社会・政治・環境

アイソトープ  そして水 

2011年3月19日(土曜日)

 一週間が過ぎて仮設住宅が着工した。何よりの知らせだ。きっと被災地の見えない所に建設されるにちがいない。

 

 明るい知らせの一方で、今もって親族を探す方たちや避難所の人たちの辛さが浮き上がる。

 

 そして懸命に続く原発の冷却作業。一定の効果が伝えられているが、予断を許さないとも報じられる。その通りだと思う。私たちは台風や大雨、大雪に地震など自然をコントロール出来ない。人が作り出したもう一つの太陽、原子力もまた管理を越える本質を見せている。

 

 17日に、フランスがホウ酸100トン、放射能の防護服1万着、手袋2万組、防護マスク3000個を日本に送ったと報じられた。悪戦苦闘する現場で直ちに助けになる支援だと感じた。

 

 フランスは原子力大国と呼ばれている。しかし芸術と思想の国のこと、強いジレンマも内包しているのではないかと思うがどうだろう。

 放射能といえば、小生も大学病院時代の研究室で放射性物質を扱っていた。写真のノートは1968年のもの。フランスと聞いて、押し入れの奥を探すと出てきた。

 実験ノート

 人のホルモン濃度は血清1ミリリットル当たり10億分の何グラムというレベルのものが少くない(中には一兆分の数グラムも)。その超微量のホルモン測定また方法の開発が仕事(研究)だった()。

 

 当時の測定では、アイソトープで標識した抗原(ホルモン)と動物から得た抗体の相に人の血清を加え、競合的な免疫反応を利用して測定する方法(ラジオイムノアッセイ:RIA法)を用いていた。

 

 時にはアイソト-プ(放射性同位元素)をフランスの原子力機関から直接購入することもあり、この面の先進性をやや奇異に感じていた。

 

 私が使用したのは主にヨウ素125で、時には131を用いた。線量は許容範囲で、ガンマー線を測定したのは懐かしいウェル型シンチレーションカウンターだった。トリチウムなどの液体シンチレーションカウンターは半ば自動化されていたが、ヨウ素は一本一本試験管を小さなウエル(井戸型穴)に入れて測定した。
 当時の認識と管理はまだ甘かった。

 

 ある日の測定でスイッチを入れるといきなり異常に高い数値がカウントされた。普段私が測る10倍近い値だった。まさか誰かが汚染させた?それとも私?何もしていないのに?

 

 ウエルの内壁も、試験管も手も、考えられるもの全てをペーパーで拭いた。しかし異常なカウントは続く。深夜の鉛の部屋に1人、パニック同然だった。

 

 突然ある先輩医師が入って来た。部屋は紙クズだらけ、カウンターに異常な数字、慌てる私。

 

「まだ時間かかる?じゃ僕は後で」と先生は言った。そして入り口の机から10数本の試験管を立てたケースを取り、部屋を出て行かれた。

 

 そこに試料があったの?初めて気がついた。異常なカウントはピタッと止んでいた。空のカウンタホールは数メートル先にあった先輩のサンプルを測っていたことになる。放射線の恐ろしさをまざまざと見せつけられた。学内でコンプライアンスを高める作業を進めているころの話だった。

 

「スギちゃん、あのころは呑気だったなあ」、と毎年会うようになった研究室の同僚は言う。彼は私のヨウ素よりずっと半減期の長いトリチウムを扱っていた。笑っていはいるが長く不安だったにちがいない。

 

 今回、懸命な消防士や自衛隊員は私たちよりも浴びている可能性を否定できない。40数年経って防護や養生も進んでいる。それでも生々しい映像にあらためて心配を禁じ得ない。

 

 ついでの心配は水。発電所の容器や管に漏れはなかったのか、放水された水は海水は?現場の水について知らせる報道をまだ見ていない。

 

希望

2011年3月15日(火曜日)

  二回にわたって当ノートで弟の安否を尋ねさせていただきました。ウェブや携帯には様々な安否確認サイトがあり、出来る限りをしました。そこで多くの方たちが弟を心配して下さっていることも知りました。

 

 ようやく今夜になって無事を知らせる短い記事が見つかった、という連絡が入り始め、それを見ることが出来ました。

 

 当ノートに書いたばかりに皆様にご心配をお掛けしてしまい、申し分けなく思います。今日の情報が出たのも皆様のおかげと感謝しています。

 

今日は早くやすみ、いずれ本人達の声が聞けることを待ちたいと思います。

 

 知らせは避難所に提供された衛星携帯電話→twitter→GoogleのPerson Finderを経由していました。

 

感謝に堪えません。

ハートのシーグラス 復旧に向かう車輌群 教授 原発

2011年3月13日(日曜日)

 今日は温かくよく晴れた。新潟市の個展会場へ出向く日。海へ寄るとハート型をしたシーグラスに出会った。

 

ハートのシーグラス 

 途中のサービスエリアには自衛隊の災害派遣車両群と、おびただしい一般の重機・工事用車輌が途中補給していた。これまでとは次元の異る復旧活動になるのだろう。いよいよ始まろうとしている、心を強くしてもらった。

 

救援車両 新潟県・高田駐屯地の災害派遣車輌 

  新潟市の会場で今年をもって退官される新潟大学の相澤教授が待っていて下さり、大変恐縮した。3年前まで新潟県医師会の理事会で毎月お会いしていた。学問と愛情の先生は以前とお変わりなくお元気で、とても嬉しかった。

  

 このノートを書いている途中、甥から電話が入った。志津川小学校の生徒達は無事、という情報があるという。そうあってほしいと心から願った。ある記者さんの言葉のように静かに待ってみよう。

 

 それにしても復興は、新しい国を一つ作るくらいの仕事になるのでは。

州が意識されるかもしれない。

 

 足をひっぱているのが東京電力原子力発電所。急峻な私たちの国がなぜ水力発電に特化しないのだろう。原子力発電所は一帯に人を拒絶するうえ、広範囲に渡って農水産業や観光などの地場力を低下させる。水力発電所ならいくら作っても日本の風景に馴染むにちがいない。
 被爆リスクに晒され続ける作業現場も余りに可哀想だ。もう身の丈を考えてみる機会なのではないだろうか。

壊滅の南三陸町・志津川(しずがわ) 弟は

2011年3月12日(土曜日)

 弟が居る南三陸町について、テロップやウェブで「病院以外、町が消えた。」「孤立した避難場所に火の手が迫っている」、「警察署も三階まで水没した」という情報が心配で眠れなかった。

 

 現在12日午後8時半をすぎた。弟の家族は八方手を尽くしたが安否が分からない。普段明るい一家なのに、一声も無い。山の家に集ってトランプをしているのならいいが、、、。夫婦で町へ出ていて、子どもたちは下校途中だった、などきわどい場面も考えられる。通信インフラのダメージもあろうが、一家のだんまりが心配される。

 

 弟・杉田徹・敦子夫婦と家族安否をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報頂ければ有り難く存じます。

支度 
 夜更けから今度は当地で何度も続いた震度3~5。念のため土間に避難の支度をした。

 

※前回の拙記事「巨大地震 志津川は」はすでに200近い検索閲覧がある。一つの記事が一日でこんなに検索されて読まれるのは初めてだ。「志津川」と「地震」で検索されているようだ。志津川のご親族や美しい町を心配されている方が、いかに沢山いらっしゃるか分かった。 

巨大地震 南三陸町・志津川(しずがわ)は

2011年3月12日(土曜日)

 3月12日深夜を回った。昨日午後に起きた東北・太平洋沿岸地震は最大級の災害となった。私の弟一家は宮城県南三陸町の志津川に住んでいる。

 

 場所は1960年チリ地震で甚大な津波災害に襲われた場所であるため非常に心配される。通信が途絶していて連絡がつかない。家はやや山間だが市街地へ通学する姪達や地震の直接被災も心配される。

 

 凄惨な気仙沼、大船渡、、、、。志津川が壊滅というtwitterも見られた。ほとんど報道されてない南三陸町がとても気になる。 

 

弟・杉田徹(昭和18年生まれ)・敦子夫婦の安否をご存じの方がいらっしゃいましたら、ご一報頂ければ助かります。

大変な思いをされている志津川小学校の皆様、小5・杉田のばら、小1・春風(はるか)姉妹のことをご存知でしたら教えてください。

 

 

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