明け暮れ 我が家 お出かけ

イースターエッグ。

2015年4月7日(火曜日)

昨日クリスチャンの方からイースター祭の卵(イースターエッグ)を頂いた。
大変愛らしくきれいに作られている。

イースター祭は春分の日の最初の満月の次に来る日曜日ということ。
昨日5日がそれに当たっていた。

死後三日のキリスト復活は教義の根幹で、この日は年間で最も大切な日だという。
卵は復活の象徴であり、ペイントされ飾ったり贈ったりして祝われる。

イースター祭の卵愛らしい雰囲気を漂わす卵。

ところで、卵は多産と言われる兎が隠してしまうと伝えられる。
この日、子どもたちは兎が隠したと言って互いに卵を隠し合いそれを探す遊び(エッグハント)に興じるという。
ほかにスプーンで転がす遊び(エッグロール)もあり、何とも素朴だ。
卵は固ゆでしてあり食べられる。

あやかって小生も一つ。
次のクリスマスローズの写真には2個の卵が隠されています。

縮小

すぐにお分かりだったと思いますが、下の写真の丸がそうです。
簡単でしたね。

拡大大きくしてご覧下さい。

このところ雨が続き寒さが戻っています。明日も寒そうですが次第に晴れるようです。

〝貴重な卵を有り難うございました〟

初ゴルフ 順調なギター演奏会のお申し込み。

2015年3月29日(日曜日)

本日非常に賑わった米山水源CC$Hでゴルフをした。
スコアはまずまずとして、和気あいあいで楽しかった。

つくしコースはずれの土手に沢山のつくし。

それにしても最近の天気予報は良く当たる。
本日の午後から一時降った雨、それが夕方には上がったのは予報通りだった。
私のゴルフのアプローチももう少しぴたっと当たってほしいところ。

明日は全国的に好天のようですね。

リサイタルバナー4月19日は佐々木忠教授のギター演奏会。
3月15日開館後、お申し込みが増えて現在40名様を越えてきました。

まだお席がありますのでどうぞお気軽にお申し込みください。
17時30分開場、18時ちょうど開演です。

潟町小学校分校のクラス会 同級生たちはみなきれいな字を書いていた。

2015年3月22日(日曜日)

本日二日続きの好天に小三まで一緒だった1948年入学、潟町小学校分校のクラス会があった。
地元に残った少人数が集まっているので、何とか毎年続いている。

ことしは15人が潟町駅に集合して送迎バスに乗り、日本スキー発祥の地・金谷山の「対米館」へ向かった。

1人魚のステンドグラスすっかりきれいになっていた潟町駅の待合室にあったステンドグラス。
人魚伝説の駅に合っている。

2レルヒ像対米館到着後、短時間の金谷山は早春散策。
日本にスキーを伝えたオーストリアの軍人レルヒ少佐の像。
私も含め皆初めて見たと思われる。

3集合写真毎年会っていると年取る実感が薄い。

4小田嶽夫氏の色紙部屋にあった上越市出身、1936年・第三回芥川賞受賞作家小田嶽夫の色紙。

5レルヒ少佐の絵画帳場にあったレルヒ少佐自筆の油彩。
故国の冬であろう、雪山の輝きが大変美しく、ふる里への愛情が伝わる。

途中でこの度の出欠通知ハガキが回された。
伝言の記入もあったが何より驚いたのは、みな字が上手だということだった。

上手な書字は社会で如何に懸命に頑張られたかを物語るようでじんと来た。
毎年のささやかな集まりは本当に何気なくて良い。

鉄ちゃんというわけではないけれどその2 昭和34年9月8日の三等寝台券。

2015年3月16日(月曜日)

私の切手帳に二枚の寝台券が残っている。
昭和34年(1959年)9月、高校三年生の夏休みが終わったばかりという時期、父と上京した時のものだ。

上京の目的は、父の母校の大学病院へ行き、前年の春に見つかった私の肺結核を手術するか否かの判断を仰ぐためだった。
続けていた服薬と切り替えた注射薬カナマイシンの効果を問うことでもあった。

寝台券昭和34年9月8日、21時42分直江津発の三等寝台105、106番下段の特殊補充券。
父とは向かい合っていたと思う。
よく眠れずに上野に到着したのではなかったか。

非常に苦手だった父と一緒の上京。しかしそれが苦痛だった記憶が無く、道中の父は優しかったのかもしれない。

早朝上野からの国電は空いていてパラパラと居る通勤客はとても疲れているように見えた。
目黒で目蒲線に乗り換え、大岡山で降りた。
姉が居る石川町の小さな家に向かったが、朝日の道を歩きながら「9月になっても暑い」というような会話をしたように思う。

翌日だったか、信濃町の病院で断層X線撮影などの検査をした。
仕事がある父は早く帰った。

検査の結果は手術の必要は無く、現行の治療続行で良いという結論だった。
日本が世界に誇ることになる新薬カナマイシンの効果が出ていたのだ。
この時私は一才年上の従兄弟と後楽園球場で王、長島の試合を見るなどして一週間も滞在した。

決定の経緯はよく分からないが、残りの2,3学期を休学して治療に専念、来春もう一度三年生をやり直すことになった。
このことで焦るばかりだった気持ちが落ち着くのを感じた。
一才年下の弟と同学年になることなどの我慢は仕方が無かった。

ただ美しい英語教師A先生の許へさらに一年通えることだけは嬉しかった。

鉄ちゃんというわけではないけれどその1 懐かしいはくたか特急券。

2015年3月9日(月曜日)

このブログの欲張りなカテゴリーに「ほくほく線特急「はくたか」&乗り物」があります。
書き始めた頃に、このようなカテゴリーが出来るとは思ってもみませんでした。
それが2012年4月4日の記事からほくほく線、特にはくたかに興味を持つようになり、
以後はくたか廃止が迫るにつれ、一種とりこになり撮ったり書いたりを続けました。

いわゆる「鉄ちゃん」という方達は車両や車体の形式やそれらの変遷などに詳しく、写真もしっかり撮られます。
それに比べて私はそのようなことに疎く、夕刻の空や雲、あるいは四季の表情をはくたかに重ねて満足していました。

昨年秋、田んぼで東京から来たという熱心な鉄道ファンの若者に私のゆるい写真のことを話しますと、
「情景写真としていいと思いますよ」と言われました。
なるほどと、安心させて頂いた次第です。

ところで中学生時代から何とか残っている切手帳があります。
切手は学生時代に売ってお小遣いにしてしまいましたが、一緒に入れていた数十枚の切符が残りました。

先日何十年振りにそれらが入っている小さな箱をあけました。
中に「はくたか」の特急券が一枚ありましたので、大いに驚きかつ喜びました。

切手帳中学時代からある切手帳の外観。中はぼろぼろ。
縦横19,6×14㎝

切手帳の中身思い出につながるものもあった切符。
厚い切符などが入ったために余計傷みました。

はくたかの特急券灯台もと暗し、昭和49年(1974年)10月28日(32才)発行の「はくたか」特急券。
直江津18時10分発上野行、前日の地元潟町駅発行でした。
電話で直江津駅に空席を確認後、手書きとハンコで記入し最後にガチャと日付印字器を通すなど、
色々手を掛けて発券されたのだろう。

パーキンソン病だった父はこの年2回だったか入院しました。切符はそのうちの1回に際して急遽帰郷した時の帰りだと思われます。
上野には深夜に到着したことでしょう。翌年5月、勤務していた大学病院を辞めて家に入るきっかけとなった出来事だったと振り返られます。

次回は更にさかのぼって昭和34年(1959年)9月、高校三年生の時、父とともに上京した際の寝台券と、それにまつわる事を書ければと思っています。

健診を受けた ああ旅情であれば。

2015年3月5日(木曜日)

本日、毎年妻共に受けているドック健診があった。
詳しい結果は後日になるが体型に関する数値はさらに改善されていた。

BMI20,2、体脂肪率16%台は3年前には22,2と21,1%だった。
階段昇降に加え、昨年夏から自分なりの筋トレや軽めのダンベル(1㎏)体操を続けていたのが良かったようだ。
これらは健康のため、同じ服を着るため、時折のゴルフの成績向上を願ってのこと。
ちなみに、昨年秋練習もしないのに最後のゴルフで突然100を切ったのはダンベルのお陰だと思った。

さて健診の帰りに早い夕食を回り寿司で食べた。
それから写真を撮りながら帰って来た。

以下はその写真です。

パンジーホームセンターで展示備品、歯ブラシ、クルマユリの球根を買った。

貨物船貨物船と雨雲に旅情(直江津)。

煙突煙突と煙の旅情(黒井)。

夕刻の四ツ屋浜夕暮れの海に旅情(四ツ屋浜)。

人生は色々な事がある。出来れば〝ああ無情〟ではなく〝ああ旅情〟であれば。

お年玉はがきの賞品が来て。

2015年2月18日(水曜日)

昨日に続いて食べ物です。
去る1月19日にお書きしましたように私たちにお年玉はがきの2等賞が3枚当選していました
賞品はカタログから選ぶようになっていて、先日その「ふるさと小包」が次々に届きました。

1記念写真。

 2向こうにエキストラバージンオリーブオイル、右・稲庭うどん、手前・横須賀海軍カレー。

 3本日夕食にいただいたカレー。
肉や野菜などの具がしっかり入り飽きの来ないオーソドックスな味でした。

1万本に3本の確率でしたが、頂戴したおよそ400枚の葉書から1本が当たり、
2本は年末の義母の逝去によって使われなかった葉書およそ400枚から当選したのです。
珍しいことが起こり、看取らせてもらった義母との縁の強さを感じました。

くじといえばその昔、高等学校を卒業した春休み、高田の商店街の福引きで大きな醤油樽が当たりました。
大勢の前でジャランジャランと威勢良く鐘を鳴らされ、顔が赤くなりました。
場所が今はなき「いづも屋デパート」の前。
すぐそばのバス停から樽を抱えてバスに乗り、家もバス停の近くだったので助かりました。

病気ばかりであまり良いことが無かった高校時代でしたが、帰ると母がとても喜びました。

吹雪の一夜が明けて 入学祝。

2015年2月10日(火曜日)

昨日からの寒波による吹雪は夕方に雨に変わって収まった。
午後の2カ所の在宅も無事に回った。
上越市大潟区の積雪は30㎝足らずで済んだ。

以前も書きましたがこんな日の妻は朝から忙しい。
高田育ちなので自動的に心身が動くようだ。

雪かき1雪で丸くなった車の除雪。

雪かき30分ほどで全体が現れる。

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入学祝二人の若い縁者が進学し祝いを送った。一人は自由学園へ進み入寮する。
学園のHPに〝生活の中から全てを学び、高い知性と品性を育みます〟とある。

亡母は同学園創立者の一人羽仁もと子出版社雑誌「婦人之友」を長く読み、
後に「明日の友」を購読していた。
偶々かもしれないが、今日の入学は70年の母の願いが叶ったようにも見える。
月並みだが天国で喜んでいるような気がするし、身内としても嬉しい。

スイートピー 高田暮色 こやま寿司。

2015年2月8日(日曜日)

午後齋藤尚明・二代陶齋さんが訪ねてこられました。
いつものように尽きない話に退屈しません。
初代の築窯と初窯のこと等々とても有意義でした。

夕刻は元上越医師会会長・丸山正義先生のお通夜に参列しました。
広い世界をお持ちの名会長で長くお世話になりました。

通夜の前に北陸園芸でクリスマスローズ-を二鉢求めました。
花芽が沢山着いた良い株だと思います。
3月15日開館から連休当たりまでカフェ前の庭で咲き続けることでしょう。
どうかご覧下さい。

スイートピー北陸園芸のスイートピー。

向こうに二位がt県立中央病院新箱井橋から、矢代川の向こうに新潟県立中央病院と県立看護大学(左手前)。

南葉山同じ橋から、反対方向の青田難波山(別名青田南葉山) 949メートル。

この山は鍋を伏せたような形状なので、勝手に鍋山→なべやま→なんべやま→なんばやまという流れがよぎります。
見る角度にもよりますが、本当にゆったりした形の山なのです。
いく筋にも分かれる雪中の矢代川もおしゃれな前景になっていました。

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カッパ巻き最後に食べたカッパ巻き。

通夜の帰りに上越市春日野の「こやま寿司」へ寄りました。爽やかで美味しいリーズナブルなお寿司でした。

たとえ一人の希な案件であろうとも。

2015年2月1日(日曜日)

以前ある老人から、若い時に身売りを強いられた話を聞いた。蒲原地方で育った家にどんな事情があったのか、親が自分を売った。女衒ともう一人の娘と一緒だった。大きな川の手前の宿に泊まった夜、この川を渡ったらもう駄目だと聞いて逃げる決心をした。相手の娘さんに話したが、行かないと言ったので一人で逃げた。

農家のふるさとは駄目、とにかく海へ逃げようと思い、田を越え山を越えた。漁師の村へ着くと物乞いのようにしながら漁業の手伝いをした。本当に色々なことがあった末、今の土地で嫁になった。

この方は晩年に認知症が現れ、昼寝の後などに火事だ空襲だ、と言って家を飛び出すことがあった。そのことで往診に行っ日、落ち着くと以上の昔話をされた。私が知る限り、この方の強さと子や孫へのいたわりはとても印象的だった。
飛び出しの異常行動は認知症だけではなく、かっての辛い経験の表出ではないかと思った。

ところで本日後藤さんの死亡が報じられている。
国はある意味もう一人の親である。
それが衆目のなかで、とうとう後藤さんを守れなかった。

たった一人の特殊な案件が全てを物語ることがある。
勇敢で善良そうな方が失われ、残念かつ先の吉凶が案じられる。
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2月の椿本日拙誕生日、みぞれを乗せて咲いていた椿。

花とすき焼きある所から可愛い花が届けられ、夕食はすき焼きだった。

ケーキと紅茶すき焼きのあとの小さなショートケーキと紅茶。

午後高田へ行った妻は大潟の方が降っていると言った。

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