明け暮れ 我が家 お出かけ
お盆14日は柏崎市の木村茶道美術館へ。
本日午前はそよ風吹く懐かしい空。これが昼過ぎから相当にきつい暑さになった。そんなお盆の14日、妻の兄上と柏崎市の木村茶道美術館をご一緒した。
今年初めての美術館は涼しく第一展示室の茶碗展を席入り前に観た。28点の名碗はみな素晴らしかった。4番目に谷本光生さんの伊賀が現れてとても懐かしかった。昭和60年の新潟三越で初めて求めた茶道具が氏の茶入だった。
谷本氏自身が会場におられ、私が求めると傍に付きっきりで箱に入れ真田紐を結び名札をつけて下さった。このときまだ茶を習っていなかったが、やろうと決めた買い物になった。
席が始まりました。
宗旦の竹一重切り花入。銘「ヨゴレ判官」
花はハツユキソウ、ワレモコウ、イトススキ。
釜は大西定林の「瓢形霰文
(ひょうけいあられもん」
古鏡の蓋が付いている。
素晴らしかった笹文の絵唐津水指。
お点前は江戸千家さんでした。
左に次客さんのお茶碗「御本三島暦手」
(ごほんみしまこよみで)
その胴に書かれた縦縞が暦らしい。
風情がよくてジロジロ見てしまいました。
拙主客は右の長入「赤楽馬盥(ばだらい)」茶碗。
夏の夢を思わせて素晴らしかった。
拝見。
宗旦の茶杓「弁慶」が見える。
気温が上がった昼に涼しいお道具組みだった。
最上屋さんお製のお菓子「宇治の里」を口にして南山園お詰めの抹茶「瑞宝」を美味しく頂いた。
ご一緒された方は茶席は初めてと仰ったが席の風情と館長さんの話を喜んで下さり、良い昼だった。
夕刻、理髪店に行った。あるじは、夕日が西に戻り始めましたねと仰った。暑い暑いと言っている間に暦が進み、知らず年かさを増やしているようだ。
スタート時間を遅らせてもらったゴルフ。
本日木曜の休診日。日頃庭を手伝ってくださるK氏と米山水源カントリークラブを一緒した。天気は昨夜から本日午前までかなりの降水が見込まれていた。
8時21分のスタートに会わせて起床するとじゃんじゃん降っている。スタート時間を遅らせて貰えれば雨に遭う時間を少なく出来そうだった。念のためゴルフ場に電話をすると1時間少々後にしてくれた。
9時30分ころ、スタート前のコース。
雨仕度をしたが、小降りに変わっている。
48-52で丁度100。二ヶ月ぶりにしてはまあまあのラウンド、K氏は98だった。
大げさではなく、いつ最後のゴルフになるかもしれない年令になっている。明らかに歩くのも遅くなった。不思議な事だが気持の通りに足が早く動かない。
写真を撮りましょうは面はゆかったが記念に撮ってもらった。氏とは何十回ラウンドしただろう。
茶室開きに招かれて。
本日昼、かねて茶室開きに招かれていたお宅を訪ねました。
蹲いを使い、にじり口を入るや茶の別世界が待っていました。茶室は三畳台目で神代杉の名木があしらわれています。
決まり事の中に個性を反映させ、茶室を作るのは茶人の夢。あるじご夫婦の創意工夫と長年の念願が詰まったお部屋は詫び寂びとともに暖かな愛情こもる空間でした。
蹲(つくばい)。
紫野(大徳寺のこと)雪窓の筆で
「壺」一文字のお軸。
茶味あふれるお道具。

気持ちの良い畳の香に包まれ、ほどよく湧く釜の湯音を聴きながら建立までの逸話を聴き、美味しいお菓子と濃茶、そして薄茶を頂きました。ご主人夫妻とお二人の相客に混じり、私達も和気藹々のひと時を過ごさせて頂きました。
あるじご夫妻、お心入れのお支度は大変だったことでしょう。存分に楽しませて頂きました。どうかお疲れ残りませぬようご自愛なさって下さい。本日のお茶はきっと長く心に残ることでしょう。貴重なひと時を本当に有り難うございました。
頂いて帰った菓子楊枝。
材として用いた古竹で作られました。
良い記念です。
「健康で長生き」。単純ですが幸福の要素であることを噛みしめたひと時でした。
穂高のオアシス「岳沢(だけさわ)小屋」の姪 山が好きなS氏 宮城県を経由した「お乳盲腸」。
やはり暑かった本日。当地髙田で33,1℃、浜松では37,4℃もあったらしい。会う人ごとにこの先の暑さ思案し合った。
それでも海風がそよげば短時間なら外で草取りや水まきができる。
そんな日の午後、姪が宮城県からやって来た。昨秋亡くなった弟の若き長女Nちゃんが寄ってくれた。溌剌として自立する彼女は山に目ざめ遂に数年前から槍ヶ岳山荘グループの岳沢小屋で働くようになった。本日は実家に行き長野県に帰る途中の下車だった。
テレビが無く自立を重んじる独自の家庭環境で育った彼女は自由学園を卒業後、私達が思ってもみなかった道へ進んだ。ニコニコしながら真剣に人の話を聴くのは妹のHちゃんも同じで、同学園を卒業したHちゃんの方は上高地で働いている。
Nちゃんが尋ねた時間に新潟のS氏が来館中だった。氏も山がお好きで二人で話の合うこと、楽しい会話が弾み傍らの私達まで和やかな気持にさせられた。Nちゃんは当地の米山と火打山を登りたいらしく、近いうちに実現したいと言った。
もう10年は咲き続けているリアトリス。
紫もあったがいつしか白だけ残った。
美術館の水盤に来たカワラヒワ。
暑いのでシジュウカラ、ヒヨドリ、雀、
カラスなども次々に訪れていた。
ところでNちゃんは私のブログを観ているらしく、上越妙高駅まで送る車中、“うちのお父さんからも「お乳盲腸」と言う言葉を聞いたことがある“と話した。あれれ、私と姉だけの話だと思っていた言葉を弟も共有していたとは。
幼年に保育園で叫んだ「お乳盲腸」をある日姉が弟に伝え、時間を経て本日姪から私に返ってきたということのようだ。果たして弟はどんな風に聞かされたのだろう。しかしわざわざ詳しくNちゃんに訊く話でもあるまい。
「お乳盲腸」はごく近い身内だけが頭の隅っこに残す、あまり痛くない焼き印(ブランド)のようなものかなと思いながら無事上越妙高駅に到着した。
※アメリカのカウボーイが自分の牛に押す焼き印がいわゆるブランドの語源だといいます。
それにしても弟が昔話の人になってしまったのはどうしても寂しい。
「お乳盲腸」とは何だったのか。
加齢に従い当座のことは忘れるが大昔のをよく覚えている現象が強くなります。一方直近の出来事は生々しさを引きずっていて、特に自分が関係することなどを書くのは尻込みせざるを得ません。
その点昔の事、わけても幼少の出来事は絵本の一ページを開くごとく案外簡単に思い出されます。過日の予告では「豚小屋の雨宿り」か「鐘の鳴る丘」を記そうと思っていました。しかるに本日は西念寺さんの保育園時代について、最近姉から聞いたばかりの事を忘れないうちにと考え、急遽記載させてもらいました。
何度も書きましたが、私達家族は財産を没収され、昭和21年3月、父母とともに6才の姉、4才の私、3才の弟、0才の弟の一家6人で中国の「青東(ちんたお)港」から佐世保港へ引き揚げました。祖父母が作ったった多額の借金返済のために父が泣く泣く決行した渡満の結果という訳です。
満州鉄道病院の勤務医だった父は最後に無一文になりましたが、10年掛けて借金だけは返せたのは不幸中の幸いだったかも知れません。
満州時代の私たち子供はいつも家の中で過ごしたようです。家では姉弟と母、そして姑娘(くーにゃん:中国人の若いお手伝いさん)が一緒ということでした。それが引き揚げて潟町の実家に来ると叔父伯母従兄弟などで家はごった返していて、いつも外で遊びました。
満州時代に知らなかった「友だち」。驚いたのが彼らの強い個性と体力でした。5才になると(不定期だったかもしれませんが)より多くの同年がいる西念寺さんの保育園に通います。
とにかく私は体力や脚力が駄目で、一方口や歌だけは達者だったと親から聞いていました。一才年下の弟がしっかり歩くそばで、年上の私は何かを歌いながらお尻を漕ご漕ぎ移動していたということです。
さて本日のお題「お乳盲腸」は数ヶ月前に会ったばかりの姉から次のように聞きました。覚えの無いことでしたがひたすら赤面しながら聴きました。
ある日、何かの用事があり姉は保育園にいる私を迎えに来たときのこと。
お堂に入ると私が「お乳盲腸!」「お乳盲腸!」と聞いたことも無い言葉を叫びながら走り回っていて、とても恥ずかしかったと言うのです。
初めて聴く「お乳盲腸」は今の私にも衝撃的でした。一体5才の自分はどこで誰からそんな言葉を聞いたのでしょう。そして何の為に叫んでいたのでしょうか。
5才といえども自分の行為です。聞きながら、とても恥ずかしかったのですが、しかし何となくその時の気分が蘇るような気がしました。
とにかく何かをして注目されたかったに違いありません。
当地では「乳」としか言わないはずですので「お乳」は母か姉から「女性だけの部位」として耳にしていたのでしょう。「盲腸」は開業した父が当時Jよく診ていた病気でした。大抵診察後柿崎の外科医に手術を依頼する電話を掛けました。電話は恐縮と緊張感がありましたが「もうちょう」は滑稽な響きがあり、大人でいえば少しく「卑猥」な感じがしないでもありません。
無個性で虚弱な私は保育園でより大勢に囲まれます。周囲の個性と強靱さの中で、一体自分は何をアピールすれば良いのでしょう。毎日考えていたと容易に想像出来ます。恐らく造語、一種性的な「お乳盲腸」が浮かんだ時、これで勝負だ、と直感したのではないでしょうか。親が「医者」であることもアピールできるではありませんか。
姉が来たとき、お堂でそれを歌うように叫び、何人かが付いて騒いでいたと言います。
その時の私は虚弱と無個性の劣等感から開放されどんなに良い気分だったことでしょう。
しかし家に帰ると姉や両親からひどく叱られたはずです。
「お乳盲腸」の開放と勝利は一瞬にして罪悪感に変わり、一日で終わってしまったようです。
姉から聞いた話は恥ずかしくまた滑稽です。しかし遠い一件は今日まで私のどこかで「無個性と虚弱のコンプレックスの代償(埋め合わせ)」として生き続け、「私らしさ」の出発点として働いていたような気がしなくもないのです。
姉は良い話をしてくれました。
数日前の夕焼け。
私の幼少 自他の個性が気になる。
過日は戦後間もなくの映画「晩春」と「麦秋」の感想を載せました。映画の発表は昭和24年(1949年)と昭和26年(1951年)です。
私の学年で言えば小学2年生と小学4年生に当たっています。映画が大人の事情を描いていたにしても、鎌倉の土地と映画の時代の違いには驚かされました。
以下は昭和24年、2年生の記念写真で映画「晩春」と同時代です。
一クラス61人もいます。
担任は優しい佐藤トシ先生。
大抵下駄ですが裸足の子もいます。
私です。
何の変哲もなく無個性。
個性的なほかの子が羨ましい。
皆の顔はそのままにしました。ともにひもじい時代を懸命に生きたすべての級友に敬意を表して、ぼかしやモザイクを入れませんでした。
当時を現すのによく「分校時代」と書きますが、写真の様に校舎は大きくしっかりしていて分校には見えません。私達の世代前後に生徒が増え、一方中学校には教室が余っていたため、近くの小学1年から3年生まで1クラスずつが分校として間借りしていたのです。ほかに本校までやや遠かったというのもあったのかもしれません。
「お弁当コロコロ」や「バスにさらわれる」もおよそこの頃の出来事です。
勉強は何を習っていたのか、記憶に残るのは遊びばかり。紙芝居、ぱっち(メンコ)、釘飛ばし(地面に四角い線を書きその中で太くて長い釘を打ち合い、枠から出すとその釘を貰う遊び)、缶蹴り、トンボ取り、海水浴、相撲、後は漫画や雑誌のほか川上、靑田、大下などの野球選手に夢中でした。
裕福な鎌倉の子ども達。
素の鎌倉が見られた
映画「晩春」のスクリーンショットから。
春の連休に「分校時代の思い出」を二篇書きましたところ案外好評でしたので、次回から幼少のことを少し続けてみたいと思っています。幼少には年齢的な定義がないそうですが、12才あたりまでを指すのが一般のようです。
幼少時代の驚きは、何といっても各人各様の個性です。顔つき、体力、得意のものなどみな異なる事に密かに驚いていました。このことは時に自分を不安にしましたが多くは面白くかつ楽しいことでもありました。
次回は「空振りのお召し列車」の予定です。
糸魚川のゴルフ お孫さんの宿題から始まった花。
昨日は糸魚川でゴルフでした。
気になるお天気はずっと前から雨100%で最悪。それが前日になると、午前は雨、午後から小雨また曇りに改善した。朝ポツポツやっているなか、一応しっかり雨仕度を整えて糸魚川へ向かった。
コース路傍のササユリ。
自他共にゴルフに熱心なA先生と一緒の組みだった。
数年前のゴルフで一緒の時、スタートの待ち時間や移動中に「ちょっと待って」と言って辺りを撮影する姿を何度か目撃した。珍しい様子に少し驚いたが撮っているのは花だった。
花がお好きですか、と聞くと「いやいや、孫の宿題です」と仰り、モニターを見せてもらい花の名を尋ねられた。たぶんツルリンドウ等だったと思う。
そしてこのたびは初夏のゴルフで同じ組になった。
途中杉に高く絡む真っ白なイワガラミやツルアジサイを目ざとく見つけて走り、「まるでアジサイみたいだった、変わっている花だなあ」と関心している。
「もう宿題じゃないでしょう」と言うと「あれ以来花に目が行くようになりました」と仰る。
ある場所で「ササユリだ、いっぱある」と言って車から降りると、「遅かった、時期が過ぎている」と残念そうに戻られた。
よくみると色も形も悪くなっている中に一輪、しゃんとしているのが見えた。これを撮りましょうと一緒にシャッターを切ったのが上掲の写真だった。
いわゆるゴルフひと筋の人がこうして野の花に興味を持つようになるのは貴重なことで、きっかけが孫さんの宿題だったのも微笑ましい。
ラウンドを終え、肝心の私のプレイは不振で106も叩き12人中10位、氏は96で8位ながら良いショットが沢山あった。表彰式が終わった帰り道、今日のゴルフは楽しかったなと仰り、本当にそうだと思った。
午前のお天気も傘をさすほどではなく、午後から晴れ間が現れることもあった。
最近のゴルフで嬉しいことの一つに、無事に終わることが加わったが、新たな花好きが出来たのも嬉しい。
フカミ美術主催、須坂市のお茶会へ。
本日6月1日、当地はポツポツ降り私が好きな清々しい6月の空ではなかった。
そんな本日我が県のお隣、北長野は須坂市で上越市のフカミ美術主催「緑陰茶会」があった。10時20分からの席に伺うべく車で髙田インターから信越道で向かった。
濃茶席に続いて薄茶席に伺った。お濃茶席(井上宗皋先生)は普願寺、お薄席(最上宗裕先生)は田中本家博物館だった。お互いの会場は隣り合っている。
主催「フカミ美術」のパンフレット。
濃茶席の待合に掛かった「月にほととぎす」の絵、薄茶席の「瓢絵賛」とも時節や禅味が清々しい一幅だった。
本席の不味公および大徳寺大順和尚筆の掛け軸は難解だったが、ご亭主の説明により心に響いた。
お道具類の趣向や由緒に席主さんのもてなしの気持がこもり美味しいお茶を飲むことができた。両席がともに富士釜だったのもどこかで席主さん同士の心が通い合ったものと思われ心温まった。
以下はお濃茶席で拝見した床のあしらい。
不味公の筆による軸「無位真人出入面門」は臨済録からの出典ということ、難しい言葉だった。
“人間(自我)はただの肉だが、その中に真の人(仏)がいて様々な経験によってはじめて成長あるいは仏に近づく”という意味らしい。
未熟な自我(肉切れ)のまま生きることの愚かしさを戒めているのではないかと思われ、身につまされる。二席を回ると早くもお昼になり、きれいで美味しいお弁当をほおばった。
田中本家博物館行きは三回目になった。館の流れは山国信州らしく淀みがなく澄んだ水音で心が洗われる。
高速道路を使って一時間少々の須坂市。しかし蔵通りの景観、路傍の流れ、郊外のリンゴ畑や葡萄畑の果実園は旅情が漂い、訪ねるたびに来て良かったと実感する。
出かける時はぽつぽつと降り県境ではかなり濃い霧に見舞われた。しかし帰りはそれも晴れ、清々しい信州行きになった。
旅行の最終日5月6日は酒田市の土門拳記念館、昭和時代の人物写真。
仁賀保、由利本庄の鳥海山見物を終え最終日は山形県酒田市でした。土門拳記念館で沢山写真を観、本間邸と長大な米倉を見学し、珍しく昼食を食べました。
土門拳記念館の一部外観。周囲に水があしらわれ、かなりモダン。
太平洋戦争の出征祝いの様子です。皆でビールを飲み日の丸を振り、晴れやかに過ごしています。父の出征でしょうか、向こう二人の息子であろう少年の胸中は複雑だった事でしょう。いや本当は皆複雑だったかもしれません。背後で泣くのは母親ではないでしょうか。おおやけには「喜びの涙」とされたに違いありません。このような経験をせずに80年が過ぎたのは大変貴重で幸せです。
「出征看護婦」
正装に白手袋が悲しい。
別れの水杯を口にしています。
「南京陥落提灯行列」
このような写真をみると職業写真家の
技術の凄さが分かります。
傷痍軍人がこどもをおんぶしているのは初めて見ました。小学5年生の上京で、汽車の中や上野公園、街角で募金箱を持った傷痍軍人の姿をしばしば目にしました。
高校時代の上京時も見たような気がしますが、何か怖いようで近づけず寄付をするかどうかも迷いました。それにしても当写真はこれ以上無いほど痛ましいですね。
以上2枚とも一緒のこどもをどう理解すれうばよいのでしょう、言葉もありません。
「担ぎ屋の子」
東京での撮影だそうです。
「母のいないこども」
筑豊のこどもたちシリーズから。
ある子が本を買うとその子の回りを子ども達が囲みました。先ず左右からのぞき込み三人で読む。次の人に回すと別の子が左右から覗きます。当持雑誌や本への関心は並々ならぬものがありました。
旅役者の一座は地域の娯楽に必須でした。当地にも決まった一座が回ってきましたがその名は忘れました。
残念ですが私は舞台を観たことがありません。写真は一座の触れ回り、チンドン流しでしょうか。これも見たことがありません。
嫁入りは文字通り「非日常のハレの日」。小学時代、近隣でも続けさまに嫁入り行列があり、全く不思議なものを見るように驚きをもって付いて歩きました。今このような花嫁が通りを歩くとしたら、どれだけのこどもが集まるでしょう。
薪を背負いとても自然な笑顔ですね。親と一緒だったかもしれません。私の患者さんで、子ども時代に泊まり込みで父と炭焼き小屋で過ごしたことを話してくれた女性がいました。美味しい鯨汁を作る父の手付きがとても鮮やかだったと話されました。
お弁当を持ってこない子はお昼に本を読みました。貧しくてお弁当が持参できなかったのです。
私の経験では学校に近い生徒は「家で食べる」と言って家に帰りました。当時、家に帰れて羨ましい、と思っていましたが、恥ずかしいことに、貧しさからだと分かったのは後年になってからでした。お弁当を持ってこない生徒はたいてい女子だったことも不思議です。この写真もそのようです。
映画の看板があるからといって必ずしも都会とは限りません。小学時代の私の村には少なくとも2軒(もう一軒あったかもしれませんが)とても質素な映画館がありました。
両親は映画館へ行くのを勧めませんでしたが、「血槍富士」と「破れ太鼓」の2回は覚えています。あまり楽しい映画ではありませんでした。
「終着駅」がかかる都会の映画館。
看板描きは画家の重要なアルバイト。
都会のおしゃれなスナップショット。このような場面をみるにつけ、早く大人になりたいと思っていました。上掲の男女の写真は詳しくありませんがパリのブラッサイ作品を彷彿とさせます。
今回も長くなりました。館内展示の土門拳の作品から戦前戦後の主にこどもを撮った作品を掲載し、戦後娯楽の王様、映画にまつわる作品数点を追加しました。
ちなみに掲載作品はみなモノクロです。
主観ですが、写真はカラーだと場面の「切り取り」の印象がありますが、モノクロは一挙に「作品性(芸術性)」が強まるように感じられのは不思議です。
しかしおそらく誰しもモノクロなら作品性が高まるとは限らないでしょう。確かな視点と構図を含む撮影技術の熟練はカラーより必要かもしれません。
土門氏の時代、自在に人物を撮影できたのも羨ましい限りです。時代の進歩の一方、他者による人物撮影(スナップ写真)が極端に制限されている現在、写真の面白みと価値が大きく減ってしまい、まことに残念と言わざるを得ません。
かっての人物は現在と比べものにならないほど「匿名性」を帯びていたことになります。昭和時代の人々は、普段一定の個別性は意識しつつも、カメラが向けられると匿名化し他者の撮影に応じていたのは不思議なことです。
現代は個別性(人権、プライバシー、アイデンティティー)やそれが晒されることのリスクを強く警戒します。しかし少なくても昭和時代には個人一般、男女、貧富さえ問わない存在として、カメラの前では人はみな同じという一種あっけらかんとした感覚を有していたようです。
最後に少々逆説的ですが、かっての私達はカメラ、あるいはカメラマン(特にプロカメラマン)を“特別なもの、あるいは特権者”として認め、素直に撮影を許していただけかもしれません。
他者による人の撮影の問題はわずか数十年の間に生まれた非常に大きな変化です。人権に関わることですから再び昔にもどることはちょっと考えられません。
さて同館における土門作品の撮影は自由でした。
皆さまも鳥海山見物の際には仁賀保高原や由利高原鉄道とならんで土門拳記念館の訪問をなさっては如何でしょうか。
秋田県の鳥海山 由利高原鉄道「おもちゃ列車」。
昼過ぎ仁賀保を出て普通列車で羽後本荘へ。同じ駅構内から良い具合に出る由利高原鉄道に乗車しました。
可愛いおばこが描かれた列車は終点「矢島(やしま)へ向かいます。
きれいなブルーの車内。同じブルーの鯉のぼりがあしらわれていました。
列車車内から鳥海山が見えます。出来れば駅も入れて撮りたいのですが、上手く行くとは限りません。行きに二度途中下車をしてみました。
途中下車のあと次の列車を待つ。
羽後本荘ー屋島の往復で、
3回途中下車して村や山を観ました。
最初の途中下車後、乗ったのは「おもちゃ列車」jでした。
二回目の途中下車「小吉」で見た
三基の庚申塔。
旅先で庚申塔を見るのも楽しみの一つ。
運転席脇から鳥海山。
少し雲が残っているが良く晴れてきた。
ここが本社、終点「屋島駅」。
こどもの日のイベントがあるらしく
駅舎内は賑わっていた。
帰路、下車した「前郷(まえごう)」の流れ。
鳥海山は多くの流れや伏流水を生んでいる。

上掲は駅で見た由利高原鉄道会社のポスター。
“賑わう通学は町の力と宝です”と書かれていました。本当にそうだと思う。下方には高校生の定期券を大幅値下げする、とありました。始発ー終点の一例として15400円→8100円は、もはや半額。
小さな鉄道会社の何と太っ腹なことか。市民目線の真剣な鉄道会社ではないでしょうか。秋田県の県民性かもしれませんね。
Aさん宅の写真ほどではありませんでしたが、午後遅くようやく春の鳥海山の全容を観ることが出来ました。また途中下車するたびに「おもちゃ列車」に乗れて幸運でした。
同夜は由利本庄市泊。ホテル「アイリス」はスタンダードな構えでしたが、部屋、食事、眺望などみな心こもったサービスを実感しました。翌日は酒田に戻り「土門拳記念館」「本間邸」「山居倉庫」を観る予定です。
こどもの日の一日、例によって昼食抜きで、こどものように楽しませてもらいました。
- 仏像、社寺、二十三夜塔、庚申塔
- 樹下だより
- 齋藤三郎(陶齋)
- 倉石隆
- 小山作之助・夏は来ぬ
- 高齢者、昔話
- 医療・保健・福祉・新型コロナウイルス
- 花鳥・庭・生き物
- 空・海・気象
- 頸城野点景
- ほくほく線電車&乗り物
- 社会・政治・環境
- 明け暮れ 我が家 お出かけ
- 文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ・テレビ
- 食・飲・茶・器
- 拙(歌、句、文)
- こども
- 館長の作品。
- 今年最終日曜日,午後のひと時。
- 「お婆さんのようなお爺さん」ズボン編 悪天を予告する雲。
- 頂いた椿を挿し木してみた。
- 「お婆さんの様なお爺さん」とは もらい物のセーター。
- 昨日今日の寒波は無事に過ぎた。
- 今冬最強寒波が来る 向こう側の季節から「楝(あふち)の花、いとをかし」。
- 堀口すみれ子さんから届いた詩集「月あかり」。
- 午前柿崎、午後大池 念願のエナガはピンぼけの1枚。
- 再度柿崎の海岸を歩いた 海のチョウゲンボウ 田んぼのマガン 低カフェイン抹茶。
- 暖かな日の朝日池、のんびり過ごす水鳥たち。
- 美味しいイチジクお菓子など、大潟区のマルト歌代商店は特別。
- 樹下美術館の紅葉 再度の木村茶道美術館 唐椿(からつばき)という花。
- 週末の種々。
- 盆と正月が一緒に来たようなお招き。
- 今夕も北海道の幸 懐かしい写真。
- 寒い日 思い出深い夕食と厚岸の牡蠣。
- 独居老人に便利なモニター 再度夕刻の朝日池。
- 昨日レコード、今日白鳥。
- 出たり消えたり手品のような毛糸(ニット)のチョッキ(ベスト) 樹下美術館のモミジ。
- 楽しかった週末 カーヴ・ド・ランパール 国立西洋美術館。
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