那谷寺のご親切と「さるの釜」 高祖父玄作の見た釜のこと。

2015年8月13日(木曜日)

さて前回9日の北陸行き記事に旅先の親切を書かせて頂いた。

翌日の那谷寺では宝物の一つという茶釜についてお尋ねしていた。

実は過去の記事に、小生の高祖父・杉田玄作(1818-1874年)が残した「上京日記」を挙げさせて頂いた。
(当時の上京は京都への旅でした)
文久2年1863年9月7日金沢出発から始まる日記。
同月11日の今庄から栃の木峠の日に、秀吉公が陣所へ持参した古窯を見た、と記した上で釜の絵図が描かれてある。

上京日記の釜の絵図

この度の北陸行きで、予め那谷寺を調べたところ、ホームページに「秀吉公御物」として茶釜が伝えられている事を知った。
もしや玄作が見たものが那谷寺に伝えられているのかと思い、当日金堂を守られていた方にその事をお話し、
釜の拝見の可否をお尋ねした。

その方は熱心に話を聞いて下さると、釜は現在展示されておらず、しかも住職は所用で外出中ということ。
後日写真で宜しければお送りします、と仰った。
とても丁寧な方、と妻が述懐したほどの応対だった。

ところがその写真が帰った翌日早速届けられた

 

翌日届いた資料届けられたお手紙と「さるの釜」の写真、そして資料。

 香煎茶同封された聖之茶。

送られた写真の釜はまず霰(あられ)の肌がまことに美しく、
幾分撫肩(なでがた)がかった古芦屋(こあしや)の真形釜(しんなりがま)だった。
「さるの釜」として利休と秀吉が銘や由来を箱書きしていたのである。
鮮やかな肌、ふんわり落ち着いた腰の広がり、珍しい猿の鐶衝(かんつき)そして箱書き。
極めて上品かつ珍重な品物だった

ところが、玄作上京日記の絵図と説明を詳細に見ると、釜の寸法が非常に大きく、形も異なり茶釜ではなく湯窯のようである。
結局二つの釜の一致は無理なようだったが、このたびのことで那谷寺から受けた親切は身に余るものだった。

2017年、自然摂理(自然智)を背景に高野山 真言宗 別格本山の美しい那谷寺は,、開創1300年を迎えるという。
錦秋はことのほか素晴らしいと聞いた。
年を取ると、同じ本、同じ人、同じ場所へと傾く。
ぜひ再訪したいと念願している。

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