレックスの代償(埋め合わせ)」として生き続け、「私らしさ」の出発点として働いていたような気がしなくもないのです。

姉は良い話をしてくれました。

 数日前の夕焼け。

私の幼少 自他の個性が気になる。

2025年6月18日(水曜日)

過日は戦後間もなくの映画「晩春」と「麦秋」の感想を載せました。映画の発表は昭和24年(1949年)と昭和26年(1951年)です。
私の学年で言えば小学2年生と小学4年生に当たっています。映画が大人の事情を描いていたにしても、鎌倉の土地と映画の時代の違いには驚かされました。

以下は昭和24年、2年生の記念写真で映画「晩春」と同時代です。

一クラス61人もいます。
担任は優しい佐藤トシ先生。
大抵下駄ですが裸足の子もいます。

私です。
何の変哲もなく無個性。
個性的なほかの子が羨ましい。

皆の顔はそのままにしました。ともにひもじい時代を懸命に生きたすべての級友に敬意を表して、ぼかしやモザイクを入れませんでした。

当時を現すのによく「分校時代」と書きますが、写真の様に校舎は大きくしっかりしていて分校には見えません。私達の世代前後に生徒が増え、一方中学校には教室が余っていたため、近くの小学1年から3年生まで1クラスずつが分校として間借りしていたのです。ほかに本校までやや遠かったというのもあったのかもしれません。

お弁当コロコロ」や「バスにさらわれる」もおよそこの頃の出来事です。

勉強は何を習っていたのか、記憶に残るのは遊びばかり。紙芝居、ぱっち(メンコ)、釘飛ばし(地面に四角い線を書きその中で太くて長い釘を打ち合い、枠から出すとその釘を貰う遊び)、缶蹴り、トンボ取り、海水浴、相撲、後は漫画や雑誌のほか川上、靑田、大下などの野球選手に夢中でした。

 裕福な鎌倉の子ども達。
素の鎌倉が見られた
映画「晩春」のスクリーンショットから。

春の連休に「分校時代の思い出」を二篇書きましたところ案外好評でしたので、次回から幼少のことを少し続けてみたいと思っています。幼少には年齢的な定義がないそうですが、12才あたりまでを指すのが一般のようです。

幼少時代の驚きは、何といっても各人各様の個性です。顔つき、体力、得意のものなどみな異なる事に密かに驚いていました。このことは時に自分を不安にしましたが多くは面白くかつ楽しいことでもありました。

次回は「空振りのお召し列車」の予定です。

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