聴老(お年寄り&昔の話)

笠原文右衞門(大川:だいせん)の墓碑移転などのニュース。

2024年7月10日(水曜日)

昨日のこと館内のノートに以下のような記載がありました。
“2年ほど前から館長のブログを読んでいる。遡って見いていると2016年5月に自分たちの墓の記事があって驚いた。今回先祖の墓や碑の仕舞いに当地を訪ねたが、それも終わりほっとし,念願の樹下美術館を訪ねた”という主旨が書かれていました。

墓と勝海舟が揮毫したという墓碑は幕末から維新期、当地域の文化、教育、基盤構築に大貢献をされた笠原文右衞門(大川:だいせん)のもので、大潟区蜘蛛カ池(くもがいけ)の瑞天寺にあります。
現地で寺院西につづく小高い観音山を登ると中腹にレンガ塀がほどこされ広い階段が付いた立派な墓所へと出ます。かって一度訪れたことがありましたが、二度目の2016年はさらに歳月を重ね、傷みが進行している様子を残念に思い,、三十三観音や他の墓碑などと共にに記載していました。

昨日の上越タイムス一面。

新聞によれば、地元の「郷土史友の会おおがた(小山將会長)はじめ有志の方々とも相談され、墓は近隣の寺に、墓碑は山を下りた瑞天寺境内に移設されということでした。
当館を訪問されたご遺族の慶子さんはシンガポール在住ということ、遠くで長年心配され今日を迎えてほっとされたにちがいありません。遠路本当にご苦労様でした。当館にもお寄り下さり誠に有り難うございました。

笠原大川は近郷近在の若者を教育し、あるいは新堀川掘削に成功し一帯の農業用水路を確立されました。不肖筆者の高祖父・玄作は大川に勧められ江戸で蘭学を学ぶことができました。
また大川の残した資料には、玄作が蛮社の獄事件で幕府に追われる高野長英を匿っている嫌疑があるので二人で出てくるよう促す役人からの緊迫した文書が残っているなど、私どもと浅からぬ縁がありました。

雨の日曜日、北海道の話、車の昔話。

2024年6月23日(日曜日)

よく雨が降った日曜日、午後は美術館でお顔馴染みの二人からそれぞれ北海道旅行(還暦祝い)の話と昔話などを聴いてくつろいだ。運河の街のお菓子やガラスの店、エスコンフィールドの楽しさなど北海道は外国の話のようだった。幸せにも夫婦でイタリア貴族のコスプレをされ、写真で初めて見るご主人の男前ぶりに驚かされた。

雨に濡れるアオハダの木。
雨の日の木肌が美しい。

もう一人のご主人は私が髙田に下宿していた中高時代、ご近所のとある集合住宅で過ごされたことがあったという。鮮明に記憶している大きく頑丈な住宅で、同級生の女子も住んでいた。
こちらは車の話だった。多分昭和30年前後、バス以外まだ自動車というものに乗る機会が無かったころ、学童たちは自動車に乗りたくて仕方が無かった。
そんな時代ご主人の身内がタクシーで退院することになったという。当日子供たちも病院へ行き、皆で一緒に退院の車に乗ったという。退院記念日が自動車記念日だったと言う出来事であろう。

ちなみに私の自動車記念日は小学校の帰り道、念願かなってあるアイスキャンディー屋さんの小さな丸い窓がある一種不思議な車に乗せてもらった。車は速く走ったが床に大きな穴が空いていて怖かったことの方を覚えいる。

後年床に穴が空いている車にもう1回乗った。昭和50年代初めのころ、ある二次会の帰りに代行を頼んだ。雪が降り始めた夜、後を走る代行の車がスリップして動けなくなり、頼まれて私はその車に移ってハンドルを握った。二人のスタッフが押して無事脱出したが代行の車の床、ペダルの手前に穴が空いていて雪の道が見えた。
晴れやかにも身内の退院日に皆と初めて乗った黒塗りであろう車に比べれば、私のは惨めなものであり、“さすが髙田育ち”の一語に尽きる。こちらのご主人も本物の侍の如き男前の人。

閉館して静かになった庭。
カフェのガラス越しです。

梅雨入りは例年より遅いと聞いている。晴れ間の庭はどんなだろう。

6月1日 夏は来ぬ 上品な世界。

2024年6月1日(土曜日)

本日6月1日、よく晴れて夏が始まる。殆どの年にこの日、卯の花の写真を掲げ「夏はきぬ」の動画を掲載してきた。本日また小生の大叔父・小山作之助作曲の「夏は来ぬ」を掲載させていただいた。

美術館付近の高速道路ののり面に
咲く卯の花。

本日花に取り付いていたクマバチ。


下のホトトギスの鳴き声と一緒に
曲をお聴きになってみてください。

後日追加です、爽やかな「夏は来ぬ」がありました。

明治期、斬新な作之助の曲調と対比的な佐々木信綱による大和調の詩もまた素晴らしい。数日前、ホトトギスが遠くでキョキョと鳴くのを聞いた。
果てしない世界で花や鳥、そして人や蛍もまた共に季節を揃えながら移ろって行く。ある面世界は洗練されている。

燕を撮ってみる 田植えの暖。

2024年5月9日(木曜日)

曇り空から昼には晴天となった本日、大気は清々しかったが寒さを感じた。美術館裏の田んぼに水が入り、代掻きが始まっている。

見ると燕が田の上を往き来している。彼らの飛翔は非常にスマートで、パタパタした羽ばたきなどはほとんど目に付かず、大変な早さでスイスイと飛ぶ。

かっては燕を撮影たが、このところ何年も撮っていなかった。素早い燕を撮るのは結構大変だったことを思いだし、いままだ写せるだろうかと試みた。

遠くから素早く上下左右ジグザクにやって来る燕をファインダーで見ながら写すのはまず無理。そこで10メートルほど先にピントを合わせておき、ファインダーを覗かずに、やって来る鳥の動きに合わせてカメラを向け連続シャッターを押すという、いい加減な方法で行った。

多くは写っていなかったりピントが合っていないのだが何枚かはまあままという結果だった。

後でpcの鳥ファイルを見ると燕を撮ったのは2020年以来だと分かった。かっての写真はもっと沢山上手く写していて、やはり年だなと落胆したが、気を取り直しこの先また試みたいと思い直した。

ところで田の燕は遠くへ行ってしまうこともあるため待つ時間が生じる。それもあり農道で風に吹かれて立ち続けるのは結構寒い。
切りを付けてカフェに入ると知っている方がおられ、ご一緒した。幼少に山間の農家で過ごされているので田植えのことなどを色々お聞きした。

田にいると冷える、とよく耳にしていたので、伺ってみると、「田植えでは時にワラを焚いて暖を取っていた」と仰った。はじめて聞く話だったが、やはり田は冷えるのだ。特に山の田は水が冷たく余計寒かったのではと思った。

夕食の餃子。

この餃子の皮はご近所の方の手作り。この人は蕎麦、ラーメンなど麺類を大変美味しく作られる。このたびは餃子の皮だった。ちゃんとした厚みとなんとも言えない香りがあり、野菜いっぱいの妻の具も美味しく、今後の楽しみの一つになった。

年とともにまとまってくる。

2022年10月17日(月曜日)

年取って老けてる若く見えるは、ひごろよく話題になる。
体のことでは姿勢やシワそして表情などが相当し、身なりや趣味、活動が印象を左右するのかもしれない。

過日ある女性の生年月日を見ると昭和11年生まれとあった。
普段あまり話をしない静かなその人を、私より二つ三つ上かなと思っていたので八つと分かり、お若く見えますね、と言った。
すると、「そうですか、私みったくなしだけど、丈夫で入院したこともないんです。わーっ本当ですか、みったくなしは本当だから仕方ないけど、親に感謝しています」とたて続けに仰った。

みったくなしは、当地の方言で美しくない、醜い、という意味。普段寡黙な人が自分の容貌、健康、親への感謝を一気に話をされたので少々驚き、嬉しくもあった。

私自身もそうだが、年を取るに従い、あれこれ考えていた自他のことに段々とこだわりが無くなり、何となくそれらが単純化されてくるのを感じていた。

この方も悲喜色々あったかもしれないが 先のように少なくとも自分について、見方がまとまってきたのかなと、ふと思った。
まとまりは割り切りといった意味でもありましょう。

 

近隣の柿の木。今年はどこの柿も当たり年。
実りすぎて枝が折れたと言う人もいる。

ワクチンの合間に奉公の話 柿崎区馬正面の桃。

2022年8月4日(木曜日)

4回目のワクチン個別接種が半ばを過ぎている。猛烈なコロナは軽症者中心だが未曾有、世界最多の感染となり死亡者が増加し始めた。現行の流行株に対するワクチンの効果減衰が言われている。
大流行の中で自身は後期高齢者かつ三大疾病の有病者。そして毎日何名かの陽性者を診る現場の末席にいる。ワクチンは頼みとする重症化予防の期待にだけは正しく応えてもらいたいと願っている。

注射は看護師が詰め、私が打っている。

一人一人直前に「そっとやりましょう」と言って注射する。打たれる身には「チクッとすます」と言われるよりは良いのかなと思っている。昨年は最大一日30人を接種したが、今年は午前12、午後6人なので何とかやれる。

ある午前、接種が終了した普段の診療で大正12年生まれの方の番になった。とても小柄なその人は99才、かって半年ほど不安定な時期があったが再びお元気になった。
丈夫になりましたね、と言うと以下のように仰った。
小学生のころの自分はとても弱く、あまり学校へ行けなかった。温情のような形で小学校を卒業、数年後に東京は下谷の呉服商の家に奉公に出た。
不思議なことに東京の6年半の生活は病気一つせず子守や丁稚奉公が出来た。あるじ夫婦から大事にされ子どもたちはとても良くなついた。
戦争で空襲が激しくなると一家は愛知県の田舎へ疎開することになった。是非一緒に来てくれと頼まれたが、年季期奉公の自分は郷里に帰らざるを得なかった。最後の日、夫婦は手紙を書くと言い、こどもたちと泣いて別れた。
田舎に帰ってみると、弱かった自分は東京で死んだという話が伝わっていてびっくりした。疎開先のご夫婦から手紙が届いたのはとても嬉しかった。

お顔にあどけなさが残る小柄なおばあさん。この方の15,6才からの話ですが、可愛い娘さんだったことだろうと想像し、いつまでもお元気でと願いつつ自分も元気でいなければ、と思った。
かって10代のころから遠い都会へ奉公に出た方が少なくない。別世界の暮らしと仕事。田舎の里から都会へ、境遇を運命と定め、あるじ夫婦の教えに従い仕事に勤しむ。さほど遠い昔の話では無いだけに彼女達の忍耐と努力、従順さには驚かされる。

この方の場合、都会の恵まれた栄養が身体を健常にしたのではと想像される。強くなったことを喜び、励みとした娘さんの幸福が伝わる話だった。

柿崎区は馬正面のN氏から頂いた桃。
自作され、本当に良い食べ頃のを頂戴した。

本日食べた幸福の果物。

Nさん、いつもお心に掛けて頂き有り難うございます。こんな立派な桃を作られるとは!

戦争の残虐 ある人の言葉は永年の罪の意識からか 裏手に宵の桜。

2022年4月7日(木曜日)

戦争行為に公式非公式、あるいは表裏があるうえ、さらに個別に断罪されるべき「犯罪」行為まである。ウクライナ侵攻は国を挙げての暴力沙汰だが、次第にロシア軍による民間人への凄惨な拷問や虐殺およびレイプが報道されるようになった。

残虐行為は偶発でなく軍には強さのほか悪徳を知らしめ、相手の厭戦を促そうという意図があるのだ。
特にロシア軍の凶悪さを指摘する記事は見られるが、このたびは傭兵の関わりも大きいのではという気がする。
もともとロシアは残虐を想定して傭兵を投入しているのではないだろうか。これなら、「ロシア兵」はそんなことをしない、と言えば済んでしまう。都合が悪ければフェイクといい、狡猾さでも指導者は際立っている。

実直が価値だった世界を一夜にして残酷、凶暴の悪徳が席巻する。進んでいるとされている国でこれだけの反道徳が行われるとは、21世紀はまだまだ未開発な時代だと言わざるを得ない。
個人が日夜洗練と生活努力に勤しんでいる時に、国家が如何に遅れているかをイヤと言うほど知らされる。どこかでしっかりリセットしないと、そう遠くないうちに世界は滅茶苦茶になってしまいそうだ。

残酷と言えば話変わって、
古い事になるが、当地で仕事を始めて間もなく、特に昭和50年代は色々な人が来た。
ざっと計算すると当時60才前後、太平洋戦争で軍人だったという一人の男性が脳裡に浮かぶ。褐色の人は小柄ながら鋭い眼光の持ち主だった。

初診でその人は
「私は満州で何人も支那人を斬った」と言った。民間人が相手らしかった。
何が言いたいのか分からなかったが、私は憤りを覚え、
「いくら戦争と言っても自分は何人殺したかを、自慢げにしゃべるなど最低だ。そんな事を言う人はうちに用は無いから帰ってください。」
と怒鳴った。
「そんなに怒らなくてもいいじゃないの」と彼は眉をひそめた。
「一回だけ薬を出しますが、次はほかへ行って下さい」
と言って終わった。

ひと月後その人はまた来て、この間は申し分け無かった、と謝った。以後奥さんも一緒に来院されるようになり、20数年通われた後お二人を看取った。
初診であんな事を口にされたのは、必要以上に私との上下関係を意識されたのか。もしかしたら殺めた中国人に対する永年の罪悪感からだったのかもしれない、と後に考えた。

 今夕5時半ころ、美術館裏手のソメイヨシノ。

人生の長短で「分からない」も答えの一つ 認知症の人とのコミュニケーション 沿岸の雪。

2022年2月16日(水曜日)

かつて母親に「今まで生きてきて長かった?短かった?」と訊いたことがあった。90才近くの時は「短かった」と答え、90才半ばすぎたら「長かった」と答えが変わった。
変わり方は自然に思われたが、重ねて訊いたならその時々で答えはバラバラだったかもしれない。
ただ誰かの箴言の通り、生活目標の有無で長短の感じ方が変わる、のはある程度頷ける。

本日90才を越えているAさんに訊いてみた。認知症が始まっている方で一時騒ぎが大きかったが、倅さんがこまやかに相手をするようになって以来、かなり穏やかになられた。
Aさんいわく、
「私にやそんがんこと分かりやせんです。毎日ぼーとしていやんすけ」
長短のほか確かに“分からない”は真っ当な答の一つにちがいない。
特に感心したのは、“毎日ぼーとしているだけですから”と理由を付け加えられたことだった。良い答だなと思った。
同行された倅さんに、良い答です、さすがお母さんですね、と話すと、背が高い男性の目がほころんでいた。

ところで認知症の人に何か質問をしても質問自体理解されない事が多い。
それでも、どこで生まれた?田植えをしました?きょうは寒い?いま雨は降っていますか?何が食べたい?赤飯はどうですうか?富士山を見ました?汽車に乗ったことは?親は怖かった?etcが通じる場合少なからずある。
これらから少しずつコミュニケーションを拡げてみるのも、良い関係のきっかけになる可能性がある。

多くで基本本人の毎日は寂しい。そのうえ無視、否定が重なるならば、自分だけの荒唐無稽な世界へと行くしかない。問いへの返事は何でも構わない、反応しあうこと自体が大切だと思われる。
またコミュニケーションによって、その人の「素の人間」としての楽しい発見があるかもしれない。

 

本日午後の雪降り。寒波が来るらしい。

東京の友人が電話で雪のことをしきりに心配した。予報で毎日雪のマークが出ている、という。
予報を見るかぎりそう考えるのは当然だ。だがこと沿岸の当地は現在殆ど積雪は無く、説明しても中々分かってもらえない。
一応平坦で海が近いので気温が高いことや風が強いためと話してみるが、通じているだろうか。

冬の終盤に沿岸が降ることがある。明日は降るかも知れない。

亡くなった人を思い出すこと。

2022年2月2日(水曜日)

あるところに小柄で色白でいつも静かなKさんが住んでいました。背が真っ直ぐ、銀色の髪にしっかりした眼差しの瞳はグレイでした。詳しくありませんがどこかロシア人を思わせる美しい人だなと思っていました。
その昔お会いした亡き旦那さんは男前で絵が上手な職人さんでした。
一人になった後、Kさんの静かな暮らしぶりには何かしら物語が秘められている印象を受けていましたが、立ち入って訊いたことはありませんでした。
80半ばになると彼女は施設に入り、受け持ちになりました。ある時期いっそう静かになっているのが気になりました。
そんな折、お茶のためにベッドから身を起こした所へ伺いました。
「どうですか、変わりありませんか」
「はい」
「そうですか。ところでKさんは親のことや亡くなった人のことを思い出すことがありますか」
「ありますよ、どうしてですか」と、瞳をこちらに向けました。
「あのね、亡くなった人たちのことを思い出すと、天国で眠っているその人は眼をさまして、すごく喜ぶんだって」
「本当ですか」
「そうらしいよ、思い出すだけで喜ぶんだって。青い鳥という本に書いてありましたから」
するとKさんはしばらくじっと私を見てから、
「ありがとうございます」、「ありがとうございます」と、何度も繰り返えし、白い手を差し出してきました。
思いがけない反応に驚き、出された手を触れるように握ったあと戸口へ向かうと、
「ありがとうございます」
後ろからまた声が聞こえました。

高齢者さんに亡くなった人を思い出しますか、と尋ねると「はあ?」という返事が多い中、Kさんの反応は珍しいことでした。
彼女はどんな人を思い出すのか分かりませんが、意外なほど話を喜んでくれました。
そのことで彼女は幸せな人だと思いました。

昨日の父の話からKさんへ移りました。プライバシーのため設定などを一部を変えています。

今日は五つも2が付く日でした。

お年寄りの元気 「空気ぐすり」。

2021年12月15日(水曜日)

50年前は60~70才代であれば長生きのうちとみなされていたと振り返られる。
近年は80~90へと上がった。出来ればあまり必死にならなくとも、そこそこの留意で到達するなら幸いであろう。

中には幾つか重い病を越えた後はじめて安定した生活に達せられる方もいる。また単に長生きだけでなく、認知症が無いか、あってもほどほどという点を望みたいところだ。

日常お元気な方達によくみられるのが、何かしら興ずるものがあることがその一つとして挙げられる。
以下比較的元気なお年寄りがされていることで、いささか意表を突かれたことなど挙げてみました。

●ゲーム

90代後半、この方のゲーム歴は3、40年と長い。
「お前のうちのばあちゃんは凄いな、負けるわ」
と遊びにくる孫の友達が口々に言ったそうだ。
ことごとくクリアするので実際叶わなかったらしい。

●ドリル
娘さんに添われて受診される90才を越えたおばあさん。
自歩され、元気なのは日々のドリルのせいかもしれない。国語は3年生、算数は2年生のものに黙々と取り組まれる。
終わって新しいものが届くのが楽しみだという。しゃきっとして明るく、自然な表情が素敵だ。

●空気ぐすり
90才なかばになられたお爺さんの話。
老人は地域事情や歴史に詳しく古文書などを読まれる。長年掛かりつける医師は少し若いがやはり90才代、お茶人で同じように古文書に興味をお持ちだ。

受診を兼ねた訪問は待ちに待った時間で、上がってお茶を飲みながらのひとときは至福の様子。
受診の日、老人は医師が喜びそうな話題を考え、医師は客を喜ばせようとお茶や掛け軸を用意して待っている。

ある日老人は一案を思いついた。
「空気ぐすり」。
その日、錠剤、散薬、水薬、軟膏、湿布など薬は色々あるが「空気ぐすり」というのはどうかと、老医に持ちかけた。先生も乗り気になり、二人で真剣にアイディアを巡らせた。
方法は風船で一致。診療所の空気を入れることにして、後は一生懸命効能を考えた。
結論は「長寿でも何でもとにかく良く効く」と詠う。一番大事なことは「効くと信じて吸うこと」の服用法が決まったらしい。

背を丸くした二人の老人の様子は仙境を思わせ、誠に幸福な光景として浮かぶ。
しかしこのような境地は一朝一夕に達するものではないのだろう。
それぞれ長年の様々な問題を越え、いつしかユーモアもにじみ今日へ到ったにちがいない。

“ともに話せる面白い話を考えて会う“
これは出来そうで中々出来ない。
「空気ぐすり」は傑作の一つではないだろうか。

さて本日で樹下美術館は今年の開館を終了しました。
美術館として先ずは1年無事に過ぎたことを皆様に心から感謝いたします。

この数日名残を惜しみ、お茶など毎日お寄りになった方が何人もいらっしゃいました。私達も本当に名残惜しいのです。
来年度の開館は3月15日です。

拙ブログはこれまで通り精一杯続けたいと考えています。どうか今後も宜しくお願い申し上げます。

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