2025年6月

小津安二郎監督映画「麦秋」を観て。

2025年6月12日(木曜日)

さる6月9日、小津安二郎監督、1949年(昭和24年発)の作品「晩秋」の感想を記しました。太平洋戦争が終わって5年目の映画でしたが、このたびの「麦秋」の舞台は7年目の同じ鎌倉です。
ほぼ東京圏の文化都市、鎌倉の映画に観る生活水準の高さにはさらに驚かされ、かつまだ敗戦の影が垣間見られていました。

以下皆さん御存知の方も多いと思いますがあらすじを記しました。

主人公紀子は28才の独身OLで、二人のこどもがいる兄康一夫婦と父母の三世代7人で暮らしている。周囲と家族は紀子の未婚を心配している。

「晩春」と同じ北鎌倉駅看板。

康一は東京の大学病院へ通う勤務医、紀子は都内商社で専務の秘書をしている。ある日専務から条件の良い見合い話を持ちかけられる。

都内で友人達とお茶をする紀子。未婚、結婚組に別れてどちらが良いかで話は尽きない。壁の絵が当時よくあったモダニズム。お茶を飲むのに皿も手に取りみな上流。

日本古来の古風な生活感と進む復興。映画は海外で観られることも強く意識していると感じられた。

康一たち家族は見合いに対してはっきりしない紀子にいらだつ。ある日電車模型が欲しい二人のこどもは、康一が買って帰ったものが全く違っていたので父をなじる。康一が折檻すると二人は家を飛び出した。

家を出たこどもが歩く海岸道路。人っ子一人見えず向こうに江ノ島が見える。戦争で供出された鉄柵が無いままの石柱が痛々しい。

そんな折、康一の部下である医師・矢部に秋田の病院への移動が決まる。もとから家同士が親しかった矢部には先立たれた妻との間に幼いこどもがいた。矢部は戦争に行ったまま消息不明になっている紀子の兄と同級生だった。

矢部の秋田行きに餞別を持参した折、矢部の母は秋田行きを嘆き、紀子に“貴方のような人がお嫁さんなら良いのに”と漏らす。この言葉に紀子は突然“私で良かったら”と言う。

紀子の返事を喜ぶ矢部の母。

友人に矢部との話を打ち明ける。
向こうに淡島千景、こちらは原節子。

矢部との急な縁談に波立つ一家。
軽率だと言って兄が激しく叱る。

兄嫁が紀子の気持ちを確かめるべく二人で浜辺を歩く。

紀子の決心は固く、矢部は子持ちで40才だが一人でフラフラしている男性よりも信頼出来る、秋田の生活にも耐えると言う。

紀子の気持が家族に伝わり一先ず皆は受け入れる。これを機に父夫婦は郷里の奈良県大和に引っ込み、兄は開業、紀子は秋田へ移り家族の形ががらりと変わることになる。

紀子は受け入れた家族への感謝とバラバラになる一家を想い嗚咽をもらす。

大和へ帰った両親は“みな離ればなれになったが私達は良い方だ。欲を言ったら切りが無い”とつぶやく。

麦秋の大和路を花嫁行列が行く。
夫婦は“どんな処へ嫁ぐのだろうね”と言う。

さて映画はNHK「尋ね人の時間」が放送されていた時代でした。人物たちはその話をします。実際出兵後、行く経が分からない紀子の兄が物語に影を落としていることが伺われます。
当時私は小学4年生でしたが、どこへ行っても夕方になるとこの放送が聞えてきました。戦争で行く経不明になった人を探す定時番組でしたが、明瞭な音声が印象的でした。

「晩春」では自らの結婚で取り残される最愛の父を気遣い、「麦秋」は一つ屋根の下に住んだ家族の分散に責任を感じる。いずれもも当時の濃密な家族関係をひたすら写し出していました。

昭和21年3月、父母と私達こども四人は満州から佐世保に引き揚げました。ところが当時新潟の実家は祖母のほか疎開と出産で12人もの叔父伯母従兄弟が住んだり出入りしていました。そこへ私達が加わると18人!です。
佐世保上陸後、佐賀の母の家に一旦身を寄せた私達でしたが、父は実家のてんやわんやを嫌って中々帰ろうとしなかったと聞きました。当然ですが同じ時代でも家ごとに事情は様々ですね。

2018年5月、熊本で老健施設を伴う開業をしている先輩へ地震見舞いに米を送ったことが縁で九州旅行をしました。以下の写真はその帰路、車中から見た佐賀県は母の実家近くの麦秋です。

生前母が言っていた通りで、
五月の実りは不思議な眺めでした。

この映画で最も滲みた言葉は、大和へ帰った父が呟く“欲を言ったらきりがが無い”です。年取ることは多くを諦めたり、要点を絞ることになりますので余計心に響きました。

劇中、当時ならではの相づちや早口に過ぎた昔を感じました。

「晩春」の感想がとても長くなりましたので、このたびは短とく努力しました。しかしまだ長くて申し分けありませんでした。
両映画のカットはいずれもYouTubeのカラー版「晩春」と「麦秋」のスクリーンショットでした。アップ主さま、本当にお世話になり有り難うございました。

開館の日 世界にまだまだある欠陥。

2025年6月10日(火曜日)

曇りのち雨の本日。どうもお天気は私が気に入ってる6月の爽やかさと違いどうも梅雨の様相になっています。しかし好きな6月には霧の日も含めていますので、当地は今のところまあ良しとしましょう。

さて本日は当館の開館記念日です。開館した2007年6月10日は気持ち良く晴れました。特別目覚ましいこともありませんでしたが無事19年目になりました。

本日は創設以来のお客様が二組、おめでとうございます、と仰り来館されました。次第に皆さまの癒やしや大切な日の場所として認知されようになつつあり心から喜んでいます。

先ずは20周年の2027年を目指して励みたいと思いますので、これまでと変わり無くどうか宜しくお願い申し上げます。

 以上は近影の花などです。

今夜はケーキをほおばりました。

それにしてもよく降ります。梅雨入りした模様の九州では早くも出水が心配されています。不順はお天気ばかりでなく、眼を転じればウクライナやガザ、アメリカも穏やかではありません。

そもそも自然を差し置いて「王(あえて暴君)になりたい」というひと握りの発端者と支持者がいるのですから、まだまだ世界と社会のシステム、および人間には深刻な欠陥があると言わざるを得ないようです。

小津安二郎監督映画「晩春」を観て。

2025年6月9日(月曜日)

本日はブログをサボっていた間に見た二つの映画「麦秋」と『晩春」のうち晩春のあれこれを記したいと思います。
2019年年末と2024年2月に鎌倉を訪れた私には舞台がそこというだけで興味津々でした。というのも撮影が昭和24年と26年どきということで、私は小学校二年生、および4年生のころです。
一文無しの引き揚げ医師家族はひとまず最貧を越えたとはいえまだ貧しさを引きずっていました。映画でみられる文化都市鎌倉の生活と人はどんなだったかは非常に関心がありました。

最初のショット、右から書かれた北鎌倉の駅看板。
2019年の旅行はこの駅から帰った。
駅看板は丁寧に保存展示されているそう。

まずお茶会場面(裏千家流に見える)。
この時代に着物を着てお茶会など
当時知るよしも無かった。

原稿を書く主人公・紀子の父周吉と
手伝う出版社の服部。
周吉は妻を失い独り身。

父は娘の紀子を「オイッ!オイッ!紀子!お茶!」という物言いで用事を頼むが、未婚の娘紀子はそんな父を支えるのが生きがい。目下父の悩みは年頃を過ぎようとする紀子の結婚のこと。

ある晴れた日服部と紀子がサイクリングに出かける。

素朴な七里ヶ浜付近

茅ヶ崎まで、途中にコカ・コーラの看板もある。
付近に米軍の演習地があったそうです。

今の湘南一帯は一大観光地だが、このサイクリングでは人っ子一人居ない。
余談ですが、途中砂浜で休憩した二人は、焼きもち焼き(嫉妬)について話をする。その時切りそこなってつながるタクアンと嫉妬を関連づけて笑いあう。意味が分からなかったので調べてみた。
すると“焼きもち焼きの人が切るタクアンは皮でつながる“などがあった、焼きもちで頭がいっぱいだと料理の手許が疎かになるらしい。嫉妬からいきなりタクアンの話題になったので、フィルムが切れているのかと思った。

さて服部とサイクリングに行った紀子の事を聞いた父は、二人の関係を尋ねるが、何にも無い、第一彼には婚約者がいると、紀子は笑う。

ある日東京に買い物に出て、
銀座で叔父と出会う。
まるで洋画のような場面。

一人暮らしの叔父から再婚したと聞いて
紀子は「不潔」と言ってからかう。

独身を続ける紀子を心配する叔母・まさは東京で働く四国の名家の次男・佐竹との見合いを強く勧める。紀子は堅く断り、私は父を支えるのが幸せと言い切る。しかしその父には招来を共にしたい女性がいるようでもあり、紀子が執拗に問い詰めると最後に「うん」といい、紀子は不機嫌になる。

ある日父周吉は叔母まさと鶴岡八幡宮へ参拝に行く。この間紀子はいやいやながら見合いをしている。まさはそのことが気が気でならない。

二人の宮参り中、まさがサイフを拾う。
周吉はすぐ届けろというが、
縁起が良いから後でという。

上掲の写真は観光客などの賑やかな姿がありません。撮影で止めているのでしょうか、余りの静けさに驚かされます。

 

お見合いの話を承諾したと告げる紀子に、
結婚は甘くは無い、よく考えろと諭す友人のアヤ。
アヤは離婚経験者。

アヤの家には籐いすなど上等な家具があり東郷青児の絵画が飾られ、美味しそうな自家製ケーキが振る舞われる。大きなケーキなど当時夢の又夢。

 

紀子の結婚承諾に叔母・まさは大喜びする。
父が直接紀子に念を押すと「はい」と頷く。
言うまでもなく素晴らしい杉村春子。

紀子の結婚話がきまり、父娘と叔父夫婦ら5人は京都旅行に出かける。

清水寺や竜安寺をを楽しむ。

最後の親子旅行を終えた二人は帰り支度しながら楽しかったと話し合う。まだ父に心を残している娘は本当はお父さんが好き、お父さんとずっと一緒に居たいしこのままが幸せと話す。
すると父は、それは違う、私はもう56であとは無いがお前たちはこれからだ。結婚は初めから幸せではないかもしれない、すぐに幸せになれる考えはむしろ間違っている。
幸せは待っているものではなく新しい夫婦が新しく作り出すものだ。一年先か2年かかるか、10年先かその時はじめて本当の幸せがあり、その時本当の夫婦になれる。
お前の母も最初から幸せでは無かった、長い間には色々なこことがあり、台所の隅で泣いているのを何度も見た。お母さんはよく辛抱してくれた、お互いに信頼と愛情を持つんだ。お前が私に持ってくれたような温かい心を今度は佐竹君に持つんだ。そこにお前の新たな幸せが生まれてくると、一気に諭す。

最後に、きっとお前なら佐竹君と幸せになれる、そしてこんな話しをしたことを思い出す時がくると言うと、紀子は笑顔を見せて、心配かけてすみませんと誤る。

嫁ぐ日。
長い間お世話になりました。
いい奥さんになるんだよ。

婚礼が済み寿司屋でアヤと飲む周吉。
この場面の月丘夢路は素敵。

飲みながら父は、私に決めた人がいると言ったのは、紀子に結婚を承諾させるための一世一代の嘘だったと明かす。聞いたアヤは、叔父さんにはいいところがあるわと言って周吉のおでこキスをする。

結婚式を終え誰もいない家に帰り
リンゴの皮をむく周吉。

全てが終わり一人家に帰った周吉が傍らのリンゴを手に取りむき始める。剥きながら突然手が止まり、映画が終わる。この場面で監督は笠に慟哭を示唆したようだが、笠は私には出来ないと断り、黙ったままの形で終わりになったという。

さて感想は色々ありました。映画が完成したのは1949年(昭和24年)、私は小学2年生でした。
その第一は前に書きましたが今と全く異なる鎌倉の静けさです。ロケのため人止めをしていたかもしれませんが、それにしてもです。

2019年暮れの鎌倉駅。

同じく鶴岡八幡宮。

 

同じく市内。
すでに外国人もいっぱい。

第二に結婚観や親子関係の相違です。まだ戦前の意識、習慣が濃く残っていたようで、父親がおい!と娘を呼びつけ、結婚は見合い第一。しかし家柄や出来の良い次男がもてはやされることなどは、今でもありそうです。それにしても婚礼間近に親子でしんみり語り合う場面などは夢物語として写りましたし、父はとても良い話をしています。

第三に結婚話は当人同士でなく、家族や友人など多くの人が強い関心を寄せ、意見を言うことです。このようなことは現在どんな風なのでしょう。

第四に戦後4年目、映画の喫茶店、寿司屋、小料理屋はとても上等です。当時こどもの私は直江津の「くさのや」、髙田の「いづもや」はあこがれでした。

第五は当持から鎌倉は東京との行き交いが便利で、通勤や買い物など一部生活圏を共にしていたことをあらためて認識しました。

第六は俳優達で、和やかに振る舞う原節子が見せる機嫌、不機嫌、怒りはシーンごとの雰囲気を象徴的に支配するほど秀逸。杉村春子の素晴らしさが物語に生命を与えていました。

さて皆で賢いふり、分かったふりをして事が進む現在。比べて何事もゆっくり進んでいた昔のほうが経験や考える時間が今よりもあり、人生の齟齬はむしろ少なかったかも知れないとまで思いました。現在人間は本当に頭良く賢くなっているのでしょうか?

次回は同じ監督で2年後完成の「麦秋」にしたいと思います。

とんでもなく長くなりました。

「名探偵ポアロ」のアール・デコ。

2025年6月6日(金曜日)

ようやく暑くなってきました。
寒がりの私も本日は半袖、しかし白衣はまだ長袖でした。年のせいもありますが、これまでのところ特に朝夕の寒さは多くの方が感じられたのではないでしょうか。

今後は30度に届きそうなお天気模様ですが、テレビは梅雨が早そうだとも伝えていますね。私の好きな6月とは少し様子が違うようです。

さてなか4日も空けてしまったブログ。過日麦畑を取り上げ映画「麦秋」のことをコメントしました。そこで映画がYouTubeにあれば観てみたいと記しました。ためしに検索しますとありました。
初めて観た作品でしたが色々興味深かったため、同じ小津安二郎監督作品で時代が近い「晩春」もありましたので観てみました。それをブログに載せようと考えたのですが、撮影地が双方とも鎌倉、よく似た演出や撮影法、ストーリーも何処か似通っていて、年のせいでしょう、頭の中で作品が行ったり来たりしてまごつきました。

本日場面のスクリーンショットがまとまりましたので出来れば明日でも「晩春」を載せてみようと思っています。

本日はこのところBSで観られる「名探偵ポアロ」から、場面中目にしたアール・デコ風の調度品をお出ししてみました。1930年代を主な時代設定としているようですからドラマはアールデコ様式が流行した時代のど真ん中。テレビを観るたびにそれらしい作りやフォルムを探して楽しんでいる次第です。

以下テレビのショットですが、自宅のはあまり高級なテレビでないため画像は粗いのですが、前回の放映は特にそれらしい品が多く見られましたので撮ってみました。宜しければどうかご覧下さい。

スタンド。

 

手鏡。

 

置物。

 

手すり。
ああ美しいアール・デコ。

 

壁飾りの六角フレーム。
右側のジグザク照明も。

 

衝立でしょうか、
反射してますが素晴らしいアール・デコ。

 

いつものポアロさんの事務所の棚。
半円のあしらいが気になります。

以上場面隅っこの切り取りと古いテレビのため写真が粗くて真に申し分けありません。
1930年前後のおよそ20数年にわたり流行した(ある種熱狂的に)アール・デコ。舟、飛行機、自動車、ビル、時計、アクセサリー、食器、髪型、服装、ガラス、調度品etc。円と直線、シンメトリー、波形、鋭角線などが意識された独特のデザインです。
どういう訳か私はこれが好きで、アールデコを目にすると醒醒します。日本にも我が母校、昭和大学や山の上ホテルなどアール・デコ調の建物がありましたが、全館アール・デコは大阪の高島屋デパートだそうです。デパートは近時、新改築されましたが保存的見地で行われたようなので是非観たいと考えています。

そのようなわけで夕食時間になると「ポアロ」を楽しんでいる次第です。それにしましても制作スタッフのこだわりは乗り物からして凄いですね。苦労もされているlことでしょうが、現場は楽しいのではないでしょうか、羨ましい限りです。

近いうちに初めて観た映画「晩春」と「麦秋」を載せてみたいと思っています。

フカミ美術主催、須坂市のお茶会へ。

2025年6月1日(日曜日)

本日6月1日、当地はポツポツ降り私が好きな清々しい6月の空ではなかった。
そんな本日我が県のお隣、北長野は須坂市で上越市のフカミ美術主催「緑陰茶会」があった。10時20分からの席に伺うべく車で髙田インターから信越道で向かった。

濃茶席に続いて薄茶席に伺った。お濃茶席(井上宗皋先生)は普願寺、お薄席(最上宗裕先生)は田中本家博物館だった。お互いの会場は隣り合っている。

主催「フカミ美術」のパンフレット。

 

普願寺の参道。

 

田中本家博物館入り口。

濃茶席の待合に掛かった「月にほととぎす」の絵、薄茶席の「瓢絵賛」とも時節や禅味が清々しい一幅だった。
本席の不味公および大徳寺大順和尚筆の掛け軸は難解だったが、ご亭主の説明により心に響いた。

お道具類の趣向や由緒に席主さんのもてなしの気持がこもり美味しいお茶を飲むことができた。両席がともに富士釜だったのもどこかで席主さん同士の心が通い合ったものと思われ心温まった。

以下はお濃茶席で拝見した床のあしらい。

お濃茶席の床。

不味公の筆による軸「無位真人出入面門」は臨済録からの出典ということ、難しい言葉だった。
“人間(自我)はただの肉だが、その中に真の人(仏)がいて様々な経験によってはじめて成長あるいは仏に近づく”という意味らしい。
未熟な自我(肉切れ)のまま生きることの愚かしさを戒めているのではないかと思われ、身につまされる。

二席を回ると早くもお昼になり、きれいで美味しいお弁当をほおばった。

点心(お昼弁当)席から見た庭。

田中本家博物館行きは三回目になった。館の流れは山国信州らしく淀みがなく澄んだ水音で心が洗われる。
高速道路を使って一時間少々の須坂市。しかし蔵通りの景観、路傍の流れ、郊外のリンゴ畑や葡萄畑の果実園は旅情が漂い、訪ねるたびに来て良かったと実感する。

出かける時はぽつぽつと降り県境ではかなり濃い霧に見舞われた。しかし帰りはそれも晴れ、清々しい信州行きになった。

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