明け暮れ 我が家 お出かけ

子ども時代の日食

2009年7月22日(水曜日)

  今日は日食の日。国内の主要な観測地では雨に見舞われた所もあったようだ。40数年ぶりと知らされていたが、その前、私が小学校の時にもかなりの日食があった。昭和23年5月ということなので、小学校に入ったばかりの頃になる。

 

 学校で先生がローソクでガラス片にススを付けた。これで太陽を観る練習をしたように思う。そして本番は家の畑だった。日食当日は日曜日だったらしい。

 

 家には父が使う顕微鏡用のスライドグラスがあったのでそれを使った。いざ始まるとこすったり触ったりで、たちまちススが取れた。ススを付け直し、あちこち汚しながら楽しくもあっという間に終わってしまった。

 

 空腹で元気の乏しい毎日のなかで、日食は異様に盛り上がったと思う。満ち欠けよりも、真っ黒なガラスで見える濃い太陽が感動的だった。

 

Photo

拙絵です。大抵のことは姉がリードしました。

 

残念

2009年7月18日(土曜日)

 二日目のターンベリー、後半で石川遼の溌剌さが消えた。こんなに早く終わるとは。気になったのはひどく降り始めた最初のグリーンだった。終始傘を差さずに激しい雨に濡れるに任せていた石川。なぜだろう。

 

 ずぶ濡れの体に吹き付ける寒風。真冬の荒天にゴルフをするような身体環境になっていったに違いない。もっと体をいたわればよかったのに。

 

 タイガーも可哀想だった。かってないカメラやマイクの大集団が執拗に前後を襲う。紳士の静謐な競技であるゴルフの限界を超えていたに違いない。

 

 成長と犠牲。残念だったが、英国で石川選手が学んだものは大きかったと思う。どんなことでもいい、タイガーに手紙を書いてみたらどうだろう。

 

二人が去ったターンベリー       

 

石川遼!

2009年7月16日(木曜日)

 

 全英オープン初日、何と素晴らしい石川遼!

 5Birdies 2under、素晴らしい。

出来れば最後まで頑張って。

 

低い雲 入り江を行く小舟 そして草地

遠いあこがれ   スコットランド

 

楽しい錯覚

2009年7月15日(水曜日)

 午前は朝から無風で酷暑。仕事で多くの方と挨拶をしたが、「暑いですねー」の一言で互いに十分なほどだった。それが午後遅くから曇って強風となり気温が下がり始めた。お天気は本当にお天気屋さんだ。

 

 昼、カフェの本の追加に美術館に寄った。そしたらひょっこりそふぃーさんが来られた。彼女は樹下美術館のことをよくブログに書いてくださるので感謝を禁じ得ない。不思議なことにそふぃーさんとお会いする時は、本の中からぱっと現れるように感じる。どうしてかな、と考えてみた。それは私が彼女のブログをみているせいかと思った。つまりブログの中(文字→本)から現れるという風に一瞬錯覚するのだろう。

 

 夕食どきに障子が赤く染まった。夕焼けは晴れが良いとは限らない。海まで数分、今日は四ツ屋浜へ見に行った。いつものように佐渡汽船が近づいて来た。几帳面でお利口な佐渡汽船。夕焼けの汽船を見ていると旅情がよぎる。こんな気持ちも楽しい錯覚。

   

今日の佐渡汽船

 

※庭で頑張っていたテッポウ百合が長雨で終わってしまいました、申し分けありません。しばらくキキョウが続き、ナデシコが復活してくると思われます。

 

泉州の水なす

2009年7月12日(日曜日)

 関西の方から水なすの漬け物を頂いた。大阪府下、泉州で栽培される非常に水分の多いなすとあった。同地域の夏の農作業ではこれを食べて渇きを癒すことがあるらしい。初めて見て食べた。

 

 皮は厚く柔らかで、切らずに裂いて食べてと書いてあった。試みると簡単に縦に裂ける。包丁を入れたのに比べるとざっくりとした水気の食感が違う。浅漬けの塩加減もなんともさっぱりしていた。

 泉州と言えば利休。そして秀吉、はては上洛した景勝、兼続、実頼もこれを食べたのだろうか。

 

 さて天地人は政宗の進出が急だ。兼続たちも東北の備えのために、ここ上越・春日山を離れる日が近づいているようだ。徳川vs秀吉の渦中で兼続たちの苦労が続く。

 

 

帽子を二つかぶった人から

2009年7月3日(金曜日)

「暑いから二つかぶっているの」。幼い時の夏、外出前の玄関先で娘はそう言った。麦わら帽子の上に野球帽を乗せてまぶしそうだった。

本日、横浜にいるその娘から「BAMBOO COMIC」という画像制作ソフトが送られてきた。愛らしい天然に恵まれていた娘は自ら学び、ゲームソフト制作の仕事に携わっていた。それで何かとパソコンの画像に詳しい。

今回のソフトは、以前私が色々つまらない質問をしたので、気を使ってくれたのかと思う。遅くなった父の日にとカードがあった。楽しげなパッケージは超若者向けの気配だ。果たしてちゃんと使えるだろうか。

齋藤さんと我が家 8 美術館へ

2009年6月30日(火曜日)

 前回は父に続いて齋藤三郎さんの作品を自分も集めてみよう、というところまで進んだ。今回は齋藤さんと我が家を終了すべく、少々長くなりました。どうかお許し下さい。

 

 さて平成5年頃から齋藤作品を探しに骨董屋(古美術商)さんを覗くようになった。 
ある日曜日、上越市内の店で印象的な皿に出会った。鮮やかな赤地に溌剌とした椿、四方に文字があって、齋藤さんには珍しくやや薄作り。花の様子から初期の作と思われた。

 

 お得意の椿・赤・文字がこれほど見事にそろった器を見たことがなかった。もしやこの皿を代表作の一つとして美術館が作れるのでは、打たれるような思いがよぎった。あるじは思っても見ない安価な価格を口にした。喜びのあまり具合が悪くなりそうだった。

 

 今度は何に出会えるのだろう。良い作品には次への期待が伴う。淑たる美と変化、使っても飾っても威張らない器。これらは齋藤作品の最大の魅力だ。少しずつ作品と出会いながら父の夢中が分かるような気がした。

 

色絵椿紋皿 直径23㎝  高さ5㎝ 昭和20年代

上越市内で出会って美術館を意識するようになった。

 

色絵木瓜(ぼけ)紋灰皿 昭和20年代

 糸魚川でのこと、店で色々見せてもらったが欲しい物が無かった。当時喫煙していた私は最後にタバコを取り出して、灰皿を所望した。店主が奥から持ち出したのがこの灰皿だった。磁器の白も花も優しく、一目見て気に入った。欲しいと告げると主人に難色が現れた。「店先に、この家のものは全て売り物です、と書いてありましたが」と言った。「わ、分かりました」、無理を飲んで頂いた事がよく分かった。

 

麦わら手 手桶花入れ 高さ26㎝  胴経18㎝  昭和20年代

  新潟で出会った大きな器。ああこんな作品もあったんだと、自分の狭さを知らされた。もう一回り大きなものがあり、炭火が入る手あぶりとして用いられたようだ。

 

 堀口すみれ子さんの本に、父であり詩人の堀口大学の思い出を綴った「虹の館」(かまくら春秋社・昭和62年3月27日発行)がある。書中、茶室「寸雪庵」で大学ご家族が初釜のお茶を頂く写真が載っている。皆さんの脇に齋藤作と思われる手桶風の手あぶりが置かれていた。

 

手もとの虹の館 

 「寸雪庵」は大学と親交があった写真家・濱谷浩氏宅の茶室と思われる。濱谷氏の奥様・朝さんがかって高田で営まれていたお茶室の名が寸雪庵だった。寸雪庵と齋藤さんの手あぶり。越後高田の名残りが、大磯で大切にされていた事を何ともゆかしく思った。

 

 さて蒐集は楽しい作業だった。加うるにあるご縁で倉石隆氏の作品とも関係するようになっていた。身に余る幸せと言わねばならない。

 

  すでに父が亡くなって25年、赤い椿皿と出会って10年。63才の年を考えればもう始めなければならなかった。平成17年、一級建築士設計家・大橋秀三氏に依頼して樹下美術館を建てることにした。

 

 設計が始まった年に遠くで妹が癌で亡くなった。生前、「これも飾って」と涙ながらに齋藤さんの器を包んでくれた日が忘れられない。

 

平成19年6月10日、つましい樹下美術館が建った。

シーグラスが素晴らしい器に

2009年6月25日(木曜日)

 

 Img_8659_2   

 

 今年5月17日のブログは「小さな竹の橋で」だった。当日の集まりは新潟県村上市。同じ新潟県でも上越市から村上までゆうに150キロはある。

 

 実は当日、早めに家を出たので時間が余った。それで村上の手前を左折して海へ行った。遠くでシーグラスを探すのも悪くない。初めての海はひと気なく、暮れる渚にはびっしりと砂利が上がっていた。砂利こそシーグラスの眠る場所。しかし意外にグラスは少なかった。30分ほど歩いて大小10ヶほど見つかった。

 

ー同夜、千葉の同級生Sとのやりとりでー
私「で、奥さんは何か趣味を」
S「大潮の日にな、海岸を歩いて色々と云々」
私「それビーチコーミング?」
S「おー、それそれ!」
私「シーグラスで蝋燭立てなど作るとか」
S「それそれ!」

 

 何という引き合いだろう。私は先ほど集めたグラスをポケットから取り出すと、よかったら奥さんに、と全てSに渡した。

 

 そして昨日6月24日。奥さんが集められたシーグラスをあしらったキャンドルホルダーがSから届いた。貴重な赤を二つも入れた繊細な器だった。

 

 私のイニシャルもS。学生時代、席もテニスも音楽も一緒だったS。しかし村上のやりとりほどピッタリ話が決まったことがあっただろうか。年を取ることは悪くない、頂いた蝋燭の灯りを見ながら思った。
奥様、本当に有り難うございました。

一枚の写真から50年

2009年6月20日(土曜日)

 私には2つ上の姉がいる。古い話だが姉は小学校を卒業すると旧高田市の中学校へ通った。高田は汽車でゆうに50分かかった。

 

 学校へ通い始めて間もなく姉は、とてもきれいな同級生がいる、と言った。ある日一緒の写真を撮ってもらったといって見せてくれた。体操着の女子数人がグラウンドでポーズをとっている写真だった。

 

 昔の写真は名刺ほどもなく小さい。しかし真っ白な体操着のNさんは特別愛くるしく生き生きと写っていた。あと二年、自分も高田の中学校へ行けば三年生のこの人を見ることが出来る。田舎坊主の5年生が抱いた淡いあこがれだった。

 

 しかし、彼女は間もなく転校してしまった。願いは叶わなかったが、本日午後なおえつ茶屋でこの人に会えた。花柳紀寿郎(紀子)さんは現に愛くるしい面立ちの人だった。

 

 姉が見せてくれた写真から50年以上が経っている。コーヒーを終えて私から名乗った。姉を良く覚えていると仰り喜んでくださった。眼前の人にはとても魅力的な手応えがあったのに、私の方はすーと透明になってしまった感じがしていた。

なんて可愛いマーちゃん

2009年6月16日(火曜日)

 午前にめまいの方の往診をした。一人暮らしのおばあさんだった。少しよくなったようだと仰ったが、一通りの処置をしてお薬を置いた。

 

 診察のあいだ、傍らのぬいぐるみが気になっていた。仕舞いをしてよくみると何とも可愛いい。メモリが仕込まれていて最近は「雨!雨!」と言い、毎朝「おはよう!」と言うそうだ。

 

 名前は「マーちゃん」、数年前に亡くなられたご主人の名を付けたという。顔もジャケットも靴下も、、、そして名前も、可愛いマーちゃんでした。

 

 

2025年7月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

▲ このページのTOPへ