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渡部典さんから届いたCD シーグラスの写真が

2011年7月9日(土曜日)

東京都でご活躍の上越市大潟区出身のグラフィックデザイナー机上工房の渡部典さん。彼女からしばしばご自分がデザインされたCDをお届け頂いていました。
またクロアチアのナイーブアート作家亡きイワン・ラツコヴィッチ氏の貴重な画集を樹下美術館のカフェ図書にお借りするなどとてもお世話になっています。

このたび新たにCDをお送りいただきました。

「シューベルト:歌曲集“白鳥の歌”」です。

ジョン・エルウィス(テノール)・渡邉順生(よしお)(フォルテピアノ)による一枚です。

ALMレコードによる当CDにはいくつかのトピックがあります。

●伴奏の渡邉順生さんの第42回2010年サントリー音楽賞。

●英国人ジョン・エルウィスさんの貴重な歌声。

●カバーデザインが大潟区出身の渡部典さん。

●写真は不肖わたくしの提供。   などでした。

数枚のCDを樹下美術館の窓口に置かせて頂きますのでどうぞお手にとってご覧下さい。

 

表紙
青いハート型のシーグラスを中心に白系のグラスで十字をあしいらいました。
裏表紙クレジット
私のクレジット
表紙裏の写真とクレジット。嬉しくて私の所を拡大しました。
ジャケット裏プログラム
プログラムはベートーベン「はるかな恋人に」とシューベルト「白鳥の歌」です。
透明で豊かな演奏は時代と私たちを慰めてくれることでしょう。

思えば2008年7月の海でたまたま出会ったシーグラス。以来訪れた浜で集め、その写真がCDカバーになるとは。またチョーカーにもなって樹下美術館の窓口に並びました。

江戸・粟田焼き 明治・十三夜 戦後・映画にごりえの「十三夜」

2011年6月26日(日曜日)

ある知人から京都の名菓、和久傳の“おもたせ”、れんこんもちの「西湖」を頂いた。齋藤尚明さんの白磁の皿に載せて、粟田焼きの小ぶりな茶碗で茶を服した。もっちりとろりのれんこん餅と笹の風味が一杯に広がって美味しかった。
おもたせ:おみやげ、てみやげ。

粟田(あわた)焼きは古い京焼きである江戸期の焼き物。陶器だったが、後に磁器の清水焼が代わって発展を遂げる。当お茶碗から陶器ならではの柔らかな感触が口に伝わった。
青海波(せいがいは)に千家の替え紋“つぼつぼ紋”が描かれたあっさりめの絵付けは、古さを凌ぐ気品を漂わせていた。
西湖

さて、お茶を頂いてしばらくして隣室のテレビ(最近地デジ対応にしました)に映画の音。妻がNHKーBSで今井正監督の昭和28年発表「にごりえ」をみていた。「十三夜」のあと「おおつごもり」と「にごりえ」が続くオムニバス映画だった。私が見たのは十三夜のところ。江戸の風情をまとう明治の人々の有様が非常に興味深かった。

十三夜禄の介に車賃を
おせきが車夫の録之助に車賃をわたそうとする。

広小路の別れ
上野広小路で分かれる二人
ああ何という風情だろう。このシーンの照明には凄みがあった
随分前に国立劇場で見た浅丘ルリ子の「たけくらべ」の照明も凄かった。

嫁ぎ先で苦しい立場となった若妻おせきが実家を訪ねる。両親は十三夜の月見のしつらえをして待っていた。

明治になると十三夜にも月見をするのは、一種古い文明を継いでいる世代(また家)ということになるようだ。おせきの嫁ぎ先は官吏だから満月を祝うのは十五夜だけなのだろう。その昔読んだ現代語訳では、このようなことに全く気づいていなかった。しかし今夜の映画の前半ではっきりそのことが描かれていて、十三夜の象徴性がよく分かった。

そしてラストの上野広小路、去りゆく録之助、見送るおせき。名残の月、十三夜は、去りゆく時代や人などとその不条理を特に優しく照らすのだった。

核とITの今日、物語の風情はもう過去には叶わないだろう。長生きが私たちを、若者を間延びしてさせてしまったのか、これも進化というのだろうか、あるいは自分が無知なのか?

物語を貫く一筋の芯。芯を的確に象徴する出来事。映像で見て、夭折の一葉の才能、そして今井監督の腕にあらためて畏敬を覚えた。

 おせきの丹阿弥谷津子に愛らしくも文学が、その文学を深める車夫は芥川比呂志。いつもながら、私より何倍も映画を見ている妻は若き日の役者さんたちの名をピタピタ当てた。

小室等&佐久間順平コンサートの模様

2011年6月17日(金曜日)

前後してしまいましたが、昨日の小室さん、佐久間さんのコンサートの模様です。到着後一息ついて始まったリハーサルは非常に丁寧に時間をかけて行われた。

 

音響は付きっきりでビッグサウンドさんがコントロールされた。

 

リハーサルその1 
リハーサルは念には

リハーサルその2 
念が入れられ

 

本番 
本番の二人は反応しあって音楽が増幅された。
音楽、大人っぷりともに素晴らしかった。

 

今年音楽活動50周年の小室さんは声量があり、感情起伏が豊かに波打つ。佐久間さんはギターのほかにヴァイオリン、マンドリンを奏で、歌声に優しいペーソスがにじんだ。

 

詩は谷川俊太郎、金子光晴、別役実、及川恒平氏などで、心に浸みる。小室さんによるベラルーシの少女はチェルノブイリの原発被害を受けた痛ましい子どものことが歌われた。

 

音は樹下美術館のホールによく響き、お二人の音楽力に満たされた2時間余だった。 

小室等さん佐久間順平さんのコンサートが終わった

2011年6月17日(金曜日)

昨夜、樹下美術館で行われた小室等さんと佐久間順平さんの熱いコンサートが終わった。お二人とも熱心で、大人っぷりも素晴らしく、ミュージシャンとはこのような人なのでは、と心から思った。

 

集合写真 無事に終わって、演奏者のお二人とスタッフ
(ほか駐車場、カフェなどでも大勢様のお世話になりました)
打ち上げで 
打ち上げのお二人、ピンぼけを許して

 

演奏者は真心込めて歌い、楽器は麗しく奏でられ、私たちも歌った2時間。人生70年を前にしてこんな貴重な時間に巡り会えるとは。

 

お集まりくださった皆様には感謝に堪えません。もしかしたら樹下美術館はこれからが本番なのかもしれません。

 

今後ともどうかどうか宜しくお願い致します。

 

手前ごとですが、当演奏会は南三陸町の拙弟の世話になりました。次回のノートにコンサートのお二人の写真を載せたいと思います、至極感謝。

岩の原葡萄園 文化が少し分かって 私の1930年代とは

2011年6月14日(火曜日)

私事で恐縮ですが、亡き父は明治39年2月1日の誕生で、存命の母は大正4年3月6日の生まれです。父の2月1日に偶々小生も誕生し、365分の1の確率に少々の不思議を感じています。

以前に少し書かせていただきましたが、父母が最も生き生きしていた頃、つまり二人の青春時代に漠然たる憧れを持つような事は私だけでしょうか。もしかしたらこのことは厳格なDNAの貴重なセンチメンタリズムかもしれないと思っています。

 

自分が1930年代のアールデコに惹かれるのは、そうだとすると少し幸せになります。

ところで今夕、直江津・センチュリーイカヤさんで、岩の原葡萄園の坂田社長をお向かえして「善兵衛の会」がありました。飲めない自分が岩の原のワインを頂き、流れに任せて二次会もして代行で帰って来ました。

代行は妻の車で、車中のCDにタンゴがかかっていました。「小雨降る径」は印象的でした。ご承知のようにドイツタンゴはコンチネンタルタンゴです。小雨降る径はフランスでシャンソンとなり、古くは淡谷のり子さんが歌ったそうで、昭和30~40年代でしたか、菅原洋一さんが歌ったと記憶しています。

 

作曲は1930年代ということ。私がこの曲を好きなのは曲の良さもありますが、父25才、母14才のころの音楽だったせい、と考えてみたくなります。

ならばその両親(祖父母)の青春である明治前~中期への憧れもまたどこかに?そして私の子どもたちは昭和のある時期を?

 

さて今夕の会は画家・小林新治先生とご一緒でした。先生からいくつもお話をお聞きすることが出来て、楽しくも有意義なひと時でした。

 

ちなみに先生は、

「アートは自然に還元されうる」「新潟県のエッセンスは自然と水」「文化は第二の自然」「教育の最終目的は文化」「政治の目する所は文化、しかし政治家にはそれを言い出せないジレンマがある」「それ故?この時代、文化は真っ先に削られる悲しい立場になっている」。

本当に胸に響くお話でした。さらに、

「食べれなくなったら、新潟県では隣の家に米を借りに行く。信州は子どもを大学へやる」。時代の流れとして「以前人の流れは地方→東京だった。今後は東京→地方の時代」「これまでは権威の文化、いまはローカルの文化」「文化は首長でも変わる、横浜市、石川県はその良いモデル」、と。

大勢の方にもお目に掛かれて、普段の引き籠もりを解消させていただきました。

お叱りを承知して1930年代のコンチネンタルタンゴ「小雨降る径」を付けました。申し分けありません、もたもたしているうちに日付を跨いでしまいました。

 

追記:善兵衛の会で拙弟が牧場コルティッホ・ソーナイで飼育したいばり仔豚が、“リエット”とメインの“煮込みカシスソース”として出されました。手前味噌ですがとても美味しく料理されていました。

高田への三時間 精神に良かった午後

2011年6月5日(日曜日)

少しは家から離れたい日曜日。3時間のヒマをみて高田へ行った。三カ所を回って楽しむことができた。絵描きさんも呉服店さんも、バラ作りさんも、みな良い人たちでそれぞれ心こもりの品は気持ち良かった。

 

ああそれなのに、超危険物・原発の事故はまだ底なしの恐ろしい領域を残したままだ。近づけないほど危険な水は地下へ水脈へ、おそらく海へもしみ出ていることだろう。お前が悪い、言った言わない、うろたえる政治、確固としない関連学会。

加えて素人目ながら、一つの原発の来るべき精度疲労は部品を一つずつ替えれば済む問題ではないと写る。多分疲労・劣化は全体として一斉にくるのだろうし、それは巨大エネルギーシステムの最もデリケートで最も弱い点ではないのだろうか。

たとえ便利でも、恐怖を内包するシステムへの依存は少なくとも精神によくない。このたびの事故はそのことを極めて具体的に見せている。

時間と少々の不便はおそらく越えられる。もはやこれまで、今後は何事も精神に良い方を採用するこどだ。これこそ創意工夫の国、創意工夫の人、日本と日本人に相応しい過去と未来ではないのだろうか。

 

さて、高田の最初は遊心堂さん。小林新治・充也先生の親子展を見た。充也先生のさんさんたる色彩の雪、造形に虹彩を見るような日本画は魅力的だった。
新治先生はますますお元気だ。連日悩ましいアンバランスな政治とは好対照。そっとしたものから、晴々したものまで何とも気持ちのよい絵画だった。上越の風土はいかにもモチーフ豊かだなあ、とあらためて感じた。(充也先生の作品撮影は写真に室内が多く写ってしまい失敗、大変申し分けありません)。

灯台

大らかな大地と営みの風景画
花
優しい眼差しの生物画

次は「きものの小川」さん。いつも気にしながらお店の前を何度も何度も車で通っていた。さて今日は行くぞと、初めて伺った。高田の要所をきもので守る、とても貴重なお店だった。さわやかなご主人と奥様。先日樹下美術館へいらしてくださったお嬢様のお顔も見えた。ぜひまた来たい。

のれん非常にシックなのれん。何という色なのだろう、消し炭色?
あかり
吹き抜け天井からの灯り、山吹色かな
帯締め
帯締めのアラカルト

 

最後は陶芸家小川恵子さんのバラとお花の庭へ。以前少しご縁があったが、お会いするのは初めての小川さん。溌剌として美しい方だった。

バラまたバラの園内。妻と小川さんの会話は実に楽しそうであり、次々と出る花の名は私にはほとんどサッパリだった。下草もバラとよく調和していて、大変なはずの土の何気なさにやや驚いた。

IMG_0452
ばらその1
ばらその2
ばらその2

 ピエール・ドゥ・ロンサール
ピエール・ドゥ・ロンサール

 良い午後だった、また皆様のように頑張ろう。
樹下美術館も新潟の方々や何組もの若者さんたちでほどよい賑わいだった。

福島県からのお子さんたち  そして夏は来ぬ

2011年5月25日(水曜日)

あらいそ・絆   学校医をしている大潟小学校のPTA誌「あらいそ」。今年から始まったミニコラム絆のスタートに書いて、ということで駐在さんと一番バッターをしました。

福島県から上越市に避難されたお子さんの多くが、新学期から大潟区の小中学校に転校されました。それで福島の友達とのことを書きました。

 

わずかなスペースをなんとかうめて拙文とし、本日それが届きました。

新たな人との関係は、なにかとこちらの事ばかりを話したくなりますが、ぜひ相手(福島のみなさん)のことも聞いてほしい、一心を書きました。※文中の大潟町→大潟区でした(汗)。

 

そして本日は地元の保育園で春の健診。小中学校だけでなく、保育園にも10人ほど福島県からの園児が通っていることを知りました。

こうしてみますと、避難された方たちの中に如何に若いご夫婦が多いかが、あらためて分かります。職業のこと、教育、不慣れな生活、、、大変だろうなと思いました。まず何よりお子さんたちが当地でのびのび出来ることをお祈りしています。

 

どうかみな様頑張ってください。御地の回復、そして時には当地で楽しんでいただければと心から願っています。

 

卯の花 さて写真は、今日の保育園に咲いていた卯の花の植え込みです。

卯の花の匂う垣根に、、、♪の「夏は来ぬ」は大潟の人、小山作之助の作曲です。作曲は古く明治29年でした。曲は音階を上げていって高らかに終わります。

このことについて、團伊玖磨氏が随筆集「好きな歌・嫌いな歌」で曲の斬新さを賞賛されていました。確かに季節にふさわしい晴々としたエンディングだと思います。ちなみに以前にも書きましたが、作之助は小生の祖父の兄です(再汗)。

夏を迎える満開の白い花を見ますと、あらため花も曲もいいな-、と思いました。

歌が共有されていた時代 昭和の素朴なやさしさと力

2011年3月30日(水曜日)

今は昔、昭和よき時代の歌はだれ彼なく一緒に聞いた。次の復興・発展に向かった時代、みな何処かで貧しさや悲しさを共有し、美しいメロディを愛した。

 

ザ・ピーナッツ「心の窓にともし灯を」
1959年(昭和34年)NHK歳末助け合い運動のから生まれたという。
まだ新幹線も高速道路もなく、未舗装の道路が多く、東京タワーが出来たころ。
病に見通しがついた私は、上越市寺町の下宿でおじさんおばさんとちゃぶ台を囲んで食事をしていた。

 このところ患者さんたちは沈みがちで血圧も高い。私も同じ、大震災、原発災害の深刻さに感染している。

掲載した曲のハーモニー、メロディとも美しく、昭和ならではの丁寧さに力も感じられます。いつも古いものばかりで恥ずかしいのですが、どうかお許しください。

妻は仙台へ 大阪の救援車輌群 神話的な災害 

2011年3月26日(土曜日)

寒かった三月、今後の暦は三月までを冬と名付けては、と考えた。新潟市の拙作品展は厳しい環境の中で間もなく終わる。後半は圧倒的な震災によって作品展どころではなかった。

そんな中、お見えくださる方がいらっしゃて感謝している。午後会場を訪ねた。閑散としていたが、やむを得ない。

   給油

 道中では大阪、堺、なにわ、、、など大阪府ナンバ-の復旧車輌が多数給油していた。パーキングエリアの売店は休みと間違えるほど暗く節電してあった。
半分くらいの自販機に使用中止の張り紙。

 ところで私たちには宮城県に住んでいる親族が三組いる。昨日妻は大きな荷物を持って高速バスで仙台へ向かった。7時間はかかったようだ。二泊3日の強行軍、深いショックを受けないか心配だ。

 

          夕焼け
帰りの夕焼け。

毎日知る過酷な状況、神話とはこのようなことなのだろうか
神話から世界が生まれるとして
よい国づくりが始まることを祈りたい


昔の音楽を聞いてみた。
ジェームスディーンの写真とFausto Papettiの“小さな花”

最後の介護保険審査会 シェルブール  網膜剥離

2011年3月24日(木曜日)

資料が送られてきて、今年最後の介護保険審査会が来週で終わる。次年度中に70才になるので規定に甘えて今回を最後に委員を下ろさせていただくことにした。介護保険にはよく付き合ってきたと思う。

介護保険が産声を上げたのは平成12年度。その5年ほど前に突然、新潟県庁から何人かの役人さんが尋ねて来た。在宅医療や介護についてのヒアリングだった。色々聞かれた中で、保健婦さんの福祉マインドと介護技術を尋ねられた。あまりの急所に正直びっくりした。

来られた人達はみな若くよく勉強していた。何かが始まる気配を感じたが、まさか介護保険という壮大なシステムが想定されているとは思ってもみなかった。

昭和50年から総合病院の無い町での開業。忙しい外来のほかに往診用件が多く、在宅の看取りは当たり前だった。寒い部屋で糞尿にまみれ息子さんを待っていたおかあさん。一日中おかゆの手ナベ一個が枕元に置かれているだけのおじいさん。窓を開けて、お嫁さんの悪口を毎日叫ぶおばあさん、、、、。これでいいとはとても思われなかった。

欲を言ったらきりがないが、介護保険は世界に誇れる制度だと思っている。まがりなりにも理想が論じられた結果ではなかっただろうか。

 

シェルブールの雨傘:ピアノ・山田紗耶加さん

映画シェルブールの雨傘は

雪のガソリンスタンドと子どもの名前が切ない物語だった。

 今シェルブール一帯は原子力関連の施設を多く抱えていて、

別の意味で悲しい。

 ところで介護保険の前夜、福祉の事になると、以下のような話をよく耳にした。

 「福祉、福祉というけど、その前にまず経済をよくしないと」
「昔から地域には必ず気の毒な人たちが居たもんです、今さら騒がなくても」
「体を鍛えて介護保険などの世話にならないようにすることが大事です」

地域の慈善団体の長と、町の要人の話だった。
一番目の人は景気が良くても同じ事を言う。
奇異かもしれないが原子力発電のマターと福祉はどこか似ている。

不景気のアゲインストの中、ケアマネを育て社会のマインドを上げて
介護保険は頑張った。

数日前から右眼に網膜剥離の症状が出ている。

本日午後の眼科を予約した。

100発前後のレザーは覚悟しているが、手術だけは勘弁してもらいたい。

丈夫でもないのに、35年間病気を理由に仕事を休んだことがなかったので。

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