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始まった梅雨空の下、蓄音機レコードを聴いた日、樹下美術館は夏の庭へ。

2019年6月8日(土曜日)

昨日は雨がしっかり降り、本日は少々肌寒い曇り日。
随分早いが、すでに梅雨入りが報じられている。これで雨を欲しがっていた田畑と庭は落ち着きを取り戻せるに違い無い。

そんな梅雨空の館内カフェで愛好のお客様とSPレコードを掛けた。
SPを聴かれるクラシックファンの人達はとても耳が良く、音楽に精通されるのでお話を聞くのも楽しい。

 

ご持参のイタリアの女流ヴァイオリニスト・エリカ・モリーニと巨匠ヨーゼフ・シゲティのヴァイオリン曲、カルーソの歌などが掛けられ、小生はエレナ・ゲルハルトの歌を掛けた。
待っているのは未来だけではない。過去もまた麗しい翼をを広げて待っている。6,70年年はさかのぼる音楽とその再生は、ほっとした豊かな時間を約束してくれる。

 

来館されていたお客様にも一緒に聴いて頂き、有り難うございました。
陶芸展示室のテーブルでは数人の方が資料を並べて会議をされました。
来週も来られて続きをされるそう、お待ちいたしています。

 

庭は夏向きに衣装替えを始めた。
ヤマボウシ、ツユクサ、ホタルブクロ、キョウガノコ、アスチルベが咲き、額アジサイが色づき、イトススキとトクサが涼しそうに立ち上がってきました。梅雨とはいえ夏の庭は楽しみの一つです。

昨日夕刻のヒバリ 上越市大潟区は雁子浜の人魚伝説と比翼塚。

2019年6月5日(水曜日)

雨が遠のき田畑と庭が水を欲しがっている。
美術館では大切な花がぐったり寝てしまったり、施肥をした芝も水を欲しがっている。週末から向こうに傘マークが見られているので期待したい。

以下は昨日の夕刻の2コマ。

 

あぜ道にヒバリが二羽降りて来た。
(すっかり減ったヒバリですが、美術館の周囲少なくとも三カ所でヒバリを観たり聴いたりします)

 

そのうちの一羽がこちらに向かってくる。スズメよりは、ゆうに一回り大きい。

 

間もなく飛び立ち、数羽の仲間と水田を飛び回った。
普段昼の青空へ高く飛ぶヒバリが、夕刻の水田でくるくると遊んでいる。
“遊びをせんとや生まれけむ”。今春生まれた若鳥なのか、とても楽しそうだった。

田んぼから夕陽を見に雁子浜へ。
海岸に出た東の先にこぢんまりした人魚伝説公園があり、常夜灯と「人魚塚伝説の碑」が設えられている。

 

 

毎夜、佐渡島の娘が常夜灯をめがけてやってきて、地元の若者と逢瀬を重ね、悲劇を迎える人魚伝説。
近くの竹やぶに以前から人魚塚と呼ばれる小さな塚があったが、場所をあらため、公園化した。

伝承の悲恋でなぜ人魚なのか、といえば、岸に上がった娘のなきがらの長い髪が波にゆらめき、人魚のようだった、と伝わるだけである。
一方、童話作家小川未明は当人魚伝説を下地に、「赤い蝋燭と人魚」で美しい人魚を設定し、物語の果てに見世物に売ってしまう人間の深刻な醜さを描いた。

恥ずかしながらかって私は台本と演出を担当して、地元の人達と芝居・「人魚塚」を公演したことがあった。鵜の浜温泉の開湯40年記念事業の一つとしての企画だった。そこで元は魚だった自分を助けた漁師に遭うため、成長して人魚に姿を変え雁子浜を尋ねて恋におちる騒動の顛末を悲劇風に脚色した。稽古を積み、三回の公演で1000人近くのお客さんに観てもらった。

以上雁子浜の人魚について若干記してみたが、その昔この浜で若い男女の心中があったのかもしれない、と想像している。

※追加です:もとは竹藪にあったとされる塚は比翼塚と呼ばれ、別名人魚塚とされたようです。かって新潟のローカルテレビでこの塚を探す番組がありました。地元の老人が案内し、浜沿いの集落から上がった所でびっしり生える竹やぶの中にひっそりとあるのが見つかりました。
丸石の上に四方の石屋根が乗る小さな古い塚だったと思います。
比翼塚とは、心中など非業の死を遂げた男女を弔う碑だということ。比翼は、目と翼がオスメス一つずつしかないの鳥のことで、つねに雌雄一体で飛んで生きる中国伝説上の生き物だそうです。
詳細は分かりませんが、雁子浜の人魚伝説はやはりかって心中事件があり、比翼塚を建てて二人の成仏を願い、遺骸の様子から人魚塚と呼び、物語へと昇華させたのかもしれません。
もしそうであれば、名もない男女の悲恋が時を経て、立派な碑と手入れの良い小さな公園になったという事になります。非業の男女とそれを憐れんだ住民、、、。人魚伝説に二つのドラマを感じてしまうのですが、如何でしょうか。

会場を幸福で包んだ須川展也さんのコンサート。

2019年6月2日(日曜日)

今年前半の大きなイベント「須川展也 サクソフォーンコンサート」が本日無事終了した。
「無事」は本当に貴重なことで、「無事是貴人」という禅語がよく茶席の床の間に掛かる。
まして著名な演奏家をお招きし、70名近いお客様を迎えるコンサート。
事前の演奏者とのやりとり、チラシ作り、告知作業、プログラム制作。当日は会場設営、PA:音響スタッフによるセッティング、照明調整、演奏家到着、小休憩、リハーサル、着替え、開場、そしてスタートと挨拶、、、。どこかにミスやハプニングがあれば、お客様と演奏者に迷惑をお掛けする。しかも何気なく騒がしくなく進めたい。だから無事は余計貴重なことになる。

展示物を別室に移して椅子を入れた会場で全曲通しのリハーサルが行われる。
小さなホールのため残響が心配、場所を移動しながら全て試聴させて頂いた。
大部分、初めて聴く曲であり、いずれも新鮮で目が覚めるほど素晴らしい。

 

演奏風景。満席のお客様が残響を和らげ、ほっとした。
68名の来場者さんは当館ぎりぎりのキャパ。スタッフのお陰でなんとか無事着席して頂けた。

一曲目、カッチーニ/朝川朋之編曲、アヴェ マリア。前奏に続いて美しいMj7thコードの調べで始まり、自然に叙情の世界に引き込まれる。続けてグリーグの叙情小曲集から2曲が演奏され、スターウォーズのJ.ウイリアムスによる「エスカベイズ」、さらにG.フィトキンの「ゲート」と進み、モダンな動静の起伏が現れた所で15分の休憩となった。なんとも上手いプログラミングだった。

後半は西村朗作曲「ハーラハラ(猛毒)」はインドの天地創造の神話世界へジェットコースターで入っていくようなことになる。神々の相克、猛毒の大蛇、攪拌される乳界のカオス、現れるシバ神、ヘビとの格闘と断末魔、そして勝利や浄化も無く毒を吸い込んだシバ神の異様なゲップで唐突に終わる秀逸な曲。打楽器の如くキーを叩いて鳴らし、楽器を振り、うなり声を上げる演奏者、、、ブラボーを叫ばすにはいられなかった。

続く浜辺の歌、さらに須川氏が演奏したNHK朝ドラ「さくら」のテーマで心鎮めてもらった。
終曲は、石川亮太氏の「日本民謡によるラプソディー」。
津軽じょんがら、会津磐梯山、竹田の子守歌、炭坑節など、この国の哀切と歓喜が四季の色彩の合間から浮かんでは消える。
斯く上質な音楽が会場をスリルと幸福で包み、まれに見る楽しいコンサートが終了した。

 

盛大な拍手のなか退場するお二人。写真はお客様から頂きました。

 

終わって「ハーラハラ」が特別な曲だったので、譜面を見せていただいた。以下のようにまことに奇妙なものだった。

終えてサインに忙しい須川氏。

スタッフとともに後片付けを済ませて慰労会へ足を運んだ。

 

慰労会で挨拶される須川展也さんと傍らの美奈子夫人
自然なひととなりのお二人、良い音楽はまれに見る良いお人柄のたまもの。

アンサンブルピアニストとして確固たる立場に立たれている美奈子さん。
流麗な伴奏で氏を促し、呼応しあって劇的なパフォーマンスを創造される。
ハーラハラでは良いお声で、曲中に語りを入れられ、本当に見事なコンビネーションでした。

サクソフォーン奏者のトップランナーとして、挑戦を続ける展也さん、パートナーの美奈子さん、誠に有り難うございました、どうかまたいらしてください。
スタッフの皆さん、本当に有り難うございました、また頑張りましょう。

豊かな「須川展也 サクソフォーンコンサート」のプログラム。

2019年5月31日(金曜日)

樹下美術館の音楽会「須川展也 サクソフォーンコンサート」が明後日に迫りました。
先日須川さんからプログラムが送られてきましたので、掲載致しました。

 

リリカルなクラシック曲と欧米の現代作曲家の曲が並ぶ前半。
後半は日本の現代曲および歌謡、そして狂詩曲風に演奏される様々な日本民謡。

以下は1998年10月、須川展也さんが出演されたNHK「トップランナー」の動画です。


穏やかに自らの音楽を語り、会場の質問に答えておられます。
魅力的な人柄が伝わります。

6月最初の日曜日午後は、和と洋、さらに時代とジャンルを豊かに往来する楽しい音楽会になろうと期待されます。

懐かしくも気楽な曲。

2019年5月23日(木曜日)

洋楽の歌では「foolish」という言葉によく出合います。
「愚かな」「馬鹿げた」「取るに足らない」などの意味があるようです。
前置きはともかく私が好きな「Foolish」が付く曲を二つあげてみました。

いずれも古い曲で数多くの人が演奏しています。
※My Foolish Heart→1940年代発表。 These Foolish Things→1930年代発表。
スローで無理が無く、水のようにすーっと心に届く曲ではないでしょうか。


「My Foolish Heart」。ベニー・グッドマン楽団で歌ったこともあるETHEL・ ENNIS(エセル・エニス)の歌。
この人は力まず、アドリブもこぶし回しも控えられ、素直に歌います。

 


「These Foolish Things」。
これも戦前の曲で、去った人にまつわるちょっとしたことごとが一つ一つ歌われます。
現在最も人気がある歌手の一人マイケル・ブーブレが大変丁寧に歌っています。

 


これも「These Foolish Things」。
ピアノバーの設定でしょうか、楽譜どおりヴァース部分(導入歌)から歌われます。
ロックの大御所、イギリス人のブライアン・フェリーが快調なリズムに乗って?めそめそと歌います。
楽器が増え、最後のコーラスが入る辺りでは、失恋なのに何故か祝福されているように感じました。
一度聴くとまた聴きたくなるアーティスティックな編曲・演出と独特の歌唱はさすがです。

 


これも「These Foolish Things」。
カクテルあるいはラウンジピアノ打って付けの名手ビージー・アデールのピアノ・ウイズ・トリングスです。
彼女もヴァースから丁寧に弾き始めています。コーラスに入って5小節目からベースとブラシドラムスのリズムが加わり、9小節からストリングスを交える洒落た構成です。
オーナーの好みでしょうか、彼女の曲を大潟区のレストラン「サブリーユ」のBGMで聴いたことがありました。

終了時、そのままもう一度ご覧になる場合、左下の丸矢印(もう一回見る)をクリックして下さい。

上越市立小林古径記念美術館から二回目の貸し出し作品を展示致しました。

2019年5月17日(金曜日)

今年の樹下美術館は上越市立小林古径記念美術館から倉石隆の大型の油絵作品をお借りして展示をしています。
開館の3月15日から6ヶ月に亘りる二ヶ月おき、計8点の展示は大変光栄であり、また緊張を禁じ得ません。

このたび初回の三点、「粉雪が舞う」「月の光」「人間の風景」の展示を無事終えてお返しし、昨日「地平」「吉井忠氏の像」の二点を搬入、本日から二ヶ月間、展示いたします。倉石隆作品については、他に樹下美術館収蔵の6点の小型の挿絵原画作品の展示を行っています。
二点とも大作で、「地平」は193,9×130,3㎝、「吉井忠氏の像」は193,8×161,7㎝です。
ピクチャーレールのある壁面の上下左右いっぱいを使って無事に架かりました。

樹下美術館ではこのような大作を並べて架けたことが無く、小さなホール正面を占める力作の迫力に圧倒されます。

 

大きさを見るためお客様に立って頂き、撮影しました。
左「地平」(1980年 第16回主体展および1981年幻想の絵画展に出品)
右「吉井忠氏の像」(1984年第20回主体展に出品)

一見して対照的かつ作風の異なる二点を見てみます。

 

向かって左のモノトーンは「地平」

以下細部をご覧ください。

 

中央に男が描かれています。知性や豊かさとは遠く、貧弱でずるく、罪深そうに見えます。

そのまわりに、エゴや後ろめたさ、あるいは狡猾さや残忍さ、さらに悲しみなどを帯びた人の姿が暗闇に紛れるように描かれています。

 

 

 

 

自己の旗を立てようとする女性が小さく小さく描かれています。

 

 

指をくわえた乳児は犠牲のシンボルでしょうか。

 

その子を生んだ女性かもしれません。

それにしてもあまりの暗調に気が重くなるような作品です。しかし私は決して嫌いではありません。人間の暗く貧しい負の部分を徹底して描く。あるいは描き切った作品は、告発ないしは一種懺悔ではないのかと思うのです。
カタルシス、、、。内部に溜めたネガティブな要素や経験を徹底して吐き出して試みる精神の浄化、、、。
自分たちのおどろおどろしさに没入し、問い詰めようとする当作品は作者の骨頂の一つでしょう。画家の痛々しいまでの真摯さは、十分な魅力であり、さらに力をも感じさせます。

 

次ぎに「吉井忠氏の像」です。

前者の暗調と異なり、朱を含む温かな茶系モノトーンで描かれた「吉井忠氏の像」
展覧会カタログで見た事がありましたが、こんなに大きな絵とは思いませんでした。

吉井忠氏は福島県出身の画家。倉石隆より7つ年上の人。倉石の太平洋美術学校の前身校および主体美術協会の創始会員の先輩として敬愛していた画家と聞いています。
民に徹し「土民派」を自認し、美術評論、児童書においても活躍された芸術家です。

若干細部を見てみました。

 

深く静かで頑丈な表情が非常に丁寧に描かれています。

 

手にしている二つのものは布と革鞄でしょうか、とても良い色と質感です。
手を描くのが苦手だったという倉石隆ですが、自然で感じ良く描かれています。
描いてはゴシゴシとぬぐい、ぬぐっては描くを繰り返す画面は薄塗りにもかかわらず、
しっくりした深みを漂わせます。

 

二カ所に人物が添えられています。吉井氏とどんな関係なのでしょう。

下方の牛頭骨はピカソが描いた戦争の蹂躙に対する抗議のシンボルにみえますが。

風あいが異なる倉石氏の二つの大作。本当に描きたいものは何なのか、何を訴え表現すべきか。
苦悩と満足のはざまで生み出された昭和時代を中心に活躍した芸術家の足跡を、ご自由に味わって頂ければ有り難いのです。

5月6日、富山市で令和の考案者とされる中西進先生にお目に掛かった。

2019年5月7日(火曜日)

昨日のノートで富山行きのことを書かせて頂いた。
実はその日の朝、思いもしなかった人と出遭っていたことも書いた。
思わせぶりな書き方に、どんな人だったの、と本日二三質問を頂いた。
お目にかかった人が貴重過ぎるのと、私が疲れていたこともあって昨夜書けなかった。

本日は書きたい。
出遭ったその人は、新元号「令和」の考案者とされる中西進さんだった。

その昔辛い時期を過ごした30才代半ばから10数年間、憑かれたように本を読んだ。
自然/生物/天体/人間/その歴史と進化、小説・短歌、宗教、西行、良寛、空海、遺伝/環境、哲学、文化人類学、精神/心理分析など色々だった。
ばらばらだが、良かった本はその出版社から次ぎを選ぶようなことが少なくなかった。
その中で特に親しめ、心和らぐのを覚えたのが中西進さんの本だった。
おびただしい著書から、わずか数冊だったが私に向かって差し出された手のような温かみを感じた。
自分にも与えられているはずの麗しい魂を、むげに死なせてはならない、、、。
ただ一点、書物からそんなエッセンスが残ったように振り返える。

ところで、このたび改元を控えた3月24日、長年漢詩だと思い込み、読み方が分からなかった陶齋の陶板の文字が万葉集だった
それから一週間後の4月1日、新元号「令和」が発表され、出典がまた万葉集。
翌4月2日、令和の考案者として万葉集の権威でもある中西進先生の名前が上がった。
突然のように万葉集が現れ、懐かい名前が飛び出してきた。
そして昨日5月6日朝、その方がホテルで朝食を摂られていた。
絶対中西先生だと思った。

サインを貰おう、だが手帖も紙も無い。
矢も盾もたまらずレストランのスタッフの許へ行き、メモ用紙と台紙をお借りして先生の食事が終わるのを待った。
頃合いを見計らって吸い寄せられるように先生のもとへ行った。
幸い名刺があったのでおずおずと差し出した。
「中西先生でしょうか」
「はい」
「突然失礼致します。わたくしは新潟県で樹下美術館という小さな施設を営む杉田という者です」と言った。
先生は名刺をご覧になり、
「樹下美術館ですか、いい名前ですね」
「ありがとうございます。樹下が浮かんだ時、これ以上はないと思いました」
「そうでしょう」
「実は若い頃に辛い時期がありまして、先生のご本に救われました」
「どんな本でしょう」
「谷蟆考や雪月花などです」
「有り難う」
「こんな紙で大変失礼ですが、サインを頂けますでしょうか」、ボールペンとメモ用紙と台紙をお渡しした。
先生は小さな紙に少し書きにくそうにペンを走らせ、心配な私は先生の手許をじっと見ていた。
日付とお名前が無事書かれて終わった。

写真も宜しいでしょうか、とお尋ねするといいですよ、と仰った。
急いで妻を手招きして、先生と並んでシャッターを切って貰い、私も妻と先生を写した。
写真のあと深く頭を下げて、席に戻った。

 

数十年前、雲の上におられた方が急に降りてこられ、今ここにいらっしゃる。サインを頂き写真までご一緒した。
これは本当のことなのか、、、、今日はもう何もしなくていい、、、、富山に来て本当に良かった、、。
その日ずっとぼんやりとした夢心地が続いた。

帰って調べると、先生は富山市で「高志の国文学館」の館長をされておられ、このたび2回の講演会のために滞在されていた。
令和の考案者とみられる今日、去る4日の講演では、考案者は私によく似た人、とユーモアに包んで話をされたという。
元号の由来となった「梅花の宴」について、“自然は大きな哲学を持っており、それが日本の風土に仕組まれている”と梅花が示す意味を説明され、令和にうるわしい平和を重ねて行く時代を願う旨を話されたという。
お話の深い基調は先生ならでは、と今さらながら感心した。

 

過日手許にある先生のご本三冊を紹介させていただいた。
まだあるはずと、本日探しましたらもう一冊、「辞世のことば」(中央公論社 昭和61年12月20日初版 昭和62年2月20日第2刷)が見つかった。

左から「辞世のことば」、「古典と日本人」、「雪月花」、「谷蟆考(たにぐくこう)」。

 

「辞世のことば」の扉にあった絵図。
消しゴムで消えますので、変わった絵ですが私が描いたのでしょう。
納品書が挟まれていて、柿村書店とありました。

この本の巻末に「終 62.4.8」と自署している。
“もがり笛 いく夜もがらせ 花に遭はん”
何故か当時読んだ檀一雄の「火宅の人」にあった著者辞世とされる句が書かれている。

 

 

6日の朝、中西進先生には失礼なことをしたと思っています。
その先生は本当にお若く、かくしゃくとされておられました。

有り難うございました。
心から先生のご活躍とご健康をお祈り申し上げます。

麗しかった富山市。

2019年5月6日(月曜日)

昨日こどもの日の5月5日、上越妙高駅発17:20の北陸新幹線で初めて富山市へ行った。
新幹線が開通して金沢市と高岡市にはすで出かけ、富山市が懸案のままだった。さらに知りあいから盛んに富山市の話を耳にするようになり、押し出されるように出かけた。今や新幹線のお陰で富山は思い立ったらすぐにでも行けるようになっている。

わずか40分で富山駅に着いた。城址通りを南下したが、道路は胸が空くように広く気持ちが良い。
両側のポールなどにボリュームある花がアレンジされ、驚いた事になま花だった。それがずっと続く。
スッキリしたデザインの電車が二両編成で颯爽と往来し、城址のダイナミックな石垣も現れた。

 

 

 

 

ガラスの街と謳う市。照明された作品が夕刻の通りに美しい。

広く清潔な道路と花、格好いい電車、歴史の香り、夕暮れと灯り、、、。いい町だなあ、一編に富山が好きになった。
運河や城址公園に寄り道してホテルに向かった。
一帯の手入れの良さは、喜んで人を迎えようとしている街の意識を感じ、嬉しかった。

 

翌日6日、訪ねる予定の4施設のうち「佐藤記念美術館」「森記念秋水美術館」「富山市ガラス美術館」の3館は互いが近いので歩いて回った。

以下は企画展として「インドネシアの染織 展」が行われていた佐藤記念美術館

 

石中心の外観は周囲にある石垣への配慮であろう。大変上手く調和している。

 

軽々として素朴なものから繊細かつ重厚なものまで、多彩さには驚かされる。
さらに島々ごとで染めと織りの方法が別れ、風合いが異なる。

 

人を迎えるための施設では常にガラス磨きが欠かせない。
樹下美術館もを熱心に励行している。
しかるに上越妙高駅のガラス管理は、他駅と比べ見劣りを否めない。

 

以下二点は森記念秋水美術館の「備前刀-用と美の系譜-」。

 

美しく展示された刀剣に初めて見応えを感じた。
想像以上に細身、そのことも優美の要素になっていた。
秋水は研ぎ澄まされた険の美しさを現すという。

以下は富山ガラス美術館。

 

ある種無機的な美しさのガラス作品を温めるようとする隈研吾氏の木による壮大な演出。

 

以下はガラス作品。

 

かって枯れ木に通っていた生命本質、水をイメージさせる。
また富山湾海底の埋没林を思い浮かべた。

 

舟からこぼれ落ちる鮮やかな球体のファンタジー。
豊かな漁業への祝辞かもしれない。

市内の予定を終え、ガラス美術館のレストランで昼食の後、タクシーで富山駅へ。そこからあいの風鉄道で福岡駅下車した。

 

旧北陸本線の在来線が名を変えていた。4両編成でかなり混み合う普通列車。

 

以下は高岡市福岡の「ミュゼふくおかカメラ館で開催中の猫写真家・関由香氏の「ねこうらら」展風景。

 

 

気配に敏感で、常に自らも気配を発する動物「猫」。
マニアでなくてもしぐさと表情は何とも魅力的だ。
館内では設計者の巨匠・安藤忠雄氏の世界に包まれる。

都合により富山県立美術館などを中止し、列車を早めて帰ることにした。富山駅の待ち時間に予報通り激しい雷雨が襲ってきた。

 

雨に見舞われる富山駅前。
落雷かと肝を冷やした稲妻と同時の大音響にも遭遇した。
それにしても天気予報は良く的中する。

中心部だけの見聞だったが富山市は想像以上に良かった。当座の外見や数にこだわることなく、長く質を重んじ実に配慮するのは県民性なのか。お金の使い方に堅実で上手な印象を受け、わが樹下美術館の参考にもなった。
当館には時折富山県からお客様が見える。お礼というわけでもないが、まだ見ぬ富山県美術館、高志の国文学館。樂翠亭美術館などを巡るため、近々再訪したい。

 

この日、朝のホテルで時代の最も先端におられるであろう方にお会いした。ふだん著名な方をお見受けしても声を掛けたりサインの所望などは謹んできた。しかし今朝ばかりは衝動に刈られ、咄嗟に自らを紹介し、サインのほか一緒の写真までお願いした。

思ってもみなかった方のことは次回記させてください。

土門拳などによる昭和の写真集 犀潟は新堀川の夕陽桜。

2019年4月16日(火曜日)

今年、美術館の図書をかなり大幅に入れ替え、30数冊を新たにしました。
(3月20日および3月21日に記載)

棚にまだ余裕がありましたので、いよいよ遠ざかる昭和を慈しみ、土門拳を中心に4冊の写真集を加えました。

私の年の人間には戦後のある時期から一種日常として土門拳は存在していました。まず氏のプロフィールのほんの一部ですが下記に記しました。
「1909(明治42)年山形県酒田市の生まれ。昭和10年、報道写真家として出発。戦中に仏像、文楽などを撮影。戦後は社会と生活に密着したリアリズム写真を展開する一方、著名人の人物ポートレートや風物、仏像など日本の現象と地勢、伝統に広く取り組み、優れた作品を発表した。昭和34年、脳出血を発症。回復後は「古寺巡礼」の撮影を開始。その後再発のたびにリハビリに専念し現場に復帰。晩年は長い昏睡の後209年、80歳で永眠。文筆家としても知られる」。

 

「土門拳の昭和」 編集・構成小西治美 (株)グレヴィス 第三刷 2012/6/発行
生誕100周年を記念した写真展「土門拳の昭和」の図録。「戦前・戦中の仕事」
「戦後日本の歩みとともに」「風貌」「日本の美」の4部構成で約300点の写真を
収録。
真実の迫力に引き込まれる。女優・水谷八重子ほかのあとがきと土門自身の
エッセイも収載。

 

「筑豊のこどもたち」 著者土門拳 築地書館。1977/7/21初版発行。
本書は2016年3月30日発行で第16刷。40年経ても変わらない熱心なニーズがある。
今後のために、嘗てあった事実を見ることの価値は他に代えがたい。

 

「腕白小僧がいた」写真・文 土門拳
(株)小学館 2002年9/1初版 2015年9/16第5刷発行
これも多くの重版が続けられている。

昭和20年~30年代の日本には元気いっぱいに遊び回るこどもたちで溢れていた。
こどもに溶け込み、生き生きとした姿を捉えた傑作に自身のエッセイを収録。
とりわけ東京の下町のこどもを愛し、豊かなスナップを残した。
「東京のこどもたち」、「日本のこどもたち」、「筑豊のこどもたち」
三部は氏の代表作のひとつ。

写真家が捉えた現代の一瞬「昭和」  (株)クレヴィス 2013/10/10第一刷発行
土門拳による表紙「浅草・雷門 しんこ細工 昭和29年」。
中央の男子の熱中と作る女性の沈んだ表情。
たった一枚の写真は、世相、場所、世代、生活、物語まで写そうとしている。

はかなげな戦前の平和、軍靴と戦渦、焦土と貧困、占領に引き揚げ、復興と景気、地方と都会、、、激しくうねった激動の昭和。その各相の光と影、日常と非日常が、12人の写真家によって見事に写し出されている。プロの撮影技術に加えて、時代への鋭敏な感受性が見事なシャッターを切らせたにちがいない。
撮影者:木村伊兵衛、入江泰吉、土門拳、浅野喜市、濱谷浩、緑川洋一、林忠彦、薗部澄、芳賀日出男、長野重一、田沼武能、熊切圭介の各氏。

時代とその生活を撮るために人物を写すのは必須である。しかし今日、肖像権や拡散と悪用などで極めて限定される。
その点、昭和の媒体は主として活字のうえ人間も大らかで、相当自由に人を撮影出来た。
自ら起こした戦争によって国も人間も死線をさまよった昭和。復興への陰影が撮られた写真はますます貴重で、価値も高まろう。

つい最近、ある方から土門拳の書を見せてもらった。
あまりに良いので展示中の齋藤三郎の壺に添えてみるとぴったりだった。

 

「毘(び)」は人間のへそ、あるいは助ける、の意味がある。
脳梗塞の後、渾身の気力を込めて左手で書かれている。
「毘」は「龍」とともに上杉謙信の旗印。
人を励ます力がある。

日が長くなっている。
夕刻、診療を終えて残っている草花を植えるため、美術館に向かった。
通りがかった新堀川の桜が夕陽を浴びてきれいだった。

 

短時間の天然照明、夕陽桜の美しさ。
花冷えが利いているのか数日来満開のまま。

中西進、令和の新元号その3 花冷えどころではない寒さ。

2019年4月2日(火曜日)

本日夕刻のニュースで、新元号「令和」の考案者と仮定される人について報道があった。
中西進、懐かしい名前だった。

私には昭和50年代初めころから約10年あるいは15年間、苦しい時期があった。
長かったが必死に仕事し茶を習い、本を読みいつしか切り抜けた。
当時読んだ本の中に中西進氏の著書が何冊かあった。

 

 左から「古典と日本人」、「谷蟆考」、「雪月花」。
私を救ってくれたかもしれない本。
日本人の格調、命と自然の深遠が記されていたと思う。
谷蟆(たにぐぐ)→ヒキガエル
このたび元号の考案者は、伏せられるはず。
何故と思ったが、報道で名を聞いて一瞬胸が熱くなった。

ところで本日非常に寒く、気温は2~3度、何度も雪が舞った。
以下は上越市大潟区の様子。

 

 

 

ソメイヨシノは2月になると開花の準備が始まり、毎日の最高気温の合計が100になると咲き始めるという。
ローカルテレビ局の気象予報士の話だった。
これでいうと、どんなに寒くとも、その日0度を越えれば開花が進むことになる。
如何に遅れようが咲く、これは大変なことに違いない。

話変わって、中西進の本のそばに藤沢令夫の本「自然・文明・学問 科学の知と哲学の知」があった。

 偶然でもないが、藤沢氏の名前が令夫、「のりお」と読む。

奥付にあった読了の署名。
1984年2月28日と記され、11月に父が亡くなる年。
傍線や囲みをつけながら、一生懸命読んでいたようだ。

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