こども

分校時代の出来事その2 バスにさらわれる。

2025年5月6日(火曜日)

小学校低学年、つまり分校時代のことです。家の前に国道(勿論砂利道です)があり、そこをバスが走っていました。当持バスは主に木炭車でゆっくり走り、特に上り坂では喘いだ末に止まることもありました。

家の近くお菓子屋さんにバス停がありました。そこから100数十メートル行くと次の停留所で、その間半分は上り坂でした。

よくバス亭付近に居て、走り出すバスの後方バンパーに飛び乗り上半身を乗せ、坂を上る途中スピードが無くなると降りるという遊びをしました。
危険な遊びでしたがほかの子達と一緒に飛び乗ることもありました。

ある日、私一人で飛び乗ったバスは性能が良かったのでしょうか、普段なら減速する坂をそのままの勢いで走りましたので降りることが出来なくなりました。
近くに居た姉が「ふかしちゃん!ふかしちゃん!」と叫んで追いかけて来るのがわかりましたが、途中で引き返したようでした。

必死にバンパーにしがみつきバスは次の停留所で止まりました。万一そのまま走り続けたならもうどうなったか分かりません。いけない事をしてしまったと後悔いっぱい、しょんぼりバス亭から歩いて帰りました。
私がバンパーに掴まったまま走るバスを見ていた人もいましたので、もう止めなさいと言われたかもしれません。

家に帰ると母が「ふかし行っちゃった!ふかし行っちゃた!と、泣きながらゆう子が走って来たんだよ」と言ってひどく叱られ、傍で姉が目頭をこすっていました。

この話は大人になっても母や姉から何度か言われました。

分校時代の出来事その1 お弁当コロコロ。

2025年5月4日(日曜日)

前回近くの分校で三年生まで学び、四年生から本校に行くこと。、四年生になって一回目の音楽授業で歌った「朧月夜」のことを書きました。

これ機に今の脳裡にある我が幼き分校時代の出来事を幾つか書いてみます。
本日はお弁当コロコロです。

分校の三年間は1学年1クラスでした。始業式や終業式などの重要な学校行事があると三学年揃って列を作り本校まで、主に国道を歩きました。

時にはお弁当持ちで本校に行くことがありました。
お弁当箱は時代により形に流行があり、一年生のある日の本校行きは筒状の丸いお弁当箱でした。ご飯の上におかずを載せる丸い蓋皿が付いているあれです。
ある日の学校行事はお弁当持ちで、150人ほどの行列は分校を出ました。私には何かと頼りにする二つ年上の姉がいましたので行列のどこかにいるはずでした。

その日学校から国道へ出てすぐの所で何かのはずみで大事なお弁当を手許から落としてしまったのです。
コロコロ、コロコロ、まるい弁当箱が道路を転がり、あわてて追い掛けましたが最後に蓋が外れご飯もおかずも飛び出しました。
何と無残なことでしょうか。皆に囲まれて、路面に飛び出したごはんやオカズをお弁当箱に戻しかありません。騒動を聞きつけた姉がやって来ます。案の定私は叱られ、二人で砂が付いたご飯とオカズを集めて器に入れました。

本校に到着しましたがお弁当のことばかり心配していました。お昼になると姉は自分の分から少し分けてくれ、ご飯に付いた砂を除けながら食べました。除けはしましたがしばしば混じっていた砂を噛みますし、本当に泣きたいくらいの辛いお昼でした。

落ち着きの無かった私は万事姉に子供扱いされていた幼少の話です。

保育園の健診 児の成長と国の成長。

2024年5月21日(火曜日)

薄曇りでやや肌寒い本日火曜日、午後から区内の保育園で健診があった。春秋二回、昭和50年から携わっているので当初あどけない顔をしていた園児たちはもう50才を過ぎている。
早い遅いは別にして彼らの性格や境遇の変遷は如何ばかりだったのか、と思う。

本日はゼロ才児から5才児までを診た。0才児はみな保育士さんに抱っこされ、せいぜいつかまり立ちがやっとという幼さ、どこか鳥のヒナの面影を宿している。

二、三才児は顔の色つやよく目元くっきりとまことに美しく、一方個性は主に顔の造りだけに留まっている。それが5才児では急に大人びる。目に光りが表情に雰囲気が現れ、いわゆる個性が出てきて、どんな大人になるか何となく伝わるようで興味深い。

ある子に「楽しい?」と聞いてみた。すると「うん!」と答えた。傍らで記録を執っている園長さんが「担任冥利だね」と言い、付き添う保育士さんは「嬉しいです」と喜んだ。

わき水のように澄んで個性豊かな園児たち。大切に育てられるこの子らを、この先一色に染めたうえ戦争などで死なせるような事はあってはならない。
願わくばどの国も子らのように学習し成長し、トカゲの如き旧態から洗練へと変わる努力を続けなければならないのでは。

樹下美術館の芍薬。

今年最終日の小さな赤ちゃん 女子高生の「特定の時」 エターナリ-。

2023年12月15日(金曜日)

本日は今年度最終日の樹下美術館。小さくとも一応公共的な施設なので色々な人に来て頂くのは勿論ですが、名残を惜しむ方々にお出で頂き有り難うございました。
予定している旅行の参考にと美術館の本を、あるいは靴下まで頂き、心から御礼申し上げます。

文化施設やカフェとしてこの一年どれだけお役に立てたか自信は無く、反省ばかり沢山ある年でした。
また夏のあの暑さには本当に参りました。お客様が減り庭は弱り、ひどい暑さの中しんとした美術館に耳を澄ますだけでした。それでも秋は一応姿を整えてやってきましたのでほっとしました。

冬のカバーを掛けられたベンチ。

ところで本日午後展示室に若いお母さんがいらして、コートの中に赤ちゃんを抱っこされていました。ご挨拶してコートを覗きますと、何と小さな、まだ何ヶ月目かの赤ちゃんがいて、閉じていた目をぱっちり明けニッコリ笑ったのです。天使!これでいい、今年はこの赤ちゃんを見れたので十分だと思いました。

それともう一人、小さい時のワクチンであれほど泣きわめいていた女の子が、高校の制服を着て本日咳でみえました。“普段たいした事がないのですが、走ったり、寒いところへ出るような「特定の時」にかなり咳き込みます”と言うではありませんか。
“ああ、あのNちゃんが「特定の時」なんて難しい言葉を使うようになったんだ、すごいね”と言ってしまいました。


ダイナ・ショア「エターナリ-(永久に)」
これもチャップリン作曲ですね。

皆さま、一年間本当にお世話になりました。樹下美術館が皆さまに愛されていることをあらためて知った一年でした。来年は18年目です。文字通りみなで初心に返り、皆さまに甘えることなく常に新鮮な場所であるよう頑張りたいと思います。

来年2024年は3月15日(金曜日)開館です。毎年書いていますが、あっという間にその日が来るのでしょう。

冬休みの間もブログは続けますので、お暇をみてまたお寄り下さい。
あらためて「皆さま本年も有り難うございました」。

二つのポスター 熱心な親子さん コーナーの工夫 大洞原の野菜 夕食。

2023年8月19日(土曜日)

本日は篠崎正喜展に展示中のポスター2点のご紹介からです。

篠崎氏が手がけた劇団美術の中から劇団四季公演「ガンバの大冒険」から1点、劇団七曜日(コント赤信号渡辺正行主宰)ポスター原画の2点の掲載です。

「ガンバの大冒険」ポスター原画。

 

劇団七曜日公演ポスター

いずれも着目意図を熟慮したうえそれに沿ったデザインと色彩配分が行われ美しく仕上げられています。

さて次は過日触れました展示場内三カ所のコーナーの工夫の実際です。

左から二番目の作品が
斜めになっています。

真ん中の台を斜めに。
立体的になった5枚の鉛筆デッサン。

真ん中の台を斜めに。

一般に四角い会場の展示ではその隅(コーナー)は狭く、両脇の壁に挟まれやや暗く空疎な場所の印象があり、常に使いずらさがありました。この度はそこへ斜めに展示台を設置しました所、作品は中央を向き、1点に立ったままで両脇を入れて3作品を同時に観ることが出来るような効果も生まれました。
奥まった場所柄、一種特別な場所のイメージもあり、良い試みではなかったかと自画自賛している次第です。

昼に寄ると3人のグループと4人のグループの親子さんがお見えでした。

一点一点良く観て写真を撮ったり、とても熱心な三人姉妹さんでした。宿題だったのかもしれません。

もと大洞原に関係された方から頂いたトウモロコシとトマト。スタッフも頂戴しました。高原の夏野菜は素晴らしいです。

 

野菜たっぷりのラーメンと
一緒に食べ、飲み物はいつもノンアルでした。

近藤悠三、齋藤三郎子弟の石榴(ざくろ) 父の石榴の絵 父の引き出しと子供の私。

2020年9月11日(金曜日)

現在樹下美術館の陶芸室は、齋藤三郎(陶齋)の「石榴(ざくろ)と秋草」です。
向かって左半分を石榴、右半分を秋草に大まかにわけて展示しています。

展示の最後に参考作品として、齋藤三郎の最初の師、京都の近藤悠三作、石榴の角皿と湯飲みを飾りました。染め付け(呉須の顔料による青色作品)ですが、発色が良く、リズミカルな筆運びに見応えがあります。

 

 

一方陶齋のざくろ作品を見ますと、以下師の作風ととても良く似ています。

 

右の二つの湯飲みが齋藤作品。
軟らかに手首を使ってリズム良く描いています。

もう2点齋藤作品を見てみます。

鼠志野石榴文角皿(ねずみしの ざくろもんかくざら)。21,5×12,2㎝。
鼠色の志野うわぐすりが掛けられた角皿。
やはり石榴は師に良く似ています。7枚展示しています。

 

赤絵掻き落とし石榴文(ざくろもん)壺。入ってすぐ正面にあります。
昭和24年の展示会で父が初めて求めた齋藤三郎作品です。
居あわせた人の話によると、皆でこれは良いと話していたら、最後に現れた父が、手に取るとあれよあれよという間に持って帰ってしまった、そうです。

 

父が描いた上掲の石榴壺の油絵(写真の裏側を描いています)です。
見ていると幸福感が滲み、父亡きあと額を作って入れました。

申し分けありません、父について少し触れさせてください。
明治39年生まれの父は厳格な開業医。猛威を振るった結核医療に取り組み、ベートーベンとシューベルト(主に歌曲)を愛し、齋藤三郎の大ファン。テニスの町柿崎のコートに通い、後にゴルフに転じ、庭では葡萄と薔薇づくりを一生懸命やっていました。
昭和30年代に巨峰が出来るようになると、収穫時期に同業者に配っては喜んでいました。
寡黙で気むずかしい父でしたが、たまに見せる笑顔はまことに甘く印象的でした。

以下は私と父とのことで少々変わった話です。
子供時代の私は父の引き出しが大好きでした。留守を見計らっては開け、万年筆や眼鏡、あるいは懐中時計を分解などしていじりました。たいてい悪戯の痕跡を残してしまい、ひどく叱られましたが、それでもまた続けたのです。
万年筆をいじった挙げ句、ペン先が割れて字が書けなくなったり、分解した時計が元に戻らなくなったりもしました。
ほかに窓際にあった試験管とマッチやアルコールランプを用いてコルク栓を飛ばして遊び、しばしば器具を壊しました。2年くらいは続いたでしょうか、全く落ち着かないひどい子供でした。

叱る父は怖かったですが、殴られることはなく、もしかしたら、舌打ちしながらゲームでもするように、私の相手をしていたのでしょうか。それなら本当に嬉しいのですが、さすがにあり得ませんね。

さて最後にもう一度近藤・齋藤子弟のざくろです。
学ぶは「まねぶ」と言われるように「真似る」のが仕事のようです。近藤悠三に酷似する齋藤三郎の石榴(ざくろ)から、熱心な修業ぶりが伝わります。どうかお暇を見て両者の作品をご覧ください。

上掲しました館内の作品写真はホワイトバランスが上手く行かず、赤味をおびてしまいました。

一年生の下校。

2020年6月16日(火曜日)

昨日午後の在宅回りの折、信号待ちをする可愛い小学生を見た。
帽子もランドセルも黄色。体型や仕草、横顔はあどけなく、一年生だと思った。

入学式はじめ授業も不規則続き、児童生徒さんたちはもろにコロナの影響を受けた。わけても一年生は特別だったにちがいない。
ようやく通常の登校が始まっているが、不慣れなことだろう。

 

国道の信号は長い。すわって待つこどもたち。
大人に見守られる様子は、ひな鳥のようだ。

ウイルス禍は続く。
この子たちはコロナ世代などと呼ばれて生きて行くのだろうか。

クルーズ船、宴会、繁華街、ジム、等々、感染は大人の娯楽や習慣が主に拡げた。

罪も無くあどけない子供たちをみていると、可哀想な気がしてくる。

どうか子供らしい夢中さを発揮して、長く力強く生きてほしい。

上越市柿崎区上下浜の桜 頸城区「大池いこいの森公園」 アオゲラ ここにいるのはあそこにいた子供 昔の人は強かった。

2020年4月14日(火曜日)

昨日は三密と私、裏千家茶道の淡交を長々と書いた。なんとかそれも終わり、本日ようやく一昨日日曜日の番がまわってきた。

数日前に柿崎区上下浜の方から、高速道路沿いの桜が見事ですよ、ぜひ見て、と言われていた。
一昨日午後、近くなので行ってみた。
実は毎年観ているのだが、今年山桜はドンピシャで見事だった。

ドライバーさんはひとときこの花に和まされるだろう。

 

桜を後に美術館の庭に寄り、上越市頸城区の大池憩いの森公園へ。
美術館から直線距離でおよそ6キロ、過日の頸城野の道の少し先にある。

当日はビジターセンターに駐車し、橋を渡った後右へ進む道を歩いた。
人気のない水辺の森で、花や鳥にレンズを向ける清々しい一時間半だった。

 

イワカガミとショウジョウバカマはスミレとともに春の野の主役。
色に濃淡の違いがあり見飽きない。

 

このような道を繰り返し上下し左右する。
次にどんな眺めが待っているのかときめく。
本日は初めてのルートを歩いた。

 

イカリソウ(トキワイカリソウ)。

 

歩みの一歩一歩ごとにカタクリ。

 

ある場所にこのような花が小さな群落を作っていた。
うまく調べられなかったが、ジンチョウゲの仲間ではと見受けられた。
よく見るが花は初めて。名は何だろう、詳しい人に尋ねてみたい。
鼻を近づけるとかすかに甘い匂いがした。

 

可愛いチゴユリ(左)はみなうなだれて咲く。
そろって肩を落とし、がっかりしている様はおかしいくらい。
イワカガミ「元気だしなさいよ」
チゴユリ「それがダメなんです」

 大潟区の湖沼群と違い大池は深く青く満々としている。

 

谷あいのコブシは花数が少ない。
品の良いお嬢さんに見えなくもない。

 

この日はじめて大正山というてっぺんの展望場所へ登った。
遠く対岸に取水塔が見える。
〝小学三年生だったか、あそこの辺へ遠足に来たなあ〟
〝8才かあ、、、その時の私と今の自分をどう繋げれば良いのだろう〟
だれより知っているはずの自分にその答が浮かばない。

答のないまま、頭をモヤモヤさせて道を折り返した。

ほどなく頭上でピヨッ!ピヨッ!と声が響く。比較的大き鳥の影が二つ、木の枝高く見えた。

 

右の影に向けてシャッターを切るとモニターにこんなものが写っている。
ぎょっとするような姿は鳥?ケダモノ?トトロの親戚?

 

左にいたもう一羽がこれで、かなり大きな鳥だった。

帰って調べるとキツツキの仲間でアオゲラということだった。
最初の写真は、たまたま胸を膨らませた
タイミングだったために奇妙に写ったらしい。

 

前日のアカゲラに続いて今日は謎の鳥に遭った。
いずれも初めて見る鳥であり足取りが軽くなる。
いつしか8才の自分へのモヤモヤも取れていた。

ここにいる自分はあそこに遠足に来ていたあの子だ。
何があったか知らないが、あの子は今ここにいる。
それだけでいいんだ。

さて本日久し振りにある方の自宅を訪ねた。
大正13年生まれと記録紙に書かれている。
昭和24年に亡き妹を家で取り上げた助産婦さんだ。
その時彼女はわずか25才だったと気づきとても驚いた。

昔の人はみな強かった。

昨日の熱風のあと雨に恵まれた庭 保育園の健診。

2019年5月21日(火曜日)

一昨日、昨日と強い風が吹き、特に昨日は南気で庭の草木は散々だった。
その後昨夜から風が収まるとしっかり雨も降ったため、植物たちには点滴を受けたように一息ついている風だった。
しかし何かしら影響を受けているのも事実。この先風については6月半ばまで穏やかであり、自身旺盛に成長する期間でもあり、ゆっくり修正、回復するのではないだろうか。

 

昨日のカシワバアジサイ(上)と本日の様子(下)。

 

昨日の柿の苗(上)と本日の苗(下)
葉に少々の疲労が見える。

 

昨日の松の芽はほぼ横になり、北に向かってS字状に波打つ形に煽られていた。

本日の芽はS字からかぎ状(ステッキの柄のよう)になり、かつ立ち上がろうとしていた。
本来真っ直ぐ上に伸びていたのがこんなになった。この先どんな風になるのだろう。

 

全ての茎がうつぶせになっていた昨日のクリスマスローズ。

4本立ち上がり、4本の茎が折れていた。

 

午後から保育園の健診に行った。水鳥のヒナのような0~1才児、マイペースな3~4才児。それが年長さんになると、多くが私に対して自然なアイコンタクトを取るようになる。あまつさえ「○○です、宜しくお願いします」と言い、「有り難うございました」とも言う。
いつもながら障がいのあるお子さんに対して、みな優しい接し方をするのも安心だった。
3,40年前に比べ、保育士さんの数が格段に多いのには目を見張らされる。

春の妙高山 母の日の孫の問い。

2019年5月12日(日曜日)

本日松が峰のゴルフ場でコンペがあり参加した。
朝方、同地から見る残雪の妙高山は素晴らしかった。成績の方は51-49で、私にすれば良い方だと満足だった。

 

午前8時頃、ゴルフ場の手前で見た妙高山。

夕刻は母の日とあって、近隣の孫一家と食事した。

色々話をしたが、心に残ったのは、今冬おばあちゃんを亡くした孫のことだった。小学生の彼は葬儀に際してとても悲しみ、今でも涙ぐむという。
母親は、いつまでも悲しむことを心配だと言い、どうですか、と訊かれた。
基本的に全く問題ないし、むしろ良いことではないかと答えた。

思い出すのは2014年秋のノートだった。
その子が何気なく口にした「ああ早く明日が来ないかなあ」のひと言から始まった。
言葉は童話「青い鳥」へと繋がり、その物語にまつわる一連をここに書いた。
青い鳥の第一章だったと思うが、幸福探しに旅立った兄妹は天国にいるおじいさんとおばあさんに会う。
そこで、老夫婦は“自分たちが一番幸せなのは、お前達が私たちを思い出してくれる時”と言う。

今夕、その子が悲しむのは良いことで、天国のおばあちゃんはそれを知ってとても喜んでいるはず“と話した。
さらに、おばあちゃんの死で彼は人間、特に家族もいつか死ぬことへのショックを払拭できないでいる、とも聞いた。
なぜみな死ぬのか、私自身、彼を満足させる明解な答を持っていない。

かって父の死には人生のはかなさを、母の時には憐憫を、妹には病の無慈悲に、言葉も無く涙した。
寿命や死は生物学的にいくらでも説明出来る。しかし何故それを悲しみ恐れるかに学問は答えてくれない。

これまで少なくとも500件は経験した臨終や看取りの現場で、孫たちが家族中で最も悲しみ泣きじゃくるのをたびたび目にした。
今のこどもたちは死を知らない、あるいは遠ざけている、という言説と現実は違うのではと思った。
時に無情な大人と比べ、このようなこどもたちがいる限り、人間の将来は悪くはない、と勇気づけられたほどだった。

感受性に優れた孫の喪失体験はいずれ緩和されるだろう。
その過程で一連の事は心の原理として深く無意識化されるはずである。
それはまた、先々において良心や幸福に対する密かな「みなもと」となり、しっかり息づくに違い無い。

今夕、その子の父が“手塚治虫の「火の鳥」を読むといいよ”と話した。
良い両親をもって幸せな子である。

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