倒れる1週間ほど前に見た夢 その2 ジムノペディ 夢枕の級友K。 

2021年8月14日(土曜日)

樹下美術館のカフェには「午睡」(120×180㎝)という大きな絵が掛かっている。カフェは小さいので北側の壁一面を占めている。
実は氏の作品に若い女性がピアノと一緒に描かれた「ジムノペディ」や「白昼夢」があった。開館にあたり、それをもとに大きな絵を描いて下さいとお願いした。
ご苦労された絵を巻いて持参され、大島画廊で裏打ちして白い額を付けた。壁に掛けると好評を博したが、後に元上越教育大学の音楽教授だった後藤先生が、画中の譜面をご覧になり、これはサティのジムノペディ一番だと仰ったことを耳にした。

全体の「午睡」。
随所に篠崎氏らしさがちりばめられ、ファンタジー一で杯。

 その譜面。
描き込まれた篠崎氏がさすがなら、読み取った後藤教授もさすがだと思った。

もうひとつジムノペディに話がありました。倉石隆の絵を求め始めたころ、奥様が作品はカフェにでも飾って下されば、と仰いました。そして音楽が掛かるならサティがいいのでは、と仰ったのです。

 

完成した美術館の一角に出来た倉石隆の小振りな展示コーナー。
作品の人物たちにカフェからサティが聞こえてくるかもしれません。

試しにYouTubeからジムノペディをカフェに流すととても合うのです。これを機会にCDを用意し、館内に掛かるようにしたいと思っています。よく似た静かなフレーズが繰り返される曲はとても落ち着き、良い環境音楽でもありましょう。

ところで本日は2回目の夢の記載です。1回目の夢から覚めるとすぐに委細を手帳に記入しました。書き終えると再び夢を見るかも知れないと考え、枕元に手帳を置いて目を閉じました。

 


眠りにいざなわれそうなジムノペディ一番。

するとまた見たのです。かなり鮮明でしたので、目ざめると急いで手帳に書きました。
面白く無いかもしれませんが以下それを載せてみました。

“どなたか地元の文化関係の要人たちと、展覧会を観るため上野に向かって歩いている。道すがらあちこちの街角に魅力的な絵が掛かっていて、それらを撮りながら歩いた。
いつしか皆とはぐれ、御徒町かアメ横ふうな路地に入り、食事屋を探している。小さな店のカウンターに座り、主人と話をする。当夜は祭らしく、周囲は華やいだ祝祭的な雰囲気が漂っている。
すると友人Kが入って来たが、間もなくやって来た酔客と一緒に出て行く。しばらく待ったが帰って来ないのでKを探しに店を出る。路地沿いの店はみな雰囲気が良く、それぞれは一つの大きな屋根に覆われているように思われた。店は明るく、通りから中の賑やかな様子がよく見える。

その一軒でKが他の客と話していたので入店して私も加わった。
皆はコロナでどの会社がダメージを受けたかという話をしていた。私はドイツで生産しているH社の影響が大きいといい、ドイツの物流は東西では無く南北が主流なので余計影響がある、と述べた(実は、私はそのような事を何もしりません)。すると確かに、などと言い皆は頷くが、Kはつまらなそうな顔をして店を出ようとする。私はKに待ち合わせ場所を告げ待っているように話す。

店を出て約束の場所に向かうが、持参しているはずのカメラをどこかに忘れてきている。途中池と芝生がある大きな公園で休んだことを思い出し、そこへ行ってみる。賑わっていた公園の芝生の上にカメラとバッグがあった。急いでそれを手にすると傍らの夫婦が泥棒ではないかと怪訝な顔をしてじろじろと見た。カメラがありほっとして帰りを急いだ。

途中の街中に見上げるように大な寺があり、中から歌声や、カネ太鼓の音が聞こえてくる。真っ黒で古い寺院だが、内部は5階ほどの高さまで巨大な吹き抜けになっている。吹き抜けを囲むそれぞれの階には、祭装束の沢山のグループが詰めている。グループの先頭で白い浴衣を着たリーダーたちが旗を振り、カネや太鼓を鳴らし、その後に若衆が列を作っている。

目をうばわれたのは、子供たちの二つのグループだった。赤い線が入ったおそろいの白いはっぴを着て、吹き抜けのむこうとこちらの回廊で行儀良くしゃがみながら出番を待っていた。写真を撮ろうとするが、なかなか構図が決まらず諦めて寺を出た。

しかし知っているはずの帰り道が分からない。近くの見覚えがある大きな料亭を囲む垣根に沿って進んだ。やがて垣根は行き止まり、そこには垂直な梯子が付いていた。おっかなびっくり伝って降りると見慣れた柿崎の通りに出た。路上でKがケータイをいじりながら、こちらを見ると、にやりと笑って「いったい何処へ行っていたんだよ」と言った。”
Kが柿崎いるなんておかしい、と気づいて目が覚めた。

さて夢にはKが盛んに出て来た。6年間の大学と足かけ8年の医局が一緒、医局のバイトも4年ほど一緒に行った。下宿を訪ねレコードを貸しあいゴルフをし、好みの音楽や女性の話をした。舌が非常に肥え、食べ物に凝り、自分で料理を造り 勉強熱心だった。
後に郷里に帰ると1年一度、主に年末の東京で夫婦一緒に食事をするようになった。途中から実験室が一緒だったN夫婦が加わり、四人は樹下美術館にも訪ねてくれた(食事会のことは何度かブログに書きました)。

私達が70才を迎える頃、その会で“これから80才になるまでの間、普通は半分の人が死ぬぞ”とKが笑いながら言った。おしゃれでロマンチストなのに彼は時にドキッとするようなことを平気で言う。その時、みんなで顔を見合わせ、だれが先になるか話した。するとオレかも知れないとKが言い、少なくとも杉田は最も後だと皆が言った。この手の話では何故か私が最後ということになっていた。

そんなKが私が倒れる1週間ほど前に突然夢枕にたった。かって陽子線治療などという最高度の治療を受けたK。電話をして大丈夫かと尋ねようと思ったが、縁起が悪すぎると考えて止めた。
その後間もなく、当の私が致命傷になりかねない発作を起こして倒れた。夢の中でKは、実は危ないのはオレでは無くてお前なんだぞ、と伝えていたのかなと思った。

退院して三日目に電話をした。電話口の声は前にも増して滑舌良く元気そのものだった。治療後すでに5年は経っているという。件の夢と私の発病を話し、夢を見てあなたを心配したが、実は自分の番だった、と言った。すると最初は笑ったがすぐ絶句した。Nに知らせたらしく、間もなくNから電話がきた。
80直前のいま、Kの言ったことは相当に当たっていると、ぞっとしながら色々振り返っている。

前回と異なり、夢に登場した人物は公園の夫婦以外、ほとんどが男性でした。

 

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