冬晴れの野尻湖 中勘助の詩碑。

2020年1月26日(日曜日)

日中よく晴れた本日日曜日、午前8時半過ぎに家を出て野尻湖へ行った。なぜ野尻湖かというと、確固たる理由もないが、昨年12月から読み始めた中勘助の小説「銀の匙」が野尻湖で書かれた事を知った事があった。
作年12月に一度野尻湖行きを試みたが、途中寄り道して失敗、その日は断念していた。あれから一月余り、雪は無く本日の空は快晴、冬の野尻湖は如何ばかりかと車を駆った次第。

 

野尻湖近くの広い駐車場。昔ここに学校があった。

柏原駅からオレンジ色の川中島バスに乗ると、ここにあったグラウンドが終点だった。いつも泊まった藤屋旅館まで歩いて2,3分の懐かしい所なので寄り道した。
(調べましたところ、現在は信濃町公民館の野尻湖支館ということです)

たまたま寄ったにも拘わらず、一角になんとまあ中勘助の立派な詩碑があり、驚きかつ嬉しかった。「銀の匙」は興味深く、既に二回読了し三回目を読み始めた所。すっかり虜になってしまい、この先ずっと愛読しようと決めている本。
その著者に対して、野尻湖の人びとは碑をこしらえ顕彰していることに感動した。

 

 「ほほじろの聲」という詩が刻まれている。

「銀の匙」前篇は明治44年と45年の夏に、野尻湖にある枇杷島の神社に籠もって執筆されている。小説は明治中期に於ける繊細多感な幼少から思春期にいたる私的な生活史の形で著されている。

弱くて驚くほど繊細なこどもとして、特に伯母の庇護のもと大切に育てられる主人公。明治中期頃の子どもの世界が何ともあどけなく美しく展開する。
雨が降っているだけで、あるいは海の波音を聞くだけで悲しくなって泣くような、主人公のあまりのこまやかさ。これは普通の子では無い、もしかしたらまれに見る美少年だったのではないか、と確かな理由もなく想像した。

成長するに従い背が伸び、抜きんでて強くなるのだが、スマートで外国人のようになった、という話がある。老年の写真などは俳優を思わせる渋さが垣間見られている。

大人も放っとかない美しいこども、、、(本人はただの一言も言わないのだが)。静かで敏感なうえ黙っていてもモテた男性を一人二人知っている。だが不思議な事に彼らの奥底は悲しげで孤独そうに見えるのである。
氏の本はまだ「銀の匙」一冊だが、読みながらこの人はそのような人間の極みだったのではないか、と感じている次第。

野尻湖の詩文も寂しい内容で、中氏らしくて良かった。

 

中氏と「銀の匙」と野尻湖のことが書かれている。
碑は昭和48年、公民館完成を記念して建立されたという。

詩は野尻湖の執筆後、十数年経って再訪した時のもの。ホホジロの声を聴くと昔が懐かしい。過去も今もこの先もまた自分は一人、ずっと一人のままであろう、というようなことが謳われている。短い詩の中で、ひとりという文言が四回も続いて現れる。

湖畔に向かった。

当時の面影はないが、本日の藤屋旅館。
松の木は往時のままのような気がする。すぐ前が湖と桟橋。

 

藤屋さん前の桟橋で。昭和24年の私たち(右端が小2の私)。

藤屋さんに一泊し、信州味噌の味噌汁に野沢菜漬けとワカサギのテンプラを食べた。ここで出される家と違う食べもがとても楽しみだった。
湖でボートを漕いだり、あるじのモーターボートに乗せてもらったりして帰る。1年に一回、高校生のころまで野尻湖行きが続いた。

小学時代、皆で柏原駅まで歩いたことがあった。道すがらある看板を見た姉が
「あっ、この家〝王子売ります〟って書いてある」と言った。
玉子が王子と書かれていたのだ。
私は何とかそれが分かったので、一生懸命笑った。

 

本日の黒姫山。

 

お目当ての妙高山。

 

長野県の人は黒姫を背負った野尻湖と言い、新潟県の人は妙高を背負った野尻湖という。気持ちは良く分かり、野尻湖はまれに見る風光明媚な所だと思う。

中勘助が訪れた明治末の野尻湖は訪ねる人も無かったらしい。中氏は一種放浪の途中でやって来て気に入り、島に籠もって本を仕上げたという。

※書き始めは日曜日でしたが、終了が日付けをまたいでいました。
申し分けありません、文面上日曜日掲載と致しましたので御了承下さい。

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