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分校時代の出来事その1 お弁当コロコロ。

2025年5月4日(日曜日)

前回近くの分校で三年生まで学び、四年生から本校に行くこと。、四年生になって一回目の音楽授業で歌った「朧月夜」のことを書きました。

これ機に今の脳裡にある我が幼き分校時代の出来事を幾つか書いてみます。
本日はお弁当コロコロです。

分校の三年間は1学年1クラスでした。始業式や終業式などの重要な学校行事があると三学年揃って列を作り本校まで、主に国道を歩きました。

時にはお弁当持ちで本校に行くことがありました。
お弁当箱は時代により形に流行があり、一年生のある日の本校行きは筒状の丸いお弁当箱でした。ご飯の上におかずを載せる丸い蓋皿が付いているあれです。
ある日の学校行事はお弁当持ちで、150人ほどの行列は分校を出ました。私には何かと頼りにする二つ年上の姉がいましたので行列のどこかにいるはずでした。

その日学校から国道へ出てすぐの所で何かのはずみで大事なお弁当を手許から落としてしまったのです。
コロコロ、コロコロ、まるい弁当箱が道路を転がり、あわてて追い掛けましたが最後に蓋が外れご飯もおかずも飛び出しました。
何と無残なことでしょうか。皆に囲まれて、路面に飛び出したごはんやオカズをお弁当箱に戻しかありません。騒動を聞きつけた姉がやって来ます。案の定私は叱られ、二人で砂が付いたご飯とオカズを集めて器に入れました。

本校に到着しましたがお弁当のことばかり心配していました。お昼になると姉は自分の分から少し分けてくれ、ご飯に付いた砂を除けながら食べました。除けはしましたがしばしば混じっていた砂を噛みますし、本当に泣きたいくらいの辛いお昼でした。

落ち着きの無かった私は万事姉に子供扱いされていた幼少の話です。

『朧月夜(おぼろづきよ)の思い出。

2025年5月3日(土曜日)

菜の花畑に入り陽うすれ♪今ごろになると「朧月夜(おぼろづきよ)」の歌が浮かぶ。そもそも小学校の授業などみな忘れている中でこの歌の授業だけは時期、場所、雰囲気などを明瞭に覚えている。
一番だけ習った歌詞は以下だった。

菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し

授業は初めての音楽室、初めての先生、初めて交わる生徒など初体験が幾つもあるなか、歌うということが重なり、緊張が鮮明な記憶に結び付いているように思われる。

そもそも校舎の都合などで私は三年生まで一キロ弱の分校へ、四年生から三キロ先の本校に通った。各学年とも分校は1クラスで本校3クラス。名の通り分校は子分のような存在だった。

「朧月夜」の授業が行われた音楽室には分校よりも立派なオルガンがあり、教室も立派。そもそも分校に音楽室などは無かったのでは。
勿論受け持ちの先生は初めてみる人、全く馴染みの無い本校の生徒とは交わったばかりだった。

そんなこんなで「おぼろ月夜」の授業が始まった。それぞれお利口さんになって一生懸命に歌った。

菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し

どれだけ意味が分かっていたのか別にして、学校の行き帰りに菜の花がいっぱい咲いている畑を通ったし、春風は気持よかった。田舎とはいえもう四年生、山裾に霞がかかり、月が上っている情景も多分分かっていたことだろう。歌うたびに調子も声も出たにちがいない。

ところでが歌のあるカ所にくると皆私を見てクスクスと笑い始めたのである。そのカ所は「霞ふかし」だった。
私の名が玄(ふかし)だから、「霞ふかし♪」のところはこらえきれないのか。最後には教室中爆笑になった。緊張して始まった授業ゆえこんな時の開放感は計り知れない。
皆大いに楽しそうだったが私はなにがしか弁明してうつむくしかなった。特に本校の生徒には初めて聞く変な名だからなおさらだったことだろう。

少し月日を経て「案山子(かかし)」を習った。山田の中の一本足のかかし♪。山田君を見ながら皆と一緒に笑った。しかし山田君の場合どの程度の笑いだったか、思い出せない。


NHK児童合唱団「朧月夜」

「朧月夜」の「夕月かかりてにほい淡し」の「にほい淡し」は説明されたとしてもよく分からなかったに違い無い。
また二番もあるのに一番だけだったのは4年生ではそれが精一杯だったのだろう。

「朧月夜」を習っていて良かった。

吉川区の長峰城址 トランプショックに時代劇。

2025年4月6日(日曜日)

今日は日曜日、普段通り起きた。あっさり目の食事をし、風があり曇り空のため鳥というほどでもあるまいと決め、新聞を読んで溜まっている書類を書いた。

昼になり、吉川区長峰湖畔の長峰城址が良いと聞いたので行くことにした。現地の長峰池脇の駐車場までせいぜい10分ほどだ。駐車場からすぐの池に出て左手(西方)に道があり長峰城址と案内されている。

一帯は小学校の遠足以来、近時は探鳥などで何度も来ている場所。しかし城址へは行った事が無かった。

ゆっくりした上り坂の道に入ると右手に鳥の影。

ジョウビタキの雌。
いかつく派手な雄よりも
地味でもそそとして可愛い。

花が少ない印象を持ったが、昨日の大池いこいの森と違い早くもスミレが沢山咲いていた。

 

ヒサカキの花。
わずかにトイレの匂いに似ているが、
神聖な木。

見え隠れする長峰の池。

 

道中竹林を通った。
荒れてはいるが嵯峨野?
と言えないこともない。

城跡の案内板を見ているとお年寄りがさっさと通り過ぎて行く。

慣れた足取りの二人。

 

ヒオドシチョウ。

遺構にさしかかる。

道の左右に雪割草が植栽されている。おびただしい花が自然に溶け込んでいて癒やされる。

 

 

 

 

搦め手方面へ、
行く手はかっての舟着き場。

 

右の谷のような場所が
舟着き場への通路らしい。

土塁や空堀など一通り城跡を巡り帰路へ。帰路の途中で農道へ出る場所があり梅がきれいだったので寄った。

亡きおじいさんが結婚した頃に
植えられたものか。

初めて行った長峰城址。去年春現地を観られた一級建築士で新潟県まちなみネットワークの関由有子さんが帰路当館に寄られ素晴らしいと熱心に語られた。
本日もまた5000千歩足らずの行程を大変ゆっくり2時間もかけて歩いた(当然年令のせいですが(・・;)


昼食抜きの毎日なのでとてもお腹が空く。樹下美術館では我慢出来ず二つ入りにしてもらったアイスクリームを食べた。

車でわずか10分の所に江戸初期の城や人々の足跡が辿れる場所があるとは大変貴重なことだ。

僅か二年で廃城になった五万石の城址はやはりもの悲しさを禁じ得ない。しかしその二年間、城主は美しい長峰池と米山、尾神岳の雪月花を楽しんだのではなかったか。

この数年時代劇ばかり観るようになり本日日曜日は大河「べらぼう」を観た。うれしいことに「べらぼう」に続いてすぐ「あきない正傳 金と銀2」が始まる。
アメリカ大統領によって突然のように世界の商いが難しくなった。だがいずれ「精魂込めて作る売る」我が国ならではの「商いの真髄(近江商人魂)がじわじわと力を発揮される好機のようにも思われる。

高齢者ばかりではなくZ世代の皆さんもこぞって二つの時代劇を観て心奮わせてもらいたい。多くの人の期待を背に若き小芝風花さんはじめ重鎮の熱演も光っている。

いま四月馬鹿はどうなっているのだろう メギスの旬。

2025年4月1日(火曜日)

寒い三月が去ると本日4月1日も負けじと寒かった。
何十年も前ならば本日は「四月馬鹿・エイプリルフール」で、のどかなことにお互い騙しのようなことをしようとそわそわしていた。

今でもそのようなことをしているのだろうか。あまり耳にしなくなったのでもう止めたのかもしれない。

本日ある在宅のお宅で、お年寄りのトイレの汚しが話題になった。ええ汚します、うちでは犬のおしっこシートを敷いていますよと、介護者さんが言った。
犬のおしっこシート?
四月馬鹿? まさかと思って聞き直した。
介護者さんは、むかし犬を飼っていた時のが沢山余っているので使っています、と言って大きな犬のマークが付いた袋を持ち出してきてシートを見せてくれた。風呂敷ほどあり表裏が吸水、防水され大きなオムツの構造。なるほど便利そうだ。

今日まで犬のシートも知らなければ、お年寄りの汚しに対しトイレに敷くことも初めて聞いた。十人十色の介護では皆さんが思ってもみない努力や工夫をされている事をあらためて知らされた。

昨年植えた啓翁桜。
何も言わないので気がもめる。

夕食のメギスの煮付けと麩と
タマネギの味噌汁、野菜のゴマ和え。
昼食無しで朝夕は玄米です。

亡き妹はメギスが好きだった。メギスは産地が石川、新潟、愛知などに限定されているらしく妹が暮らしていた宮城には無かったようだ。それで一度やって来たときに妻が出すととても喜んで食べた。
なにしろ早く傷むため他に出せず主に産地のみで食されるらしい。

旬は4,5月と9,10月の年2回と出ていた。4月1日は人などを欺さずメギスを食べるのが当県の流儀に叶うようだ。昔好きではなかったが次第に美味しく食べるようになった。

3月30日の徳川美術館と豊田市美術館 そして富士山。

2025年3月31日(月曜日)

3月30日日曜日、午前は名古屋市内の徳川美術館へ、午後はこの旅のメイン豊田市美術館で「黒田辰秋展」を観た。

徳川美術館には開門前に着いた。清々しい園内は啓翁桜であろう箒状に立ち上がる鮮やかな桜が美しかった。美術館の裏手に続く変化に富んだ庭園を一巡りすると開門していて来館者で賑わい始めた。

水と樹木と石と橋が引き立て合う庭。
一部がすでに新緑。

婚礼写真撮影。

館内へ。

煌めく刀剣の光り。

能面の引力。

利休の茶杓。

おひな様の展示が行われていた。

大きな犬のひな飾り。

なまめかしい官女たち

次第に大きく豪華になる雛飾りを幕府が諫めるとミニチュアのような芥子雛が登場し、展示されていた。

時間通りに観て回り、地下鉄鶴舞線の伏見駅から11駅目、豊田市へ向かった。

伏見駅で赤い車体とスーツの人。

伏見から50数分で豊田駅。
新鮮な風光の都市。
トヨタ自動車のお膝元。

美術館は地方都市とは思われぬ大きなスケールの近代的な施設だった。

現在「人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」が開催されている。終了した京都国立近代美術館と2カ所開催の貴重な展覧会。

案内物。

氏は分業が一般的だった木地師(形成)と塗師の仕事を一人で行った。木工出発の頃、朝鮮の棚に魅せられその模倣に40日間不眠不休で取り組み、金具を取り付け完成させると丸二日眠り通したという。

以下展覧会図録「黒田辰秋」のページからからです。

 

朱漆三面鏡。
繊細な場所に力強さと安定感。
木と漆の相性が造る第三の質感。

拭漆(ふきうるし)欅(けやき)大飾棚。

拭漆楢彫花文椅子。
氏の代名詞にもなる彫花文。

会場には203点の作品が展示されていた。あっちで数点、こちらで一点程度しか見ていない黒田作品が一堂に会されかくも沢山観られるとは夢のようなこと。
古くから黒田辰秋作品はファンが多く、今もって小さなペーパーナイフさえ手に入らない。氏は以下のような言葉を残されている。
・自分の作品には生涯責任をもちたい。
・地球と代えられるだけの作品を作りたい。
・用いられることで道具としての良さが引き立つように作りたい。

扱う木に地球の全てをみて取り組む仕事。どの作品にも神域というような超越感が漂うわけだ。

今回訪ねた名古屋と豊田。どちらも開けて気持ち良く、さらなる可能性を秘めていると感じた。
当地から豊田市への交通は不便だ。名古屋市で色々な人に行き方を訊いたが、そらんじている人は少ない印象だった。そんな中でホテルのフロントと一部のタクシーさんは地下鉄伏見駅から直通が便利と説明してくれ、それに従って良かった。

その一人50代のタクシーさんは父親の介護のため地元に戻りドライバーをしながら見ていると話した。とてもきちんとした人だった。「親の介護は一大事業ですね、頑張って下さい」と言って車を降りた。

帰路の新幹線で窓正面に富士山が現れた。

週末は名古屋と豊田市へ 本日は名古屋の分です。

2025年3月30日(日曜日)

昨日午後から名古屋一泊で豊田市へ。
「生誕120年 人間国宝 黒田辰秋-木と漆と螺鈿の旅-」展を観に行った。「参りました」と言うほか無い木工の王・黒田辰秋。今もなお、いや、さらに高みで静かに力強く存在する人の大展覧会は京都国立近代美術館を終えて愛知県豊田市へ来ている。

数ヶ月前に妻がテレビで観て教えてくれた黒田展。何が何でも行かなければならないけれど、当地から豊田市行きは不便で珍しい名古屋一泊は必要かつ楽しみな行程だった。昨日午後、上越妙高から東京周りの新幹線で名古屋へ、午後5時少し前に着いた。

何処も閉まり、観るだけの名古屋城は開いていて桜も咲き始めていた。珍しい事に名古屋市はタクシーがとても多く移動は便利だった。

髙田の様にぼんぼりは
賑やかではない。

見事な枝垂れ桜の一角。

まじまじと城を観るのは初めて。
高く立派な石垣、重厚な天守閣。
夜の方がきれいではないだろうか。

ぐるりと城を回ったあとタクシーさんに聞いた界隈を歩き、食事処を探し、目に付いたお好み焼きに入った。
場所は宿の近くの納屋橋。堀川の両岸は「なやばし夜イチ日本酒祭 2025」というイベントで、屋台とキッチンカーがずらりと並び、若者達で一杯だった。

洋種の店もあった。

入ったお好み焼き屋はコンクリートのエントランスに水が流れるお洒落な作りで客もまた若者主体だった。

お好み焼きは50年以上も前の東京時代、先輩に連れられて蒲田で一度だけ食べた。器用な先輩は「エヘヘ」と笑いながらヘラでパンパンと叩くや鮮やかに返した。
作る前までは一人前の手付き。

何かまとまりがない。

自己流だが美味しい。

昔の先輩を思い出して作ったがかなりばらけ、一生懸命寄せ集めて食べた。

とても冷えた名古屋の夜、心身温まり楽しいひとときだった。城の行き帰りはタクシーを使ったが朝から数えて9000数百歩は歩いていた。

次回は翌日午前の名古屋市徳川美術館と午後の豊田市美術館を記載予定です。

三月にして真夏日 初ゴルフ アイスクリーム 啓翁桜 雪割草 内山雅子さんのCD。

2025年3月27日(木曜日)

定期の休診日で今年最初のゴルフに行った。夕刻のニュースで知ったが午後2時過ぎの最高気温が30,0度で真夏日だったという。
今朝7時半に家を出る時は少々寒くウインドブレーカーを羽織り、スタートの8時過ぎに気持がいいですね、と言った。午後2時前に上がったのだがその頃が最高気温だったらしい。

さほどの風も無かったので30度と知っていたなら、暑い暑いとぼやいたかも知れない。知らぬが仏だった。
3月の真夏日は本州では観測史上初めてだという。雪国→南国、一体当地はどうなっているのだろう。

以下本日の写真です。

私にしてはそこそこまとまった
スコアだった。

美術館で食べたりアイスクリームが
美味しかった。

啓翁(けいおう)桜が開花していた。
昨年5本植えた小ぶりな桜は
今後さらに楽しみ。

上掲は昨年秋葉区で求めた雪割草。
株が一段と大きくなった。

夕刻の飛行機雲。

大雪や山火事などの気象災害はすでに露わになっている。考えると切りがないができるだけ穏便に願いたい。

 

さて夕刻、今月下旬にオリジナル2曲を新潟市で吹き込みCDデビューをした内山雅子さんがカフェに来られた。
みなで視聴したが柔らかな声に秘められた情感と確かな音程は生来の才能だと思った。物語を秘めた詩もとても良い。
才能と言えば画才がありセンスの良いイラストは独特で地域の催事には欠かせない存在。控えめだが何でも出来る貴重な人ではないだろうか。

樹下美術館でCDをお預かりしていますので、視聴ご希望の方は仰って下さい。どちらか1曲をお掛け致します。

小林古径記念美術館「生誕110年記念 濱谷浩展」と講演会。

2025年3月22日(土曜日)

現在小林古径記念美術館で開催中の写真家・濱谷浩展。本日午後から講演会「濱谷浩・人と作品」が二の丸ホールであり参加した。
戦前、グラフ社から派遣され髙田連隊の冬期演習を撮影した折、地元の研究家から紹介され谷浜の桑取谷に伝わる小正月の伝統行事を撮影。密かで力強い風土の概念を目の当たりにして取り憑かれ、長い写真家としての出発点となっている。

その後大衆、名士それぞれの持ち味、国内外の光りと影、風俗の新旧、地の果てそして告発etc、何かしら人間が関わる森羅万象をあまねく撮らんと世界を駆けられた。

講演会の第1部の講師は多田亜生(つぐお)氏(編集者、濱谷氏の作品管理者)で「濱谷浩 写真の魅力」を、第2部は齋藤尚明氏に学芸員の市川さんが加わり三人で「濱谷浩の髙田時代」を鼎談され多くの興味深いエピソードが語られた。
第一部でブラッサイやキャパの名が出て私のような年令には懐かしくも安心だった。

日本人初のマグナム写真家の証。
氏のヘルメットと腕章に身分証。

鼎談の最後の方で桑取取地区に「濱谷浩記念館」構想が起きた時の話になった。意見を求められた濱谷氏は“作品というのは時代により評価が異なる。何時でも常に光っているとは限らない”というような主旨から構想に同意されなかった事が話題になった。
誰も彼も残したがる世にあって氏の慧眼と謙虚さに驚かされた。晩年はひたすら作品の綿密な整理と記録に打ち込まれたという。マグナム写真家集団への貴重な参加といい、明晰な氏の頭脳と立派な生涯にあらためて畏敬の念を覚えた。

入り口幕。

融雪される古径邸の庭。

膨らむ紅梅の蕾。

濱谷氏筆:古径邸の床「裂古破今」
如何なる時も満足するなの意味か、
厳しい言葉だ。

午後遅く美術館の雀。

髙田で最高気温が20,6度にもなり近づくお彼岸の威力はさすがだ。

春分の日、肌寒いが日が長くなった 啓翁桜はいつ咲くか。

2025年3月20日(木曜日)

本日春分の日は久し振りの晴れ間で皆さまには出足良くして頂いた。新潟市からお忙しいAさんが寄って下さり,Who’s Who(今どきこんな言葉が使われるだろうか:名士たちのこと)などを話し、お互い元気を分け合いましょうと快活にお別れした。

例年大池いこいの森公園に初めて出向く時期であり行ってみた。湖畔のビジターセンターから橋を渡ったのは良いが降りた先は積雪しいていて行き止まりだった。
仕事場の大潟区や頸城区の樹下美術館一帯は全く雪が無いが同公園の山あいはまだ無理な模様。今冬の大雪をあらためて知らされた。

患者さんからの瑞々しい大根。

 

美術館の桜で囀っていたホオジロ。
澄んだ声を響かせていた。

 

こちらは4,5日前のカワラヒワ。

 

 

上掲は本日のクリスマスローズ。
いつもより遅く、これから。

寒いとは言え一応春分の日は近い。日が長くなり美術館終了の17時からでも庭仕事が出来る。本日は昨年植えた5本の啓翁桜(けいおうざくら:小型の桜)のうち陽当たりに問題があった苗2本を心込めて移植した。
まだ背丈はいずれも60~70㎝。今年蕾を付けるかどうかとても楽しみ。あと二年もすれば少しは目に付くようになることでしょう。

柏崎から佐藤さん、明静院の大日如来坐像  いしだあゆみさんの訃報

2025年3月18日(火曜日)

 

一昨日のこと髙田文化協会事務局長の宮崎さんが来訪され、途中から元柏崎市博物館学芸員の佐藤さんが加わられた。佐藤さんは2007年当館開館時に来られ、小生の植物精密画のハガキを同博物館のショップに置いて下さりその後も時折訪ねて頂いた。

氏の話から写真、特に生物写真、わけてもトンボを撮っていることをお聴きした。私は拙い植物を描き鳥や雲などを撮り、一時日本自然科学写真協会(SSP)に入っていたと話すと私もですと仰りさらに親しみを増した。驚いたことに僧籍を有しておられ家は寺院で真言宗豊山派(ぶざんは)ということ、当家も同じ宗派なので二重三重にびっくりだった。

五智のさらに向こう山中に位置する明静院(みょうじょういん)の話となりお二人からスマホの写真をみせて貰ったが、同寺の大日如来坐像は国重文で大変美しく今春中に是非とも訪ねたいと思った。上述の明静院と如来像が載る上越タウンジャーナルを是非ご覧下さい。

さて今朝は間もなく消えたが、いっとき雪が降り仕事場周辺はうっすら雪化粧になっていた。

間もなく融けた淡雪。

話変わりいしだあゆみさんが亡くなった。

彼女のデビュー昭和43年は私の卒業年であり医局入局年でもあった。同年京都で行われた糖尿病学会に参加した。すると東京駅の待合室だったかテレビで彼女の「ブルーライトヨコハマ」が映っていた。5つ上のA先生が盛んに「この子可愛いね、いいね」と言った。京都の宿は円山公園でそこでも彼女が流れ、繰り返し「可愛いね、いいね」と目を細めた。

溌剌としたブラスの伴奏や一種こもったような歌声は演歌でも無く好きだった。

女優で活躍するようになると痩せ始め、演技はいっそうシリアスを深めた。

甲状腺機能低下症だったという。確かに外見はそのように見えホルモン補充療法が奏功するはずなのだがそれが死因とは。よほど劇症か、あるいは中途半端な治療たっだのだろうか。デビュー時代のイメージが強く未だまだ若いと思っていたのにとても残念だ。

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