2020年1月

倉石隆の幼年向け絵本の挿絵。

2020年1月31日(金曜日)

樹下美術館の常設展示作家、倉石隆は人物を多く描きました。
モチーフとしたのは主に油彩の成人の男女ですが、版画やデッサンでは少女象もよく見られています。

氏は挿絵分野の仕事もされ、これには以下の少年少女向けの書物が少なくありません。
「カラマゾフの兄弟」や「罪と罰」「白鯨」それに「小公子」など世界の名作。さらに「森の少女」「二人のイーダ」など日本の現代作品でも仕事をしています。

ところで過日ネットの古書サイトを検索しましたところ、氏の未読の挿絵が見られる本が二冊見つかり、入手しました。
最初の一冊「ひかりのくに」の挿絵を見て、本当にこれが倉石隆!?と驚きました。これまで見てきた大人の倉石隆とは全く異なっていたのです。

 

「ひかりのくに昭和52年4月号」 ひかりのくに株式会社発行。
表紙/赤坂三好

上掲の本から「みんなともだち」のページにおける倉石隆の挿絵。
こどもが一杯。なんとも可愛い倉石隆です。
4月号ですから入園生活に向けたページだったのでしょう。

 

次は1971年のドレミファブックからです。

 

「ドレミファブック20号」1971年10月 株式会社世界文化社発行。
倉石隆と親交があった小野木学が表紙と「1しゅうかんのうた」を描いています。
表紙には小野木氏の青い時空がちゃんと広がっています。

 

上掲の本のコンテンツから「おつきさんとぼうや」のページの倉石隆。
作詞/サトウハチロー 作曲/中田喜直です。

ついたち おつきさん ぞうさんの おめめ
おめめの おつきさん どんなものを みてた
かわいい ぼうやと ぼうやの おじぎ
それから わんわんちゃんの さよなら みてた

以上は一番の歌詞で、二番は三日月おつきさん、三番が半欠けお月さんでした。
夜空に浮かぶ大きな大きな象を鉛筆画で描いています。ファンタジーのほか、月の満ち欠けやおじぎなどに、それとなく興味を持つよう詩に心遣いがなされているようです。

月刊誌「ひかりのくに」は現在も出版されていますが、20㎝ステレオLPレコード付き「ドレミファブック」は20巻をもって終了しました。

二つの児童書とも著名な詩人、音楽家、画家が携わっています。
画家は友人達と互いに仕事を分け合い、積極的に関わっていたことも窺われました。
倉石夫人によると、氏は挿絵の仕事に際し、考証を研究しデッサンを重ね、喜んで取り組んだということです。

今年の樹下美術館の開館3月15日(日曜日)が次第に近づきました。
今年の倉石隆は好評だった細い絵を継続し、ボックスに氏が関わった書物を展示する予定です。
齋藤三郎の陶芸は前半を「梅と椿」、後半には「ざくろと秋草」の絵付け作品の展示を予定しています。
どうかご期待ください。

 

 

本日の訪問診療の折、水田で数百羽のマガンが食餌していました。

かなり道路に近いので驚きました。飛来して二月余り経ったので馴れたのでしょうか。
車を止めてカメラを構えても、さほど動揺した様子が見られませんでした。
例年なら黒みがちの雁は雪の中で目立つのですが、今年は土に紛れて見つけにくいのです。その点も雁たちには安心なのかもしれません。

二つのOn the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)。

2020年1月29日(水曜日)

雪はいずれは降る、という思いは外れ、間もなく2月になる。
降るのは雨ばかりで釈然としない。

そんな日頃、「On the Sunny Side of the Street(明るい表通りで)」を掲載してみました。

 


気持ちが良い戸外でセッション。ギターしかり、歌もベースも上手いと思いました。

 

この古い曲は非常に多くのミュージシャンによって取り上げられています。木陰の演奏はとても素敵ですが、ホワイトハウスで演奏するというのも珍しいのではないでしょうか。

以下はその演奏、1984年生まれのエスペランサ・スポルディングが大統領の前で歌う「On the Sunny Side of the Street」です。


2016年、国の創作活動祝賀イベントのような場所の演奏。
〝ジャズはアメリカのクラシック音楽。ブルースは南部の田舎から生まれ、ジャズは都会的でクールな音楽になった〟というようなことを最初に述べている。
自信に満ちた表現とテクニック、圧倒的なエンディングが素晴らしい。
ちなみに彼女は2009年、オバマ大統領のノーベル平和賞受賞の際も面前で演奏している。

奨学金で学び既に三度のグラミー賞に輝いているという。
「演奏には責任を自覚している」
「常に自分自身への問いを繰り返してきた」
過去のインタヴューではこのような主旨を述べ、含蓄ある言葉だと思った。

冬晴れの野尻湖 中勘助の詩碑。

2020年1月26日(日曜日)

日中よく晴れた本日日曜日、午前8時半過ぎに家を出て野尻湖へ行った。なぜ野尻湖かというと、確固たる理由もないが、昨年12月から読み始めた中勘助の小説「銀の匙」が野尻湖で書かれた事を知った事があった。
作年12月に一度野尻湖行きを試みたが、途中寄り道して失敗、その日は断念していた。あれから一月余り、雪は無く本日の空は快晴、冬の野尻湖は如何ばかりかと車を駆った次第。

 

野尻湖近くの広い駐車場。昔ここに学校があった。

柏原駅からオレンジ色の川中島バスに乗ると、ここにあったグラウンドが終点だった。いつも泊まった藤屋旅館まで歩いて2,3分の懐かしい所なので寄り道した。
(調べましたところ、現在は信濃町公民館の野尻湖支館ということです)

たまたま寄ったにも拘わらず、一角になんとまあ中勘助の立派な詩碑があり、驚きかつ嬉しかった。「銀の匙」は興味深く、既に二回読了し三回目を読み始めた所。すっかり虜になってしまい、この先ずっと愛読しようと決めている本。
その著者に対して、野尻湖の人びとは碑をこしらえ顕彰していることに感動した。

 

 「ほほじろの聲」という詩が刻まれている。

「銀の匙」は明治44年と45年の夏に、野尻湖にある枇杷島の神社に籠もって執筆されている。小説は明治前、中期に於ける繊細多感な幼少から思春期にいたる私的な生活史の形で著されている。

弱くて驚くほど繊細なこどもとして、特に伯母の庇護のもと大切に育てられる主人公。明治初期の世界が何とも美しく、しかも一種悲しげに展開する。
雨が降っているだけで、あるいは海の波音を聞くだけで悲しくなって泣くような、あまりのこまやかさ。これは普通の子では無い、もしかしたらまれに見る美少年だったのではないか、と確かな理由もなく想像した。

成長するに従い背が伸び、抜きんでて強くなるのだが、スマートで外国人のようになった、という話がある。老年の写真などは俳優を思わせる渋さが垣間見られている。

大人も放っとかない美しいこども、、、(本人はただの一言も言わないのだが)。静かで敏感なうえ黙っていてもモテた男性を一人二人知っている。だが不思議な事に彼らの奥底は悲しげで孤独そうに見えるのである。
氏の本はまだ「銀の匙」一冊だが、読みながらこの人はそのような人間の極みだったのではないか、と感じている次第。

野尻湖の詩文も寂しい内容で、中氏らしくて良かった。

 

中氏と「銀の匙」と野尻湖のことが書かれている。
碑は昭和48年、公民館完成を記念して建立されたという。

詩は野尻湖の執筆後、十数年経って再訪した時のもの。ホホジロの声を聴くと昔が懐かしい。過去も今もこの先もまた自分は一人、ずっと一人のままであろう、というようなことが謳われている。短い詩の中で、ひとりという文言が四回も続いて現れる。

湖畔に向かった。

当時の面影はないが、本日の藤屋旅館。
松の木は往時のままのような気がする。すぐ前が湖と桟橋。

 

藤屋さん前の桟橋で。昭和24年の私たち(右端が小2の私)。

藤屋さんに一泊し、信州味噌の味噌汁に野沢菜漬けとワカサギのテンプラを食べた。ここで出される家と違う食べもがとても楽しみだった。
湖でボートを漕いだり、あるじのモーターボートに乗せてもらったりして帰る。1年に一回、高校生のころまで野尻湖行きが続いた。

小学時代、皆で柏原駅まで歩いたことがあった。道すがらある看板を見た姉が
「あっ、この家〝王子売ります〟って書いてある」と言った。
玉子が王子と書かれていたのだ。
私は何とかそれが分かったので、一生懸命笑った。

 

本日の黒姫山。

 

お目当ての妙高山。

 

長野県の人は黒姫を背負った野尻湖と言い、新潟県の人は妙高を背負った野尻湖という。気持ちは良く分かり、野尻湖はまれに見る風光明媚な所だと思う。

中勘助が訪れた明治末の野尻湖は訪ねる人も無かったらしい。中氏は一種放浪の途中でやって来て気に入り、島に籠もって本を仕上げたという。

※書き始めは日曜日でしたが、終了が日付けをまたいでいました。
申し分けありません、文面上日曜日掲載と致しましたので御了承下さい。

穏やかな日中、クリスマスローズの葉切り。

2020年1月25日(土曜日)

本日日中うす曇りで穏やかなまま過ぎた。
雪が無いのでいつも庭が丸見えである。見るたびに庭の仕事がありそうで落ち着かない。
予報は2月も雪が少ない見通しを伝えている。そこで懸案のクリスマスローズの葉を切ってみた。

切り終えた葉っぱの山。
あと半分以上残っているが、残りはそのまま様子を見ることに。

 

 

 

現れた花芽や蕾はこざっぱりした感じ。開館前に花が開くのではないだろうか。
暖冬とはいえ、このさき何度か雪が降ることだろう。
あまり降られるようならその時は袋を掛けてやりたい。

ほかに本日は2メートルばかりのカエデを一本、50㎝のヒュウガミズキ二本植えた。

明日は晴れの予報。
カエデをもう一本、小さなツツジの苗4本を植え、猛烈な勢いで芝生に進出している青々とした雑草に手を付けてみるつもり。

冬の半分が終わる昨今の卓上 気になる新型肺炎。

2020年1月23日(木曜日)

暦上の冬が半分過ぎた。
春は待ち遠しいが長くお世話になった人が去ることがあり、一概に楽しみばかりとは言えない。

雪が少ないとはいえこの時期、昔のドカ雪が思い出されやはり冬の本番というイメージがある。
そんな折、卓上にのぼった二三の食べ物を載せてみました。

 

お世話になりました、と訪ねて来られた方から頂戴したお菓子「福ハ内」。
節分向けのお菓子。一つ二つ食べてしまった写真です。

パッケージは豆撒きで用いる枡、お菓子はお福豆のイメージだという。桃山だがコーヒーにも合って美味しく頂きました。
上越を気に入っていると仰っていたご家族の皆様。どうかお元気でいて下さい、またお会いできることを楽しみにしています。

 

かって往診をした農家の奥さんが作っているという月餅。
本格的なお菓子をどうやって作るのでしょう。
色々な腕前を有している方がいるものだ、と感心しました。

 

 

越の雪というお菓子。
雪という字がつくと一段と上等な感じになる。

 樹下美術館うらの土手付近の庭で採れたフキノトウ。
どなたかに採られたのか、小さいものばかりでした。
毎年頂いているギンナンとのテンプラは良い香りがしました。

 

シラスが入ったサラダ。
シラスは春が旬らしいのですが、それとは関係無くよく食べます。

 

中国の新型肺炎(武漢肺炎)の報道が止まりません。春節の大移動、医療従事者の感染、海外の発症例、厄介なコロナウイルス、確実な治療法が無いなど、目に見えない相手だけに緊張します。

一方みている範囲のインフルエンザは大人の罹患者が多くなっている印象があります。まず自分が用心しなければと思っているところです。

雪の無い冬 柏崎の原惣右衛門工房と刈羽の吉田隆介氏の花入れ 良い作品と作者。

2020年1月22日(水曜日)

1月の下旬になったもののさっぱり雪が降らない、一体どうしたことだろう。
雪がないのは当地だけではなく全国的な現象らしい。80、90才の人に訊いても、こんなのは初めてだと仰る。
在宅訪問や往診は楽だが、何か騙されている気がしてしっくりしない。

 

本日午後の樹下美術館。休館が申しわけ無い眺め。

さて1月上旬に二回柏崎刈羽に行き、天神様めぐりをした。行程で鋳物の原惣右衞門工房と陶芸家・吉田隆介宅を訪ねて天神様飾りを楽しんだ。
そのおり作品を拝見したがいずれも魅力的だった。その中から以下の作品を購入させて貰った。

 

原惣右衞門工房の鋭い四角錐の鋳物花入れ。
長くこの手の花入れを探していた。
ざっくりした風合いが何とも言えず、一輪の花と大変相性が良い。

 

陶芸家吉田隆介氏のうねりをもって尖った花入れ。
赤く散らした斑点が楽しく、サザンカや冬枝と映え合っている。
ヒマワリやダリアなど大きな花も受つけそうだ。

いずれも偉ぶらず、周囲を和ませ相手を生かす作品であり、案の定花をいれると良い風情を醸し出した。

私の拙い経験から、作家と作品について以下のように思うことがある。
〝およそ良い作品を作る人は偉ぶらず、人を幸福にしようと一生懸命だ。良くない作品の人は偉そうにしたがり、作品よりも自分が前に出てどこか品が無い〟
作品と人柄は互いに似ている。

ところで今年の樹下美術館は毎月第四日曜日に、隣の家の四畳半の間でお茶のお点前をして皆様に呈茶のサービスを予定しています。
1回8名様まで、午後2席を考えているところです。宜しかったらお気軽にお立ち寄り下さい。本日掲載しました花入れも掛けたいと思っている次第です。

実業之日本社の創業者増田義一のパネル展を観てきた。

2020年1月20日(月曜日)

昨日一昨日と書かせて頂いた「下北半島の風」はネット検索で探した本でした。
著者は上越市出身の第三回芥川賞作家・小田嶽夫、挿絵の倉石隆は上越市出身で樹下美術館の常設展示作家でした。さらに届いて初めて実業之日本社発行だと知りました。

 

下北半島の釜臥山(かまぶせやま)が描かれた本の裏表紙。

ところで本が届いた後、実業之日本社の創業者増田義一は上越市板倉区出身で、現在上越市ミュゼ雪小町で氏の生誕150年パネル展示会が行われていることを知ります。みな上越市出身者の本、そしてパネル展。四つもラッキーが重なり、さっそく19日日曜日に増田義一展を観に行きました。

以下当日の飛ばし飛ばしの概要です。

 

会場の案内パネル。

 

静かな会場でゆっくり観ることが出来た。

誠実で勤勉な人柄からのこと、会社設立のいきさつ、関わった人々、家族などが詳しく紹介されていた。

1869年(明治2月年)10月21日生まれの増田義一は、幼少から親が心配するほど勉強が好きだった。12才!で糸魚川市内の小学校で代用教員になるも、若くして両親を亡くし苦学する。20才で髙田新聞社に勤めると政治に関心をもち立憲改進党に入党。

髙田新聞の勤めを終え上京し、東京専門学校(現早稲田大学)に入り、大隈重信の門下生となったことから人生が大きく開けていく。学校卒業後、読売新聞社に入社、この間、髙田早苗、渋沢栄一、岩崎弥太郎など著名な政財界人の知己と信用を得る。

明治30年、読売新聞時代に参画した大日本実業学会を実業之日本社とし、その主宰となる。〝実業〟という言葉の斬新な概念は人々に受け入れられ、出版の工夫と相俟って読者は拡大する。

 

当時神とまで呼ばれた国際的な思想家・新渡戸稲造を顧問に迎えた増田義一。

大隈、渋沢、岩崎ら財界の要人の寄稿は多大な力があった。さらに書店に対し委託返品制度を導入し、売れ残りの節約に貢献、発行部数は飛躍した。また地方の青年を対象に新たな意識と道を開くため、書籍による通信講座を開設。

 

堅い書物のほか、女性と青少年に向けた雑誌「婦人世界」「日本少年」は人気となった。

 

1915年(大正5年)4月の雑誌「日本少年」
大正ロマンの気風によって繊細な少年が描かれている。

実業家であるとともに清廉潔白な政治家として衆議院に8回当選し衆議院副議長も果たしている。

 

家族とともに。
こどもたちには主体性を重んじ平和な家庭を築いていた。

1946年(昭和21年)45年間の社長生活にピリオドを打ち、1949年79才で亡くなった。平成になり社名は「実業之日本社」から「実業の日本社」になり、生活向け、青少年向けにも注力し今日に到っている。

このたびの「下北半島の風」は創作少年少女小説シリーズであり、巻末に以下に要約した出版主旨が記されていた。
〝優れた文学作品は、たった一つの生涯の生き方を考えさせ、人の成長に役立つ。過去の名作に加え、現在活躍している作家の優れた作品も取り上げて届けたい〟

函付きのハードカバー「下北半島の風」は品物としても良い本でした。

 

展示を見終えてロビーに出ると図書のコーナー。

2017年11月に樹下美術館が発行した「樹下美術館の倉石隆」と「樹下美術館の齋藤三郎」が並んでいた。日焼けもせずに頑張っているのを見て有り難いと思った。
貴重な展示を有り難うございました。撮影OKと言うことも助かりました。

 

 本日午後の在宅回りのお宅で黄色の花を見た。蝋梅(ロウバイ)だった。

 

本日は大寒。
甘い匂いを振りまく花に、無理にでも春と言ってみたくなった。

「下北半島の風」 著者,挿画家,出版者みな上越出身者の本その2。

2020年1月18日(土曜日)
昨日「下北半島の風」の前半を記載しました。
会津戦争に負け、故郷を離れた武士の子と兄弟たちが辿った厳しい運命。敗残と新時代、身分を失い不安定な一家は二つの荒波に翻弄されます。もみくちゃにされながら学問を諦めない五郎と苦労を重ねる兄たちでした。

さて続きです。
〝もう一人の兄五三郎が生活に加わったものの、下北の開墾は困難を極めた。五三郎の計らいで、五郎は近隣で学問所を開いている人の許へ通うことになった。
時は明治4年、7月に廃藩置県が発布され、下北の藩領は新たな青森県に組み入れられた。現地に在位していた藩主は華族として東京へ去り、主従の心情を失った会津の人々は心の拠り所を失う。

 

せっかく友達になった友人から、自分は会津に帰ると打ち明けられる。
廃藩置県後人々はぞくぞく会津に帰郷しはじめる。

開墾地にまた冬が来る。
とどまった四人にふとんは無く、夜はゴザとムシロにくるまって寝た。五郎の勉強通いは続いたが、裸足なので凍る道の苦痛に耐えかね、途中で農家に助けを求めることもあった。だが履き物を貸してくれる人も、それを買う金も無かった。ワラ仕事に専念する家族の中で、辛抱強い太一郎の兄嫁の存在だけが一筋のともしびに感じられた。

ある日五三郎兄が、五郎のために学問修業が出来る県庁の給仕職を探してくる。一同は泣いて喜び、精一杯身仕度を整えると、わずかな餞別を懐に五郎は勇躍青森へと発った。

県庁で骨身を削って働く五郎。仕事ぶりは認められ、大参事(県知事?)の家の書生になった。給与が貰える生活で五郎の向学心はますますつのった。

 

ある日ドイツの軍艦が青森に寄港した。
歓迎会と見学会でドイツの軍人と親しくなった五郎は密航を思いつく。
だが決行を前に軍艦は出港してしまう。

またある日、地租改正のため中央から役人の一行が来県した。五郎はその要人に同行のうえ上京したいと願い出る。東京の引受人などを訊かれると、一行と縁もゆかりもない14才の少年は同行を許された。
青森の後、盛岡、福島の調査を経て一行は東京を目指す。その間の五郎は随行の書記について学習する。

3ヶ月後東京の土を踏む五郎。一回目の東京は捕虜として、今は学問をするために来たのだった。わずかの間に街の様子は一変していた。

紹介先の書生として令嬢の人力車に付き、走ってお伴する五郎。
しかし東京といえども満足できる勉強機会になかなか恵まれない。

ある日保証人になってやるから、後に陸軍幼年学校となる初年生募集の試験を受けてみないか、と勧める人がいた。武士の子なら良いではないか、という言葉に五郎は喜んで受験する。初めての制度のため合否発表は伸びた。

 

合格発表を待つ間、保釈が決定した兄太一郎と二年振りに再会する。
厳しい運命を越え兄弟はみな無事であることが確かめられる。

太一郎兄は他人の罪を自ら背負い、最後の判決を待つことになっていた。兄が身を寄せる家のあるじも同藩人だった。楽では無い暮らしぶりに、五郎はあらためて会津出身者の苦労を知る。

時は正月、世話になっている家の事情で拠り所を失った五郎は宛を探して東京を歩き回る。頼みにしたかっての名家で、五郎が有するわずかな金銭を担保にかろうじて居場所が確保された。頼られる人も苦しかったのだ。

試験結果はなかなか知らされない。
居場所を探す五郎のまぶたに浮かんだ下北半島の釜臥山(かまぶせやま)。
苦しい生活の中で見た山と桃の花が思い出され、帰りたいと五郎は思った。

居場所を探し歩いた冬が終わった三月末、ついに試験結果が通知された。
合格。十数名の入学者なのかで、数え年15才の五郎が最も若かった。

辛酸の日々を支えた青森県庁の要人や東京へ同行を許した役人、なにより父、兄たちから歓声が上がった。自害した母と姉妹たちが見たらどんなに喜んだことだう。

世話になった人に挨拶する五郎。

学校の先生は全てフランス人で授業はフランス語、食事は洋食だった。勉学と練兵に必死で付いていく五郎。強い誇りに苦労し、失いつつあった人間の誇りに気づかされ、入学時にビリだった成績が徐々に上がっていった。

数年のうちにフランス式の学業教練はドイツ人を交えた日本中心の内容に変わっていく。

 

幕末からくすぶっていた征韓論が次第に大きな議論となった。征韓論は抑えられ、その先頭に立たされた西郷隆盛が下野すると薩摩出身の政府要人たちが従い、地元の旧藩士とともに熊本城に攻め入り、ついに西南戦争が起った。

この戦のため、学校の士官学生は見習士官として大阪、名古屋、東京の守護に当ったが、いたずらに動揺することは厳しく禁じられた。
だが兄の四郎は故郷会津を攻めた薩摩を討つと言って討伐隊に加わり、刑期を終えていた一太郎兄も薩摩への恨みを口にした。明治9年のことだった。

五郎より上の士官学生の一部が九州へ行き、幼年兵も勇み立つ。一方出兵で士官学生が減ると幼年学校からの進級試験が行われ五郎は合格した。

 

征韓論で西郷と対立した薩摩出身の内務郷・大久保利通が、
征韓主義者の一派によって暗殺される。

五郎には、かって自分たちの故郷を蹂躙した薩摩を見返そうとする兄たちの気持ちが理解できた。しかし現実には、新体制のもとで上下なく接する薩摩・土佐の優れた人たちがいることを評価していた〟

物語の主な部分はここで終わります。著者は添え書きとして以下のことを記していました。
その後の五郎は明治33年に中佐として北京の公使館付武官となります。任務中、中国人による義和団事件が起こりました。中国を租借していたドイツ、ロシア、フランス、イギリスなど外国を排斥し武力攻撃する事件です。
12カ国が集まる公使館区域は激しい攻撃の的になり、当然日本も対象です。五郎は冷静に振る舞い、長く中国人に親しみ心情を理解していた五郎は事件の解決に努力します。沈着な五郎のリードもあり混迷した事件が解決すると、諸国から感謝称賛されました。

五郎の姓は柴。大正8年に柴五郎は大将になっています。
兄四郎はサンフランシスコ商業学校からフィラデルフィア大学に進み、帰国すると農商務大臣秘書官を経て衆議院議員になりました。
兄太一郎の経歴に下北郡長の記載がありました。

最後の最後、長兄太一郎の一行に涙がこぼれました。辛かった下北半島に帰ったのですね。
なんと立派な人でしょう、これは一方で太一郎の物語かもしれないと思いました。
五三郎は郷里に帰り父と暮らし、「辰のまぼろし」を著しました。
場面の情感が豊かに表現された香り高い倉石隆の版画による挿絵は効果的で印象に残りました。

さて昨夜午前0時近く、救急車が必要な往診をしましたが、本日は何も無く、一歩も外出をしていません。これから歯磨き粉(チューブ)を買いに行こうと思います。

「下北半島の風」,著者・挿画家・出版者みな上越市出身者の本その1。

2020年1月17日(金曜日)

樹下美術館は倉石隆の絵画と齋藤三郎の陶芸作品の展示施設です。乏しい予算の中から、何とか一点でも優れた作品を加えたいといつも考えています。

齋藤三郎はかなり多作でしたので、ポツりポツリと入りますが、倉石隆氏は中々集まりません。そんななか過去に、どうぞ、と申され、思ってもみない良い作品をお寄せ頂く方がありました。本当に助かり有り難く思いました。

お二人の作品をネットでも探しますが、希にオークションや古書検索で見つかることがありますので、この方面も続けている次第です。
先日のこと偶々1972年(昭和47年)5月5日実業之日本社発行の本「下北半島の風」が手に入りました。
幸運な事に作者は小田嶽夫、挿絵が倉石隆で、発行者は実業之日本社ではありませんか。いずれも上越市出身者で、こんなに嬉しいことはありません。

現在上越市では実業之日本社社長、増田義一氏に関するパネル展が催されていています。昨日休診の午後、つぶさに観てきました。本日は「下北半島の風」から倉石隆氏の挿絵をピックアップし、拙いあらすじを交えて以下ご紹介をこころみました。

 

「下北半島の風」表紙
1972年5月5日 実業之日本社発行

主人公は実在の人物で、会津藩の要職・柴佐多蔵の末っ子の五男・五郎。五郎には5人の兄弟と6人の姉妹がいました。物語は薩摩・土佐主力の新政府軍が若松城下に迫る会津戦争前夜から始まります。

新政府軍に迫られ緊張が高まる中、勇み立つ10才の五郎。

 

正装して家を後にする五郎。

白虎隊の年令に達していない五郎は小刀を差して正装させられると、大叔父がいる遠方に預けられる。見送った母、姉妹たちとは永遠の別れになるとも知らず出発する五郎。行った先は避難する人でごった返していた。

五郎が去った後容赦ない攻撃に晒された会津の城下は火に包まれ、明治元年9月22日降伏開城した。20名の白虎隊は飯盛山で悲壮な最期を遂げる。

 

五郎を預かった大叔父から、残った母と姉妹すべてが自害しことが告げられる。
武家の子弟なら潔く諦めろと諭されるが、五郎は気を失う。
さらに捕縛を逃れるため髪を落とし、百姓の姿になるように言われる。

 

五郎の夢枕に立った母。

まだ一帯に危険があるため大叔父の家を出て、兄と従者でさらに山から山へ野宿同然の逃避が続き、季節は冬に向かった。

 

病身を押して出兵した四郎兄がある日突然現れる。

四郎は生きながらえ、家族の安否の確認に寄ったのだ。うす着の五郎を見てこれを着るよう、四郎は白無垢を差し出す。四郎出兵に際し母が持たせたものだった。

 何かと親族を頼る暮らしとなり、山の物を採って路上で売る五郎。
通りで出合った四郎兄に武士の子らしくない、とたしなめる。
五郎が本当にしたかったことはただ一つ、勉強だった。

 

東京へ向かう負傷者たちの行列。

明治2年、新政府の方針で会津藩士は捕虜として東京か越後髙田藩へ護送され、謹慎生活を送ることになる。戦で足を負傷している者太一郎兄の看護人として五郎は江戸行きに加わる。梅雨の中、100人余りの一行は10日ほどで東京に到着し、幕府の食料庫で土間暮らしが始った。
東京滞在中、五郎の向学心を知っている太一郎は修学先を探すが、先々でおよそ下男扱いをされ、時には見世者の辱めを受ける。

時は新体制への移行期、藩として消滅した会津は政府から示めされた下北半島を領地とする道を選ぶ。但し各自ほかへの分散も許可されていた。
太一郎兄と父は下北半島へ移り住むことに決め、他の兄弟を残して海路品川沖から発った。

 

下北に到着した五郎達が見た海を渡るムクドリの群。
下北半島に上陸後、商家や寺の世話になりながら移動する生活を送る。
この行程中兄が結婚し、辛抱強い兄嫁はその後の生活で大切な人となった。

目的地の田名部で畳も便所もない家の生活が待っていた。しかも一帯の食糧難解決を担わされた兄が預かり金の持ち逃げに遭い、自ら罪を背負って囚われの身となってしまう。五郎ら残された三人で、北国の飢えと寒さに直面する。

 

凍った川から交替をしながら水を担ぐ。
配給の玄米が絶えると海藻やワラビの根、さらに雑草で飢えを凌いだ。
漁師が見殺しにした犬を食べ、死人をを出さずにかろうじて冬を越えた。

 一家三人は開墾のためさらに雑木林の原野へと移動した。ワラとムシロを敷いた小屋では川を風呂替わりにした。
春を迎え、開墾地の桃の花はきれいだった。配給されたスキやクワはワラビ採りに役立ったものの、肝心の作物は採れず、海藻の粥が続き、たまに他家から貰うヒエ粥がご馳走だった。

 

少々長くなりましたので、次回に続きを掲載させて頂きます。

今は冬?秋?春? Star Dustの口笛。

2020年1月15日(水曜日)

風がフーフー、雨がビチャビチャ。そんな空に向かって冬なら冬らしくと、誰かが叱っている。雪も星空も見えない今夜は冬?まだ秋?もう春?

 


ヘンリー・マンシーニの「Star Dust(星くず)」。

その昔、忙しい青年が恋人を訪ねたのはいつも少し遅い夕方
恋人は短い坂道の下の部屋でトントンと野菜を刻んでいる
遠くから口笛が聞こえてくるとコツコツコツと靴音が近づく
Star Dust、彼女は坂道の部屋でいつも彼の口笛を待った。

上京したばかりの私はStar Dustの曲が好きだったが、どうしてもある部分が覚えられなかった。くだんの彼に教えてと言うと、そのうち覚えるよ、というばかりだった。

年上の二人を勝手に友達みたいに思っていたその人から、ネクタイの仕方とヒゲの剃り方を教わった。そのうちみな遠くなり、5年ほど前その人はふとしたことから亡くなったと聞かされた。

写真の摂り方見え方 減量しなければ。

2020年1月14日(火曜日)

恐縮です、昨日のお汁粉の写真のことで追加させていただきました。

日頃写真、特に食べ物写真では遠近など違えて撮り、主旨にそった方を選んだりトリミングをしたりしてお出ししています。
それが昨日の汁粉で接近したものを掲載しましたところ、近すぎてお椀一杯、ともすればこぼれそうなほど量が多く見える写真になってしまいました。

これではせっかく減食をお伝えするのに良くありませんので、本日以下二枚目に遠目のものをお載せして、あるかもしれない誤解にお応えしようと思った次第です(汗)。

 

昨日の写真。

 

少し遠目の写真です。実際はこんな感じでした。
昨日のより少なく見えませんか(汗)。

写真の見え方はともかく、実は本日、入浴時の体重が1,7キロ増えていました(汗)。冬特有のオーバーカロリーと運動不足が原因です。
さっそく食事を減らし、階段昇降を増やして解消しようと思います。私のためですが、そうしないと、太ってはいけない患者さんまで安心して太ってしまうという事があるのです。

汗だくのページになってしまいました。

前日の過食を翌日の小食で調整。

2020年1月13日(月曜日)

1月13日成人の日、本日二回目の記載です。食事のみの話題で恐縮です。

昨日柏崎行きの食事は普段よりかなりオーバーになっていました。昼に銭形のみそカツ定食をぺろりと食べ、夕食は大潟区でピザとパスタを十分に食べましたので、本日は調整しなければなりませんでした。それで以下の食事になった訳です。

 

朝食を抜いて昼に小さなモチ一つのお汁粉と以下のおかずを食べました。
アズキは妻の友人からの頂き物。箸は過日の鎌倉で求めたものです。
とても使いやすい箸でした。

 

昨日の柏崎行きで三忠呉服店のの奥様から頂戴した副食。
大根漬けに昆布巻き、およびニシンの山椒漬けを美味しく頂きました。

この日の夕食は少しばかり果物を食べてお終い。以前にも書きましたが、前日過食した場合、翌日は調整し、二日間の平均が略々普段の一日分程度になるように心がけている次第です。

過食の翌日を軽めの食事で済ませると、お腹が休まり、眠気を催さず、疲れが取れるので良いと思っています。

今年二度目の柏崎刈羽、みな良い人ばかりだった。

2020年1月13日(月曜日)

現在柏崎、刈羽で1月下旬まで続けられている天神様めぐり。
先週日曜日に六カ所を訪問した後で、もう一回という心残りがあった。そこで昨日趣味の良いコレクターであるA氏を誘い、妻と共に再度柏崎へ出掛けた。

天神様めぐりは初めてと仰るA氏のために、先週私たちが回った先を中心に以下のようにお訪ねした。

 

最初の訪問先は再び蝋型鋳物の原惣エ門工房。

 

同工房の一部。
さすが金属造形。道具の種類と数に於いて陶芸の工房とは著しく様子が異なる。
隣りの室内で、あるじが静かに原型作りをされている気配だった。

 

続いて初めてお訪ねした中浜の熊木氏宅で。
寄せ木人形を手に取らせて頂いた。人が持った途端、人形が生きているよう感じた。

柏崎の場合天神様の両脇、あるいは下段左右に警護する随身(白矢印)が飾られる。
随身(随臣)はしばしば地元で別に焼かれた人形(大久保焼き)が用いられるているらしい。

 

 

再訪した極楽寺の地蔵菩薩像。

 

同寺の三十三観音。

A氏は仏像に詳しい。地蔵、観音ともその気品から、
京都に於ける作〝みやこ造り〟であろうと仰った。

丁度昼食時間となり、休憩をかねて食事をした。

 

本日再訪した三忠呉服店の天神様。
こちらの随身は木製であり、いざことあれば駆け出付けれるよう片足を下ろして構えている。
ちなみにこの随身は木造りということでした。
このたびの天神様めぐりでは三忠呉服店様にとてもお世話になりました。

 

 

本日最後の天神後は、前回と同じ同市宮川の陶芸家・吉田隆介氏宅だった。
温かみのある白磁が目に優しい。

 

玄関の懐かしいマユ玉。
陶芸の興味深い甘辛話を沢山して頂き、とても為になった。

 

さて同行のA氏の趣味の良さは別格。
天神様巡りを終え、柏崎市内のcoil4(コイルフォー)という店を案内してもらった。
洗う、用いる、磨く、愛玩する。嘗てある人が大切にした品には、新たで独特な美しさが漂うようになる。物は大切にされた分だけ美しく変わり得る、、、人と交わり終えた品が到達する第二の価値が美?それを見い出し生かすのは私たち次第?不思議な世界がこの店にあった。

 

 

新たな持ち主を待っている品物。
静かで不思議な求心力。

 

家の余計なもの全てを取り払い、この車輌一つ置いて暮らしてみたい。
何気ない物が放つ強烈な引力。店にファンが付いているのも頷ける。
あるじはまだ若く、本当に独特の店だった。

 

日が暮れてピザで反省会。

同行のお二人様、本日はご苦労さまでした。

原工房は温かくこまやかに接して頂いた奥様、道に出てお迎え頂いた熊木家の皆様、お声が良く清々しい極楽地の副住職様、偶々A氏のお兄様と幼なじみだったことが分かり、とても喜ばれた三忠呉服店の奥様、芸術家とファンの意義ある関係を真剣に訴えられた吉田隆介様、使い晒した品の静かな美しさを見せて下さったコイルフォーのあるじ様。訪問先の皆様は良い人ばかり。有り難うございました、とても感謝しています。

樹下美術館のヤブコウジ。

2020年1月11日(土曜日)

連日の庭です。
樹下美術館の庭の少なくとも四カ所の木の下に、ヤブコウジが集まっています。
今年は雪が無いので真っ赤な実が丸見えで、例年よりも目を引きます。

 

 

葉の色は緑色と茶っぽいものの二通りがあるようです。
新しいものと年数が経っているものの違いでしょうか。

以下拙歌です

取る年の浮かぬ心を慰むる木の根に赤きやぶこうじかな

こじつけです→木の根=木の音=拍子木=ことの始まり

 

2001年に描いた拙絵(B5)。
葉で苦労したが出来上がりは良かった、とメモにありました。

ヤブコウジは以下のような見所があると勝手に思っている次第です。
・実が大きい ・実が艶やか ・赤色が鮮やか ・チビなのに樹木 ・チビなのに常緑樹 ・丈夫である ・良く増えるetc。
縁起が良いとされるのはこのような事からでしょうか。

小雪の冬、クリスマスローズの古葉をいつ切るか。

2020年1月10日(金曜日)

新しい年が一週間過ぎた。
樹下美術館周辺に雪は無く、初雪として終日積雪が残った日も思い出せない。雪に代わって毎日のように雨が降り、まるで冬の梅雨の様相になっている。

本日の米山。裾の雪が解けている。

 

樹下美術館のクリスマスローズ。

昨日クリスマスローズの事を書きましたが、毎年古い葉を何時切るかで悩みます。早めに切って花芽や蕾に日光を当てる、という助言や記事によく出合います。
但し路地植えの当庭では、積雪に対して丈夫な葉が芽や蕾を覆い、雪で傷むのを守っているように見えるのです。それでこの先、蕾や開花の様子と雪の具合を見て、よしとばかり切る方法を取っている次第です(十分な自信はありません、、、)。

 

本日見た蕾。
開館まであとふた月少々、あまり早く咲きすぎても困るのです。

この気象下、多少の庭いじりが出来るので助かりますが、異常な暖かさはやはり気持ちが悪い。
冬の梅雨などあろうはずはありませんし、全てはいずれやって来る〝寒波〟次第なのでしょう。

白鳥とクリスマスローズ。

2020年1月9日(木曜日)

当地の朝日池は日本で数少ないハクガンの飛来地で毎年その貴重な姿を楽しみにしている。
今年は11月13日という異常に早い時期、一羽がマガンに混じって飛んでいるのを目にしただけだった。昨日の外来で、20羽くらいが来ているようです、と詳しい方から聞いた。

上越市東から柿崎区、大潟区、頸城区、南西の三和区まで、広いエリアで20羽の鳥を探すのは容易ではない。雪が少ないので上越市中心部まで行っているかも知れない。

本日午後仕事休みの木曜日、ハンドルを握って周辺を探した。だが白鳥の群を見たもののハクガンには出遭えなかった。
それでしばし白鳥たちを眺めて過ごした。

 

向こうに送電線の鉄塔。以前、これに衝突したり引っかからなければ良いが、と心配したが、そのような事例がなく過ぎている。鉄塔と送電線が比較的少ないのも当地域に飛来する一因になっているかもしれない。

 

白鳥は雁よりも人に対して鷹揚なところがあり、5,60メートルならそーっと見ることができる。
前回正月を中心に冬の生活に見られる華やかな色彩のことを書いたが、この鳥はひたすら白一色を誇っている。
寒く広い田で一心不乱に食餌するコハクチョウの群。見ていると向こうが主人公で狭い車中の私が異邦人になっている気がしてくる。

 

時々4、5羽の鳥が集まり、首を伸ばしてクワクワと羽ばたきながら鳴き合う。但し周囲の鳥たちは全く関心を示さず平然としているので不思議である。
鳴き合った後で一羽の鳥がほかの一羽をを突っついたり追っかけたりするのを何度か見た。調べてみたが、鳴き合いといい、何が起こっているのか分からない。

さて夕刻の庭でクリスマスローズの手入れをした。毎年成長が止まったようなのが何株かある。今年もそれらを掘りおこし、新たな場所で土を作り直して植え替えた。今年は異常に温かく、まだ積雪らしいものに出遭っていない。そのせいもあり、以下のように蕾を膨らませたり、開いているものが見られている。

 

 

クリスマスローズを庭に植えて25年ほどが経った。
毎年美術館は冬休みを終えると3月15日にその年の開館を迎える。クリスマスローズは、寒さが残る開館後の庭を温めてくれる貴重な花なので、精一杯大切にしている次第。

昔の冬の色 正月の客疲れ 冬鳥に虹。

2020年1月8日(水曜日)

本日かなりお年の女性が鮮やかな紅白たて縞のマフラーを着けて来られた。
良い色ですね、と言うと、若い時のものです、昔は今より色が華やかでしたね、と仰った。

確かに昔の冬から春は、正月を中心にさまざまに華やかな色が付いていたイメージがある。
先日の鎌倉そして柏崎の天神様めぐりでも歴史の中の正月色といえばいいのか、鮮やかな色を目にした。

 鎌倉長谷寺の五色幕。

 

鎌倉美鈴の正月菓子。

 

以下は柏崎の天神様めぐりです。

天神様飾り。

以下は先日、柏崎市のあるお宅で拝見したお手玉など。

ほおずきお手玉。
上掲のものは、いずれも古着で作られていた。昔からそうしたのだろう。

昔の手まり。

美しい手まり(Wikipediaから)。
芯に乾燥もち草などが詰めてあり実際に突けたらしい。こどもの頃
女の子が熱心にゴムまりを突いた。同級生のM君は男だが上手かった。

 

小生も姉妹に混じって板一枚の羽子板で遊んだ(Wikipediaから)。

 

描いてみた追い羽根。
左のはゆっくり近くへ飛び、右のは早く遠くへ飛ぶ。
室内では主に左の羽根を、屋外では右のもので遊んだ。

コタツのみかん、カンテン料理、染めたギンナン遊び、鮮やかなビー玉、ガラスのおはじき、おひな様、マユ玉、たこ揚げ、双六、メンコ(私の所ではパッチ)etc、また紙風船もこの時期だったのか?。正月とは言わず、冬から早春まで、目にするもの、遊ぶものにはきれいな色が付いていた。

色とりどりのものに囲まれて幼少を過ごした人達が続々ノーベル賞を取っている。スマホとゲームで遊んだこどもたちの答えは数十年先には現れよう。結果の善し悪しは少なくとも頭脳の柔軟さによって左右されるに違いない。

さて本日見えた方が、
「正月の客疲れです。洗濯ものがまだ終わりません」、とぐったりした表情で仰った。70を過ぎた親には智恵を出しあって少し休ませてやる方法を考えた方が良いと思う。

本日予報通り夕刻から夜に掛けてひどい嵐になった。
午後施設訪問後の水田に白鳥と雁がいて、遠くの群に虹がかかった。

虹も晩秋から冬の美しい色。

風は明日にも止むようだが、まだまだゴーゴーと音がうるさい。

「越後 天神さま街道」の柏崎、刈羽地区参加者リストです。

2020年1月6日(月曜日)

昨日訪れた天神さまめぐり越後 天神さま街道」の柏崎、刈羽地区参加者リストを以下に掲載してみました。
●開催期間の多くが1月25日までですが、場所ににより違いがありますのでお確かめ下さい。
●開催日も各参加者で異なるようですので、リストの右端の欄を参考になさって下さい。
●電話のあたまに0257の番号が付きます。

〝出来ればお電話などして気楽にお訪ねされると良いと思います〟

 

柏崎・刈羽の「越後 天神さま街道」を巡ってきた。

2020年1月5日(日曜日)

昨年11月12日、是非観てみたい庚申塔の探訪に柏崎市を訪ねた
同日、ご親切にも探しあぐねていた道を教えて下さったのは四谷1丁目の三忠呉服店の三井田さんだった。その折一月に同市で「天神さま街道」が開かれること、次回で10回目となることなどをお聞きした。

「天神様」、、、。
童謡「通りゃんせ」に出てきた名前、幼い日に床の間に父が掛けた掛け軸の人、、、怨霊となって清涼殿に雷を落とした人、、、。いわゆる昔のたいそう貴く、どこか懐かしいお方でははないか。是非とも訪ねたいと思った。
お手紙やメールで具体的な案内を頂いたのが本日いよいよ実現し、胸ときめかせて友人ご夫婦と出かけた。

良い行事だった。
教科書やテレビで折々見た歴史上の大人物が人形になって、家々で丁寧に祀られている。渋いの、可愛いの、澄ましているもの、リアルなもの、まったく自在で面白かった。

お訪ねした順は参加全37カ所のうち、蝋型鋳金・原惣右エ門工房、寺院・極楽寺、原酒造株式会社、三忠呉服店、須田邦彦氏宅、陶芸家・吉田隆介氏宅の六つで、以下その様子を順に掲載してみました。
気象が厳しいこの時期に天神様。農業、学問、武道、芸能などで親しく生活を守護する神様を祀る。この時期がいっそう清々しく感じられる質の高い行事だと思った。

 

●以下原惣右エ門工房です。

 

 

●以下極楽寺です。

 

 

 

龍の鏝絵(こてえ)の扉。

 

●以下酒彩館(原酒造)です。

 

 

 

●以下三忠呉服店です。

 

 

 

 

 

 

水仙が春の香りを届けている。

 

 

●以下須田邦彦宅です。

 

 

 

何千という達磨さんのコレクションも。

 

●以下陶芸家吉田隆介宅です。北前船が運んだであろう土佐派の三幅対と荘重な神棚。

 

 

 

二階から階段を見下ろした眺め。

午前9時半過ぎから夕刻5時ころまで、先々で温かく迎えられ、興味深く観て回った。爽やかな柏崎・刈羽の人々、長く積み重ねられた文化。行政を頼らないという本行事は柏崎市および刈羽村、さらに出雲崎の有志により地域をまたいで開催されているという。
このたびの訪問では、民間らしい軟らかな膨らみが感じられ、自然で心地良かった。

貴重な歴史・文化の地力を内包する御地。豊かな心地良さを長く私たちにも分けて下さることを願わずにはいられなかった。

年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その3。

2020年1月4日(土曜日)

二泊の旅行にも拘わらず長々と書いている年末の東京鎌倉旅行記は今回で終了です。

さて31日朝、前日の雨は上がり、夜半からの風で鎌倉の雲が吹き払われ、空と海は真っ青。まさかの富士山が岬の向こうに姿を現していた。激しく立つ白波も冬の風情として文句なしだった。

 

これ以上何を望もう、喜んで七里ヶ浜の歩道を歩いた。
(午前8時35分頃の海)
真白き富士の嶺、緑の江ノ島、そしてそして真っ青な相模灘。
常緑樹の江ノ島は冬でも緑色なのだ。

年を経ても長い休みは取れない身分。貴重な時間で色々見たいので、いつものようにタクシーを頼った。
本日のドライバーさんは年配の紳士。さあ行きましょうの一声で出発した。
よく分からないながら、北へのぼり東をかすめて終了のコースになるようだった。

長谷寺から始まった。

これでもかというほど掃き清められた驚きの露地。

 

清々しい花頭窓が連なる大きな観音堂。
正月に向けた華やかな五色幕が風に揺れる。

 十一面観音菩薩像はあまりに近く(実はかなり距離があるのだが)、大きさと輝きに圧倒された。

拝観した観音ミュージアムのパンフレットから。
館内のほっそりした幼顔の十一面観音を中心に33体の観音を拝観。
揃って大きな円板に浮き彫られた掛け仏は誠に優美だった。

 いにしえの仏師の技と心に比べ現代造形の技と心はいかなるものであろう、といつも思案する。
それについては進化をせずただ変化(私にはまだ十分に理解できないと言う意味で)を模索するだけの残念をやはり払拭できない。
これは行き着くところ作り手だけの話ではなく、観る者ともに日常の苦楽が全く異なってしまったからなのかと、考えている。
飽くことなき経済活動が金にならない芸術活動を抹殺してしまった?結局幸福の総体はゼロッサムゲーム?そんなことで終わてしまう話ではないと思うのだが、どうだろうか。

大仏様の高徳院へと回る。

日本晴れの大仏様。
建造物だと分かっているけれども、何故これほど落ち着いていられるのか教えて欲しいほど。

続いて海蔵寺。

 

鎌倉の寺院には岩窟が多くて驚く。
それによって神仏の神秘性がより伝わる。
神仏混淆、寺院の鳥居も自然に感じられるようになるから不思議。

 

同寺の庫裏であろう、数寄屋作りが誠に清々しい。
私共の雪国ではこのような建物はまず成立しない。

 

梵鐘にも注連縄(しめなわ)。

 

さらに訪ね進んだ浄智寺の門にも正月飾り。
日本晴れといい、すっかり新年のおもむき。
花はまだ先だが、手入れされた梅林は目を引き、是非再訪したい。

 

広大な境内で巨大な伽藍に圧倒される建長寺。
青空を写す滑らかな池の庭で一息。

寺巡りをしていても中々僧に出遭えない。

日円覚寺ではじめて僧侶のお姿を見ることが出来て嬉しかった。
(折角のお寺、若い僧が通り過ぎるだけで十分、私たちの前にもっと現れて欲しい)

 

円覚寺境内の佛日庵でお抹茶を頂いた。

最後に念願の丸窓が見られる明月院へ。

正面に台杉が何株も植栽されている。
たまたまお会いした庭師さんは良い感じの人だった。

 

あこがれの丸い窓。
この時期、火鉢に鉄瓶が掛かる情景は何ともご馳走。

 

路地を脇へ入ると生け垣に餌台が設えてあり、雀が沢山来ている。

 

何とリスまでも。

 

明月院を最後に午後二時近く寺巡りは終了した。
運転手さんとは駅でお別れ。座席が心配だった復路の横須賀線は1000円の追加料金でグリーン車に座わることが出来、ひと安心だった。

一泊二日の鎌倉は雨と晴れそれぞれに趣きがあった。多様な庚申塔を目にし、随所で江ノ電を見た。急ぎ足だったがそれぞれ特有の表情をした歴史的社寺を巡ることが出来たが、もう少し鎌倉時代を勉強しようと思った。
狭い路地や辻はみな奥ゆかしく、美味しそうなお菓子を求め、絶品のてんざるを頂けたのも幸運だった。何より青々とした相模湾の彼方に現れた富士山は貴重な冥土の土産になった。
前日妻に七里ヶ浜の遭難の話をしたら、初めて知ったと表情が暗くなった。一日経って空が晴れるとそれも和らいだやに見えた。

花の少ない季節だったが随所で椿や山茶花に蝋梅、珍しく地に下ろしたシクラメン、開花した水仙も見た。また紅葉が遅いため今もモミジがみられると聞いたが、なるほどと思われる樹があった。
照葉樹林帯の同地では、カシノキ、クスノキ、タブノキ、ヤブツバキが生き生きと育ち、シイの類もあるに違い無い。道沿いの柑橘類や木守の柿も印象に残った。
多くの社寺で手入れ良く維持されている梅林は大変に印象深く、機会があればぜひとも花を見たいと念願している。

最後の明月院は花の時期ではないにも拘わらず、人を迎える温かさが伝わり楽しい場所だった。
いつもながら長々となりまことに申し訳けありません。

年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その2。

2020年1月2日(木曜日)

12月30日今にも降り出しそうな朝、いざ鎌倉へ。
横須賀線の混みようなどはさっぱり分からないので、早めに新橋から東京駅へ移動した。雨が降りそうな空だが晴れても降っても、私にとって休みは貴重であり、傘は鎌倉で買うことにした。

 

30日7:40頃の東銀座。
高層ビルの現代からおよそ一時間半、中世・近世が残るはずの鎌倉へ。

 皆様ならとうに訪ねられている鎌倉。しかし私は過去にある病院の医師探し、ある人の住居探しで行った二回だけ、観光とは無縁だった。それでこの度は大仏様も鶴岡八幡宮も新参、まことに初々しい気持ちで電車に乗った。

この日鎌倉到着が早すぎて西口駅前の喫茶店でひと休み、高まる気持ちを静めた。

 

あずきが沢山かかっているロールケーキを妻と分けて食べた。

 

喫茶店の二階から見える駅。雨に期待してタクシーの列。

お茶を飲みながら店主に予定カ所を見てもらい、およそ道順を決め、コンビニで傘を買った。
多く回りたいので駅前からタクシーに乗った。若いドライバーさんはとても真面目な感じの新潟県出身者で幸運だった。そういえば昨夜の中華飯店の若いスタッフも新潟県出身だと言っていた。

私の予定表では先ず庚申塔巡りの地味なカ所ばかり。やや面食らった感じの運転手さんは勉強になりますと言って、営業所やスマホとやり取りし、さらには通りすがりの石塔まで探してくれた。

 

最初に訪ねた御霊神社(ごりょうじんじゃ)は鳥居すれすれに江ノ電が通過する撮影スポットだった。

 

同神社は12基の庚申塔が安置され、雨のなか静かに佇み心が弾んだ。

幼な顔の青面金剛が彫られている屋根付き石塔が目に付いた。一般に見ざる言わざる聞かざるの三猿(さんえん)はそれぞれほぼ決まったポーズをしているが、ここでは踊っていると案内に記されている。

 

踏んづけられた邪鬼?の下に明瞭ではないが、扇を片手に三猿が踊っているように見える。
本石塔建立までの三年間、講中の衆にとって年6回の庚申待ちはことのほか楽しかったことが窺われる。

 本尊の青面金剛はしばしば半裸の女人と言われるショケラの髪を左手で掴むが、
合掌するいかつい男の髪を右手で掴んでいるように見えた。
左手は羂索を手にしている。

続いては材木座の五所神社。

 

16基もの塔が安置され、バリエーションに富み大変面白かった。

 

三猿は足を曲げ両端は向き合うことが多い。
ここでは、ハイ、ポーズと言われて、足を伸ばしこちらを向く表情が愛らしかった。
江戸時代の石工(いしく)ののびやかさが伝わる。

 

本尊として青面金剛の像や文字が無く猿の像に庚申供養塔の文字が彫られている。
相模灘の国だけに、一見猿に波があしらわれているように見える。
ほかにも波をイメージさせる紋様を見た。

 

如来と思われる本尊と三面に猿が彫り出されている。

 

駒形と呼ばれる先が尖った様式の石塔が三つ並んでいる。

下に三猿、それぞれに「庚申塔」「庚申供養塔」「猿田彦大神」と異なる塔銘が彫られている。
御霊神社も当社もそれまで分散していた石塔を、後に集めて保存したという。
庚申信仰が盛んだった江戸期を中心に、13世紀のものまであるという事だったがどれか判然としなかった。
内容によって鎌倉市文化財の指定をうけているものもあり、行政の優れた姿勢がしのばれる。

初めて見た摩利支天像。

庚申塔の列に並んでいた三面の像には摩利支天(まりしてん)と説明書き掲げられていた。自在な神通力を有する天部の一つとされ、武士達の守護神として好まれたという。乗っている猪ともにマス(塊)として非常に迫力があり素晴らしかった。
あなたには摩利支天が付いているかもしれない、と妻が妙なことを言った。

さて私たちがウロウロと石塔を観て回っているあいだ、地元の氏子衆と思われる方たちが境内掃除と新年への仕度をされていた。
ちょうど昼食時間となり出前をまとめる声が聞こえてくる。
カツ丼、天丼、天ざるそばの三つが叫ばれ、長老がまとめようとしている様子だった。
注文が一回りすると、
「オレ天丼止めてカツ丼にするわ」などと訂正が入った。
すると合計の数もうまく合わないようで、ついに、
「アンタ惚けて来たんじゃないの」
「オレは惚けていないよ」
「いやいや惚けていないというのが惚けた証拠」
「大体オレにさせるのが無理なんだよ」と声が行き交い、まるで落語を聞いているような風になった。
可笑しさをこらえながら、大晦日が迫り一生懸命境内を清める方達に心和むのを覚えた。

 

庚申塔とは関係の無い寺へも回った。

本覚寺の変わった窓。

同寺は正月三ケ日の「初えびす」を前に華やかな設えが施されていた。
女性を乗せた車夫がまさに出ようとするところだった。

次は八雲神社。

比較的こじんまりした境内に三基の庚申塔がみられた。
右端の青面金剛は右手に人の髪を握っている。握られているのは五所神社と同じように男の形をしていた。

右端の像で青面金剛は右手に人の髪を握っている。
その人は下方の三猿に比べれば明瞭で、もしかしたら太った女性かもしれない。

 

 

続いてもののふを偲ぶ高い五輪塔があった来迎寺、さらに参道の角に庚申塔があった覚園(がくおん)寺を、それぞれ巡り鎌倉宮へ向かった。

 

覚園寺の坂道は良い風情。

 

あちこちがツルツルしている鎌倉宮は村上社の身代わり様。
主君を逃すため身代わりとなり、敵に自分を討たせた忠臣として祀られている。
参拝者は病の場所を撫で、身代わりになってもらう願掛けがあるらしい。

この旅に持参した小説「銀の匙」の文中、明治時代の幼い主人公が伯母と一騎打ちをして遊ぶ場面がある。討ち取られる際に「縄は赦せ、首斬れ」というセリフを吐くのを思い出した。

鎌倉宮を終了し午後一時すぎ、調べておいたそば処「宮前」で昼食を摂った。

 

上手く席が空いたところで、運転手さんと三人、天ざるを食べた。
蕎麦もさることながらテンプラの美味しかったこと、特にシイタケには驚いた。

 

運転手さんお勧めの瑞泉寺。
奥にかの偉大な国師、夢窓疎石が造園した庭がある。

余計な足し算はしないという禅の庭。国師は足し算どころか引き算として岩壁をえぐり、重要な公案に応答している。静けさに秘められた禅の異常な強さを感じないわけにはいかない。この寺の入り口にも一基庚申塔があった。

鶴岡八幡宮に向かうに当たり、ほど近い小町3の上生和菓子の店「美鈴」に寄った。鎌倉一と呼び声高いお菓子屋さんは小さな路地に入り、さらに小さな角を曲がった小さな店だった。親しみやすいおかみさんの応対で花びら餅などの正月菓子を求めた。

 

込められた心がしっかりと伝わる菓子。
初釜が近いのでとても忙しそうだった。

この日最後の鶴岡八幡宮へ詣でた。

 

大晦日を前に若者や外国人で賑わう八幡宮界隈。

 

階段わきの銀杏の若木。

2010年に歴史的な大銀杏が倒伏し、ヒコバエから生えたという若木が人の背丈の三倍ほどに育っている。
イチョウは生長が遅いというが、10年も経てば木らしくなってくるものだと感心した。

慎ましくても正直者がちゃんと生きられる世の中になって欲しい、と高い拝殿で心込めて祈った。

さて予定した鎌倉の初日が何とか終わった。

 

ホテルから七里ヶ浜の海岸は近い。
期待した夕焼けは無かったが、初めて見る江ノ島の影を懐かしく感じた。

 

夕食前に江ノ電・七里ヶ浜駅まで行き、電車の写真を撮った。

この日多くをタクシーを頼んだとは言え九つの社寺、二つの店舗を回り沢山歩いた。
庚申塔にえびす様。本日は庶民文化を伝える史跡を交えて巡ってみた次第です。

そこはご承知の方ばかりと思いますが、次回に北鎌倉などの2日目を載せさせてください。

年末~大晦日に上京し鎌倉を訪ねた-その1。

2020年1月1日(水曜日)

2020年1月1日、二回目の記載です。
実は昨年12月29日に快晴の朝、さいがた駅からほくほく線に乗り上京、東京と鎌倉へ行きました。
29日は東京でゴッホ展を観た後、2,3の社寺を回り、いつものようにお台場の海を見て都内で一泊。翌朝鎌倉へ行き、一泊し2日に亘って観光、31日夕刻に帰宅の行程を予定して出かけたという訳です。

人生そう後がありません。押し詰まったこの時期、思い立ったら吉日、ゴッホ展を口実に敢えて出掛けました。以下に短い旅の顛末を何回かに分けて記載してみたいと思います。

 

12月29日日曜日、ほくほく線さいがた駅8時10分発の電車がやって来る。

 

樹下美術館付近の水田を通過。快晴の妙高連峰が眩しい。

 

ほくほく線の車窓から。
山間に入ってすぐ霧がかかり、松代駅は濃霧に陽が当たる幻想的な眺め。

 

ゴッホ展は開館前に入場券を求める人で既に長蛇の列。

列はさらに右方に続き、見えませんがその先も右に折れて続いていたのです。

あまりの列におじけ付いて早々にゴッホ展を諦め予定変更。埋め合わせに上掲の写真に見える赤い建物、寛永寺は清水観音堂を訪ねた。

 

優美な回廊と花頭窓。鎌倉時代の建造を維持しているという。

 

京都の清水寺と同じ懸崖の舞台が設えてある。

 

お金を投入するとおみくじを持って来てくれるロボットの獅子。

高さ30㎝くらいの小さな獅子がお金の投入をじっと待っている。
お金を入れると右の箱からおみくじを取って取り出し口へ運ぶ。ユーモラスな動きをするので試すと小吉だった。

 

山を下りた眺め。舞台作りであることが良く分かる。

 

タクシーを拾い予定した湯島天神へ。

 今年孫達が何人も受験や進学をするのでお守りを沢山求めた。
梅のつぼみはまだ小さく堅そうにしていた。
SNS用?のプラカードが置いてあり、念のため写真を撮ってみる。

天神様を出ると間口の狭い寿司屋さんがあり、釣られるように入って昼食とした。

 

東銀座のホテルにチェックインをして休む間もなく外出。

 

少し歩くとカプセルホテル。懐かしくも維持されているのが嬉しい。
昭和47年竣工のホテルの事は前々日のBS1テレビで再放映されていた。

若き日の病院アルバイトの往復で、出来たばかりの建物前の高速道を何年も走った。アスベストや老朽化が問題となっているが、世界遺産登録まで関係する存否議論が続いている。
大きさと高さを争おうという建築物のなか、機能とと形態で挑み、50年以上に亘り大都会のシンボルの一つとして生き続ける生活空間。作者黒川紀章にあらためて畏敬の念をおぼえる。

その後浜離宮を右に見ながら環状二号線に沿った歩道を築地橋を越えてかなり歩いたところで、タクシーを拾った。

 

いつものお台場へ、砂浜の大半が大がかりな工事中でやや寂しい。
オリンピックに関係しているのだろうか。

お台場へ近づくと見えてくる観覧車がいつも気になっていた。本日乗ってみようということになり、砂浜を後にして歩き出した。大きなものというのは、遠くから見えてはいるが中々到着しない。道筋の要領も得ずタクシーの世話でようやくバレットタウンという所に着いた。

 

着いても何処なのかさっぱり見当が付かなかった「パレットタウン」。

 

広い場内は車の展示場で、若い人ばかりの不思議な場所だった。

 

さらに進みついに大観覧車の乗り場へやってきた。

 

ゴッホの待ち時間30分を待てず、観覧車の20分は待った。

 

 

ああ生まれて初めて乗った観覧車の何と楽しかったことか。
宝石をちりばめたような夜景だった。

観覧車の後は近くの駅でゆりかもめに乗って汐留駅で降りた。

 

迷路のような汐留の夜道もまるで遊園地のよう。
ここでもいっとき迷った。

ホテルに帰る道すがら巨大なビルの一階にあった中華飯店で夕食を摂った。

肉、野菜とも広東風、エキゾチックで優しい味。

ジャスミン茶で長歩きの疲れが和らいだ。

 

食事を終えた道すがら再び迷い、カレッタ汐留のイルミネーションを路上から見下ろして楽しませて貰った。

東銀座や隣の汐留は昔から縁の薄い所。そこに巨大タワー群が林立し、広い交差点の歩道は複雑な高架構造になっている。見えていた目印がすぐにビルの陰になり、似たような風景が微妙にずれる。そのうえ次々に現れる交差点は直角に交わっているとは限らない。少々苦労はしたがスマホにも助けられ無事ホテルに戻れた。

患者さん達にご迷惑をおかけするかもしれない年末旅行。お陰様で一日目を楽しく過ごさせてもらい感謝に堪えない。普段馴れない1万歩数千歩の歩行、疲労した足を休めているとすぐに眠りについた。
翌朝8時に新橋→東京駅→横須賀線で鎌倉に向かう予定になっている。

続く30、31日の行程はまた後に掲載させてください。
さる12月29日の渋野選手の記事は出発前に予定投稿させて頂きました。

〝今年もどうか宜しくお願い申し上げます〟

新たな年が明けました ゆたかの海へ。 

2020年1月1日(水曜日)

新たな年が明けました
その気になれば何時までも成長できる話を信じ
このまま時の舟に乗り
豊かの海へと航海を続けたいと思います。

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