明け暮れ 我が家 お出かけ

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その3 鎌倉の梅。

2024年2月27日(火曜日)

冷たい雨がそぼ降る23日午後、道中タクシーを依頼し、降りては傘をさして鎌倉の梅巡りをした。若い運転手さんは親切で、回りたい社寺のメモを渡すと順序よく走ってくれた。

初めの寺は宝戒寺。参道入り口に数基の庚申塔が保存良く並び、献花もされていて感激した。

 宝戒寺「大聖歓喜天堂」
梅らしいあしらい。

荏柄天神社のミツマタ。
絵馬が一杯。

浄妙寺の蝋梅。

境内の花塚。
雨に打たれる花が静か。

同じく浄妙寺のアシビ。
寒さの中の満開に励まされる。

お庫裏であろうか閑静な佇まい。

途中の踏切で止まると、
江ノ電が通過した。

お菓子屋さんはありますかと運転手さんに訊くとすぐ連れて行ってくれた。

 

文字通り街角のお菓子屋。
「力餅家(ちからもちや)」さん。

古い店内一杯に餅や飴のお菓子が並ぶ。品の新鮮さへの配慮が良く伝わった。

長谷寺。
最も賑わっていた。

続いて明月院へ。

門に美しい花が生けられていた。
寒牡丹ではないだろうか。

円窓。
いつも寒い季節ばかりだが
それでも良い。

石の上に花が生けてある。

梅と詫びた門。
昔の物語を伝えているようだ。

東慶寺。
心に残る木瓜(ボjケ)の赤い花。

ご本尊、釈迦如来像。

道順は北へと移動し北鎌倉で終わった。小さな北鎌倉駅から横須賀線に乗り東京駅へ。
写真をご覧になってお分かりだと思うが各地の梅は盛りを終えていた。熱海、鎌倉はさらに東京よりも早いようで、いわば残花巡りの様相だったが、冷たい雨の両日よく回ったと思う。

有名観光地といえども通年にわたって人を集めるのは難しかろう。それでもこのたびの各地は社寺を中心に四季の花に力を注ぎ、冬は梅として努力を続けているのは立派なことだと思った。
その梅も終わりとなればクリスマスローズや馬酔木、椿、ミツマタ、マンサクなどを混ぜて何とか応えようとするのは有り難いことだった。

花は仏の化身、特に古都鎌倉の吹き出すような梅の盛りを想像し是非再訪したいと思った。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その2熱海梅園と澤田政廣記念美術館。

2024年2月26日(月曜日)

去る22,23日は強い寒波の中、雨降りの小旅行。電車以外の現地移動はタクシー、そのほかは寒い中を歩いた。せっかくなので文句も言わず各所を巡った。
本日は前回に続き2日目の午前で、熱海梅園とそこに接する澤田政廣(せいこう)記念美術館へ寄った。

澤田政廣は文化勲章を受章された人で、氏の晩年になる爽やかな仏像が展示されている我が糸魚川市の「谷村美術館」が浮かぶ。館内には彫刻のほか絵画や書が展示され、鮮やかな色彩と素早い動的なスケッチに目を奪われる。建物は糸魚川の方が早く、ここの全体には谷村美術館の外観と内部構造に類似した雰囲気が感じられた。
庭の展示は谷村美術館にないもので、雪の有無の違いが現れたのかと考えられ、楽しく印象的な美術館だった。

美術館前の「海の讃歌」S38年。

庭の「黄泉のしこめ」S31年。
逃走と生成の神話的なイメージ。

館内、「あたみニュース」から。
「人魚」昭和44年。

 

外壁から見える「ともしび」昭和21年。
戦争直後の慎ましさが伝わる。

外観は中央アジアの砂漠に現れる
構造物のイメージ。
谷村美術館を研究したようだ。

何度訪ねたかもう覚えていないが春になったら谷村美術館を訪ねたい。何度でも行きたい美術館だと思う。

さて澤田記念美術館を出るとすぐ熱海梅園(むしろ梅園内にある)。かなり急な川に沿った谷間があてられ、滝や橋が景観よく配置されている。お天気が良ければいっそう清々しかったに違い無い。

ヒヨドリがウロを覗き、傍らに
クリスマスローズが咲いていた。

梅はほぼ盛りを過ぎていた。寒いため売店で温かなお汁粉をた飲んだ。これだけ寒ければ余計思い出に残ろう。

昼に熱海を発ってJR東海道線でほぼ1時間大船へ。横須賀線に乗り換えて隣駅が鎌倉だった。
鎌倉の梅めぐりは次回予定させて下さい。

本日こちらは風が吹いて荒れ模様、関東一円のあの寒さはどうなったのでしょう。

去る22日(木)および23日(金)の梅見物 その1都内と熱海 懐かしくも嬉しいTVの浅田彰氏。

2024年2月24日(土曜日)

この4,5年の間に京都・奈良および鎌倉へ旅行した。その都度訪れた方々の社寺で梅の木を見た。特に2019年12月の鎌倉でそれに気づき、翌2020年2月に鎌倉を再訪し梅を観ようと宿泊・交通の予約も済ませた。ところが運悪く予定を見計らったようにコロナ禍が始まり旅行は中止となり4年が過ぎた。

一方木曜を休診にして一年、このたび金曜日が天皇誕生日だったので2月22,23日は連休となり、熱海で1泊、東京、熱海、鎌倉で社寺、梅園など梅の名所とされる場所を巡り、ほかに二つの美術館を訪ねた。ただ両日とも各地で気温が下がり行った先々は大変寒かった。

22日午前上越妙高駅を発って10過ぎに上野へ、そこから湯島天神と亀戸天神社を訪ねた。今冬は温かく、花期の長い梅とはいえ盛りが過ぎ、花は遅咲き中心の観梅だった。それでも両神社の花は風情良く周囲と調和し、冷たい小雨のなか飽かず眺め歩いた。

上野駅の千葉県フェア。
特に房総は花の産地、
明るい春の花が一杯。

構内の花屋さんも春が香っている。

当日最初の湯島天神は4年前の年末以来。随所の合格祈願の絵馬の棚はぱんぱんに膨らむほど。

文京区の湯島天神から江東区の亀戸天神社へ。以下の亀戸天神は初めてだった。
遅咲きの梅が見頃。

赤い太鼓橋が印象的な神社。
藤も有名らしく是非観たいと思った。

カメラと傘で手がかじかむ。例によって昼食を端折り13時ころの東海道新幹線で東京駅から熱海へ向かった。1時間45分ほどで熱海に着く。熱海は一度だけ学生時代に海岸を歩いたことがあった。このたび駅周辺のあまりの混雑に驚いた。見た目若い世代が特に目立っていた。移動はタクシーで行ったが運転手さんは、若い人達はほとんど日帰りだと仰った。

皆さんに勧められたMAO美術館へ駅から直行した。もう何十年も前の開館なのに初めての訪問、しかし大勢の来館者を集めている。黄色や青の大きなトンネル内のエスカレーターを乗り継いで美術館エリアへ上った。これだけで他で味わえない巨大な空間と色彩が楽しめた。

大きな万華鏡ドームに到着。
ここから美術館の通路へ。

秀吉公の黄金茶室の
忠実な再現と茶道具の階具。
ここで茶を飲むとはどうしてもピンとこない。

野々村仁清の国宝「色絵藤花文茶壺」

尾形光琳の国宝「紅白梅図屏風」

 

 

聖観音(上)と如来(下)

多くの寺院で本尊や諸仏が秘されるが、当美術館のように明るく公開されかつ撮影が出来るのは夢のようだ。

佐藤玄々「猫」。
佐藤氏は日本橋三越の巨大な天女像の作者。

当作品の台に影が無く、極めてこまやかな照明が施されている。猫はエジプト彫刻のパステド神を思わせ、柔軟で敏捷な気配を漂わせていた。

前田正博作「色絵銀彩角鉢}
当館に同氏の抹茶茶碗が二碗ある。
氏の作品が展示されていて喜んだ。

朝方の当地より東京や熱海の方が寒かった。そんな日に梅を観てああ日本人だなあと思い、MAO美術館を観て創設者の凄さに驚いた。

この晩入浴後、妻がBSで浅田彰が出ている番組を観ていて驚いた。もう一人のゲストは先崎彰容(せんざきあきなか)氏で番組はBSフジの「プライムニュース」だった。
論題は現代の戦争、原理主義、グローバル資本主義、格差、分断などが論点だった。一応左右の論客である両氏の説諭は思慮深く、激しい論争や制止、中断も無く相互に十分な発言が保証された良い番組だった。
ネット時代の初め頃、方法としての二進法原理がより深く社会に浸透し、世論も単純かつ二分化を強めるのではないかと危惧した。案の定、社会は複雑な理解を要とする中間的立場や中庸を許さない傾向を強め、思考、思想の単純、幼弱化と分断に落ちていくのを自分なりに心配していた。

番組の最後に二人は今後日本の処方箋は?と問われた。
浅田氏は「処方なし」とボードに書き、“良いといわれる薬はニセ薬が多い。今後もみな苦しみながら生きる”と追加した。
先崎氏は「寛容」と一言ボードに書いた。

昭和50年代、辛さが続いたころ、浅田彰や柄谷行人などの本に拓けた頭脳と思考にまぶしさを覚え、繰り返し読んだ。当日のTVから浅田氏が随分分かり易くなっていることが伝わり嬉しく思い、一方で沈着なポジションが一貫されているのを知り立派な事と心打たれた。

また「右」と自ら述べられた先崎氏も広い足許に立たれ、談中この先大切なのは「理念」jと指摘されて共感した。最後の「寛容」は高校時代の恩師渡辺フミ先生が繰り返し説かれた二文字で、これを右寄りの人が言及されるのを聞き、日本はまだ希望を持てるかもしれないと思った。

番組を視聴していた妻に感謝だった。

次回は23日午前の熱海梅園と澤田政廣記念美術館を記す予定です。

やはりそうだったのか、その2ピーナッツ?

2024年2月14日(水曜日)

一昨日のこと、珍しく家に殻付きのピーナッツ(落花生)がやってきた。粒が大きくからからと乾いている感じは食欲をそそられる。午後遅くパチンパチンとやりながら7,8個食べた。

当日夜遅くまでかけて倉石隆の告知資料やブログを上げると落花生のバチンバチン、カリカリを思いだした。五つ六つだと思うが手にとって美味し口にし、しばらくして寝仕度の後就寝した。

順調な睡眠だったが、早朝4時ころお腹がシクシク痛みはじめ目が覚めた。痛みは臍を中心にあちこちに来る。引っ張るように、縮むように、ツンツンシクシクと絶え間ない。
ゆっくりだが痛みは強さを増す気配。時に息をこらえなければならなこともあり、額にうっすら汗が滲んだ。

吐き気も無ければ下痢の気配も無くただ痛む。我慢しながら過去に似たことがあったか思いだしてみるが思い当たらない。
もっとも嫌なことだがイレウスが始まるのか?だが時々腸からググッという音が聞こえ、お腹のどこにも張りやガスの溜まりを思わせるものが無い。

一体何だろう?トイレへ行ってみる。入り口の鏡に映った自分は顔色を失い真っ青になっている。普通の便が普通に出たが冷や汗が止まず、急に立つと倒れそうなので万事ゆっくり動作した。

カサカサと唇が乾いているのでベッドサイドのポットから二杯の湯を飲み、念のため胃薬と整腸剤を飲んだ。3、40分するとほんの僅か薄らぐ気配だが痛みは続き、寝返りを繰り返すものの寝つくことは出来ない。
すると腸のある部分に食べたピーナッツがこなれずに塊としてじっと残り、腸が必至にあれこれ動いて消化を試みているのが映像の如く浮かんだ。さらにその辺りが薄赤くなり炎症を帯びているイメージも。
ピーナッツ?
再び胃薬と整腸剤と湯を飲んだ。しくしく痛みは続き、ついに西念寺さんの朝の鐘が鳴って6時になった。

そして7時になり、起きた妻に「腹痛のためあの方たちとの昼食は一緒出来ない」と告げた。当日昼、お二人の友人と食事の約束があった。
それから眠気に襲われ、昼近くに「行ってくるけど大丈夫?」と妻に訊かれ、大丈夫、行ってきてと返事をした。随分良くなっているのが分かりまた眠った。

目が覚めると午後3時を過ぎており、帰宅した妻に起こされた。花束が差し出され二人からのお見舞い、ということだった。
痛みはすっかり無くなり全く普通に戻り、夕食は粥を食べた。

恐縮至極のお花、バラ、デルフィニュウム、
カーネーション、アルストロメリア、、、。
本当に申し分けありませんでした。

さて調べてみるとピーナッツは優れた食べ物だが消化に時間がかかり、時に食べ過ぎなどで消化不良を起こし腹痛や嘔吐下痢を生じることがあると載っていた。
こともあろうに妻は「かってある検査を受けた時、寝る前のピーナッツは避けるように、と医師にいわれたことがある」と言った。

詳らかな証拠は無いが一件は「やはりピーナッツ」だったようだ。せっかくの約束と祝日を寝て過ごしてしまい、年も考えて厳に気を付けなければと反省の一日だった。今回痛みが主だったのは幸い軽症で済んだせいかもしれない。

本日の三和区行き 小澤征爾さんが亡くなられて。

2024年2月10日(土曜日)

本来ならば本日は晴天となり、遠くへ行かなくても妙高山がきれいに見える三和区へ行くつもりだった。ところがまあまあの空だったが妙高山は雲に隠れたまま。それでも運が良ければ山は見えるかもと期待して出かけた。

本日はもうひとつ、一昨年まで仕事でお世話になった三和区のAさんに急遽お会いして、お目当てのカフェ「喫茶去」と近くの山高津の池へご一緒することになっていた。伺うと思いもかけず「上がって」というお言葉でお茶をご馳走になった。

手入れをされた旧家の風情が漂うお宅。周囲の水田、遠くの杉木立。小学一年生のころ一度だけ訪ねた清里区にあった親戚の家を思い出した。あるいは満州からの引き揚げで、フラフラになってたどり着いた佐賀県の母の実家の安堵が蘇るのか、山が見える田舎の集落の家には一種思慕のようなものを覚える。

お茶を頂きながら昔話や土地のことなどお話しして喫茶去と山高津の池へ向かった。

いっとき日射しに映えた
三和区の赤い屋根。

このたびで五回目の「喫茶去」。
いずれも晩秋か冬なのが不思議。

結局妙高山は姿を現さなかった。カフェで美味しい茶を飲みながらAさんと妻は女子校の同窓であること、共通の知人が何人もいることなど思わぬ縁に驚かされた。

本日妙高山の雪景色が撮れればヴィヴァルディの「四季 冬」の第1楽章を掲載する予定も叶わなかった。

さてさる6日、偉大な小澤征爾さんが死去された。私は2回しか氏のコンサートを聴いていません。しかし周囲には年に複数回聴きに行かれる方や氏とのツーショット写真をお持ちの人もおられ、とても羨ましかった。


チャイコフスキー「弦楽セレナーデ第1楽章」
アカデミー -スイス-によるサプライズアンコール曲。
美しい音階と和声、若者育成への情熱が伝わる。

そんな私だが小澤征爾さんと唯一わずかな共通点がある。氏は1935年満州国奉天市生まれ、不肖私も7年後同じ奉天市で生まれた。どこか心の片隅でそのことに恥じないように、出来れば誇りにしなければと、思い直している次第です。

 誕生日の追加 週末の鳥 2月とは。

2024年2月4日(日曜日)

2月1日が誕生日で、はや4日目です。自分の事をいつも老人とか高齢者と書くのはモヤモヤしますし、第一誕生日を記しながら何才と記さないのも失礼なようででもあります。それで恥ずかしさもあり以後何度も申しませんが、お陰様で82才になりました。

この先は、いくら先人の通った道といえ私にとっては全てが初体験(これまでもそうですが)。弱気を口にしたらキリがありませんので、出来れば年のことは知らぬ振りをしながら生活し、出来るだけブログも続けたいと考えています。

さて蝋梅に触れました1月24日には「冬本番のさ中」と記しました。それから10日、この週末は寒かったのですが日が伸び、かつ高くなるのが感じられ、外に出ると僅かながら春の気配を感じました。

このところ沢山飛来しているはずのハクガンに中々お目に掛かれません。
一昨日土曜日午後は柿崎、吉川、大潟、頸城の各区から三和まで観て回りましたが、主にコハクチョウとマガン、ヒシクイを見るだけでした。

頸城区で雁に混じって
10羽ほどいたハクガン。

上掲の場所に次々と雁が舞い降りたが期待したハクガンは一羽も現れなかった。一体何所にいるのやら。

上掲は道中の溜め池にいた
オオバンの家族の一部。

オオバンはカラス、カワウと並び黒い鳥の代表ではないでしょうか。僅かな尻尾とくちばしの上に白い額板という部分があるのが愛嬌です。枯れ草の下に生えているらしい若草を食べているようでした。

本日午後しばらく陽が射しました。

米山(上)と尾神岳。

久し振りのツグミ。
どこか人懐こい鳥。

鴨なんそばのネギは頂き物。
セリはお店のものという事です。

先ほど2019年から毎年2月のブログをざっと目を通してみました。
2月は日射しが強くなること、クリスマスローズが咲くこと、思わぬ雪が降ることなどがよく見られていました。
また2020年2月に、新潟県で初めてコロナ感染者が出たと記されていました。
先の事が全く理解できずあたふたと過ごした当時を懐かしく感じました。ただ5年目に入りましたが相変わらず集団的な発生は止んではいません。

この数年ハクガンを沢山見るのも2月でした。今期はこれまで最大の群が来ているようなので期待したいと思います。

いつしか今年の開館までもう少しとなり、毎年緊張する時期です。近いうちに今年の展示予定を掲載致しますのでどうか宜しくお願い申し上げます。

本日誕生日だった。

2024年2月1日(木曜日)

本日2月1日は不肖私の誕生日。今年1月の人口推計では日本の人口は1億2409万人ということなので同じ日の生まれの人は一先ず365日で割って約34万の方がおられることになる。

するとこんなに大勢の人と同じ誕生日ということで何か心強い気持がしてきた。しかし同じでも最も高齢に属する方なので一番尻尾にくっついている、というかお邪魔している感じがする。いずれにしてもあらためて精一杯頑張ろうと思ったし、それ以外無い。

上掲は去る1月29日午後5時頃、美術館の庭にあったウサギの足跡。ウサギは冬眠をしないようだがこの辺りで巣穴を見たことがない。どう寒さを凌いでいるのだろう。
お客様が通る庭を今はウサギが行き交っている。悪くないと思った次第です。

昨日の夕食は宮城の弟から届いたマダラだった。弟も2月生まれで1才しか違わない。いや今や同じ年のようなもの。この一、二年は「さん」付けで呼ぶようになったし、長年、年長ぶっていたことを詫びたい気がする。

上掲写真は本日運転免許の更新で行ったセンターで使用される立体駐車場。以前は豪雪のことも度々あり駐車場で苦労し、更新には良い思い出が無い。

2月生まれの人に会うと年は違っても普通以上のシンパシーを感じる。「同じ星のもと」という感じなのだろうか。

 高齢者や不自由者に向けた交通機関のサービス。

2024年1月27日(土曜日)

地震と旅行で始まった2024年1月は早くも下旬に入っています。

すでに遠いものとなりつつある西国への正月旅行。見聞したことの興味は尽きませんが、一つに不自由な人や高齢者について交通上の配慮が良くなされていることが印象に残っています。

車椅子向けの段差解消
スロープを持って出迎える駅員。

JR奈良線の優先席表示。
高齢、障害、妊娠、疾病、赤ちゃん連れ。

JR山陽本線の優先席。

車椅子、ベビーカーが続いた
構内エレベーターを待つ列。

特に欧米人のベビーカーの多さが目に付きました。彼らは数泊などではなく10日、2週間と長期滞在することが多いといいます。日本のほか前後して他国も旅しているようですので連日の移動は大変だろうと思いました。しかし淡々と落ち着いて行動する様子からタフさに驚かされました。

私達はJR奈良線とJR山陽本線を利用ましが、常に乗り口脇の優先席に喜んで座りました。いつしかそうするようになった自分たちですが、そのことに驚かなくなっているのに驚きます。

正月旅行の最終日、聖僧良寛が修行した備中玉島円通寺。

2024年1月22日(月曜日)

備中(岡山県)倉敷市の西南端である玉島は北前船で大いに栄えた商都です。瀬戸内海を望む玉島の高地に正月旅行の最終地、曹洞宗円通寺がありました。
江戸後期、我が越後の人良寛(以後良寛さん)は、生地出雲崎で巡り会った円通寺の高僧国仙和尚に付いてはるばる玉島まで旅し和尚のもとに入門、
22才から11年間にわたり禅の修行をしました。

国民宿舎「良寛荘
団体さんで賑わっていました。

タクシーで坂道を上り良寛荘に到着すると、地域振興と良寛顕彰に熱心に取り組まれる葛間さんと早川さんのお二人に迎えて頂きました。

良寛荘を出て見た瀬戸内海。良寛さんの当時、海岸線はもっと手前まで接近していたそうで、埋め立ても無く眺めはさらに絶景だったに違いありません。

円通寺境内には老いて樹勢が衰えつつある「良寛椿」と呼ばれる白椿の古木があります。良寛さんの修行時代からあるといわれ、現在それを挿し木などで増やし、上掲の場所で「良寛椿の杜」を目指して植樹されていました。

山門にて。

円通寺の山号は補陀洛山(ふだらくさん:観音様の降りてこられる場所の意味)です。寺院があるのは白華山という山の中腹で参道は少々急な山道でした。

国仙和尚に従って参道を上る図。
右下に師と良寛が描かれています。

参道途中、納骨堂である覚樹庵の前に太い幹の良寛椿。白椿だそうですが、これだけ太く大きな木が椿とは。しばらく前から花が途絶え、関係者の努力で僅かながら開花をみるようになったそうです。現在新たに採った苗は前述の「良寛椿の杜」で熱心な植樹に用いられています。

竹林の脇を通る最後の坂道。

円通寺の竹林のことは、禅のシンボルの一つとして良寛研究家の小島正芳先生からかねて伺っていました。

 

創建当時のままの端整が維持されている壮大な茅葺きの本堂は倉敷市の指定重要文化財。良寛堂への角に良寛像が安置されていました。

 

かって修行僧が居住した庵。
現在良寛堂と呼ばれています。

良寛さんが杖と共に
国仙和尚から印可の偈を
附与された高方丈南間。

1790年(寛政2年)良寛さん33才の時、この部屋で修行の終了を宣言する印可の偈を国仙和尚から与えられました。聖僧良寛の誕生です。偈とともに頂いた杖を頼りに世俗に飛び込む新たな修行が始まりました。

仁保哲明ご住職から
お話を聞いた一室。

ご住職には貴重なお時間を割いて頂きました。静かな自然体が滲むお人柄で、いっときでしたが修行をさせて頂いた気持ちがしました。

若き良寛像。
新潟県内で見る彫像より
ずっと若く溌剌としている。

高方丈から見た巨大な
花崗岩の石庭「千畳岩」。

高く続く石庭。

良寛さんを偲んだ
種田山頭火の句碑。

     岩のよろしさも良寛さまの思いで

昭和11年、円通寺を訪ねた山頭火。石庭で修行に勤しむ良寛さんを偲んで詠んでいます。

さてもっともっとと思いましたが時間が迫り泣く泣く円通寺を後にすることになりました。帰路は「新倉敷駅」まで早川さんが車を出して下さいました。途中の市内で越後長岡藩の名家老河井継之助の若き日の足跡を案内してもらいました。

河井継之助逗留地の碑。
倉敷ロータリークラブなど
によって建立されている。

河井継之助は1859年(安政6年)、当時借金に苦しみ続けた備中松山藩を劇的に再興させた漢学者山田方谷の門下として学ぶべく隣接する港町玉島へ上陸しています。児島屋はその時に逗留した船宿ということでした。

さて正月旅行の最終地、備中玉島円通寺の見聞を終了する時間となりました。私の準備不足で新倉敷-玉島の交通を、倉敷-玉島にしたため滞在時間を短縮せざるを得なくなりました。
にも拘わらず、早川、葛間両氏と仁保ご住職には大変手厚くして頂き感謝に堪えません。また旅行に先立ち、円通寺でお世話になったお三人に連絡をして頂いた全国良寛会会長、良寛研究家・小島正芳先生に深く御礼申し上げます。

話変わりますが40年前、自分には少々悩み多き時代がありました。なんとか越えなければと色々本を読んだり考えたりしましたが、畏れ多くも良寛さんには幻のように手を差し伸べてもらった気がしています。

当時、もしもこの目で見ることが出来るなら、次の三人を見たいと思っていました。
一人は良寛さんの少し前の時代、1818年生まれの我が高祖父玄作で、火鉢に手を焙りながら来客と話すのをすぐそばで。もう一人はイエス・キリストで、使徒を連れ荒野を歩くのを遠くから。最後は夕暮れの山裾の村を一人帰る良寛さんを遠くから、でした。

このたび円通寺から見た瀬戸内の冬陽は春のように明るく海は軽やかな青色でした。どんより重く暗い日本海との違いに師はどんなに驚いた事でしょう。険しい石庭もありました。ここで思いっきり修行しよう。若き良寛さんは勇んで意を決したにちがいありません。

悟り、強靱な足腰、師の教えと杖。印可の偈(いんかのげ)を授かった後、これらをを拠り所に、いずれ帰りたい越後を胸に仕舞い長い旅路に就いた良寛さんの円通寺。深い感慨をもって正月旅行の最終地玉島を後にしました。

後日早川さんから届いた良寛椿の苗。とても楽しみです。失敗する人もいるようですが、是非ともちゃんと育てたい。

御地倉敷市はじめ玉島および円通寺は諸行事、記念碑および像の建造、椿の杜づくりなど良寛さん顕彰の熱心さがとても良く伝わりました。古来豊かな商都であり茶の湯が盛んで戦後早くから「良寛茶会」も催されているとも聞きました。

晴れの国と雪国の妙、北前船の寄港地同士。良寛さんが繋いだ岡山県と新潟県は良縁にちがいありません。

さて以上、正月の拙い旅行記は長くなりました。一方で年明け早々の大地震。大災害は日が経つに連れ新たな問題が深刻化しています。
政治は各自懐にしたパーティー券代をまとめ、一刻も早く被災地へ届けたらどうでしょう。政治改革とはこのようなことから始まるのではないでしょうか。

1月3日夕刻と4日午前の高松市、美しい松と命の讃岐うどん。

2024年1月19日(金曜日)

遅々として進まぬ正月旅行記ですが1月3日午後遅く、直島から四国へ、ようやく後半の高松市に入った。雨でしたが傘をさすほどでもなく助かりました。港、駅、主なホテルがほぼ一地区にまとまっていて、交通の利便が計られていました。

高松港の2本のモニュメント。2010年に開催された瀬戸内国際芸術祭に設置された大巻伸嗣氏の作品。その後2022年の瀬戸内芸術祭を経て長く高松港のシンボルになっている。

JRホテルクレメント高松の部屋から見た高松駅方面。大都会だと思いました。反対側、ホテルの裏手は港です。

香川、高松といえば何といっても讃岐うどん。夕刻駅で明日の列車マリンライナーの切符を買い、ホテルで傘を借りてうどんを食べるべく街へ出ました。
食べ物屋さんがある繁華街のアーケードはすぐ近くと聞いたのですが、中々着きません。今や健常な層と異なり年寄りの足は距離や時間が違うのでしょう。傘を開いたり閉じたり、幾つも街角を曲がってようやく店を見つけました。

お願いしたうどんは熱々の桶に入り、海鮮が効いた甘めのタレも器ごと熱々でした。
妻には内緒でしたが、入店して座ると何故か頭がぼーっとして上手く気が回らない感じがしていました。三日間毎日1万歩は歩き、当日もすでにそれを越えていました。

昼を抜いているのですから、低血糖気味だったのかもしれません。慌てずにまず熱いつゆを口にし、ゆっくりうどんを噛みしめながら食べました。

ああ讃岐うどんは大学病院時代、専門店が近かったのでどれだけ食べたかわかりません。こちらに来て足かけ49年、久し振りのうどん、それも正真正銘、本場の讃岐うどんです。持ち上げてみる非常に長くてずっしり重く、滑らかさ、湯がき方、熱さ、風味、分量、申し分ありません。
立派なことに桶などに入れてある。ゆっくり食べ始めると間もなく頭がしっかり働き出しました。高松の夜歩き疲れて食べた讃岐うどんは生涯忘れられない事でしょう。

地元の家族さんらしき方達も皆うどんですし、出がけにお金持ちそうな黒づくめの外人さんご夫婦が嬉しそうに入ってきました。

さて翌4日、昨日とは打って変わり気持ち良く晴れました。朝早くからホテルのすぐ近く高松城跡(玉藻城跡)である玉藻公園に行きました。玉藻は万葉集で柿本人磨が讃岐の国の枕言葉に 「玉藻よし」と詠んだことに因み、一帯が玉藻の浦と呼ばれたことによるそうです。

自分が世話になった大学病院の前に渋い木工椅子テーブルの喫茶「玉藻」がありました。懐かしい店ですがエプロンをした粋な主は高松の人だったのでしょうか。く

玉藻公園の入り口。

高松という都市名の由来が良くわかりました。南陽に映えて生き生きとした松でいっぱいの公園。実際正月早々、松の手入れに勤しむ職人さんたちを見ました。
石垣も美しく三方海に囲まれていたという城跡はブラタモリで観ていました。海水を取り入れた構造で、いまなお海とともに生きている城という雰囲気があり、歩くと元気が出ました。

桜御門。戦前国宝指定の前夜、空襲によって焼失。令和4年に再建されている。

入り口両側の積み石は見事で現代的な造形そのもの。いにしえの人々が有した美的センスは現代と遜色無いレベルではなかったかと思いました。自然や建造物と調和させる、という点で言えばなおさらです。、

園内の一角でみたソテツ。温かいところだとこんなに葉が茂り幹が太くなるのかと驚きました。

琴電が忙しく往き来していました。

その琴電に乗って高松市立美術館へ。駅で降りると晴れ着を着たワンちゃんと出会いました。忘れるところでしたが、お正月だったのですね。

きれいな緑色の電車

美術館ロビー。

現代絵画と香合の展示を観て館内のカフェで一休み。

ソニーのカメラを持参しました。

昼が近づき高松駅へ。

JR予讃線の列車はおしゃれです。

マリンライナー。
二階のパノラマシートが取れていました。

この年になってようやく出会った瀬戸大橋と特急列車。およそ10㎞にわたって瀬戸内海の島々を繋ぐひと時は壮快でした。

一昨年でしたか、一種興奮とともに読んだ村上春樹の「海辺のカフカ」。登場人物達はそれぞれの因縁に導かれ次々と高松へとやってきます。
主人公がたどり着いた高松市のクラシカルな図書館は、作者の若き日に親しんだ西宮市のものだったことは知っていました。しかし一種神秘的な空気を漂わす小説ゆかりの場所に淡く期待していましたが、図書館は勿論深いジャングルのような森と寂しい農村などを探す時間はありませんでした。

僅かな滞在でしたが、陸海が一体化した交通、美しく健康な松と立派な石垣の城跡・玉藻公園、そして讃岐うどん!四国高松はそれで十分でした。

学生時代と大学病院の医局時代、13年間をともにしたNは高知の人でした。若き日、休みになると宇高連絡船と急行など10時間も掛けて東京・高知を往き来したと聞いていました。
今回お洒落なフェリーでしたが、昭和30年代中頃~40年代の高松市や宇高連絡船はどんなだったのでしょう。元気なら色々話したかったNは一昨年亡くなり、気がつくと寂しくなります。

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