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5月6日、富山市で令和の考案者とされる中西進先生にお目に掛かった。
昨日のノートで富山行きのことを書かせて頂いた。
実はその日の朝、思いもしなかった人と出遭っていたことも書いた。
思わせぶりな書き方に、どんな人だったの、と本日二三質問を頂いた。
お目にかかった人が貴重過ぎるのと、私が疲れていたこともあって昨夜書けなかった。
本日は書きたい。
出遭ったその人は、新元号「令和」の考案者とされる中西進さんだった。
その昔辛い時期を過ごした30才代半ばから10数年間、憑かれたように本を読んだ。
自然/生物/天体/人間/その歴史と進化、小説・短歌、宗教、西行、良寛、空海、遺伝/環境、哲学、文化人類学、精神/心理分析など色々だった。
ばらばらだが、良かった本はその出版社から次ぎを選ぶようなことが少なくなかった。
その中で特に親しめ、心和らぐのを覚えたのが中西進さんの本だった。
おびただしい著書から、わずか数冊だったが私に向かって差し出された手のような温かみを感じた。
自分にも与えられているはずの麗しい魂を、むげに死なせてはならない、、、。
ただ一点、書物からそんなエッセンスが残ったように振り返える。
ところで、このたび改元を控えた3月24日、長年漢詩だと思い込み、読み方が分からなかった陶齋の陶板の文字が万葉集だった。
それから一週間後の4月1日、新元号「令和」が発表され、出典がまた万葉集。
翌4月2日、令和の考案者として万葉集の権威でもある中西進先生の名前が上がった。
突然のように万葉集が現れ、懐かい名前が飛び出してきた。
そして昨日5月6日朝、その方がホテルで朝食を摂られていた。
絶対中西先生だと思った。
サインを貰おう、だが手帖も紙も無い。
矢も盾もたまらずレストランのスタッフの許へ行き、メモ用紙と台紙をお借りして先生の食事が終わるのを待った。
頃合いを見計らって吸い寄せられるように先生のもとへ行った。
幸い名刺があったのでおずおずと差し出した。
「中西先生でしょうか」
「はい」
「突然失礼致します。わたくしは新潟県で樹下美術館という小さな施設を営む杉田という者です」と言った。
先生は名刺をご覧になり、
「樹下美術館ですか、いい名前ですね」
「ありがとうございます。樹下が浮かんだ時、これ以上はないと思いました」
「そうでしょう」
「実は若い頃に辛い時期がありまして、先生のご本に救われました」
「どんな本でしょう」
「谷蟆考や雪月花などです」
「有り難う」
「こんな紙で大変失礼ですが、サインを頂けますでしょうか」、ボールペンとメモ用紙と台紙をお渡しした。
先生は小さな紙に少し書きにくそうにペンを走らせ、心配な私は先生の手許をじっと見ていた。
日付とお名前が無事書かれて終わった。
写真も宜しいでしょうか、とお尋ねするといいですよ、と仰った。
急いで妻を手招きして、先生と並んでシャッターを切って貰い、私も妻と先生を写した。
写真のあと深く頭を下げて、席に戻った。
数十年前、雲の上におられた方が急に降りてこられ、今ここにいらっしゃる。サインを頂き写真までご一緒した。
これは本当のことなのか、、、、今日はもう何もしなくていい、、、、富山に来て本当に良かった、、。
その日ずっとぼんやりとした夢心地が続いた。
帰って調べると、先生は富山市で「高志の国文学館」の館長をされておられ、このたび2回の講演会のために滞在されていた。
令和の考案者とみられる今日、去る4日の講演では、考案者は私によく似た人、とユーモアに包んで話をされたという。
元号の由来となった「梅花の宴」について、“自然は大きな哲学を持っており、それが日本の風土に仕組まれている”と梅花が示す意味を説明され、令和にうるわしい平和を重ねて行く時代を願う旨を話されたという。
お話の深い基調は先生ならでは、と今さらながら感心した。
過日手許にある先生のご本三冊を紹介させていただいた。
まだあるはずと、本日探しましたらもう一冊、「辞世のことば」(中央公論社 昭和61年12月20日初版 昭和62年2月20日第2刷)が見つかった。
左から「辞世のことば」、「古典と日本人」、「雪月花」、「谷蟆考(たにぐくこう)」。
「辞世のことば」の扉にあった絵図。
消しゴムで消えますので、変わった絵ですが私が描いたのでしょう。
納品書が挟まれていて、柿村書店とありました。
この本の巻末に「終 62.4.8」と自署している。
“もがり笛 いく夜もがらせ 花に遭はん”
何故か当時読んだ檀一雄の「火宅の人」にあった著者辞世とされる句が書かれている。
6日の朝、中西進先生には失礼なことをしたと思っています。
その先生は本当にお若く、かくしゃくとされておられました。
有り難うございました。
心から先生のご活躍とご健康をお祈り申し上げます。
麗しかった富山市。
昨日こどもの日の5月5日、上越妙高駅発17:20の北陸新幹線で初めて富山市へ行った。
新幹線が開通して金沢市と高岡市にはすで出かけ、富山市が懸案のままだった。さらに知りあいから盛んに富山市の話を耳にするようになり、押し出されるように出かけた。今や新幹線のお陰で富山は思い立ったらすぐにでも行けるようになっている。
わずか40分で富山駅に着いた。城址通りを南下したが、道路は胸が空くように広く気持ちが良い。
両側のポールなどにボリュームある花がアレンジされ、驚いた事になま花だった。それがずっと続く。
スッキリしたデザインの電車が二両編成で颯爽と往来し、城址のダイナミックな石垣も現れた。
広く清潔な道路と花、格好いい電車、歴史の香り、夕暮れと灯り、、、。いい町だなあ、一編に富山が好きになった。
運河や城址公園に寄り道してホテルに向かった。
一帯の手入れの良さは、喜んで人を迎えようとしている街の意識を感じ、嬉しかった。
翌日6日、訪ねる予定の4施設のうち「佐藤記念美術館」「森記念秋水美術館」「富山市ガラス美術館」の3館は互いが近いので歩いて回った。
以下は企画展として「インドネシアの染織 展」が行われていた佐藤記念美術館。
石中心の外観は周囲にある石垣への配慮であろう。大変上手く調和している。
軽々として素朴なものから繊細かつ重厚なものまで、多彩さには驚かされる。
さらに島々ごとで染めと織りの方法が別れ、風合いが異なる。
人を迎えるための施設では常にガラス磨きが欠かせない。
樹下美術館もを熱心に励行している。
しかるに上越妙高駅のガラス管理は、他駅と比べ見劣りを否めない。
以下二点は森記念秋水美術館の「備前刀-用と美の系譜-」。
美しく展示された刀剣に初めて見応えを感じた。
想像以上に細身、そのことも優美の要素になっていた。
秋水は研ぎ澄まされた険の美しさを現すという。
以下は富山ガラス美術館。
ある種無機的な美しさのガラス作品を温めるようとする隈研吾氏の木による壮大な演出。
以下はガラス作品。
かって枯れ木に通っていた生命本質、水をイメージさせる。
また富山湾海底の埋没林を思い浮かべた。
舟からこぼれ落ちる鮮やかな球体のファンタジー。
豊かな漁業への祝辞かもしれない。
市内の予定を終え、ガラス美術館のレストランで昼食の後、タクシーで富山駅へ。そこからあいの風鉄道で福岡駅下車した。
旧北陸本線の在来線が名を変えていた。4両編成でかなり混み合う普通列車。
以下は高岡市福岡の「ミュゼふくおかカメラ館で開催中の猫写真家・関由香氏の「ねこうらら」展風景。
気配に敏感で、常に自らも気配を発する動物「猫」。
マニアでなくてもしぐさと表情は何とも魅力的だ。
館内では設計者の巨匠・安藤忠雄氏の世界に包まれる。
都合により富山県立美術館などを中止し、列車を早めて帰ることにした。富山駅の待ち時間に予報通り激しい雷雨が襲ってきた。
雨に見舞われる富山駅前。
落雷かと肝を冷やした稲妻と同時の大音響にも遭遇した。
それにしても天気予報は良く的中する。
中心部だけの見聞だったが富山市は想像以上に良かった。当座の外見や数にこだわることなく、長く質を重んじ実に配慮するのは県民性なのか。お金の使い方に堅実で上手な印象を受け、わが樹下美術館の参考にもなった。
当館には時折富山県からお客様が見える。お礼というわけでもないが、まだ見ぬ富山県美術館、高志の国文学館。樂翠亭美術館などを巡るため、近々再訪したい。
この日、朝のホテルで時代の最も先端におられるであろう方にお会いした。ふだん著名な方をお見受けしても声を掛けたりサインの所望などは謹んできた。しかし今朝ばかりは衝動に刈られ、咄嗟に自らを紹介し、サインのほか一緒の写真までお願いした。
思ってもみなかった方のことは次回記させてください。
土門拳などによる昭和の写真集 犀潟は新堀川の夕陽桜。
今年、美術館の図書をかなり大幅に入れ替え、30数冊を新たにしました。
(3月20日および3月21日に記載)
棚にまだ余裕がありましたので、いよいよ遠ざかる昭和を慈しみ、土門拳を中心に4冊の写真集を加えました。
私の年の人間には戦後のある時期から一種日常として土門拳は存在していました。まず氏のプロフィールのほんの一部ですが下記に記しました。
「1909(明治42)年山形県酒田市の生まれ。昭和10年、報道写真家として出発。戦中に仏像、文楽などを撮影。戦後は社会と生活に密着したリアリズム写真を展開する一方、著名人の人物ポートレートや風物、仏像など日本の現象と地勢、伝統に広く取り組み、優れた作品を発表した。昭和34年、脳出血を発症。回復後は「古寺巡礼」の撮影を開始。その後再発のたびにリハビリに専念し現場に復帰。晩年は長い昏睡の後209年、80歳で永眠。文筆家としても知られる」。
「土門拳の昭和」 編集・構成小西治美 (株)グレヴィス 第三刷 2012/6/発行
生誕100周年を記念した写真展「土門拳の昭和」の図録。「戦前・戦中の仕事」
「戦後日本の歩みとともに」「風貌」「日本の美」の4部構成で約300点の写真を
収録。
真実の迫力に引き込まれる。女優・水谷八重子ほかのあとがきと土門自身の
エッセイも収載。
「筑豊のこどもたち」 著者土門拳 築地書館。1977/7/21初版発行。
本書は2016年3月30日発行で第16刷。40年経ても変わらない熱心なニーズがある。
今後のために、嘗てあった事実を見ることの価値は他に代えがたい。
「腕白小僧がいた」写真・文 土門拳
(株)小学館 2002年9/1初版 2015年9/16第5刷発行
これも多くの重版が続けられている。
昭和20年~30年代の日本には元気いっぱいに遊び回るこどもたちで溢れていた。
こどもに溶け込み、生き生きとした姿を捉えた傑作に自身のエッセイを収録。
とりわけ東京の下町のこどもを愛し、豊かなスナップを残した。
「東京のこどもたち」、「日本のこどもたち」、「筑豊のこどもたち」
三部は氏の代表作のひとつ。
写真家が捉えた現代の一瞬「昭和」 (株)クレヴィス 2013/10/10第一刷発行
土門拳による表紙「浅草・雷門 しんこ細工 昭和29年」。
中央の男子の熱中と作る女性の沈んだ表情。
たった一枚の写真は、世相、場所、世代、生活、物語まで写そうとしている。
はかなげな戦前の平和、軍靴と戦渦、焦土と貧困、占領に引き揚げ、復興と景気、地方と都会、、、激しくうねった激動の昭和。その各相の光と影、日常と非日常が、12人の写真家によって見事に写し出されている。プロの撮影技術に加えて、時代への鋭敏な感受性が見事なシャッターを切らせたにちがいない。
時代とその生活を撮るために人物を写すのは必須である。しかし今日、肖像権や拡散と悪用などで極めて限定される。
その点、昭和の媒体は主として活字のうえ人間も大らかで、相当自由に人を撮影出来た。
自ら起こした戦争によって国も人間も死線をさまよった昭和。復興への陰影が撮られた写真はますます貴重で、価値も高まろう。
つい最近、ある方から土門拳の書を見せてもらった。
あまりに良いので展示中の齋藤三郎の壺に添えてみるとぴったりだった。
「毘(び)」は人間のへそ、あるいは助ける、の意味がある。
脳梗塞の後、渾身の気力を込めて左手で書かれている。
「毘」は「龍」とともに上杉謙信の旗印。
人を励ます力がある。
日が長くなっている。
夕刻、診療を終えて残っている草花を植えるため、美術館に向かった。
通りがかった新堀川の桜が夕陽を浴びてきれいだった。
中西進、令和の新元号その3 花冷えどころではない寒さ。
本日夕刻のニュースで、新元号「令和」の考案者と仮定される人について報道があった。
中西進、懐かしい名前だった。
私には昭和50年代初めころから約10年あるいは15年間、苦しい時期があった。
長かったが必死に仕事し茶を習い、本を読みいつしか切り抜けた。
当時読んだ本の中に中西進氏の著書が何冊かあった。
左から「古典と日本人」、「谷蟆考」、「雪月花」。
私を救ってくれたかもしれない本。
日本人の格調、命と自然の深遠が記されていたと思う。
谷蟆(たにぐぐ)→ヒキガエル
このたび元号の考案者は、伏せられるはず。
何故と思ったが、報道で名を聞いて一瞬胸が熱くなった。
ところで本日非常に寒く、気温は2~3度、何度も雪が舞った。
以下は上越市大潟区の様子。
ソメイヨシノは2月になると開花の準備が始まり、毎日の最高気温の合計が100になると咲き始めるという。
ローカルテレビ局の気象予報士の話だった。
これでいうと、どんなに寒くとも、その日0度を越えれば開花が進むことになる。
如何に遅れようが咲く、これは大変なことに違いない。
話変わって、中西進の本のそばに藤沢令夫の本「自然・文明・学問 科学の知と哲学の知」があった。
奥付にあった読了の署名。
1984年2月28日と記され、11月に父が亡くなる年。
傍線や囲みをつけながら、一生懸命読んでいたようだ。
万葉集の月と風、令和の新元号その1。
先ほど予定よりやや遅れて新元号が発表された。
「令和」の文字の令をひと目見て、厳しいなと感じた。命令が浮かび、冷も浮かぶ。むしろ「礼和」でも良かったのでは、と感じた。
官房長官の説明では万葉集から採ったという。だが説明では万葉集のどんな歌なのか判然としない。ただ「梅」、「令月」、「良い月」、「和らぐ」などが聞き取れた。
早速万葉集 梅の花 令月 を検索してみた。
“時に、初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)く。梅は鏡前の粉(ふん)を開き、蘭は佩後(はいご)の香を薫(くん)ず”
と出てくる。
文は万葉集の梅花の歌32首の「序文」だという。和歌ではないやや長い序文で、天平二年(730年)、大伴旅人の邸内で山上憶良らによって行われた梅見の宴の模様らしい。
文中梅のほか、蘭、雲、松、霧、鳥 蝶の麗しさが述べられ、さあ膝を突き合わせ心のままに歌を詠もう、と綴られているようだ。
この中から、「初春の令月にして、気淑(よ)く風和(やわら)く」のカ所が取り出された。
特に“良き月、風の和(やわら)ぎ”が元号として採用されたことになる。
そもそも万葉集、大和心をを伝える斬新で詩的な元号に思われて来た。
個人的な感想だが、敢えて梅の宴を選んだのには意味があるのではないかと思った。
一つは天平時代への復古、一つは出典の漢籍を止めた中国への配慮もあったのか。
天平で花と言えば梅、しかもそれは中国からもたらされ、同国で珍重された花だった。
「令和」はどのような人の案だったのか、さすが学者、文学者でなければ出し得ない二文字であろう。
ちなみに、私が昨日挙げた文字など余りに拙くて話にならない。
最期に“天平、梅”
今年二月に京都と奈良へ行った。
薬師寺東塔は天平時代ともいわれる。
そのとき同寺で香っていた梅の写真を再度載せて、新たな元号(時代)の無事を祈りたい。
過日、陶齋の陶板額で読みに苦しみながら万葉集だと分かり、驚いたばかりだった。
今度は元号で。
由来は分かったがやはりまだぴんと来ない。
平成もそうだったが、次第に馴染むようになるのだろう。
あらためて陶板額を見た 小学1年生の僕の絵。
去る日、展示中の陶齋の陶板額の文字を一緒に読んで下さったK夫妻が昨日見えられた。ネットで検索して万葉集と分かったが、詳しい読みまでは分からなかった、と仰った。それにしても万葉の歌詠みの人々、時代下って陶齋や棟方たちの教養には驚く、と話され、あらためて陶板額を眺めて一同で感心した。
本日お天気に恵まれ、少し賑わった。午後から可愛い小学一年生と乳母車の坊やをつれたお母さんがお見えになった。お兄ちゃんが館内のノートに絵を残された。
アプローチの石板の色々な形と動き、丸い水盤、餌台と餌、花、鳥たち、花の支柱、建物、、、。とても良く観察し、描きたいものが沢山あったのですね。絵を見て私も楽しくなりました。また描いてください。もう少しカラーボールペンを増やしましょうか。
6月2日、須川展也 サクスフォンコンサートのお知らせ。
本年6月2日(日曜日)に樹下美術館で催されます「須川展也 サクスフォンコンサート」のお知らせです。
樹下美術館陶芸ホールで14時開場、14時30分開演。
入場料大人お一人3000円、中高生は1500円です。
定員50名様を予定しています。
お申し込みは樹下美術館窓口、またお電話で樹下美術館025-530-4155へ
(受付開始は開館の3月15日からとなりますのでどうか宜しくお願い致します)
以下はお二人のプロフィールです。輝かしい音楽歴からかいつまみました。
●サクソフォン・須川展也:日本が世界に誇るサクソフォン奏者。
ハイレベルな演奏とオリジナルレパートリーが世界で熱狂的な支持を集めている。東京藝術大学卒業。第51回日本音楽コンクールなど主要コンクール最高位受賞。NHK連続テレビ小説「さくら」のテーマ演奏はじめメディア関与も多い。また坂本龍一、チック・コリアなど意欲的な作品委嘱を実現。内外の主要なオーケストラと多数の共演があり、表情豊かな演奏は他の追従を許さない。東京藝術大学招聘教授ほか多くの指導的役割にも応えて活躍。
●ピアノ(クラビノーバ)伴奏・小柳美奈子:上越市出身、東京藝術大学卒業のアンサンブル・ピアニスト。
伴奏者として感受性に優れ、しなやかな演奏によって豊かなアンサンブルを創造する。20カ国におよぶ海外演奏、ほか数多くのリサイタル、レコーディングで高い評価を得ている。須川展也、ドルヴェール・クヮルテットの準ソリストとしてのキャリアも長く多くの録音に参加。安川加寿子、梅谷進、秦はるひ、今井正代、長谷川玲子、本村久子の各氏に師事。
聴く者の感性のすみずみに響く魔法のようなお二人の演奏。緑美しい季節のコンサートが楽しみです。
奈良国立博物館仏教美術資料研究センターは我が上越市の大先輩による設計だった。
前回2月18日の記事の最期に旧奈良県物産陳列所、現奈良国立博物館仏教美術資料研究センターを載せました。
ウィキペディアに関野貞(せきのただし)の設計と出ています。
帰ってから妻が関野貞を調べて、この方髙田の人だ、と言ったのです。確かに越後国中頸城郡高田町(現上越市)と記されていました。
髙田藩士の子息で「慶応3年12月15日(1868年1月9日) – 昭和10年(1935年)7月29日[1])は、日本の建築史学者、東大教授。文化財の保存に努めたことで知られる」とありました。
窓が特に印象的だった建物は明治35年(1902)に年に竣工。後に国指定重要文化財になっている。
写真では分かりませんが、両翼を広げるようなデザインは、氏の卒業論文である宇治平等院、鳳凰堂のイメージだということでした。
その以前に建てられた奈良国立博物館が洋風のため不評を買い、関野氏によってこのような形になった経緯があるようです。和を知り尽くした上で、それだけに留まらずイスラムの意匠へも広げた、若き日の心意気を感じます。
東京大学を卒業後辰野金吾および伊東忠太氏の指導を受け奈良県技師となった関野貞。奈良の古建築の調査研究と取り組み、1889年には平城宮址発見という偉業を達成されていました。
後に朝鮮半島を中心に、東アジアの史跡調査と文化財保護に尽力、フランス学士院の賞を受けておられます。
このような事を知り、私の不明を恥じている次第です。
訪れた当日は公開日ではありませんでしたが、興福寺から東大寺へ向かう通りで降り、外観の一部を眺めて、写真を撮りました。
師である辰野金吾の設計になる奈良ホテルが近くにあり、建築物を通して結ばれている師弟の絆を思っています。
●近代文化遺産見学案内所のホームページの以下に大変詳しい写真がありました。
https://bunkaisan.exblog.jp/16960158/
想像以上のダイナミックさに驚かされます。
冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その4(庚申塔その18)奈良。
去る2月9日に上越妙高を発って出かけた京都、奈良行を三回に亘って記載させて頂いた。
疾風のごとく回った京都では曲がりなりにも社寺を訪ね、窓を眺め、二つの庚申堂を訪ねた。
2月11日、最終日の奈良は予め訪問先のメモをホテルのフロントに渡し、観光タクシーさんに予約してもらった。
9時出発の当日、最初は昨夜の奈良町庚申堂へ。前夜暗がりで見た屋上のお猿さんを確認して撮るためだった。
空を見ていた猿は二匹の小猿を抱いていた。てっぺんの三猿が可愛い。
貴重な仏を訪ねる前にお猿さん、運転手さんが笑っていた。
私よりも少々若そうなその方は生粋の奈良っ子。腕白時代は東大寺や興福寺の境内を遊び場とし、大抵の池で釣りをしたという。
才媛を奥さんに、どこか火野正平に似た雰囲気。訪問先の寺院と時代の裏表を知り尽くしている風にお見受けし、終始楽しませて頂いた。
興福寺へ。
東金堂で薬師如来と脇侍の日光月光の菩薩を拝観。菩薩のモダンな表情が印象的だった。
近くで見る五重塔。
遠目の優美さと違い、軒先まで吹き出すように組まれている斗栱(ときょう)が凄まじい。内陣に穏やかな釈迦三尊が安置されているという。
幾度となく焼失復興を繰り返し昨年再建なった中金堂へ、妻と運転手さんが歩く。堂内に本尊と釈迦如来、薬上と薬王の両菩薩が脇侍し、さらに四天王が固めている。元々は藤原鎌足が蘇我入鹿の打倒を祈念して安置したという如来。厳しい表情をしている。
興福寺は藤原氏の絶大な権勢をそのまま表すものというが、運転手さんは説明で藤原不比等を何度も口にした。どこか江戸っ子のような氏は「不死人」と発音しているように聞こえた。
国宝館の入場券。
圧倒的な千手観音菩薩に迎えられ、遠い存在だった阿修羅、沙羯羅(さから)、須菩提(しゅぼだい)の前に立てた。
眉が感情を目は意思を、唇が両方のバランスを取っている。ある意味みな私などよりも遙かに生き生きとしていて、話し掛けたい衝動に駆られる。技法といい、古代の人はかく微妙な像を良くも造ったものだ、とため息が出る。
東大寺へ向かった。
私たちの予定にゆとりがあったのか、間もなくお水取りという二月堂を丁寧に案内してもらった。
当日の松明となる竹が用意されていて、緊張感が漂っている。
竹は根を付けてバランスにするという。
大仏殿へ。これでも創建の三分の二という。いったい材の切り出し、運搬、削り、、、クレーンも無い時代、どのような足場を組み、如何なる滑車やロープを用いたものか。
大仏殿前の八角灯篭のうち、銅鈸子(どうばっし)の音聲菩薩(おんじょうぼさつ)。
齋藤三郎さんから頂いたらしい樹下美術館が収蔵する拓本の掛け軸。
大変丁寧に採られていて、こちらの方がすっきり美しく見える。
秋篠寺へ。
本堂。お目当ての芸妓天は力みが無く、恥じらいとも取れる表情が見えて親しみを覚える。
一時は大ブームとなりにぎわったという。
一面苔むす庭が美しい。随所に万両が赤い実をつけている。苔が欠けている所は万両が採られた跡だと、運転手さんが嘆いた。
続いて初めて伺う唐招提寺へ。
鑑真和上の命がけの渡来の物語は今日も心を打つ。
境内を和上の墓所へと向かう。簡素な泥煉瓦の塀が何故か懐かしい。
霊廟には中国の要人も訪れていて、日中の長い絆に触れることになる。想像以上に広い伽藍を歩いていると、天平の修行僧たちの明るい歓声が聞こてくるような気持ちがよぎる。
続いて最期の訪問場所、薬師寺へ。
昭和56年再興の西塔。
伽藍はただ美しいとしか言いようがなく、冬であることを忘れた。
休憩所に薬師如来の台座のレプリカが展示されていた(人物はレプリカではありません)。
裏側に回ると力神の下に白虎と青龍が浮き彫りされている。
この彫刻を拓本に採った風炉先屏風が樹下美術館にこれまたある。
長く実物を見たいと思っていたが、この度レプリカで見ることが出来た(金堂のこの二面は裏側にあるため上手く観察出来ない)。
昭和50年代後半だったか、新潟三越で薬師寺展があった。その時売り出されていた風炉先屏風(ふろさきびょうぶ)。売り上げは多分薬師寺復興に資されたはず。今まで自信がなかったが、ようやくこの目で台座を確認し、晴れて説明できるようになった。
最期に北のはずれ、通りに面した所で何本もの梅を見た。
この度の旅行で最も良い開花に出合った。
午後3時半ころに近鉄奈良駅でタクシーさんとお別れした。何事においても含蓄ある話をされる方で、とても楽しませて頂いた。
近鉄特急で京都駅へ。中学時代の修学旅行以来3度目の奈良行きが終わった。
到着した京都で1時間近く時間があり、駅ビルを楽しんだ。
昨年の九州旅行で初めて見てすっかり好きになった駅ビル。
前は西の高い所へ行き、このたびは東側へと上ってみた。
京都に続き、ようやく奈良を終了しました。わずか二泊三日の旅行でしたが、長々と連ねて恐縮しています。
このたび奈良では色々考えさせられましたが、薬師信仰の厚さから、病が如何に恐れられていたかを思いしらされました。
帰り来て遠き仏をおぼゆれば み影にそひし薬師白梅
また当時庶民はこの壮大な寺仏を参詣し拝観できたのでしょうか、と興福寺で運転手さんに尋ねてみた。
「とんでもない。不比等の権勢」と返された。
およそ文化は時間を掛けて上から下へと流れて広がる。
では今日我々は上にどんな文化を戴いているのだろう。
後からでないと分からないものなら、今見えないのも事実のうちか。
それとも超情報化時代、今見えなければ本当に何もないのか。
翌日追加:興福寺から東大寺への道すがら、変わった窓の建物がありました。
旧奈良県物産陳列所(奈良国立博物館仏教美術資料研究センター)。
明治後期、関野貞による設計で、国の重要文化財にも指定されているということです。斗栱を用い、瓦を葺き、蛙股(かえるまた)や高欄などの和の様式にイスラム風の窓をあしらうなど、大変凝った建物でした。
ここのことは予め調べていましたが、京都の本願寺伝導院の窓とともに目の当たりに出来て幸運な事でした。
冬の連休は急ぎ足で京都と奈良へ その3(庚申塔その17)八坂と奈良町の庚申堂。
庚申信仰、あるいは庚申行事に興味を持ったのが昨年6月。
このノートにカテゴリーまで設けて気ままに地元周辺を見聞していた。その中で、庚申信仰と関係行事が盛んだったのは地方であり、長く政治文化の中心だった京都、奈良には何故か少ない、という事を知った。
そこへこの度の京都、奈良行き。調べで、京都および奈良市内に庚申堂、あるいは庚申信仰に関係する社寺があることが分かった。いずれも訪問予定の範囲に収まっているので是非もなく訪れた。
以下は去る10日日中の京都は右京区の猿田彦神社と、東山は金剛寺の八坂庚申堂、そして夕刻の奈良市の奈良町庚申堂の様子です。
山之内庚申と呼ばれる平安時代の創建になる猿田彦神社。
訪問日はやや閑散としていたが、庚申の縁日はとても賑わうという。猿田彦神社は私の地元ではまず見ることが無く、リアルな猿のお迎えは嬉しかった。さすがは京都、京洛3大庚申の一つとして古式漂う神社だった。
ところで、
猿は庚申(こうしん)の民間信仰で重要な位置にある。関係としては、まずその名から申(さる)として直結。また国造り神話における尊(みこと)を天上から地上へと導いた猿田彦の道しるべ、および農耕と生産の司としての意義。さらに人の身中にあって悪事の元凶とされる三尸(さんし:三匹の虫)を制止する青面金剛(しょうめんこんごう)の働きを手助けする存在(見ざる、言わざる、聞かざるを以て)などであろう。
しかし、神道から発した猿が何時、何処でどのように道教の三尸説と、さらに仏教の青面金剛と交わり、一大信仰と行事に結び付いたか私にはよく分からない。事実は、60日に一度集う守庚申、のちの庚申待ち行事は平安時代の貴族、僧侶から鎌倉の武士へ、そして広く江戸期の庶民、さらに明治、大正へと、長きに亘り継続されている。
信仰の内容は現世利益、先祖供養、地域存立、娯楽に親睦など多義的である。そのなかで猿田彦神、猿、青面金剛のそれぞれは、存在理由を最大限に発揮し、時代と地勢にストーリーを合わせながら、人々を引きつける力(特に地方の農漁村において)を有していたのは本当のようだ。
何かくどくなってしまいましたが、以下今日の京都、奈良の庚申堂は幸福そうだった。
まず八坂庚申堂。
平安時代の創建という庚申堂。門前に庚申尊の石塔。
上部に三猿(さんえん)があしらわれ、日本最初と読める刻文がある。貫禄十分な碑だった。
くくり猿を買い、願い事を記入して奉納する。みな率直で愛らしい。
“欲を捨てると願いが叶う”とは、上手く考えられているフレーズ。
猿田彦神社は庚申日以外は閑散なようだが、八坂庚申堂は地の利を活かして大賑わいしていた。着物の若い女性が沢山いて、彼女たちから中国語が聞こえてくる。しかし言われるほどの大声は控えられているように映った。庚申信仰の三尸思想は元々中国の道教に由来しているのと春節でもあり、人気になるのだろう。
当日午後遅く、前記した本願寺伝導院を最後に、京都を発って奈良へ向かった。
以下はその日、夕食までの時間に出かけた奈良庚申堂と奈良市奈良町の様子。
奈良庚申堂にて。一帯は元興寺の伽藍だった地域。
町の庚申信仰は、奈良時代の元興寺における天武天皇と青面金剛逸話に発しているようだ。
三猿が水飲みの水盤を支えている。本尊という青面金剛は良く見えなかった。
軒下に仏を記した提灯。庚申さん、青面金剛、吉祥天女、地蔵菩薩が左右に並ぶ。
青面金剛と地蔵菩薩は分かるが、なぜ吉祥天女なのだろう。
すっかり暮れ、月が上っている。屋根の猿が凍る空を見上げていた。
以下は奈良町の一角。
下町の風情が漂い、町の明かりが寒さを和らげてくれる。
身代わり猿(京都ではくくり猿)を軒下に吊すのが奈良町の流儀らしく、とても良かった。
そういえば京都の八坂庚申付近でも、そこここに軒下のくくり猿を目にした。
街角の吉祥堂の看板。ここは奈良町資料館でもある。大きな身代わり猿が下がっている。
脇からみた資料館。吉祥天女が冴えている。ここは店舗でもあり、猿の人形ほか土産を売っている。
資料館のホームページに吉祥天女と奈良町の関わりが出ていた。
宴の振る舞いに吉祥天女が関係して奇跡が起きる話は、どこか庚申待ちに於けるご馳走とそのご利益を思わせた。いにしえの貴族版庚申さん?に繋がる話なのか。
来る時は道に迷ったが、帰りはスムースにホテルに戻れた。
以下はその時の町並み。
7時から宿で夕食。老舗ホテルはビーフシチューが似合う。昼食を摂らなかったのでゆっくり噛みしめて食べた。
庚申堂と古い町並み、、、。しっくり安心の取り合わせだった。
京都奈良で三カ所の庚申堂を参拝した。小ぶりながらいずれも参内できる境内と堂を有している。普段地元で庚申塔の石塔ばかりを目にしているため、規模の大きな庚申堂と神社を訪れ、信仰の原型と歴史の深さに触れて満足だった。
再三の冗長をお許しください、次は最終回、奈良の寺にします。
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