明け暮れ 我が家 お出かけ

秋田県側の鳥海山 にかほ市から。

2025年5月10日(土曜日)

前回は去る5月4日の酒田美術館訪問を記し。今回は酒田からにかほ市へ出て一泊し、翌5日こどもの日は鳥海山を観るべくタクシーで宿を出た。

数多くの名山がある中で何故鳥海山なのか、問われれば以下の写真を挙げなければなりません。

写真には一部室内が写り込んでいます。

これは長年在宅で診ているAさん宅の玄関に掛かる鳥海山の写真で、あるじは秋田県ご出身です。
昭和30年代早く、当地上越市大潟区は試験掘削で石油と天然ガスが噴出しました。井戸の開発管理は(株)帝国石油(帝石)で、多くの社員が掘削先進地の秋田県から当地へ移住してこられました。

突然の地下資源開発は地域を急速に活性化させ、企業進出が始まると近郷近在から人が集まりました。帝石の産業医をしていましたので分かりますが、秋田からの社員は働き者で花が好き、みな頭が良くて正直でした。秋田弁丸出しの人々は地域に溶け込み町の発展に大きな貢献をされました。

上掲の写真は力強い迫力の山が真っ白な雪を深々とかぶり、静かに瞑目しているようで魅力的でした。プロが撮影したと考えられ、月1回伺うたびにいつかこの眼で本物を観たいと思うようになりました。Aさんには「仁賀保(にかほ)」市から撮影されたようだと聞かされていました。耳慣れないにかほ市はずっと脳裡に残りました。

この度ようやくその機会が訪れ実現したという次第です。
5月4日酒田で途中下車し、本間美術館を訪ねた後夕刻に仁賀保駅に降り立ちました。

きれいな仁賀保駅。
駅名は仁賀保駅ですが、
市名は「にかほ市」です。

迎えに出て貰った宿の車で
近くの仁賀保海岸に案内されました。
良い風光でした。

同夜夕食の「黒がれい」の煮付け。
味濃く非常に美味しかった。

食後、フロントスタッフに巻頭の写真を見てもらい撮影場所を尋ねました。皆さんの意見は多分鳥海山の北側、詳細は同定はできないが、仁賀保高原ということになりました。
しかし鳥海山は海に近いため雲が出やすく雨も多い。明日夕方はともかく晴れの山を見るのは少し難しいかもということでした。

5月5日朝タクシーで宿を出て仁賀保高原へ、主にブルーラインを走りました。

処々で正面現れる鳥海山。
但し山の上部は雲の中。
中々Aさん宅写真のようにはいきません。

鳥海山は海のそばの孤立峰なのです。

鉾立(ほこたて)展望台へ。

五合目、鉾立展望台(標高1150m)
次々登山者が登っていきます。

運転手さんに撮ってもらいました。

けなげなスミレ。

仁賀保高原です。

まだ雲がかかっています。
なかなか全容が見えません。

二つの牧場などをみてまわりると、少しずつ晴れてきました。

仁賀保高原南展望台から。
Aさんの写真は望遠レンズだったのか
もしれません。ここも大変良い眺めでした。

仁賀保高原を見て午前の鳥海山見物を終わりました。A氏宅でみたような全容を見ることは出来ませんでしたが、空は次第に晴れてきていました。
約3時間のタクシー観光の後、お昼前仁賀保駅へ戻り「羽後本荘」へ向かいます。あこがれの「由利高原鉄道」に乗るためでした。そちらからの鳥海山も楽しみです。

11時13分発の
いなほ1号がやって来ました。
羽越線「羽後本荘駅」まで11分です。

次回は由利高原鉄道です。「おもちゃ列車」にも乗りました。

鳥海山の前に酒田市は本間美術館へ。

2025年5月8日(木曜日)

5月4日仁賀保市へ向かうため新潟を発った特急は酒田乗り換え。酒田市の本間美術館を観る十分な時間があったので出向いた。

何といってもその富を公共事業や救民対策に投げ出した姿勢がケタ違いである。そもそも美術館も第二次大戦の敗戦に沈む市民を慮って昭和22年建てられたという。
展示品は本間家に伝わる庄内藩主酒井家、米沢藩主上杉家など諸藩からの拝領品および私蔵品を投じている。

長澤芦雪の「狗児(くじ)図」
師の応挙の子犬に劣らずとても可愛い。
※狗児は子犬のこと。

扇面に続いて与謝蕪村筆の俳句草稿に弟子であった呉春が絵を添えた屏風があった。
以下二作は添えられた生活感ある呉春の絵画部分。

「蕪村自筆句稿貼交屏風 呉春画」
貼り交ぜの絵画は当然一発で
決めたに違い無い。

 

以上二点は青手古九谷。
重厚な存在感。

太刀 名  月山正信作

 

安田 雷洲作「赤穂義士報讐図」
(写真は同館のデーターベースから引用)

上掲作品は大石主税が吉良上野介の首級を抱いている。幕末時代の当作品は劇的な構図、陰影のグラデーションなど西洋の宗教画を思わせ、一瞥してドキッとした。

竹内栖鳳作「富士山図」屏風
六曲一双の超大作。
(写真は同館のデーターベースから引用)

 伊藤若冲作「布袋図」
なめらかな曲線がとても爽やか。

以下は美術館隣接の庭園「鶴舞園」の一部です。

目立っていた赤いモミジ。
ノムラモミジか。

 

少々危ないジグザク橋には、
今居る場所を意識せよ、足許を見よ
など禅の意味合いもあるらしい。

向こうに別荘「清遠閣(せいえんかく)」

美術館の礎を築いた本間家は文字通り「日本一の地主」。かつ北前船で巨万の富を築いた商家でもある。往時は殿様以上の実力、実績があった。

『酒田照る照る、堂島曇る、江戸の蔵米雨が降る。』
『本間さまには及びもないが、せめてなりたや殿様に』
堂島は国内の米が集中した大阪の街。そこが曇り、江戸の米倉に雨が降っても酒田は照っている。万一殿様にはなれるかもしれないが本間様は絶対無理、と歌われている。

このたび新潟県人として嬉しかったのは、上杉輝虎(謙信)公や直江兼続の書状や漢詩が展示されていたことだった。
そもそも本間家が佐渡で成功し、酒田へと進出、さらに発展したこと、および米沢藩が越後春日山から上杉家を迎えた経緯などから越後との深い因縁を感じない訳にはいかなかった。

5月6日に酒田を再訪し、土門拳記念館などを観ましたので後日掲載致します。
次回は今旅の主目的鳥海山です。

5月4~6日まで秋田、山形へ行って来ました。

2025年5月6日(火曜日)

実は大型連休の後半、5月3日午後遅く出かけ新潟市一泊、その後本日まで秋田県にかほ市と由利本荘市に泊まり今夜帰ってきました。

実は長年ある患者さんの家で観ていて鳥海山の写真があまりにも素晴らしく、いつかこの眼で観たいと念願していました。
毎年「鳥海山行き」の計画を立てるのですが、都合の悪い事が起きては延び延びになっていました。

しかし今年は特別な不都合もなく実現、行ってきました。
鳥海山は秋田、山形県の境界にあり、当初上越市からだと交通不便と考えられ、大宮まわりで東北新幹線の利用を想定していました。
しかし一旦新潟へ行きますとそこから特急「いなほ」が使え、日本海沿岸の山形、秋田、新潟三県の細かな往来も案外円滑なことが分かりました。結果昔ながらの日本海沿いのルートで往復してきた次第です。

その間、5月4日、6日のブログ記事は出かける前の2日と3日午前に書き終え、予定投稿をしました。

中々雲が晴れないという鳥海山。やはり初日4日の山は見えませんでしたが、5日午後と6日は姿を現わしました。
本日は帰宅が遅くなりましたので旅のブログはお休み、次回は4日午後に立ち寄った酒田市のことを書かせてください。
また分校時代の思い出はほかにもいくつかありますので機会をみて書いてみます。

連休中、美術館を賑やかにして下さったお客様、守って頂いたスタッフ、誠に有り難うございました。無事帰宅し、あらためてお礼申し上げます。

短期でしたが美術館の花も少し変わったのでは無いでしょうか。

5月5日午後の鳥海山。
由利高原鉄道、
前郷(まえごう)駅周辺から。

分校時代の出来事その2 バスにさらわれる。

2025年5月6日(火曜日)

小学校低学年、つまり分校時代のことです。家の前に国道(勿論砂利道です)があり、そこをバスが走っていました。当持バスは主に木炭車でゆっくり走り、特に上り坂では喘いだ末に止まることもありました。

家の近くお菓子屋さんにバス停がありました。そこから100数十メートル行くと次の停留所で、その間半分は上り坂でした。

よくバス亭付近に居て、走り出すバスの後方バンパーに飛び乗り上半身を乗せ、坂を上る途中スピードが無くなると降りるという遊びをしました。
危険な遊びでしたがほかの子達と一緒に飛び乗ることもありました。

ある日、私一人で飛び乗ったバスは性能が良かったのでしょうか、普段なら減速する坂をそのままの勢いで走りましたので降りることが出来なくなりました。
近くに居た姉が「ふかしちゃん!ふかしちゃん!」と叫んで追いかけて来るのがわかりましたが、途中で引き返したようでした。

必死にバンパーにしがみつきバスは次の停留所で止まりました。万一そのまま走り続けたならもうどうなったか分かりません。いけない事をしてしまったと後悔いっぱい、しょんぼりバス亭から歩いて帰りました。
私がバンパーに掴まったまま走るバスを見ていた人もいましたので、もう止めなさいと言われたかもしれません。

家に帰ると母が「ふかし行っちゃった!ふかし行っちゃた!と、泣きながらゆう子が走って来たんだよ」と言ってひどく叱られ、傍で姉が目頭をこすっていました。

この話は大人になっても母や姉から何度か言われました。

分校時代の出来事その1 お弁当コロコロ。

2025年5月4日(日曜日)

前回近くの分校で三年生まで学び、四年生から本校に行くこと。、四年生になって一回目の音楽授業で歌った「朧月夜」のことを書きました。

これ機に今の脳裡にある我が幼き分校時代の出来事を幾つか書いてみます。
本日はお弁当コロコロです。

分校の三年間は1学年1クラスでした。始業式や終業式などの重要な学校行事があると三学年揃って列を作り本校まで、主に国道を歩きました。

時にはお弁当持ちで本校に行くことがありました。
お弁当箱は時代により形に流行があり、一年生のある日の本校行きは筒状の丸いお弁当箱でした。ご飯の上におかずを載せる丸い蓋皿が付いているあれです。
ある日の学校行事はお弁当持ちで、150人ほどの行列は分校を出ました。私には何かと頼りにする二つ年上の姉がいましたので行列のどこかにいるはずでした。

その日学校から国道へ出てすぐの所で何かのはずみで大事なお弁当を手許から落としてしまったのです。
コロコロ、コロコロ、まるい弁当箱が道路を転がり、あわてて追い掛けましたが最後に蓋が外れご飯もおかずも飛び出しました。
何と無残なことでしょうか。皆に囲まれて、路面に飛び出したごはんやオカズをお弁当箱に戻しかありません。騒動を聞きつけた姉がやって来ます。案の定私は叱られ、二人で砂が付いたご飯とオカズを集めて器に入れました。

本校に到着しましたがお弁当のことばかり心配していました。お昼になると姉は自分の分から少し分けてくれ、ご飯に付いた砂を除けながら食べました。除けはしましたがしばしば混じっていた砂を噛みますし、本当に泣きたいくらいの辛いお昼でした。

落ち着きの無かった私は万事姉に子供扱いされていた幼少の話です。

『朧月夜(おぼろづきよ)の思い出。

2025年5月3日(土曜日)

菜の花畑に入り陽うすれ♪今ごろになると「朧月夜(おぼろづきよ)」の歌が浮かぶ。そもそも小学校の授業などみな忘れている中でこの歌の授業だけは時期、場所、雰囲気などを明瞭に覚えている。
一番だけ習った歌詞は以下だった。

菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し

授業は初めての音楽室、初めての先生、初めて交わる生徒など初体験が幾つもあるなか、歌うということが重なり、緊張が鮮明な記憶に結び付いているように思われる。

そもそも校舎の都合などで私は三年生まで一キロ弱の分校へ、四年生から三キロ先の本校に通った。各学年とも分校は1クラスで本校3クラス。名の通り分校は子分のような存在だった。

「朧月夜」の授業が行われた音楽室には分校よりも立派なオルガンがあり、教室も立派。そもそも分校に音楽室などは無かったのでは。
勿論受け持ちの先生は初めてみる人、全く馴染みの無い本校の生徒とは交わったばかりだった。

そんなこんなで「おぼろ月夜」の授業が始まった。それぞれお利口さんになって一生懸命に歌った。

菜の花畠に 入り日薄れ
見わたす山の端 霞ふかし
春風そよふく 空を見れば
夕月かかりて にほひ淡し

どれだけ意味が分かっていたのか別にして、学校の行き帰りに菜の花がいっぱい咲いている畑を通ったし、春風は気持よかった。田舎とはいえもう四年生、山裾に霞がかかり、月が上っている情景も多分分かっていたことだろう。歌うたびに調子も声も出たにちがいない。

ところでが歌のあるカ所にくると皆私を見てクスクスと笑い始めたのである。そのカ所は「霞ふかし」だった。
私の名が玄(ふかし)だから、「霞ふかし♪」のところはこらえきれないのか。最後には教室中爆笑になった。緊張して始まった授業ゆえこんな時の開放感は計り知れない。
皆大いに楽しそうだったが私はなにがしか弁明してうつむくしかなった。特に本校の生徒には初めて聞く変な名だからなおさらだったことだろう。

少し月日を経て「案山子(かかし)」を習った。山田の中の一本足のかかし♪。山田君を見ながら皆と一緒に笑った。しかし山田君の場合どの程度の笑いだったか、思い出せない。


NHK児童合唱団「朧月夜」

「朧月夜」の「夕月かかりてにほい淡し」の「にほい淡し」は説明されたとしてもよく分からなかったに違い無い。
また二番もあるのに一番だけだったのは4年生ではそれが精一杯だったのだろう。

「朧月夜」を習っていて良かった。

吉川区の長峰城址 トランプショックに時代劇。

2025年4月6日(日曜日)

今日は日曜日、普段通り起きた。あっさり目の食事をし、風があり曇り空のため鳥というほどでもあるまいと決め、新聞を読んで溜まっている書類を書いた。

昼になり、吉川区長峰湖畔の長峰城址が良いと聞いたので行くことにした。現地の長峰池脇の駐車場までせいぜい10分ほどだ。駐車場からすぐの池に出て左手(西方)に道があり長峰城址と案内されている。

一帯は小学校の遠足以来、近時は探鳥などで何度も来ている場所。しかし城址へは行った事が無かった。

ゆっくりした上り坂の道に入ると右手に鳥の影。

ジョウビタキの雌。
いかつく派手な雄よりも
地味でもそそとして可愛い。

花が少ない印象を持ったが、昨日の大池いこいの森と違い早くもスミレが沢山咲いていた。

 

ヒサカキの花。
わずかにトイレの匂いに似ているが、
神聖な木。

見え隠れする長峰の池。

 

道中竹林を通った。
荒れてはいるが嵯峨野?
と言えないこともない。

城跡の案内板を見ているとお年寄りがさっさと通り過ぎて行く。

慣れた足取りの二人。

 

ヒオドシチョウ。

遺構にさしかかる。

道の左右に雪割草が植栽されている。おびただしい花が自然に溶け込んでいて癒やされる。

 

 

 

 

搦め手方面へ、
行く手はかっての舟着き場。

 

右の谷のような場所が
舟着き場への通路らしい。

土塁や空堀など一通り城跡を巡り帰路へ。帰路の途中で農道へ出る場所があり梅がきれいだったので寄った。

亡きおじいさんが結婚した頃に
植えられたものか。

初めて行った長峰城址。去年春現地を観られた一級建築士で新潟県まちなみネットワークの関由有子さんが帰路当館に寄られ素晴らしいと熱心に語られた。
本日もまた5000千歩足らずの行程を大変ゆっくり2時間もかけて歩いた(当然年令のせいですが(・・;)


昼食抜きの毎日なのでとてもお腹が空く。樹下美術館では我慢出来ず二つ入りにしてもらったアイスクリームを食べた。

車でわずか10分の所に江戸初期の城や人々の足跡が辿れる場所があるとは大変貴重なことだ。

僅か二年で廃城になった五万石の城址はやはりもの悲しさを禁じ得ない。しかしその二年間、城主は美しい長峰池と米山、尾神岳の雪月花を楽しんだのではなかったか。

この数年時代劇ばかり観るようになり本日日曜日は大河「べらぼう」を観た。うれしいことに「べらぼう」に続いてすぐ「あきない正傳 金と銀2」が始まる。
アメリカ大統領によって突然のように世界の商いが難しくなった。だがいずれ「精魂込めて作る売る」我が国ならではの「商いの真髄(近江商人魂)がじわじわと力を発揮される好機のようにも思われる。

高齢者ばかりではなくZ世代の皆さんもこぞって二つの時代劇を観て心奮わせてもらいたい。多くの人の期待を背に若き小芝風花さんはじめ重鎮の熱演も光っている。

いま四月馬鹿はどうなっているのだろう メギスの旬。

2025年4月1日(火曜日)

寒い三月が去ると本日4月1日も負けじと寒かった。
何十年も前ならば本日は「四月馬鹿・エイプリルフール」で、のどかなことにお互い騙しのようなことをしようとそわそわしていた。

今でもそのようなことをしているのだろうか。あまり耳にしなくなったのでもう止めたのかもしれない。

本日ある在宅のお宅で、お年寄りのトイレの汚しが話題になった。ええ汚します、うちでは犬のおしっこシートを敷いていますよと、介護者さんが言った。
犬のおしっこシート?
四月馬鹿? まさかと思って聞き直した。
介護者さんは、むかし犬を飼っていた時のが沢山余っているので使っています、と言って大きな犬のマークが付いた袋を持ち出してきてシートを見せてくれた。風呂敷ほどあり表裏が吸水、防水され大きなオムツの構造。なるほど便利そうだ。

今日まで犬のシートも知らなければ、お年寄りの汚しに対しトイレに敷くことも初めて聞いた。十人十色の介護では皆さんが思ってもみない努力や工夫をされている事をあらためて知らされた。

昨年植えた啓翁桜。
何も言わないので気がもめる。

夕食のメギスの煮付けと麩と
タマネギの味噌汁、野菜のゴマ和え。
昼食無しで朝夕は玄米です。

亡き妹はメギスが好きだった。メギスは産地が石川、新潟、愛知などに限定されているらしく妹が暮らしていた宮城には無かったようだ。それで一度やって来たときに妻が出すととても喜んで食べた。
なにしろ早く傷むため他に出せず主に産地のみで食されるらしい。

旬は4,5月と9,10月の年2回と出ていた。4月1日は人などを欺さずメギスを食べるのが当県の流儀に叶うようだ。昔好きではなかったが次第に美味しく食べるようになった。

3月30日の徳川美術館と豊田市美術館 そして富士山。

2025年3月31日(月曜日)

3月30日日曜日、午前は名古屋市内の徳川美術館へ、午後はこの旅のメイン豊田市美術館で「黒田辰秋展」を観た。

徳川美術館には開門前に着いた。清々しい園内は啓翁桜であろう箒状に立ち上がる鮮やかな桜が美しかった。美術館の裏手に続く変化に富んだ庭園を一巡りすると開門していて来館者で賑わい始めた。

水と樹木と石と橋が引き立て合う庭。
一部がすでに新緑。

婚礼写真撮影。

館内へ。

煌めく刀剣の光り。

能面の引力。

利休の茶杓。

おひな様の展示が行われていた。

大きな犬のひな飾り。

なまめかしい官女たち

次第に大きく豪華になる雛飾りを幕府が諫めるとミニチュアのような芥子雛が登場し、展示されていた。

時間通りに観て回り、地下鉄鶴舞線の伏見駅から11駅目、豊田市へ向かった。

伏見駅で赤い車体とスーツの人。

伏見から50数分で豊田駅。
新鮮な風光の都市。
トヨタ自動車のお膝元。

美術館は地方都市とは思われぬ大きなスケールの近代的な施設だった。

現在「人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」が開催されている。終了した京都国立近代美術館と2カ所開催の貴重な展覧会。

案内物。

氏は分業が一般的だった木地師(形成)と塗師の仕事を一人で行った。木工出発の頃、朝鮮の棚に魅せられその模倣に40日間不眠不休で取り組み、金具を取り付け完成させると丸二日眠り通したという。

以下展覧会図録「黒田辰秋」のページからからです。

 

朱漆三面鏡。
繊細な場所に力強さと安定感。
木と漆の相性が造る第三の質感。

拭漆(ふきうるし)欅(けやき)大飾棚。

拭漆楢彫花文椅子。
氏の代名詞にもなる彫花文。

会場には203点の作品が展示されていた。あっちで数点、こちらで一点程度しか見ていない黒田作品が一堂に会されかくも沢山観られるとは夢のようなこと。
古くから黒田辰秋作品はファンが多く、今もって小さなペーパーナイフさえ手に入らない。氏は以下のような言葉を残されている。
・自分の作品には生涯責任をもちたい。
・地球と代えられるだけの作品を作りたい。
・用いられることで道具としての良さが引き立つように作りたい。

扱う木に地球の全てをみて取り組む仕事。どの作品にも神域というような超越感が漂うわけだ。

今回訪ねた名古屋と豊田。どちらも開けて気持ち良く、さらなる可能性を秘めていると感じた。
当地から豊田市への交通は不便だ。名古屋市で色々な人に行き方を訊いたが、そらんじている人は少ない印象だった。そんな中でホテルのフロントと一部のタクシーさんは地下鉄伏見駅から直通が便利と説明してくれ、それに従って良かった。

その一人50代のタクシーさんは父親の介護のため地元に戻りドライバーをしながら見ていると話した。とてもきちんとした人だった。「親の介護は一大事業ですね、頑張って下さい」と言って車を降りた。

帰路の新幹線で窓正面に富士山が現れた。

週末は名古屋と豊田市へ 本日は名古屋の分です。

2025年3月30日(日曜日)

昨日午後から名古屋一泊で豊田市へ。
「生誕120年 人間国宝 黒田辰秋-木と漆と螺鈿の旅-」展を観に行った。「参りました」と言うほか無い木工の王・黒田辰秋。今もなお、いや、さらに高みで静かに力強く存在する人の大展覧会は京都国立近代美術館を終えて愛知県豊田市へ来ている。

数ヶ月前に妻がテレビで観て教えてくれた黒田展。何が何でも行かなければならないけれど、当地から豊田市行きは不便で珍しい名古屋一泊は必要かつ楽しみな行程だった。昨日午後、上越妙高から東京周りの新幹線で名古屋へ、午後5時少し前に着いた。

何処も閉まり、観るだけの名古屋城は開いていて桜も咲き始めていた。珍しい事に名古屋市はタクシーがとても多く移動は便利だった。

髙田の様にぼんぼりは
賑やかではない。

見事な枝垂れ桜の一角。

まじまじと城を観るのは初めて。
高く立派な石垣、重厚な天守閣。
夜の方がきれいではないだろうか。

ぐるりと城を回ったあとタクシーさんに聞いた界隈を歩き、食事処を探し、目に付いたお好み焼きに入った。
場所は宿の近くの納屋橋。堀川の両岸は「なやばし夜イチ日本酒祭 2025」というイベントで、屋台とキッチンカーがずらりと並び、若者達で一杯だった。

洋種の店もあった。

入ったお好み焼き屋はコンクリートのエントランスに水が流れるお洒落な作りで客もまた若者主体だった。

お好み焼きは50年以上も前の東京時代、先輩に連れられて蒲田で一度だけ食べた。器用な先輩は「エヘヘ」と笑いながらヘラでパンパンと叩くや鮮やかに返した。
作る前までは一人前の手付き。

何かまとまりがない。

自己流だが美味しい。

昔の先輩を思い出して作ったがかなりばらけ、一生懸命寄せ集めて食べた。

とても冷えた名古屋の夜、心身温まり楽しいひとときだった。城の行き帰りはタクシーを使ったが朝から数えて9000数百歩は歩いていた。

次回は翌日午前の名古屋市徳川美術館と午後の豊田市美術館を記載予定です。

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