2019年1月
晴天の日、ちょぴり芝生の草を取る インフルエンザと呼吸など。
例年家の前の除雪が一仕事なのだが、今冬はまずその用が殆ど無い。車の出入りもすれ違いも普通通りで、仕事上大変に助かっている。
以下は本日午後の美術館の様子です。
芝生のところどころに草が生えていて、少しだけ取った。今春は手押しの肥料撒き機を購入して上手に沢山肥料をくべたい。
今日は特に上天気だった。小雪は良いのだがインフルエンザが流行っている。23人の事業所で9人が休んでいると仰る人がいた。朝お子さんを連れて来られたお母さんが夕方発熱して来られる。
マスクを付け、手洗いうがいをしても、急所の鼻(鼻腔)は弱点として残る。鼻を漱ぐ方法はあるが、それによって更に奥へとウイルスを拡散させてしまう懸念もある。
かように予防は難しい。私の場合手洗いうがいのほか、強いて言えばそれらしい方との場面で、出来るだけ深い(強い)呼吸を避けるようにしている(ウイルスを深く沢山吸い込まないように)。
つまり、ゆっくり息を吐きながら、または浅く吸いながら話を聴くという具合。マスクをしていて多少の息苦しさを否めず、つい深い呼吸をしがちだが、肝心の場面では用心している。
正直、上記の方法による効果のほどはよく分かりません。
ただ軽微なウイルスの吸い込みに対して、受けているワクチンに一定の期待をしている次第です。
この時期活発にふざけあったり、大声で笑いあうのはよくないかもしれません(残念ですが)。
特に多人数が仕事する密室的な部屋、あるいは列車、教室、冠婚葬祭、人混み、さらに激しい呼吸が必要な部活などは容易に感染を拡大させるような気がします。
たとえマスクをしていても、、、、。
※教室、冠婚を追加しました。
ミシェル・ルグランさんが亡くなられた。
去る1月26日に、フランス人の音楽家ミシェル・ルグランさんが亡くなられた(享年86才)。
ジャズピアニスト、作曲、編曲者として数え切れない業績を残し、2度のアカデミー賞、5度のグラミー賞に輝き、訃報に接したマクロン大統領は、無限の天才、と述べて死を悼んだ。
氏の作曲「風のささやき」(歌:ダスティー・スプリング
フィールド)。1968年公開の映画「華麗なる賭け」の主題歌。
2009年、自らのコンサートで自作の「シェルブールの雨傘」
を歌う。
マイルス・デヴィス(左)と。
マイルスが若き日のルグランが開く譜面に見入っている。
何て格好良いんだろう、高校を卒業する頃に買った本の写真から。
(写真:荒地出版社 1961年6月25日発行発行 モダンジャズ入門)。
氏の音楽はいつもスリルがあり上品で詩的。元気に活躍され、今年もコンサートが計画されていたという。こんな時は、どんな人にも寿命があるのだとあらためて思い知らされ、切ない。
上越市立歴史博物館・宮崎館長 髙田公園の庚申塔(庚申塔その16)遊心堂 なかに寿司 寒行 髙田暮景 大坂なおみ選手。
昨夜から降雪があった上越地方、日中ひと止みしたが寒かった本日土曜日。
午後から再び上越市立歴史博物館を訪ねた。お忙しい宮崎俊英館長にお目に掛かり、大切な話が出来た。
来る3月15日から樹下美術館は今年度の開館を迎える。齋藤三郎と倉石隆を常設展示する当館は毎年二人の作品からテーマを決めて展示を続けてきた。同一作家のテーマを考え、見せ方を工夫するのは気を遣うが、楽しい作業でもある。
これを何とか維持出来たのは、お二人の作品が比較的豊かなバリエーションを有していたことがある。また展示スペースが小さいため、数多くの作品を準備せずに済むという事も大きかった。
今年の展示についても新鮮を意識し工夫をこらし、皆様に楽しんで頂くよう準備をしている所です。
本日宮崎館長にお会いして是非お尋ねしたかったことがもう一つあった。髙田公園の庚申塔の所在である。すると、ありますよと即座のお返事。「ぶら髙田」を持ち出され、すぐに場所が確認できた。
「ぶら髙田」 著者朝倉有子(代表) (有)北越出版 平成26年3月31日発行。
帰路、本町の春陽館に行き、最後の一冊と仰る本を求めた。
書物の一部。
髙田公園内の55基の碑・モニュメントの場所が写真とともに地図に明示されている。
使う人本位の真に親切な一冊。
一大懸案であり、あきらめかけていた髙田公園の庚申塔は身近にあった。髙田に庚申塔があることもそれが公園にある事も貴重である。
有り難い、さっそく向かった。
30㎝近い新雪の公園で左上方の庚申塔を目指す。
私は短い街中ブーツ、妻は長靴。
高田生まれの妻は、雪と言うと基本張り切って動き、本日先導した。
合掌し、弓矢に剣と鉈?を持つ青面金剛。
上部に日月文、見にくいが下部に三猿が約束通り刻まれていた。
塔ではなく塚と表されている。
塚の基壇部分の側部に寄進者の記銘。「 いろは高山千三」と刻まれている。
いろは肉店のご先祖であろう。
他所のものをここへ寄進されたのか、あるいは実際に庚申待ちをされた供養なのか。
ちなみに手許の「越後の庚申信仰」に以下の掲載写真がある。
昭和41年発行の本。髙田城址公園と記され、現在と同じ場所なのか。
日は春陽を思わせる。50数年経って実物に出逢えるとは。
今日まで大切にされていて感激した。
その後本町4丁目は「アートサロン 遊心堂」へ行った。
新旧の茶道具が見栄え良く並んでいる。上品な変化を付けた棚(茶道のお点前で用いる棚)が見つかり、値段も手頃だったので購入した。
店主と齋藤三郎の話をした。熱心な主から沢山質問を受け、スリルがあり非常に楽しかった。
その折、昭和二十一年作という齋藤三郎作品の写真を見せて頂いた。樹下美術館で最も古いものは二十二年の染め付け菓子鉢だ。それを更に1年のぼった箱書きは線が細く当時の三郎の筆そのものである。時期は近藤悠三への師事を終え、富本憲吉門下となって二年目に相当している。
楚々とした染め付け香合で、春蘭を描き、鉄絵の具でふち取られていた。
23才、まだ入門中だった時代であろう。しかし署名が許される作品を制作していたとは。それを認めた師の大きな懐と眼力に驚き、まことに良い勉強をさせてもらった。
主はまた一昨年、当館が発行した「樹下美術館の齋藤三郎」を念入りに読んで下さっていて、緊張を禁じ得なかったが嬉しくもあった。
遊心堂で長居をするとすっかり暮れていた。帰路たまたま「なかに寿司」の暖簾が目に入った。
賑やかな店に運良く二人分の席があった。
お寿司屋さんにいると太鼓の音。寒行をする方たちだった。とても懐かしい。
帰宅すると大坂なおみさんが全豪オープン決勝の最終セット。それを見事に取った。
彼女の言動は率直で新鮮、とても好感が持てる。一般に欧米の授賞式における挨拶は、まず敗れた相手やライバルへのリスペクトを十分に表す。この日、大阪選手は長年の夢、などとは一切言わず、クビトバ選手への賛辞とサポートチームとファンへの謝辞に終始した。王者に相応しく真に洗練された態度だった。
ほのぼのとしたユーモアもあり、ずっと愛される選手であることを心から期待したい。
上越市歴史博物館と雪の髙田公園 頸城区は日根津の庚申塔(庚申塔その15です)。
木曜日午後は休診にさせてもらっている本日、妻と上越市立歴史博物館を訪ねた。時折激しくみぞれが吹きつけが、積雪にはならず道路は何とか普通の靴で歩けた。
昨年7月、名前も新たに新装なった当館を初めて訪れた。たまたま知人と出合い楽しく一緒に廻った。
残念ながら展示物はすべて撮影禁止のため、パワーショットで施設の一部を撮ってみた。下手な写真だが撮影出来ればお見せしてみたい展示物は多かった。
上掲2枚はカフェに飾られていた名椅子。上が帝国ホテル東京の設計を引き受けたフランク・ロイド・ライト1902年デザインによる「ミッドウエイ」。下はチャールズ・レニー・マッキントッシュによる1924年の「ラダー・バック(はしごの背中)」です。両方とも大変に斬新。
一階の広いフロアーは床に上越市の地図が描かれている。向こうに大きなヒマラヤスギと濠。
博物館は大きなガラスが随所に使われている。ガラスは汚れが目立つので管理が大変。しかし気象の悪いなか、大変きれいに磨かれていて感心した。
二階が受け付になっている。らせん階段があると写してみたくなるのは癖。
展示は安土桃山時代、つまり謙信公が関係する春日山の時代から堀氏の福島城、そして髙田城から現代へ書状、絵図、現物が資料として丁寧に示されてている。
以前はあっけらかんとして味気ない陳列室の趣きだった館内が、テーマごとに動線を変化させ、それぞれがコーナーとして楽しめるるように工夫してある。
専門家でないので文字資料は苦手、絵図・写真や品物に目が行く。春日山城の復元図で、描かれていた天守閣風な建物を興味深く観た。一方、当持国内有数の城下の様子は想像するしかなく、それが難しい。かって部分的にイメージ出来たのは大河ドラマ「天地人」であり、幾つかの今町シーンは新鮮だった。
立派だったのは日枝神社の山車飾りである大きな黒漆の孔雀像で、実に優美だった。また雪下駄の制作過程、町屋模型、克雪の道具類、豪雪写真などは、やはり風土独特の博物として当館の貴重な展示物になっていると思った。
雪国の哀切と美を象徴するものとして、瞽女杉本キクイさんに関する資料と齋藤真一氏の瞽女油彩が印象的だった。齋藤作品はサイズが小さくとも、小ささゆえ求心力があり、見る度に素晴らしさを増す。
町屋の台所の写真は懐かしかった。土間のスノコ、流しとかまどはモノクロ写真にピッタリ。どこかに手押しポンプは無いかと見れば、隅に写っていた。中高生時代、寺町の下宿でポンプを押して水を汲み、歯を磨き顔を洗った。
展示最後の生活家電、電話、オーディオなどでみる時代の流れは、新しい世代にとって驚きではないだろうか。年代ごとに生活感と手わざの風合いが感じられ、親しめる。
明るいショップで本を買った。
「懐かしのわが街 上越」岡観妙著 新潟日報事業者 2008年10月1日発行。
遠足、祭、バス、下駄、宣伝カー、いずもや、しながわ、、、。
懸命な生活の中にあふれる精一杯の楽しみと将来への希望が切り取られている。
見終わって帰路はいっとき吹雪きとなった。以下は髙田公園の様子。
あらためて当地の冬はモノクロだと思った。齋藤真一氏ではないが、そこにあって最も鮮やかな色は、人間の熱い血の色なのだろう。
いまだ探訪つづく庚申塔。樹下美術館から最も近い場所が頸城区日根津に見つかった。それまで大潟区は内雁子の塔が7,3キロだった。それが日根津で7,0キロに縮まった。日根津は今の所知り得た、頸城区内で唯一の庚申塔でもある。本日日は暮れたていたが折角の外出、妻を連れて再度訪ねた。
日根津は願成寺境内入り口に、六地蔵と如意輪観音と共に手前に建っている。
以下は過日訪ねた時の写真です。
上部に日・月が彫られ、合掌する青面金剛は宝剣と羂索それと体に巻き付いた?何か太い物を後ろ手に掴んでいる。この手は弓と矢を持っているものが多いが、まさかヘビなのか。浦川原区有島でも似た形を目にしていた。
有島の庚申塔。六臂の腕の出方や角度、持ち物、太い足腰の三猿などは両者でかなり似ている。
太いものを二重に撒いているが、まさか同じ石工(いしく)ではないだろう。この地方の一種定番だろうか。
妻のことども。
昨夜半のいっ時かなり降っていた雪だったが、朝には止んでいた。幸い積雪はわずかで、地面が見えているところもかなりある。
今冬、予報では降る降ると言われながら海岸部は小雪のまま推移しいてとても助かっている。
そんな日頃、本日は妻の事どもを二つ。一つはお花、もう一つは昼食をあげてみました。
本日の昼食、熱いあんかけ五目麺。妻は何でも作り、本日も麺少なく具は沢山で、いつも感謝している次第です。
いつしか1月は下旬、現在3月15日の開館に向け購入した図書の資料を作っているところです。ジャコメッティやルオーの画集、ほか魅力的な川瀬巴水の版画を取り上げた別冊太陽などはお勧めです。小鳥や庭の写真集などを含めて10数冊を新たに準備しています。どうかご期待ください。
過日の柿崎区は密蔵院彫刻の作者が江戸彫りの五代後藤茂右衞門であれば。
去る1月17日に柿崎区は密蔵院護摩堂の彫刻を掲載しました。
実は彫刻は二つの部分があり、お堂の周囲の広縁に沿った壁面は中国の故事に由来する物語が、高い軒下には天女が彫刻されていた。210×260㎝(縦×横)の彫刻が4面ある壁面部分は容易に手が届くため金網で保護されている。一方天女たちは高所のためであろう網はなく、じかに観ることが出来る。
掲載した写真はいずれも女性の像で、表情豊かであり特に興味深く観た。お堂脇に護摩堂の説明板にあり、末尾に彫刻の作者として、浅草、茂右衞門 髙田、又吉 万吉 重五郎 と書かれていた。
面長うりざね顔の女性達は浮世絵で見慣れている平板な姿と異なり、血が通い豊かでリアリティがある。また色塗りされていないため、木目が活かされていっそう動きや陰影に面白さが出ている。
作者が気になり、説明板にあった浅草、茂右衞門をググってみた。すると当時の社寺の木彫は江戸彫りと呼ばれ島村、後藤、石川の各家が三大系譜として上がっていのが分かった。中でも後藤家は中心的な位置づけにあり、後藤正網は初代茂右衞門を名乗り、代々襲名され幕府御用彫物師を継承する一門とあった。特に文化年間のはじめ頃の五代茂右衞門は優れた人で、多くの門人を輩出している事がうかがわれた。
当密蔵院の建立は文化11年から足かけ4年を要しているので、もしかしたら五代茂右衞門の可能性もある。説明書きの浅草、茂右衞門がその人であれば、同寺の彫刻はいっそう貴重なものに感じられるが、果たしてどうなのだろう。
ちなみに説明板にあった髙田、万吉 又吉 重五郎は分からなかった。しかしいずれにしても三人の彫工は江戸の名工茂右衞門を頭領として喜び勇み仕事に励んだことだろう。文化、文政の自由で一段と豊かな文化が花開いた時代は人の往来も活発で、地方と中央が盛んに交流しあったことが窺われる。
ところで五智国分寺の三重塔の彫工は髙田の倉石正義と記されている。あるサイトで倉石(後藤)正義と記されていたので、やはり後藤流の人だったのか。先の三名から少し時代が下るが髙田文化の一端が垣間見られて嬉しい。
上述の三大家の一つ石川流にはあの魚沼は西福寺の開山堂などを彫った雲蝶がいて、明治、大正時代を通して近代彫刻へと道を拓いた高村光雲は後藤流の系譜の人だという。
暖かくなったらまた密蔵院を訪ねてみたい。
上越市は寺町、浄興寺(歓喜踊躍山浄土真宗興行寺)さんの窓。
年6月に火頭窓から始まった二十三夜塔と庚申塔巡り。しばらく窓から離れていましたが、本日その変わり形と思われる窓を記してみたいと思います。
実は昨年秋に上越市寺町の浄興寺を訪ねていました。胸がすくような規模の大きい名刹ですが、拝堂と本堂、拝堂と宝物殿を結ぶ回廊に変わった窓の設えがあることに気がつきました。
大きくしてみました。これまで見てきた火頭窓は上から二つ波を描いて下へ真っ直ぐ、あるいは広がって下がり、底は水平でした。
しかし上掲の窓は下部が曲線を描き、底の部分に変化を付けて、全体を丸く横長にしています。色々検索してみても、中々このような形が見当たりませんでしたが、とても上品な印象を受けました。
ところが過日の柏崎行きでは、二カ寺で少々似たような窓に出合いました。
左右が下に向かって丸くなり、底の部分に二つ返すようなた変化が付けられています。
さらにその後の市内西本町の専念寺で以下の窓に出合いました。
装飾窓のようですが、上掲した二つと同じく左右は丸みをおび、下枠に二つの波のようなあしらいがあります。当寺院の宗派は浄土真宗浄興寺派とあり、本山である髙田寺町の浄興寺に少々ならったのかな、と当日思いました。
ネット検索の結果、ふとしたことから茨城県常陸太田市の古刹、佐竹寺本堂の両隅に以下のような窓があることが分かりました。
拙いスケッチで申し分けありません。前記した三つをまとめたような形状でした。
さて以上本日示しました窓は、いずれもてっぺんの宝珠を思わせる丸みに続き、以後の丸みが下ですぼまり、左右結ばれています。また下の枠部分に波のようなあしらいも共通し、一般的な火頭窓とは異なっていました。
何か名前があるのかと思いましたが、唯一見つかった佐竹寺では火頭窓と記されていました。
普通の火頭窓よりやや手が混み、かつ上品に見える窓はどこか雲をも思わせましたので、雲居窓などと読んでみたくなった次第です(もちろん雲居窓でググっても出てきません、、、)。
最後におまけですが、浄興寺さんの門前に久家堂という仏具屋さんがありました。
前と脇で形が異なりますが、いわゆる花頭窓風でしたので少し驚きました。
これまで話題にしてきました火頭窓ですが、火灯窓、花頭窓、華頭窓ほかいろいろな書き方があるようです。
次から花頭窓と記載したいと考えましたので、どうか宜しくお願い致します。
冬の看取り 柿崎は密蔵院護摩堂の天女像彫刻。
度々の寒波が報じられ、寒風が吹き付けているが仕事場の上越市大潟区は殆ど積雪が無い。
零下になる時間もある厳しい寒さの中、昨日から三件の看取りがありました。100才を越えた方、100才が近い方。ご家族による暖かな在宅介護のもとで、肺炎も無く静かな旅立ちをされました。
そんな本日は昨年秋、柿崎は米山薬師の別当寺密蔵院を訪ねた折に観た護摩堂の彫刻を掲載してみました。精緻に彫られている天女たちは麗しく気品があり素晴らしかったのです。市の案内によると、一度失われたお堂は文化11年から足かけ4年を掛けて作られ、彫刻の記載に浅草、茂右衞門 髙田、又吉 万吉、重五郎 とありました。浅草の彫刻師を頭に髙田の彫工たちが一緒になって完成させたのでしょう。
この寺院は近隣の上下浜海岸や上下浜駅、楞巌寺とともに映画「ふみ子の海」のロケ地でもあります。
このたび亡くなられた方達は皆様大正のお生まれ。ご本人ご家族とも先の戦争の影響を濃く受けて苦労された世代だと、ある僧侶から聞いたことがあります。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
後からでは遅い「もっと親に聞いておけばよかった」。
過日ある方から明治13年、小山作之助16才における上京について、長野まで徒歩だった事は分かっていますが、その後はどうやって行ったのでしょうかと訊かれた。
私たちの家は作之助の母トヨの実家であることなどから、よくこのような質問を受ける。だが祖父の顔もしらない私にその13才年上の兄作之助の事などまず分からないというのが正直なところだ。
但し父は生前作之助を叔父さんと呼び、学生時代の東京生活で度々自宅を訪ねた事が作之助の日記にも記されている。作之助はある程度研究されているが、青春期になぜ親に黙ってまで上京したのか、如何にして音楽を志したのか、などはやや判然としていない部分がある。
このような事は生前本人に会った人であれば直接詳しく訊けたはずであろう。だが残念ながら私は亡き父に詳細を尋ねたことがなく、一方小山家の方でも細かに話す人がいなかった模様だった。今なら少なくとも父には一種執拗に尋ねてみたいところだが、残念というほかない。
話変わって、日頃あれこれ親に聞いておけばよかった、と思うことは多い。晩年の母にはかなり聞いたが、父には満州でのことをはじめ祖父母、さらに曾祖父母の人ととなりなどを、ほとんど聞いていなかった。
一つ言えることは、若き私自身それらに熱心な興味を抱いてなかった、ということがあり、もう一つ、父は煙たい存在だったというのもあった。
万一父にも私と似たような事情があったならば、その親や祖父母についてもあまり訊いていなかったかもしれないが、どうなのだろう。
ただ、12人兄弟姉妹の長男だった父の学生時代、帰省するとまた新しい兄弟が生まれていてイヤだった、と聞かされたことがある。また祖父の度々の事業加担と失敗、祖母の贅沢などで借金がかさみ、その返済のため現金を求めて満州に渡らざるを得なかったことを苦々しげに話したことはあった。
お盆になっても父は墓参りをしなかったのは、そんなこともからんでいたのだろうと、思っていた。
何かと口を閉ざす父に代わって、叔父叔母たちが曾祖父の断片的な逸話を話すことがあった。
写真なども無い曾祖父・貞蔵については、医者であり、生前幼い孫達を座らせては漢文を教えていたことを聞いた。語られたのは、不勉強の際、掛け軸を掛ける竹棒でピシャリと叩かれたことばかりなので、せがんで容姿や仕事ぶりなども訊けばよかった、と振り返っている。
(※貞蔵の作之助への生活支援に対して、作之助から送られた月々の小遣い帳が一通だけ残っています)
冒頭の作之助の明治13年の上京に戻すと、村上一郎著「おもかげ(伝記・小山作之助)」には吹雪の大田切小田切を倒れそうになりながら懸命に歩いたとある。ほかに父か叔父叔母から、ある日の宿泊は旧信濃追分の油屋旅館、その先は安中という話を聞いたような気がするが、自信はない。だが作之助の上京当持、高崎線、信越本線の開通はまだ先のことなので、すべて徒歩だったのは間違いないことだろう。
現在寿命はどんどん延びている、そのどこかで親に聞きたいことがあれば遠慮なく尋ね、親は伝えたいことがあれば、つまらない話と言って喋ってみるのも悪くないはずである。
庚申塔その14,三度目の柏崎に歴史と信仰の重量感、そして貞心尼の墓。
本日如何にも降りそうな空が我慢をしてくれた日曜日、再度柏崎を訪ねた。このたびは妻も一緒で11時に出発した。まず過日の笠島は多聞寺で庚申塔はじめ石仏を見て港へ降りた。
出がけの柿崎で、雲が退いていく米山を眺める。
今日はこの山の向こう側を訪ねる。
降りて行って岩に登ってみた。
高い所へ上がると童心に返り、とても楽しい。
笠島を後に柏崎市街へ。念願の貞心尼の墓碑がある常盤台(ときわだい)の洞雲寺(どううんじ)をはじめて訪ねた。
貞心尼は寛政10年(1798)に長岡藩士の娘として生まれ、23歳の時柏崎で仏門に入り、明治5年75歳でその生涯を閉じている。29歳で晩年の良寛を知り和歌を通じて細やかな師弟関係を続けた才人であり、容姿も非常に美しかったという。
この門をくぐって貞心尼の墓に上っていく。
冬真っ最中のため杉落ち葉が多い。
最も高い所に貞心尼(孝室貞心比丘尼:こうしつていしんぴくに)の墳墓。
墓は弟子の二人の尼僧、乾堂孝順比丘尼と謙外智譲比丘尼によって建立され、以下の辞世の歌が刻まれている。
「くるににてかえるに似たりおきつなみ立居は風の吹くにまかせて」
人生は沖の波のように行くも返すも似ている。私の身も立つ波と風に任せ、あるがままを受け入れよう、という主旨なのか。
貞心尼は長岡の少女時代に柏崎に連れてこられ、初めて海を見て感動、以来同地にあこがれを抱いていた。魚沼地方の医師と結婚するも離婚となった後、望み通り柏崎に移り住んだ。そこで二回の庵を編んだが、いずれも焼失の憂き目にあっている。
“くるににてかえるににたりおきつなみ、、、”
大好きだったであろう海を詠みこんだ歌には、勤しみと受容の人亡き師良寛の辞世とされる以下の句と似た観点を感じる。
「裏を見せ 表を見せて 散るもみじ」
良寛はもみじに貞心尼は波に生涯を重ね、二人とも自然と同一化している。最後まで固き師弟であろうとした心情が想像され、胸打たれる。
鐘撞き堂。触るように撞いてみたらぽーん、と柔らかい音がした。
洞雲寺を後にして、大洲に入り過日の大聖院で庚申塔群を拝観し、小久保1の西光寺へ。同寺は先日一人で訪ねた折、山門が印象的でまた周辺の様子が清々しく、門前の庚申塔と二十三夜塔が立派だったので案内した。
文字塔の中に青面金剛の石仏塔が入り、右端に二十三夜塔が建っている。
堂々たる揃い踏み。
色鮮やかな山門は昨年長崎を訪ねた時に見た寺の門を思い出させる。
西光寺を後に鵜川を渡ってすぐの御嶽山神社へ。
その後の西本町は香積寺であの猿が掘り出された庚申塔と柏崎勝長公の碑を拝観した。
柏崎市は至る所に社寺があり、予定の行程は忙しい。香積寺を辞して近くにあるはずの柳橋道祖神社を探したが、見つからず一息付こうとファミレスで遅い昼食をとった。柳橋は諦めて次の目的地比角(ひすみ)と日吉で目指す庚申塔を探した。来た事が無い場所のため、中々上手く行かない。
すると予定になかった所で庚申塔と出合った。
青面金剛(しょうめんこんごう)が左手にしているのはショケラか。
過日浦川原東俣で見た金剛は髪を掴んでいたが、この塔では胴を握っている。
荒ぶる仏、こわもての青面金剛はしばしば「女が嫌い」と伝えられている。
ショケラ(半裸の女性?)を鷲づかみしているのは姦通への戒めなのか。
男性本位の庚申待ちで、女性だけ乱暴に扱われているのは気の毒。
そんな空気の中で、女性たちが二十三夜の月待ちを行った気持も頷ける。
この金剛は邪鬼に乗っている(踏んづけている)。
その下に不見、不言、不聞の三猿。
浦川原と同じくどことなく可愛い邪鬼、猫みたいだ。
角形の文字塔にi刻まれていた「西野入村 石工(いしく) 善八」の記銘。
善八(ぜんぱち?)さんとはどんな人だったのだろう
こちらには比角村講中と彫られている。
※講中:庚申待ちごとに決まって集まる地域の仲間。
現在柏崎比角は街中だが、塔には村とある。
村とはいえこれだけの石塔を残している。
そこにどんな時が流れていたのだろう。
同社にあった石祠(せきし)は窓?がハート型になっている。
ほかの神社でこの形が逆さになっている石祠を見た。
若い人達が見れば喜びそうだ。
この形は古来社寺に於いて猪目(いのめ)と称され、魔除けの働きを附されているらしい。
イノシシの眼のことらしいが単眼を形容したものか、双眼を捉えたのか分からない。
比角、日吉で目指す護摩堂や地蔵堂が見つからず、時間を浪費した。8号線から252号線に入り南下して安田方面へ向かった。出発してすでに6時間近く経ち夕闇が迫ってきた。
探していた安田明神は無かったが、鳥越という場所で二基の庚申塔に出合う。
暮れる道をさまよう私たちを待っていたかのよな庚申塔。
右の屋根を冠したような石塔は珍しいかも知れない。
鳥越のあと、山沿いに帰路を取ると立派な寺院に出合った。如何にも寄って行け、という風情の慶福寺だった。
階段を上ると山門前に苔むす庚申塔。これも予定に無かったので嬉しい。
立派な本堂に火頭窓が三つ、朗らかに迎えてくれた。
杉木立の上に細い月が昇っていた。
帰路を急がなければならない、鯨波へのバイパス?を走った。真っ直ぐだと思っていたが山中をかなり曲がりくねる。鵜川に出たところで、左・佐水、と記されている。暮れていたが佐水の名が良かったので左折した。
右岸(西)に見えていた米山に代わって遠くに尾神岳が見えてくる。見なれた山容の裏手を走り旅情がつのる。ひなびた旅館でもあればいいのに、と妻が言うが夢のような話である。
家に帰るとお腹が空いていて、妻は豚汁とお茶漬けを用意した。
わずか4,50キロ先なのだが、とても遠い所へ行ったような気がした。
三回に亘り、探訪したのは柏崎市の一部をほんのちょっぴり。
だが同地は随所に社寺があり、人と信仰の距離が大変近い印象を受けた。歴史が古く地域に重量感と物語を、また社寺の宗派、系統も多彩で人の寛容さを思った。
周辺に魚沼と似た空気を感じ、市街地は都会的でますます興味深い。よくスタッフさんやボランティアさんが樹下美術館を訪ねて下さるドナルド・キーンセンターは勿論、まだまだ多数あるらしい庚申塔、二十三夜塔、火頭窓、貴重な史跡などさらに訪ねてみたい。
また帰路に垣間見た整備された広大な湿地の自然にも惹かれた。
随分長々となり申し分けありません。
柿崎海岸の波 今の所の小雪、出番が来ない除雪機。
昨年末から何度か大雪寒波が予報された。しかし平地、なかんずく沿岸の美術館や診療所の一帯ではごくわずかな雪がみられるだけで推移している。
午後休診の一昨日は行きつけている柿崎海岸を歩いた。しばしば柿崎の海を歩くが砂浜が保たれているからだ。
およそ柿崎以西にある大潟区~黒井の海岸は1970代から激しい浸蝕にあい、懐かしくも美しい砂浜が失われてしまっている。それで砂浜を歩きたいときは柿崎海岸へ行く。
冬の柿崎は大きな波が打ち寄せると砂浜に上がってきてしばらく溜まる。
波の動きは激しくあるいは滑らかに形を変えるので見ていて飽きない。
はや1月はなかばに掛かり、暦の上では冬の半分が終わろうとしている。いま小雪だが本番はまだ先かも知れない。
ところで昨年の大雪に懲りて除雪機を買ったが出番が無い、と仰る方いた。昨年購入した私たちの機械はテスト的に一回だけ使った。
除雪機は案外大きく置き場所に困る場合がある。それで春になると来冬まで預かる販売店もあるようだ。先ほどの方は、自分で屋根付きの置き場を作るという。時々こういう器用な人に出会うことがあり感心させられる。
母校からホームカミングデーの記念品。
数日前に母校から包みが送られてきた。開けてみると色々と入っていて、昨年10月に行われたホームカミングデーの記念品だった。
「ホームカミングデー」とは大学が年一回、卒後25年と50年に当たる学年を母校に招待し、祝ってくれるイベントで、今年11回目ということだった。
誠に残念なことに当日用事があって出席できなかったが、この度記念品が届いた。資料を見ると対象者が64名で当日26名が出席していた(90名ほどで卒業しました)。
Golden記念表彰と書かれたプレート。
ゴールデンとは卒後50年生で、25年生はシルバーと呼ばれるようだ。
仕事場の机に飾っておこう。
同封された冊子とCD。
校歌(斎藤茂吉作詞)および当日の式の模様や学生時代のアルバムなどが同封され、ネクタイがプレゼントされていた。
ネクタイは百合をシンボルとした母校の校章が織り込まれている。
以下送られたCDからの写真です。
「昭和大学ホームカミングデー お帰りなさい!想い出の母校へ」の垂れ幕。
当日このようなものを見たら胸が熱くなったことだろう。
綿密に準備をされた大学関係者、同窓会、招待学年有志に心から感謝したい。
この度は50年は医学部のみ、薬学、歯学、保健の各学科は創立50年未満のため25年表彰者が招待された。
在校生による室内オーケストラの演奏。
式典後チアガールと応援部による卒業生へのエールが送られ記念の会食をしている。
基幹校舎と病院がある品川区旗の台へは学生時代は大岡山から大井町線で、病院時代には洗足池から池上線で通った。
母校は入学以来薬、歯、薬、保健の各部が次々に造設され医療系総合大学に成長している。
当時5棟程度だった旗の台の基幹施設は現在22施設棟に拡充され、都内および横浜の大学病院は3100余ベッドにまでなった。
学校のモットー「至誠一貫」をどれだけ実践できたか自信はない。
卒後50年、仕事を続けられたのは皆様のお陰であり、このたびは母校のお陰でもあると思った。
本日からブログ(樹下美術館館長のノート)の様式が変わりました。これからもどうか宜しくお願い致します。
本日は大変に寒い一日、髙田で最低気温-4,1でしたが、現在美術館で10㎝程度の積雪です。
庚申塔その14,柏崎市は大聖院と香積寺の庚申塔。
昨秋の浦川原顕聖寺で謎めいた二十三夜塔を初めて見た。
その後の魚沼で二十三夜塔と共に建つ庚申塔にも興味が
広がった。
二十三夜塔は女性主体の二十三夜の月待ち、庚申塔は
男性主体の庚申待ちの行事を行った後、神仏への帰依と
家族、地域の安寧を祈願した供養塔だった。
信仰対象は庚申待ちでは主に青面金剛(しょうめんこんご
う)、二十三夜待ちは勢至(せいし)観音菩薩と覚えた。
庚申塔は文字だけを彫ったものと、青面金剛像を彫った
ものが見られるが、なぜか二十三夜塔はみな文字だけの
塔ばかりだった。
行事は、古くは貴族、僧侶の行いだったものが、江戸中~
後期には農漁村を中心に庶民信仰の下地に家内と生業
の安全と地域の親睦、さらに娯楽が加味されて非常に盛
んになっている。
庚申待ちが明治以後、姿を変えながら時代に即して戦後
一時期まで続けられたようだが、二十三夜待ちはそれよ
り早く姿を消していることも不思議だった。
さて美術館館長のブログとしては抹香臭ささを否めません
が、昔の人々への親しみとある種畏敬を禁じえず、宜しけ
れば折々に見聞を記してみたいと思っています。
さて本日は笠島の続き、柏崎市街の探訪を記させて頂いた。
みぞれ降る寒い午後だったので自然と急ぎ足、最初に大洲(
(おおす)の大聖院(だいしょういん)を訪ねた。
高台への上り口に安置された石仏、石塔。上っていくと墓
地があった。門碑に淡島神社と記されているが、大聖院と
いう寺院境内らしい。立体的な景観が印象に残った。
続けて同市西本町界隈へ急いだ。
以下の香積寺(こうじゃくじ)には初めて見る庚申塔があ
った。
重なり合う庚申塔。向こうが文字塔、手前に石仏塔。
石仏塔の下方に定番的な菱形手足の三猿が並んでいる。
左に二十三夜塔、向こうに庚申塔と賑やかでとても良い。
二十三夜塔は十を二つ並べて二十と読ませている。
そういえば齋藤三郎(陶齋)の色紙には二を二つ並べて四
と読ませる日付があった。昔の人のお洒落な機知は気が利
いていて楽しい。
さらに以下の塔に目を見張らされた。
下方の三猿の像が素晴らしかった。
聞かざると見ざる。
指や目までこまやかに彫られた猿は秀逸であり、果たして
市中の石工(いしく)によるものだろうか。作家の署名が
あってもおかしくない出来映えだった。
猿は庚申信仰の重要な要素で、青面金剛への救済祈願を補
強する役割があるようだ。
左に発願者閻魔町山岸儀右衞門母等の文字が見られた。
地域の篤志家による寄進だったのか。
読みは不得手だが、比較的新しい石塔なので何とか読めた。
(但し自信はありません)。
さすが明治、近代的な表現と、バランスを意識したデザイ
ンは非常に斬新で魅力的だった。
境内には本人と妻子の悲劇が謡曲「柏崎」となった柏崎
の長・柏崎勝長公を祀るお堂が設えられていた。重税に
対して救民を訴え出た勝長公の物語は哀切きわまりない。
去る日の柏崎市はもう一回分残っていますが、明日は都
合によりお休みさせて下さい。
庚申塔その13,なぜか安心どこか楽しい笠島の多聞寺。
長い正月休みが明けて本日から仕事。
患者さんに合うとほっとする。
もうムチは打てないが、心身を温めながら仕事を
して行きたい。
さて昨日は柏崎市笠島の事を書かせて頂いた。
当日ほかに多様な石仏石塔が見られたため、続き
を記してみたい。
不動明王(憤怒の表情が失われていますが)。
真言密教らしい雰囲気。
二体仏。 子供あるいは夫婦の一人などを失い惜しんで
彫られたのでしょうか、道祖神ではないような印象を受
けた。
宝篋印塔(ほうきょういんとう).。昨秋板倉区を訪ね
て初めて知った仏塔。五輪塔より複雑で背が高い。高
い石垣の上に立っているので余計立派に見えた。
もともとは経の一部を収めたものだったようだが、次第
に供養碑や墓碑として定着したという。
当日は寒く、写真に雪が写っている。
手(臂:ひ)が多いので千手観音に似ているが、にわ
か調べで准胝観音(じゅんていかんのん、じゅんでい
かんのん)菩薩らしい。
仏としては珍しくちゃんとした母性を有しているようで
あり、行く先を考えこの仏に帰依するのも良いかなと思
わせる(未定です)。
そう大きくは無い多聞寺境内は、様々な石仏が安置され
ていて、やや地味ながら何故か安心でどこか楽しい。
庚申塔その12、笠島の庚申塔と三日月塔? 長い休み 岩をはむ波。
年を言い訳に本日まで休みにさせていただいていた。
昭和50年に開業して以来、正月は4,5 日休ませても
らっていた。
これまで発熱とめまいで何度か半日休診をしたくらい
で、入院などもせず何とかやってきた。
もとより頑丈でもない身体考えれば一種不思議な感じ
がする。
皆様にはご迷惑をおかけしたが、この度の休みはとて
も長く感じた。
10日、15日どころではない、数か月も仕事をしなかっ
たような気さえする。
これも十分に休んだことの現れであり、皆様には心か
ら感謝したい。
さてお休み最後の本日日曜日、寒かったが柏崎市へ行
った。
本をみると柏崎市は各所に庚申塔がある。
下調べの後、正午前に出てまず柿崎海岸を歩いた。
寒風のため釣り人にも合わず、時折歌が口をついた。
そのあとは笠島だった。
小さな町のため多聞寺で容易に庚申塔と対面できた。
隣り合う十二社裏に小さな谷があり清流のせせらぎの
音が心地良かった。
ずらりと石塔が並ぶ。手前から文字塔が三基、その向こう
に二十三夜塔と“三日月”と彫られた石がある。
三日月塔と呼ぶのだろうか。
その昔、各地には13,14,15,16、、、21,22,23夜など
様々な月待ち行事(信仰)があったという。
しかし三日月待ちは全国でもわずかなようであり、笠
島で行われていたのなら貴重だ。
浅い見聞ながら、庚申塔や二十三夜塔のほかに色々な
石塔(供養塔)を目にしたが、わからないものばかりだ。
それにしても昔の人たちの一種熱狂とも感じられる石塔
へのこだわりは一種不可解また不可思議な感じを受ける。
だが後年、何も知らない私のような者までそれらに惹か
れているのだから、さらに不思議と言わざるを得ない。
多聞寺、十二神社を後にすると高いところに墓地があっ
た。
そこから上がったところにも小さな墓地があり、見下ろ
してみた。
海にせり出すように狭い場所ぎりぎりに墓が建っている。
周囲に崖が迫り、へりを歩くと少々怖い。
山と海に囲まれた笠島は田畑が少ない。
漁業が主な生業なので、冬場は杜氏として出稼ぎをした
という(十二社で地元の方に聞きました)。墓地には杜
氏の頭だったという人を顕彰する立派な碑が建立されて
いた。
漁港へ下りた。
幼少のころお弁当を持って家族で何度か鯨波へ行った。
一度笠島も来たような気がする。
昔は海は砂浜で、堤防などあっただろうかと思った。
弁天岩に打ち寄せる波を飽かず眺め、車内からシャッター
を押した。
岩は私の代わりに冷たい波をかぶっているのかな、と思っ
た。
十二神社脇の小さな谷の流れ。
狭い高台の墓地と愛らしい漁港。
再度訪ねたい場所が見つかって良かった。
遅くなりましたので本日終了として、その先の柏崎のこと
を次回にいたします。
海の白、雲の白、鳥の白 奇跡の自然界、私たちのブレーキ。
昨日日中は風雪なく穏やかに晴れた。
だが夜半にヒューッと音がすると本日は荒れ模様とな
った。
そこで晴れた昨日の白が印象的だった光景を拾ってみ
ました。
夕陽を浴びるハクチョウの群(当地はほとんどがコハク
チョウ)。夕方の白鳥は陰影がついて余計に見栄えが良
い。
雪が少ないため、存分に食餌が出来る。稲の根を食べて
いるようだが、まるまると肥っている。
稲の根といえば栄養的に大根と大差ない。それでもこの
体を何十、いや何千キロも飛翔させ、寒さにも耐える。
とにかく大量に食べることと、後は消化器系の特別な酵
素や微生物に分解と合成を任せるのだろう。
草を食むだけで多大な力を有する牛馬も同じだ。
私たちは途方も無い自然の奇跡に囲まれている。
人間もその一部だが、奇妙で随分ほかと変わっている。
変わってはいるが、果たして自然の一員に相応しい振る
舞いが出来ているだろうか。
戦争、原発、独善、、、異常な頂点感覚はやはりまずい。
霊長の名に恥じない賢さを有している事を信じたい。
正月元旦と二日、増上寺、ビュッフェ、東京タワー、上野駅の彫刻、サンドウヰッチイッチ、新幹線の遅れetc。
新年は三日目となり、歳月の逃げ足はますます早い。
それを年々遅くなる足で追いかけるのだから大変だ。
この追いかけっこに参加するには唯一健康への配慮だけ
が条件であろう。
レース参加は生きている証し、または年取ってもなお続
くという成長をあてに、何とか追いついて行こうと一応
努力を試みる、そんな年が始まった。
ところで館長のノートと名付けた当ブログに元旦と2日
の記事を載せていた。
元旦は新年の挨拶、2日は以前に訪ねた板倉区の庚申塔
に関する記事だった。
実は元旦に一泊で上京したため、いずれも大晦日に書き、
投稿予約して出かけた。
そこで本日、実際に過ぎた1日と2日を振り返って記して
みたい。
1日は東京の縁者たちと会うことが急に決まり、30日に
急いでホテルと切符をあたった。
年末年始の人の流れと逆になるため、ホテルも新幹線も
思ったより簡単に取れた。
1日は夕刻の集合時間前に早く到着した者たちで近くの
増上寺へ参詣に上がった。
増上寺は山門を「三門」と呼ぶらしい。赤くとても元気の
良い門だった。
嬉しい事にその左右に続く棟に計四つの花頭窓があり、歓
迎してくれていた。
何度も門前を通ったことがある増上寺だが、参拝は初めて。
門から先も壮大だった。
本殿(大殿)へ広い階段を上がる。色鮮やかな東京タワー
が背後に見え、この景観が人気の秘密の一つかもしれな
い。
大殿内に読経が流れている。見ると向かって左脇檀に法然
上人像があり、そこで読経が行われていた。一日中続ける
のであろう。新春の寺院に相応しい声と光景だった。
さて参拝でお腹が空いたところで、食事になった。
東京のホテルの正月は往々にしてビュッフェスタイルにな
るようだ。
冷菜温菜、飲み物などなんでもある。
久し振りの現況を温めあい、励まし合い、美味しく頂いた。
会食後参集者を送った帰路、東京タワーを通過した。
スカイツリーよりも人気があるかもしれない、とタク
シーの運転手さんが言う。
昭和の親しみ易さと安心感が人を惹きつけるのだろう。
二つの理由は大切なことだ。
翌日もう一軒の縁者を訪ねて帰路についた。
お元気な様子をなにより嬉しく思った。
さて帰路の上野駅。
構内17番線手前に朝倉文夫作「三相 智・情・意」の彫刻
がある。
よき時代の素朴かつ強靱さが生き生きと現れていて、ます
ます好きになった。
余計なことかもしれないが、1958年発表ということで、モ
デルさんが20代であれば現在80代になられている。
優れた芸術の生命力を思わずにはいられない。
広い切符売り場の上方に掲げられた同じく文化勲章作家の
長大なステンドグラスよりもずっと良いと思っている。
車内で買った昼食は大船軒のサンドウヰッチ。
何のおもねりも無い超シンプル品、迷い無く手が伸びる。
これも昭和の親しみやすさと安心が決め手。昔から食べ
物で迷うのは苦手。新鮮そうであれば適当に選び喜んで
食べる=食べれるだけでうれしい。
※昭和30年代に、かって満州で生活した母が何度とな
く作った餃子より美味しい食べ物に出合っていなのと、
今どき美味しくない物など売られてないと思っているこ
ともありそうだ(少し変かもしれません)。
ところで復路の2日、新幹線はくたかは飯山で長時間の
停車を余儀なくされた。
金沢で停電しているためとアナウンスされた。
一時間半ほど停まった車内で過ごし、庚申塔の本が読め
た。
慌てたのは発車直後のアナウンスだった。
「大変お待たせ致しました。次は糸魚川、糸魚川」と告
げる。
うん?降りるべき「上越妙高駅」が飛ばされている。
まさか停車していたのは飯山ではなく、上越妙高だった
のか?
さらに、「終点まで停まる駅と到着時刻をご案内致します。
次の糸魚川には○○」とまたしても上越妙高が無い。
これだけの雪で長時間の停電も問題だが、一体車掌には
何があったのだろう。
乗客の中には慌てて車掌室へ向かう人もいたし、一瞬、糸
魚川からどうやって帰ろうか、と心配もした。
上越妙高には大勢が降りた。構内で駅員が次を待っている
乗客にアナウンスをしていた。まだ影響が残っているのだろ
うか。
停電と言えば過日、妙高市でオペラ「景虎」が上演された。
その日、かなりの雪降りに見舞われて新幹線が遅れ、東京
からの公演関係者が間に合わず、30分開演が延びた。
混乱は停電が原因ということだった。
今回も豪雪レベルではなかった。
停電、、、、大丈夫なのか、北陸新幹線。
交通不運はこれで終わりでは無かった。
東口で10数人がタクシーを待ったが、10分、20分経っても
一台も来ない。
タクシーを待った東口の光景がきれいで癒やされた。
タクシー会社に電話をすると間もなく妙高営業所からやって
来てくれた。他の方達も各自電話をして次々と車を呼ぶのだ
った。
当日、髙田での会合には大幅な遅刻となった。
目出度いはずの日に往々にして面倒が起きる。
人生ではよくあることだろう、こんな程度で良かった。
新年にお会い出来た皆様、有り難うございました。
今年また頑張りましょう!
庚申塔その11、上越市板倉区の庚申塔、山寺薬師と三尊像。
昨年10月下旬の魚沼行き以来のマイブーム庚申塔。
あっちこちしながら庚申塔その11になった。
新年2日は昨年を振り返り、11月12日および17日に
訪ねた上越市板倉区の庚申塔についての見聞を記して
みたい。
そもそもなぜ板倉区だったかといえば、魚沼から帰り、
ネットで上越市の庚申塔とひくと、新潟県で最も古い
とされている庚申塔が板倉区にあると知ったからだっ
た。
魚沼の頃は、まだ二十三夜塔を見るだけで精一杯、庚
申塔は魚沼の女性から聞かされただけ、写真なども偶
然ほかのに写り込んでいたというレベルでしかなかっ
た。
サイトにあった板倉の塔は如何にも素朴、可愛い猿が
二匹青面金剛になつき、2鶏と日月の文様も彫られて
いて塔の諸要素をあらかた満たし、魅力的だった。
場所は福王寺と記され、地名も良かった。
訪ねた11月12日すぐには場所が分からず、ゑしんの
里記念館へ行き、場所の手がかりを尋ねた。
スタッフの皆さんのお陰でおよその場所が分かった。
福王寺を歩いているとあるご夫婦と出合った。
話をすると、すぐそこということ、ご主人が案内して下
さった。
場所は十二社だった。
案内された右端の石祠を覗くと小さな像が認められた。
左右に猿とおぼしき像が手を差し出している。
石祠に収められている庚申塔もあるんだ、と少々驚い
た。見づらかったせいもあり、鶏と日月の紋様は判然
としなかった。
これが板倉区紹介サイトに掲載されていた写真。
単体として光背を有し、金剛、猿、鶏、日・月などくっ
きり彫り出されている。
当日十二社で見たものとかなり違い、ほかにこのような
石塔があるのだろうと思った。
※後で分かったことですが、私が見た石祠の像はまさに
この石塔であり、それが石祠にはめ込まれているような
のです。
いつかこの写真のように取り出された庚申塔を見てみた
いと思っています。
案内して頂いた方は上石さんと仰り、自分より父が詳し
いとのこと。そのお父様はあいにく歯科の治療に出てい
るが、電話をしてみます、と言って話を進めて下さった。
電話から十二社のすぐ下に公民館があり、その裏手に石
塔などがまとめられているという事だった。
※その後、上石さんのお父様・孟さんは地元の石仏や地
域の信仰史を研究されている方と知り、後日貴重な資料
を沢山届けて頂きました。
公民館で初めて全貌が分かる石仏の庚申塔を見た。
キリッとした眼差しが印象的。
六臂(六つの腕)の金剛は弓矢を持ち、上方の手の玉の
ようなものは宝輪か、もしかしたら日・月なのか、私に
は分からなかった。邪鬼と鶏は認められなかったが、両
側の猿といい、しっかりと彫られた庚申塔を見る事が出
来て大変に幸せだった。
小さな集落でこのような石塔まで残す庚申の行事とは何
なのか、像が象徴する意味とともにますます興味がつの
った。
当日、区のホームページにあった像を見ることができな
かったが、再度来訪し探してみることにした。
公民館の傍らに可愛いい四角形の二十三夜塔があった。
もしかしたら江戸の後半期か、この集落の女性たちは
二十三夜の月待ちをどのように過ごしたのだろう。
小ぶりな塔を見て、慎ましくも楽しかったであろう情
景を思い浮かべてみた。
この日の帰路板倉区曽根田で文字塔にも出合った。
大廣寺境内の庚申塔。上部に日・月が彫られている。
古い庚申塔あるいはゑしん尼のイメージせいで、板倉
区にそこはかとない仏気(造語です)漂うのを感じてい
た。
以上が11月12日、一回目の板倉訪問だった。
当ページ四番目の写真のような可愛い石塔を是非とも
自分でみつけたいと(前記※以下のように、実は見て
いたのですが)思い、11月17日に板倉区を再訪した。
前回ゑしんの里記念館を訪ねた折、同区山寺薬師近く
には幾つか庚申塔がある、とも聞いていた。
行き馴れない場所であり、自分でも地図を描いて訪ね
た。
土曜午後遅く出たのと、牧区の宮口古墳に寄ったため、
ゑしんの里 やすらぎ荘通過が4持半過ぎ、夕のとばり
が降り始めていた。
初めて通る暗がりの道に幾つか急カーブが続く。
途中、頸城地方で最も古い石塔の一つと言われる応永5
年(1398年)建立の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
にも寄り、その後の沿道で二つの庚申塔に出合った。
最初の文字塔。私の背丈よりずっと高い。
頂の○は日月(にちげつ)のシンボルなのか。
文字デザインもおしゃれだった。
山寺に近づく頃に現れた文字塔。これも高く上方に○
が彫られている。角柱型の石に深く堂々と彫られていた。
山寺薬薬師到着は5時だった。
暗がりのなか、まっすぐ急な石段が伸びている。
転ばぬよう207段を上ると薬師堂。
闇のなか堂内に明かりが点き、大きな木彫の仏像三体が
窓の格子越しに浮かんだ。
迫力の薬師三尊像(釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来)。
(いたくら観光ガイドから引用)。
当仏像建立も応永年間であり、前記した宝篋印塔とほぼ同
時期に当たっている。
“応永2年に三善氏によって寄進されたものであるというこ
とが、作者である京都六条の仏師築後法眼と共に胎内に銘
記されています。仏像は桧の寄せ木造りで、遠く京都から
運ばれたといいます。昭和33年に県文化財の指定を受けま
した”(上記サイトから引用)。
真っ暗なお堂で突然見た大きく立派な仏像にとても驚き、
かつ圧倒された。
まだ木の香りがしそうなほど、あるいは出来たばかりと紛
うほど生き生きと感じた。
再びここを訪ねることにして、急な階段をソロリソロリと
降りて帰途に就いた。
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