明け暮れ 我が家 お出かけ

茶室開きに招かれて。

2025年7月17日(木曜日)

本日昼、かねて茶室開きに招かれていたお宅を訪ねました。
蹲いを使い、にじり口を入るや茶の別世界が待っていました。茶室は三畳台目で神代杉の名木があしらわれています。
決まり事の中に個性を反映させ、茶室を作るのは茶人の夢。あるじご夫婦の創意工夫と長年の念願が詰まったお部屋は詫び寂びとともに暖かな愛情こもる空間でした。

蹲(つくばい)。

 

紫野(大徳寺のこと)雪窓の筆で
「壺」一文字のお軸。

茶味あふれるお道具。


気持ちの良い畳の香に包まれ、ほどよく湧く釜の湯音を聴きながら建立までの逸話を聴き、美味しいお菓子と濃茶、そして薄茶を頂きました。ご主人夫妻とお二人の相客に混じり、私達も和気藹々のひと時を過ごさせて頂きました。

頂いたお昼の美味しかったこと。

あるじご夫妻、お心入れのお支度は大変だったことでしょう。存分に楽しませて頂きました。どうかお疲れ残りませぬようご自愛なさって下さい。本日のお茶はきっと長く心に残ることでしょう。貴重なひと時を本当に有り難うございました。

頂いて帰った菓子楊枝。
材として用いた古竹で作られました。
良い記念です。

「健康で長生き」。単純ですが幸福の要素であることを噛みしめたひと時でした。

穂高のオアシス「岳沢(だけさわ)小屋」の姪 山が好きなS氏 宮城県を経由した「お乳盲腸」。

2025年7月6日(日曜日)

やはり暑かった本日。当地髙田で33,1℃、浜松では37,4℃もあったらしい。会う人ごとにこの先の暑さ思案し合った。
それでも海風がそよげば短時間なら外で草取りや水まきができる。

そんな日の午後、姪が宮城県からやって来た。昨秋亡くなった弟の若き長女Nちゃんが寄ってくれた。溌剌として自立する彼女は山に目ざめ遂に数年前から槍ヶ岳山荘グループの岳沢小屋で働くようになった。本日は実家に行き長野県に帰る途中の下車だった。

テレビが無く自立を重んじる独自の家庭環境で育った彼女は自由学園を卒業後、私達が思ってもみなかった道へ進んだ。ニコニコしながら真剣に人の話を聴くのは妹のHちゃんも同じで、同学園を卒業したHちゃんの方は上高地で働いている。

Nちゃんが尋ねた時間に新潟のS氏が来館中だった。氏も山がお好きで二人で話の合うこと、楽しい会話が弾み傍らの私達まで和やかな気持にさせられた。Nちゃんは当地の米山と火打山を登りたいらしく、近いうちに実現したいと言った。

もう10年は咲き続けているリアトリス。
紫もあったがいつしか白だけ残った。

近くの合歓の花。

美術館の水盤に来たカワラヒワ。
暑いのでシジュウカラ、ヒヨドリ、雀、
カラスなども次々に訪れていた。

ところでNちゃんは私のブログを観ているらしく、上越妙高駅まで送る車中、“うちのお父さんからも「お乳盲腸」と言う言葉を聞いたことがある“と話した。あれれ、私と姉だけの話だと思っていた言葉を弟も共有していたとは。

幼年に保育園で叫んだ「お乳盲腸」をある日姉が弟に伝え、時間を経て本日姪から私に返ってきたということのようだ。果たして弟はどんな風に聞かされたのだろう。しかしわざわざ詳しくNちゃんに訊く話でもあるまい。
「お乳盲腸」はごく近い身内だけが頭の隅っこに残す、あまり痛くない焼き印(ブランド)のようなものかなと思いながら無事上越妙高駅に到着した。
※アメリカのカウボーイが自分の牛に押す焼き印がいわゆるブランドの語源だといいます。

それにしても弟が昔話の人になってしまったのはどうしても寂しい。

「お乳盲腸」とは何だったのか。

2025年6月27日(金曜日)

加齢に従い当座のことは忘れるが大昔のをよく覚えている現象が強くなります。一方直近の出来事は生々しさを引きずっていて、特に自分が関係することなどを書くのは尻込みせざるを得ません。
その点昔の事、わけても幼少の出来事は絵本の一ページを開くごとく案外簡単に思い出されます。過日の予告では「豚小屋の雨宿り」か「鐘の鳴る丘」を記そうと思っていました。しかるに本日は西念寺さんの保育園時代について、最近姉から聞いたばかりの事を忘れないうちにと考え、急遽記載させてもらいました。

何度も書きましたが、私達家族は財産を没収され、昭和21年3月、父母とともに6才の姉、4才の私、3才の弟、0才の弟の一家6人で中国の「青東(ちんたお)港」から佐世保港へ引き揚げました。祖父母が作ったった多額の借金返済のために父が泣く泣く決行した渡満の結果という訳です。
満州鉄道病院の勤務医だった父は最後に無一文になりましたが、10年掛けて借金だけは返せたのは不幸中の幸いだったかも知れません。

満州時代の私たち子供はいつも家の中で過ごしたようです。家では姉弟と母、そして姑娘(くーにゃん:中国人の若いお手伝いさん)が一緒ということでした。それが引き揚げて潟町の実家に来ると叔父伯母従兄弟などで家はごった返していて、いつも外で遊びました。

満州時代に知らなかった「友だち」。驚いたのが彼らの強い個性と体力でした。5才になると(不定期だったかもしれませんが)より多くの同年がいる西念寺さんの保育園に通います。

とにかく私は体力や脚力が駄目で、一方口や歌だけは達者だったと親から聞いていました。一才年下の弟がしっかり歩くそばで、年上の私は何かを歌いながらお尻を漕ご漕ぎ移動していたということです。

さて本日のお題「お乳盲腸」は数ヶ月前に会ったばかりの姉から次のように聞きました。覚えの無いことでしたがひたすら赤面しながら聴きました。

ある日、何かの用事があり姉は保育園にいる私を迎えに来たときのこと。
お堂に入ると私が「お乳盲腸!」「お乳盲腸!」と聞いたことも無い言葉を叫びながら走り回っていて、とても恥ずかしかったと言うのです。

初めて聴く「お乳盲腸」は今の私にも衝撃的でした。一体5才の自分はどこで誰からそんな言葉を聞いたのでしょう。そして何の為に叫んでいたのでしょうか。

5才といえども自分の行為です。聞きながら、とても恥ずかしかったのですが、しかし何となくその時の気分が蘇るような気がしました。
とにかく何かをして注目されたかったに違いありません。

当地では「乳」としか言わないはずですので「お乳」は母か姉から「女性だけの部位」として耳にしていたのでしょう。「盲腸」は開業した父が当時Jよく診ていた病気でした。大抵診察後柿崎の外科医に手術を依頼する電話を掛けました。電話は恐縮と緊張感がありましたが「もうちょう」は滑稽な響きがあり、大人でいえば少しく「卑猥」な感じがしないでもありません。

無個性で虚弱な私は保育園でより大勢に囲まれます。周囲の個性と強靱さの中で、一体自分は何をアピールすれば良いのでしょう。毎日考えていたと容易に想像出来ます。恐らく造語、一種性的な「お乳盲腸」が浮かんだ時、これで勝負だ、と直感したのではないでしょうか。親が「医者」であることもアピールできるではありませんか。

姉が来たとき、お堂でそれを歌うように叫び、何人かが付いて騒いでいたと言います。
その時の私は虚弱と無個性の劣等感から開放されどんなに良い気分だったことでしょう。

しかし家に帰ると姉や両親からひどく叱られたはずです。
「お乳盲腸」の開放と勝利は一瞬にして罪悪感に変わり、一日で終わってしまったようです。

姉から聞いた話は恥ずかしくまた滑稽です。しかし遠い一件は今日まで私のどこかで「無個性と虚弱のコンプレックスの代償(埋め合わせ)」として生き続け、「私らしさ」の出発点として働いていたような気がしなくもないのです。

姉は良い話をしてくれました。

 数日前の夕焼け。

私の幼少 自他の個性が気になる。

2025年6月18日(水曜日)

過日は戦後間もなくの映画「晩春」と「麦秋」の感想を載せました。映画の発表は昭和24年(1949年)と昭和26年(1951年)です。
私の学年で言えば小学2年生と小学4年生に当たっています。映画が大人の事情を描いていたにしても、鎌倉の土地と映画の時代の違いには驚かされました。

以下は昭和24年、2年生の記念写真で映画「晩春」と同時代です。

一クラス61人もいます。
担任は優しい佐藤トシ先生。
大抵下駄ですが裸足の子もいます。

私です。
何の変哲もなく無個性。
個性的なほかの子が羨ましい。

皆の顔はそのままにしました。ともにひもじい時代を懸命に生きたすべての級友に敬意を表して、ぼかしやモザイクを入れませんでした。

当時を現すのによく「分校時代」と書きますが、写真の様に校舎は大きくしっかりしていて分校には見えません。私達の世代前後に生徒が増え、一方中学校には教室が余っていたため、近くの小学1年から3年生まで1クラスずつが分校として間借りしていたのです。ほかに本校までやや遠かったというのもあったのかもしれません。

お弁当コロコロ」や「バスにさらわれる」もおよそこの頃の出来事です。

勉強は何を習っていたのか、記憶に残るのは遊びばかり。紙芝居、ぱっち(メンコ)、釘飛ばし(地面に四角い線を書きその中で太くて長い釘を打ち合い、枠から出すとその釘を貰う遊び)、缶蹴り、トンボ取り、海水浴、相撲、後は漫画や雑誌のほか川上、靑田、大下などの野球選手に夢中でした。

 裕福な鎌倉の子ども達。
素の鎌倉が見られた
映画「晩春」のスクリーンショットから。

春の連休に「分校時代の思い出」を二篇書きましたところ案外好評でしたので、次回から幼少のことを少し続けてみたいと思っています。幼少には年齢的な定義がないそうですが、12才あたりまでを指すのが一般のようです。

幼少時代の驚きは、何といっても各人各様の個性です。顔つき、体力、得意のものなどみな異なる事に密かに驚いていました。このことは時に自分を不安にしましたが多くは面白くかつ楽しいことでもありました。

次回は「空振りのお召し列車」の予定です。

糸魚川のゴルフ お孫さんの宿題から始まった花。

2025年6月16日(月曜日)

昨日は糸魚川でゴルフでした。
気になるお天気はずっと前から雨100%で最悪。それが前日になると、午前は雨、午後から小雨また曇りに改善した。朝ポツポツやっているなか、一応しっかり雨仕度を整えて糸魚川へ向かった。

コース路傍のササユリ。

自他共にゴルフに熱心なA先生と一緒の組みだった。
数年前のゴルフで一緒の時、スタートの待ち時間や移動中に「ちょっと待って」と言って辺りを撮影する姿を何度か目撃した。珍しい様子に少し驚いたが撮っているのは花だった。
花がお好きですか、と聞くと「いやいや、孫の宿題です」と仰り、モニターを見せてもらい花の名を尋ねられた。たぶんツルリンドウ等だったと思う。

そしてこのたびは初夏のゴルフで同じ組になった。
途中杉に高く絡む真っ白なイワガラミやツルアジサイを目ざとく見つけて走り、「まるでアジサイみたいだった、変わっている花だなあ」と関心している。
「もう宿題じゃないでしょう」と言うと「あれ以来花に目が行くようになりました」と仰る。

ある場所で「ササユリだ、いっぱある」と言って車から降りると、「遅かった、時期が過ぎている」と残念そうに戻られた。
よくみると色も形も悪くなっている中に一輪、しゃんとしているのが見えた。これを撮りましょうと一緒にシャッターを切ったのが上掲の写真だった。

いわゆるゴルフひと筋の人がこうして野の花に興味を持つようになるのは貴重なことで、きっかけが孫さんの宿題だったのも微笑ましい。

ラウンドを終え、肝心の私のプレイは不振で106も叩き12人中10位、氏は96で8位ながら良いショットが沢山あった。表彰式が終わった帰り道、今日のゴルフは楽しかったなと仰り、本当にそうだと思った。

午前のお天気も傘をさすほどではなく、午後から晴れ間が現れることもあった。
最近のゴルフで嬉しいことの一つに、無事に終わることが加わったが、新たな花好きが出来たのも嬉しい。

フカミ美術主催、須坂市のお茶会へ。

2025年6月1日(日曜日)

本日6月1日、当地はポツポツ降り私が好きな清々しい6月の空ではなかった。
そんな本日我が県のお隣、北長野は須坂市で上越市のフカミ美術主催「緑陰茶会」があった。10時20分からの席に伺うべく車で髙田インターから信越道で向かった。

濃茶席に続いて薄茶席に伺った。お濃茶席(井上宗皋先生)は普願寺、お薄席(最上宗裕先生)は田中本家博物館だった。お互いの会場は隣り合っている。

主催「フカミ美術」のパンフレット。

 

普願寺の参道。

 

田中本家博物館入り口。

濃茶席の待合に掛かった「月にほととぎす」の絵、薄茶席の「瓢絵賛」とも時節や禅味が清々しい一幅だった。
本席の不味公および大徳寺大順和尚筆の掛け軸は難解だったが、ご亭主の説明により心に響いた。

お道具類の趣向や由緒に席主さんのもてなしの気持がこもり美味しいお茶を飲むことができた。両席がともに富士釜だったのもどこかで席主さん同士の心が通い合ったものと思われ心温まった。

以下はお濃茶席で拝見した床のあしらい。

お濃茶席の床。

不味公の筆による軸「無位真人出入面門」は臨済録からの出典ということ、難しい言葉だった。
“人間(自我)はただの肉だが、その中に真の人(仏)がいて様々な経験によってはじめて成長あるいは仏に近づく”という意味らしい。
未熟な自我(肉切れ)のまま生きることの愚かしさを戒めているのではないかと思われ、身につまされる。

二席を回ると早くもお昼になり、きれいで美味しいお弁当をほおばった。

点心(お昼弁当)席から見た庭。

田中本家博物館行きは三回目になった。館の流れは山国信州らしく淀みがなく澄んだ水音で心が洗われる。
高速道路を使って一時間少々の須坂市。しかし蔵通りの景観、路傍の流れ、郊外のリンゴ畑や葡萄畑の果実園は旅情が漂い、訪ねるたびに来て良かったと実感する。

出かける時はぽつぽつと降り県境ではかなり濃い霧に見舞われた。しかし帰りはそれも晴れ、清々しい信州行きになった。

旅行の最終日5月6日は酒田市の土門拳記念館、昭和時代の人物写真。

2025年5月13日(火曜日)

仁賀保、由利本庄の鳥海山見物を終え最終日は山形県酒田市でした。土門拳記念館で沢山写真を観、本間邸と長大な米倉を見学し、珍しく昼食を食べました。

土門拳記念館の一部外観。周囲に水があしらわれ、かなりモダン。

 

重々しい鉄扉

太平洋戦争の出征祝いの様子です。皆でビールを飲み日の丸を振り、晴れやかに過ごしています。父の出征でしょうか、向こう二人の息子であろう少年の胸中は複雑だった事でしょう。いや本当は皆複雑だったかもしれません。背後で泣くのは母親ではないでしょうか。おおやけには「喜びの涙」とされたに違いありません。このような経験をせずに80年が過ぎたのは大変貴重で幸せです。

「出征看護婦」
正装に白手袋が悲しい。
別れの水杯を口にしています。

「南京陥落提灯行列」
このような写真をみると職業写真家の
技術の凄さが分かります。

傷痍軍人がこどもをおんぶしているのは初めて見ました。小学5年生の上京で、汽車の中や上野公園、街角で募金箱を持った傷痍軍人の姿をしばしば目にしました。
高校時代の上京時も見たような気がしますが、何か怖いようで近づけず寄付をするかどうかも迷いました。それにしても当写真はこれ以上無いほど痛ましいですね。

ガード下でしょうか、
胸が締め付けられます。

以上2枚とも一緒のこどもをどう理解すれうばよいのでしょう、言葉もありません。

 

「担ぎ屋の子」
東京での撮影だそうです。

「母のいないこども」
筑豊のこどもたちシリーズから。

ある子が本を買うとその子の回りを子ども達が囲みました。先ず左右からのぞき込み三人で読む。次の人に回すと別の子が左右から覗きます。当持雑誌や本への関心は並々ならぬものがありました。

旅役者の一座は地域の娯楽に必須でした。当地にも決まった一座が回ってきましたがその名は忘れました。
残念ですが私は舞台を観たことがありません。写真は一座の触れ回り、チンドン流しでしょうか。これも見たことがありません。

嫁入りは文字通り「非日常のハレの日」。小学時代、近隣でも続けさまに嫁入り行列があり、全く不思議なものを見るように驚きをもって付いて歩きました。今このような花嫁が通りを歩くとしたら、どれだけのこどもが集まるでしょう。

薪を背負いとても自然な笑顔ですね。親と一緒だったかもしれません。私の患者さんで、子ども時代に泊まり込みで父と炭焼き小屋で過ごしたことを話してくれた女性がいました。美味しい鯨汁を作る父の手付きがとても鮮やかだったと話されました。

お弁当を持ってこない子はお昼に本を読みました。貧しくてお弁当が持参できなかったのです。
私の経験では学校に近い生徒は「家で食べる」と言って家に帰りました。当時、家に帰れて羨ましい、と思っていましたが、恥ずかしいことに、貧しさからだと分かったのは後年になってからでした。お弁当を持ってこない生徒はたいてい女子だったことも不思議です。この写真もそのようです。


映画の看板があるからといって必ずしも都会とは限りません。小学時代の私の村には少なくとも2軒(もう一軒あったかもしれませんが)とても質素な映画館がありました。
両親は映画館へ行くのを勧めませんでしたが、「血槍富士」と「破れ太鼓」の2回は覚えています。あまり楽しい映画ではありませんでした。

「終着駅」がかかる都会の映画館。
看板描きは画家の重要なアルバイト。

都会のおしゃれなスナップショット。このような場面をみるにつけ、早く大人になりたいと思っていました。上掲の男女の写真は詳しくありませんがパリのブラッサイ作品を彷彿とさせます。

今回も長くなりました。館内展示の土門拳の作品から戦前戦後の主にこどもを撮った作品を掲載し、戦後娯楽の王様、映画にまつわる作品数点を追加しました。

ちなみに掲載作品はみなモノクロです。
主観ですが、写真はカラーだと場面の「切り取り」の印象がありますが、モノクロは一挙に「作品性(芸術性)」が強まるように感じられのは不思議です。
しかしおそらく誰しもモノクロなら作品性が高まるとは限らないでしょう。確かな視点と構図を含む撮影技術の熟練はカラーより必要かもしれません。

土門氏の時代、自在に人物を撮影できたのも羨ましい限りです。時代の進歩の一方、他者による人物撮影(スナップ写真)が極端に制限されている現在、写真の面白みと価値が大きく減ってしまい、まことに残念と言わざるを得ません。

かっての人物は現在と比べものにならないほど「匿名性」を帯びていたことになります。昭和時代の人々は、普段一定の個別性は意識しつつも、カメラが向けられると匿名化し他者の撮影に応じていたのは不思議なことです。

現代は個別性(人権、プライバシー、アイデンティティー)やそれが晒されることのリスクを強く警戒します。しかし少なくても昭和時代には個人一般、男女、貧富さえ問わない存在として、カメラの前では人はみな同じという一種あっけらかんとした感覚を有していたようです。

最後に少々逆説的ですが、かっての私達はカメラ、あるいはカメラマン(特にプロカメラマン)を“特別なもの、あるいは特権者”として認め、素直に撮影を許していただけかもしれません。

他者による人の撮影の問題はわずか数十年の間に生まれた非常に大きな変化です。人権に関わることですから再び昔にもどることはちょっと考えられません。

さて同館における土門作品の撮影は自由でした。
皆さまも鳥海山見物の際には仁賀保高原や由利高原鉄道とならんで土門拳記念館の訪問をなさっては如何でしょうか。

秋田県の鳥海山 由利高原鉄道「おもちゃ列車」。

2025年5月11日(日曜日)

昼過ぎ仁賀保を出て普通列車で羽後本荘へ。同じ駅構内から良い具合に出る由利高原鉄道に乗車しました。

可愛いおばこが描かれた列車は終点「矢島(やしま)へ向かいます。

 

きれいなブルーの車内。同じブルーの鯉のぼりがあしらわれていました。

列車車内から鳥海山が見えます。出来れば駅も入れて撮りたいのですが、上手く行くとは限りません。行きに二度途中下車をしてみました。

 

途中下車のあと次の列車を待つ。
羽後本荘ー屋島の往復で、
3回途中下車して村や山を観ました。

最初の途中下車後、乗ったのは「おもちゃ列車」jでした。

小さな列車に楽しい工夫。
専門的な配慮が感じられる。

鯉のぼりが満載。
座席や机なども工夫されている。

 

 

こんなにしてもらって、
こどもたちは幸せではないだろうか。

 

お姫様ソファー
大人も楽しい。

二回目の途中下車「小吉」で見た
三基の庚申塔。
旅先で庚申塔を見るのも楽しみの一つ。

 

芸術的な建物。
何気ないが大した存在感。

「子吉(こよし)駅」の看板。

運転席脇から鳥海山。
少し雲が残っているが良く晴れてきた。

ここが本社、終点「屋島駅」。
こどもの日のイベントがあるらしく
駅舎内は賑わっていた。

屋島駅で食べたお団子。

帰路、下車した「前郷(まえごう)」の流れ。
鳥海山は多くの流れや伏流水を生んでいる。

「前郷」で見た鳥海山。
ようやく全容が現れた。

着いた由利本庄市からの鳥海山。
大変優美で神々しい。


上掲は駅で見た由利高原鉄道会社のポスター。
“賑わう通学は町の力と宝です”と書かれていました。本当にそうだと思う。下方には高校生の定期券を大幅値下げする、とありました。始発ー終点の一例として15400円→8100円は、もはや半額。
小さな鉄道会社の何と太っ腹なことか。市民目線の真剣な鉄道会社ではないでしょうか。秋田県の県民性かもしれませんね。

Aさん宅の写真ほどではありませんでしたが、午後遅くようやく春の鳥海山の全容を観ることが出来ました。また途中下車するたびに「おもちゃ列車」に乗れて幸運でした。

同夜は由利本庄市泊。ホテル「アイリス」はスタンダードな構えでしたが、部屋、食事、眺望などみな心こもったサービスを実感しました。翌日は酒田に戻り「土門拳記念館」「本間邸」「山居倉庫」を観る予定です。

こどもの日の一日、例によって昼食抜きで、こどものように楽しませてもらいました。

秋田県側の鳥海山 にかほ市から。

2025年5月10日(土曜日)

前回は去る5月4日の酒田美術館訪問を記し。今回は酒田からにかほ市へ出て一泊し、翌5日こどもの日は鳥海山を観るべくタクシーで宿を出た。

数多くの名山がある中で何故鳥海山なのか、問われれば以下の写真を挙げなければなりません。

写真には一部室内が写り込んでいます。

これは長年在宅で診ているAさん宅の玄関に掛かる鳥海山の写真で、あるじは秋田県ご出身です。
昭和30年代早く、当地上越市大潟区は試験掘削で石油と天然ガスが噴出しました。井戸の開発管理は(株)帝国石油(帝石)で、多くの社員が掘削先進地の秋田県から当地へ移住してこられました。

突然の地下資源開発は地域を急速に活性化させ、企業進出が始まると近郷近在から人が集まりました。帝石の産業医をしていましたので分かりますが、秋田からの社員は働き者で花が好き、みな頭が良くて正直でした。秋田弁丸出しの人々は地域に溶け込み町の発展に大きな貢献をされました。

上掲の写真は力強い迫力の山が真っ白な雪を深々とかぶり、静かに瞑目しているようで魅力的でした。プロが撮影したと考えられ、月1回伺うたびにいつかこの眼で本物を観たいと思うようになりました。Aさんには「仁賀保(にかほ)」市から撮影されたようだと聞かされていました。耳慣れないにかほ市はずっと脳裡に残りました。

この度ようやくその機会が訪れ実現したという次第です。
5月4日酒田で途中下車し、本間美術館を訪ねた後夕刻に仁賀保駅に降り立ちました。

きれいな仁賀保駅。
駅名は仁賀保駅ですが、
市名は「にかほ市」です。

迎えに出て貰った宿の車で
近くの仁賀保海岸に案内されました。
良い風光でした。

同夜夕食の「黒がれい」の煮付け。
味濃く非常に美味しかった。

食後、フロントスタッフに巻頭の写真を見てもらい撮影場所を尋ねました。皆さんの意見は多分鳥海山の北側、詳細は同定はできないが、仁賀保高原ということになりました。
しかし鳥海山は海に近いため雲が出やすく雨も多い。明日夕方はともかく晴れの山を見るのは少し難しいかもということでした。

5月5日朝タクシーで宿を出て仁賀保高原へ、主にブルーラインを走りました。

処々で正面現れる鳥海山。
但し山の上部は雲の中。
中々Aさん宅写真のようにはいきません。

鳥海山は海のそばの孤立峰なのです。

鉾立(ほこたて)展望台へ。

五合目、鉾立展望台(標高1150m)
次々登山者が登っていきます。

運転手さんに撮ってもらいました。

けなげなスミレ。

仁賀保高原です。

まだ雲がかかっています。
なかなか全容が見えません。

二つの牧場などをみてまわりると、少しずつ晴れてきました。

仁賀保高原南展望台から。
Aさんの写真は望遠レンズだったのか
もしれません。ここも大変良い眺めでした。

仁賀保高原を見て午前の鳥海山見物を終わりました。A氏宅でみたような全容を見ることは出来ませんでしたが、空は次第に晴れてきていました。
約3時間のタクシー観光の後、お昼前仁賀保駅へ戻り「羽後本荘」へ向かいます。あこがれの「由利高原鉄道」に乗るためでした。そちらからの鳥海山も楽しみです。

11時13分発の
いなほ1号がやって来ました。
羽越線「羽後本荘駅」まで11分です。

次回は由利高原鉄道です。「おもちゃ列車」にも乗りました。

鳥海山の前に酒田市は本間美術館へ。

2025年5月8日(木曜日)

5月4日仁賀保市へ向かうため新潟を発った特急は酒田乗り換え。酒田市の本間美術館を観る十分な時間があったので出向いた。

何といってもその富を公共事業や救民対策に投げ出した姿勢がケタ違いである。そもそも美術館も第二次大戦の敗戦に沈む市民を慮って昭和22年建てられたという。
展示品は本間家に伝わる庄内藩主酒井家、米沢藩主上杉家など諸藩からの拝領品および私蔵品を投じている。

長澤芦雪の「狗児(くじ)図」
師の応挙の子犬に劣らずとても可愛い。
※狗児は子犬のこと。

扇面に続いて与謝蕪村筆の俳句草稿に弟子であった呉春が絵を添えた屏風があった。
以下二作は添えられた生活感ある呉春の絵画部分。

「蕪村自筆句稿貼交屏風 呉春画」
貼り交ぜの絵画は当然一発で
決めたに違い無い。

 

以上二点は青手古九谷。
重厚な存在感。

太刀 名  月山正信作

 

安田 雷洲作「赤穂義士報讐図」
(写真は同館のデーターベースから引用)

上掲作品は大石主税が吉良上野介の首級を抱いている。幕末時代の当作品は劇的な構図、陰影のグラデーションなど西洋の宗教画を思わせ、一瞥してドキッとした。

竹内栖鳳作「富士山図」屏風
六曲一双の超大作。
(写真は同館のデーターベースから引用)

 伊藤若冲作「布袋図」
なめらかな曲線がとても爽やか。

以下は美術館隣接の庭園「鶴舞園」の一部です。

目立っていた赤いモミジ。
ノムラモミジか。

 

少々危ないジグザク橋には、
今居る場所を意識せよ、足許を見よ
など禅の意味合いもあるらしい。

向こうに別荘「清遠閣(せいえんかく)」

美術館の礎を築いた本間家は文字通り「日本一の地主」。かつ北前船で巨万の富を築いた商家でもある。往時は殿様以上の実力、実績があった。

『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』
『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』
堂島は国内の米が集中した大阪の街。そこが曇り、江戸の米倉に雨が降っても酒田は照っている。万一殿様にはなれるかもしれないが本間様は絶対無理、と歌われている。

このたび新潟県人として嬉しかったのは、上杉輝虎(謙信)公や直江兼続の書状や漢詩が展示されていたことだった。
そもそも本間家が佐渡で成功し、酒田へと進出、さらに発展したこと、および米沢藩が越後春日山から上杉家を迎えた経緯などから越後との深い因縁を感じない訳にはいかなかった。

5月6日に酒田を再訪し、土門拳記念館などを観ましたので後日掲載致します。
次回は今旅の主目的鳥海山です。

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