文化・美術・音楽・本・映画・スポーツ・テレビ

仕事休みの暑い午後、再び一人でハーフを回った。

2020年8月6日(木曜日)

本日日中の気温は上昇し、上越市髙田の最高気温は13:47に34,7度ということだった。
空さえ問題なければ、夏は暑ければ暑いほど外へ出たくなる性分。

本日午後は仕事休みなので、近くの米山水源ゴルフ場へ行き、1時15分ころからカートを使ってハーフを回った。
くれぐれも暑さに気を付けて、と言ってゴルフ場から500ミリリットルの冷たいボトルが出た。

二年前から問題を起こしていた左手親指の付け根の痛みが和らいできたので、本来のグリップに戻すと幾分打球が安定してきた。

4番ショートホールの木陰で、頂いた「熊野古道水」を飲んだ。
当地ではこの頃が最高気温だったらしい。

途中の販売機でスポーツドリンクを買い、1時間40分のラウンド中1000ミリリットル飲んだ。

6月25日に次いで二回目の一人ハーフ。暑さでコースは空いていて、とてもリフレッシュ出来た。
費用はトータル4650円だった。

長いコロナの梅雨にシャングリ・ラ(Shangri-La)。

2020年7月28日(火曜日)

長い梅雨、全国を支配するウイルス感染症で、明るかるべき夏がまったく冴えない。

こんな日にシャングリ・ラ:Shangri-LaをYouTubeから曳いてみました。

 


ザ・レターメンによる「Shangri-La(シャングリラ)」1969年。
貴方との時間は一瞬一瞬がシャングリラ、と歌われる。

ウィキペディによれば、Shangri-Laはイギリスの作家が1933年に出版した小説『失われた地平線』に登場するチベット奥地の理想郷だという。転じて、一般的に桃源郷やユートピアとしても扱われている。

以下はパーシー・フェイスによるShangri-La。

 


Shangri-La 1963年。

こちらはちょっぴり東洋趣味の味付けがされている。桃源郷は外界から遮断されているというから、コロナウイルスなども入る事はできず長い梅雨などもなさそうだ。

庭でカサブランカが咲き始めた 「As Time Goes By(時の過ぎ行くままに)」と飯吉馨さん。

2020年7月23日(木曜日)

傘マークが付いた日だったが、ほとんど降ることは無かった。

7月の連休初日、Go-Toキャンペーン初日でもあるこの日、樹下美術館に居る限り静かに過ぎた。

長く降り込められながら懸命に咲いたテッポウユリが終わり、代わって庭にカサブランカが華やかに登場した。
花弁の先端をひるがえして大きく開くこの花は、数はテッポウユリより少ないものの香りが高く引力は強い。

 

梅雨時に咲くなど気の毒な面をもちながら、
百合たちは一生懸命生気を振る舞う。
1970年代、日本のヤマユリを基にオランダで誕生した品種と言われる。

さてこちらは映画「カサブランカ」のテーマ曲「As Time Goes By(時の過ぎゆくままに)」です。
同じカサブランカですが、1942年に制作された映画の方が先のようです。


映像は現代のようですが、歌は1961年のベギー・リー。

 

以下は上越市出身のジャズ・ピアニスト故飯吉馨さんのCDジャケットの写真です。
氏は当地新潟大学藝能科でクラシックを勉強後、ジャズ・ピアニストの世良譲氏に師事。その後著名な奏者のコンボに参加、後に自らのカルテットを結成。NHK「音楽の広場」では森山良子とともにレギュラーを務め、テレビ朝日「題名の無い音楽会」などの出演で親しまれました。
一方でスタジオ・ミュージシャンとして録音演奏のほか、相良直美、森山良子、ガロほか数多くのアーティストの編曲を手がけ、さらにビクター音楽カレッジほかで後進の指導に当たりました。
ハンサムな人であり、かってサンヨーレインコートのCMにご自身が出演されたことがあります。

 

〝GREAT ART BEAKEY〟
Sep.29.1997 Live at Victor Music Collage

KAORU IHYOSHI Dreaming Piano FPD-5006
のプロフィール。

演奏会やライブは、しばしば「As Time Goes By」で始まり、氏のテーマ曲ではなかったかと思う。

当地でホームコンサートがよく開かれ、私どもへも何度か訪ねて頂き、弾いて下さった。
後年氏が出演し、著名人が集まった東京青山のピアノバーを時折訪ねた。ご常連という井上順氏が来られると、「駆けつけ三曲」などと言ってはこの曲を歌われた。
ある日順氏はマイクを握ると、以下の話を披露された。
〝カサブランカの映画制作で主演のハンフリー・ボガードがロケ先のカサブランカへ行くことになった。関係者に服装の事を訪ねた所、案外寒いと助言を受けた。そこで少々厚着をして空港に降り立ったところ現地は暑く、タラップを降りながら思わず「かさばらんか」と言った〟と話し、みなを笑わせた事があった。
そもそも1942年のこの映画は第二次大戦開始直後の制作であり、現地ロケなどはしてなかったという事のようです。さすが井上順さんです。

ちなみに映画が作られた年の2月、父が勤務していた満州奉天(現中国瀋陽)の満鉄病院の一室で私は生まれたようです。

去る日曜日午後の柏崎行き その2市立博物館から木村茶道美術館へ。

2020年7月22日(水曜日)

去る7月19日日曜日の柏崎行きの続きです。
前回は大潟区犀潟の圓蔵寺の大日如来像と作者の石工高橋一廣を考察した冊子を、さらに海辺の青海川駅の様子を綴らせて頂いた。

梅雨の合間の貴重な晴天のもと、半日足らずの隣市の探訪は楽しかった。

 

前回ご紹介した米山大橋。

 

 

大橋と海を見る旧街道の高い所に、円形の出羽三山参拝の供養塔{巡拝碑)があった。
最も信仰厚い湯殿山を真ん中に左羽黒山、右に月山。
一帯の随所に西国や秩父そして出羽三山の巡拝供養の石塔が見られる。

青海川駅のすぐ手前の青海神社下に大正元年と読める庚申塔があった。
庚申行事としては遅い時代くまで行われていた模様で感心した。

 

 

 

14時半すぎ柏崎市博物館へ。
ショップを見ると小生の絵はがきが販売されていた。

古い統治、農魚業と生活、町と村、信仰と祭、鉱業(石油)、地質、戦争(大戦、鯨波戦争)、地震災害、生態系、現代の文化・芸術とスポーツなど、風土とその歴史が網羅され興味尽きなかった。
生活史や信仰では、米山を東西に挟む上越市柿崎地域との往来に納得し、格調高く展示された木喰仏は特に心うばわれた。

明治期の火災で閻魔堂内から救出された閻魔様。
館内ではこの像のみ撮影が許されている。

 

一回りして出ると駐車場の背後に庚申塔が4基配置されていた。

 

その一つ青面金剛(しょうめんこんごう)の塔。

庚申塔は生活の安堵の証しのように感じる。大規模な凶作や災害のもとでは講は維持出来なかったに違い無い。
そんなことから塔とその周辺の風景を眺めるとき、ひと事ながらほっとするのを覚えるのである。

当日最終の目的は木村茶道美術館でお茶を飲むことだった。
15時45分ころ赤坂山の駐車場に入った。
コロナの世相で果たして開館と呈茶はどうなっているのか、遅い時刻でもあり気がかりだった。

 


相変わらず手入れの良い壮大な庭を急いで美術館へ上がると、受付の方が4時半まで大丈夫です、と仰った。

 

待合に正岡子規の短冊が掛けられている。
夏帽や不起とはされて濠に落つ
(夏帽やふきとばされて濠に落つ)
夏の流動する大気がよまれていた。

庭に面した竹の長椅子に座る間もなく、最後の席が始まった。
もったいないことに、私一人のために裏千家の方がお点前をされた。
席主さんの説明では、コロナのために南北の戸を十分に開け放ち、小人数ずつ分けて座り、マスクをしてのお点前を続けているという。
私どもも今週末、呈茶の予定があるのでとても参考になった。

穏やかなお点前で美味しいお茶とお菓子を頂いた。
手付の竹筒花入れに、矢筈薄(やはずすすき)、白花秋海棠(しろばなしゅうかいどう)、金水引(自信がありません)が涼しかった。

向こうの菓子器は現在同館で展示中の神山清子作の信楽。
神山さんは同市に縁があったとお聞きした。

 

茶杓は宗旦作銘「弁慶」、黒中棗(満田道志作)、茶碗は三代道入(ノンコウ)の黒楽平茶碗。
ふと訪ねてノンコウのお茶碗で服すとは!

夏のお席で黒味のお道具は心引き締まり涼やかだった。お道具組みは表千家のお仕事ということ、感心しました。

 

帰路の石段模様がリズミカルで楽しい。

5時間に満たない柏崎。西の一部を巡っただけですが、海、山、博物、お茶とお菓子など沢山頂きました。

「銀の匙」の夕刻 過日の夕暮れ。

2020年7月14日(火曜日)

雨に何か考えがあるのだろうか、とにかく降り続く。
今日も降り、体調がすぐれない人が、自分はコロナではないでしょうか、などと言う。

さてたびたびの「銀の匙」。明治期中頃にかけて幼年のこどもの日常が描かれる。つぶさな描写から生活は、まだ江戸時代の名残を引き継いでいる。一方現在の私たちの心の中にも、かっての時代の情緒性が息づき、ある時刻や情景によって浮上し、共感を覚える。

以下は「銀の匙」から、夏の初めの夕刻における幼い主人公と仲良しの女の子お国さんとの場面です。

あの静かな子供の日の遊びを心からなつかしくおもう。そのうちにも楽しいのは夕がたの遊びであった。ことに夏のはじめなど日があかあかと夕ばえの雲になごりをとどめて暮れてゆくのをながめながら、もうじき帰らねばとおもえば残り惜しくなって子供たちはいっそう遊びにふける。
ちょんがくれにも、めかくしにも、おか鬼にも、石蹴りにもあきたお国さんは、前髪をかきあげえ汗ばんだ顔に風をあてながら
「こんだなにして遊びましょう」
という。私も袂で顔をふきながら
「かーごめ かごめ をしましょう」
という。
「かーごめ かごめ、かーごんなかの鳥は いついつでやる……」

-途中略-

夕ばえの雲の色もあせてゆけばこっそりと待ちかまえてた月がほのかにさしてくる。二人はその柔和なおもてをあおいで お月様いくつ をうたう。
「お月さまいくつ、十三ななつ、まだとしゃ若いな…..」
お国さんは両手の目で眼鏡をこしらえて
「こうしてみると兎がお餅をついているのがみえる」
というので私もまねをしてのぞいてみる。あのほのかなまんまるの国に兎がひとりで餅をついているとは無垢にして好奇心にみちた子供の心になんという嬉しいことである。

以下は7月9日、いっとき雨が上がった夕刻の写真です。

 

 

 

 

夕暮れの茜があたり全体を包むと、去りがたい名惜しさをがつのる。
出来れば茜と一緒に西の国へ行ってみたいのだが、それは黒い森影などを残して去ってしまう。
取り残されて私は、いつも動物のようにすごすごと家路をたどる。

♪ 菜の花畑に入り陽うすれ~
♪ 夕焼け小焼けの赤とんぼ~
♪ 夕空晴れて秋風吹き~
♪ 夕焼け小焼けで日が暮れて~
♪ 秋の夕陽に照る山もみぢ~
♪あの町この町日が暮れて~
♪ぎんぎんぎらぎら夕陽が沈む~
※「叱られて」も夕暮れでしたね。

斯く子供のころから、私たちは日暮れを歌ったり聴いたりして育ってきた。

さて、くだんの本では、伯母さんが迎えに来て、幼い主人公と女友達お国さんは
「かいろが鳴いたからかーいろ」と、玄関先までかわるがわる呼び合いながら家に帰るのである。

明治時代の信心、小説「銀の匙」の伯母さんと主人公 信心は生の肯定と憐れみの心。

2020年7月6日(月曜日)

何度も登場している銀の匙。明治時代中頃の生活が描かれ,信心深い伯母さんと、こどもである主人公の日常の応答がリアリティをもって心に響く。
本日は、その伯母さんの仏性や信心の深さが窺われる場面から、いくつか引用させてもらい記してしみました。

主人公(こども時代の著者)に対する伯母さんの考え。

〝伯母さんは私を育てるのがこの世に生きている唯一の楽しみであった。(途中略)というのは、今もし生きていればひとつちがいであるはずの兄が生まれると間もなく「驚風」でなくなったのを、伯母さんは自分の子が死んでゆくように嘆いて
「生まれかえってきておくれよ、生れかえってきとくれよ」
といっておいおいと泣いた。そしたら翌年私が生まれたもので、仏様のお蔭で先(せん)の子が生まれかえってきたと思いこんで無上に私を大事にしたのだそうである。
たとえこの穢い(きたない)できものだらけの子でもが、頼りない伯母さんの頼みをわすれずに極楽の蓮(はちす)の家をふりすててきたものと思えばどんなにか嬉しく、いとしかったであろう。それゆえ私が四つ五つになってから、伯母さんは毎朝仏様へお供物をあげるときにーそれは信心深い伯母さんの幸福な役目であったー折折お仏壇のまえへつれていってまだいろはのいの字も読めないこどもに兄の戒名、伯母さんの考えによれば即ち私が極楽にいた時の名まであるところの、一喚即応童子(いっかんそくおうどうじ)というのを空に覚えさせた〟

驚風:こども時代にかかる高熱や痙攣をともなう髄膜炎。
厚く手を掛けた子が逝き、翌年に生まれた子をその生まれ変わりとして可愛がる。最も尊ぶべきものがアイデンティティとする現代ではあり得ない心情であろう。だが極楽からとって返してきたという考えや、兄の戒名をそらんじさせて同一化を願うなど、あの世とこの世が一続きであるとする信心の深さに感心させられる。

観音様の形をした雲。

〝夏になればいろいろな形をした雲の塊が日光にあふれてぎらぎらする空を動いてゆくのを伯母さんは、あれは文殊菩薩だの、あれは普賢菩薩だのとまことしやかに教えた。
ある日のこと遊び疲れた私はひとり寝ころんで自分をまもってくださる仏様の姿に似た雲のくるのを眺めていた。そうしたらちょうどそこへ通りかかった雲の、観音様の仰向けになったようなのが不意に崩れて恐ろしい形になったので、私は化けものが観音様になって、とりにきたのかと思ってあわてて伯母さんのところへ逃げていった。それから私はそういう形の雲を死人観音(しびとかんのん)と名づけてその影をみればすぐにかくれてしまった〟
この下りの雲は一部自分も経験しているので、楽しく読めた

伯母さんは四角い字(漢字のこと)こそ読めないが、無尽蔵と思われるほど話の種を持っていたという。

その1
〝なかでもあわれなのは賽(さい)の河原に石をつむこどもの話と千本桜の初音(はつね)の鼓(つつみ)の話であった。伯母さんは悲しげな調子であの巡礼唄をひとくさりうたっては説明をくわえてゆく。その充分なことわけはのみこめないのだが、胎内で母親に苦労をかけながら恩を報いずに死んだため塔をたてて罪の償いをしようと淋しい賽の河原にとぼとぼと石を積んでいるのを鬼がきては鉄棒でつきこわしてひどいめにあわせる。それをやさしい地蔵様がかばって法衣(ころも)の袖のしたにかくしてくださる というのをきくたんびに、私は息のとまりそうな陰鬱な気におしつけられ、また可哀そうな子供の身のうえがしみじみと思いやられてしゃくりあげしゃくりあげ泣くのを、伯母さんは背中をなでて、
「ええわ ええわ、お地蔵様がおいであそばすで」という。
賽の河原と子が積む石塔の話は子供時代から色々聞いていた。文中、悲しむ主人公に対して伯母さんはこれ以上無い慰め方をする。

その2
〝仏性の伯母さんの手一つでそだてられて獣と人間とのあいだになんの差別もつけなかった私は親の生皮(なまかわ)を剥がれたふびんな子狐の話を身につまされてきいた。親の白狐は皮を剥がれながら わが子かわいや わが子かわいや といって鳴いたという。これは私の知っている鼓についての三つの話のうちの最もあわれな話である。それは神秘の雲につつまれて天から降った鼓でもなく、つれない人が綾でで張ったという音なしの鼓でもなく、大和の国の野原にすむ狐の皮で貼ったただの鼓が恩愛の情にひかれてわが子を思う声をだしたというのである。私は今でもこの話を思い出せば昔ながらの感情の沸きおこるのをおぼえる〟
この下りは義太夫や歌舞伎の「義経千本桜」における人気の段にある。初音と呼ばれた鼓の名器の皮は、千年生きた狐から剥がされたもの。鼓の皮となって死んだ親に対して子狐は人に化けて鼓を守る。源氏の時代、静御前へと鼓が渡ると、子狐は義経の家臣佐藤忠信(ただのぶ)に化けて御前と鼓に付く。
ある日病気だった本物の忠信(源九郎忠信)と、狐忠信がともに義経の前に現れる出来事が起きる。どちらが本物かの詮議で、鼓への反応で狐忠信は正体がばれ、御前に切られそうになる。しかし親孝行を遂げたいという子狐の切々たる身の上話を聞いた義経は、許したうえ鼓を与える。
YouTubeに掲載された文楽や歌舞伎で、鼓を与えられた狐忠信が、ほおずりしながら嬉々として舞い帰る最後の場面など非常に秀逸だった。

以上は信心深い伯母さんと、幼く多感な主人公の日常の一部です。
〝胎内で親に苦労を掛けた恩〟などという凄まじい考えは、今や困難だ。しかしその昔では一般に感覚された事がらかもしれない。
親への恩や孝行には何かしら越えるべき試練が内包されているが、全て〝生まれた幸せ、いま生きている幸せ〟が前提で成立しているように思われる。古めかしく見えるけれども、かつてそれは、陰に日なた「生」と「その幸運」を肯定しようとする原点を有し、生活のすみずみに溶け込んでいたのではないだろうか。このようにみると、過ぎし日常文化の深さを考えないわけにはいかない。

但しこれが戦(いくさ)における主従とその恩に取り入れられると、「犠牲の強要」という残酷な相に転化され、本来の生の肯定的な意味と反対のものになる。
銀の匙の物語は、国が富国強兵に染まる過渡期の話であり、特に幼少時代の風俗習慣と信心はまだ善良な庶民感覚にあふれている。
但し後半では、前者の堅苦しい感覚を持つ兄との相克が描かれるようになる。
強靱に成長した主人公は、後に幼き日の郷愁から、視力を失い遠くで一人暮らしをする老いた伯母さんを訪ねる。

繰り返し読んでいる「銀の匙」
ほかの出版社版もあるが、私のは2015年7月21日第5刷発行の小学館版。
まだ読むつもり。

倉石隆が挿絵した「人形使いのポーレ」から高校時代の授業を思い出した。

2020年6月24日(水曜日)

今年の倉石隆展示の挿絵本に「人形使いのポーレ」がある。
文庫本よりも一回りは大きいだけの本ながら、ハードカバーが付いている。じっとこちらを見ているこどもの表情が気になって読んでみた。展示中なので夜に持ち出し、昼には返して読んだ。

著者はドイツの作家・詩人テオドール・シュトルムと言う人だった。
町の少年と旅回りの人形使い一家の少女との物語は、幼少の出会いから青年期の再会を経て、結婚とその後の人生が描かれる。

波乱のあらすじはともかく、著者の名の響き、機械職人を目指す青年の旅と結婚などから、高校時代の恩師の授業を思い出した。
先生は私の担任で、地理と数学を教え、特に地理は印象深かった。
〝いいか、ドイツとフランスの国境地帯の広大な森林はシュヴァルツ・ヴァルトと言うんだ。ドイツ語でシュヴァルツは黒、ヴァルトは森、つまり黒い森という意味なんだ〟というような話をされた。

ある日、〝いいか、ドイツの文学史にはシュトゥルム・ウント・ドラングという時代があるんだ。ゲーテやシラーの時代で、疾風怒濤の時代と言うんだ〟という主旨を話された。
※疾風怒濤:Sturm und Drang:ドイツ語では嵐と衝動。
その折、〝いいか、青年期も一般に疾風怒濤の時代と呼ばれている。理想と現実、善と悪、愛や恋など大人への過渡期の経験は嵐のようなものなのだ〟という主旨が続いたと思う。
さらに、
〝いいか、みんなもにもそんな時期が始まっているんだ〟というようなことが述べられ、何か励ましを受けた記憶が淡く残っている。その折、〝ドイツでは職人をめざす人は青年期になると、修業の旅に出るんだ、というようなことも聴いたように残る。
先生は何かと話の頭に「いいか」と仰った。

卒業後の私にも何かしらの波乱があり、不安の中でこれが疾風怒濤なのか、と先生の授業を思い出すことがあった。
さて「人形使いのポーレ」です。

本の表紙 学習研究社版
インターネットの古書サイトで求めました。

 

 

人形劇はゲーテの作品を上演するなど本格的。
劇に夢中になった町の少年は特に道化の人形が気に入り、ある日楽屋に忍び込みそれをいじったあげく大事な部分を壊してしまう。
家にも帰れず、事情を知った一座の少女と大きな箱に入って眠る。一座はダメージを受けるが双方の親たちに叱られたうえ、許される。

 

仲良くなった少女は次の町へと去って行く。
少年は永遠の別れを実感する。

12年後、成長した主人公は機械職人になるべく旅に出る。旅先で住み込んだ親方のもとで腕を磨き認められる。ある日、惨めな境遇の女性に出会うと、幼い日に出遭った一座の少女だった。この下りでやはり高校時代の授業が蘇った。職人になるための修業の旅が如実に語られている。

小さな一冊は、ドイツの作家シュトルムの名と青年の旅から、若き日の授業が蘇った。
テオドール・シュトルムは1817年生まれと出ている。私の高祖父・玄作は1818年生まれなので同時代の人ということになる。産業革命を経てもドイツでは職人の修業制度が残り、日本の玄作じいさんは幕末の京都で、志士たちによる大規模な襲撃事件を見聞している。

小さな本でしたが興味深い一冊でした。
本にはもう一つ「みずうみ」が収められ、こちらの方が有名らしいので読みたいと思っています。
老化した頭脳はなにかと昔を思い出させ、一方で本は少年少女向けが読みやすいのです。

山崎先生、今でもこんなにして当時の授業を思い出すことがあります。

コロナ禍がもたらしつつある潮流。

2020年6月9日(火曜日)

昨日・上越ケーブルビジョンの取材があった。取材といってもローカルニュースの一つとして記者さんが取材された。色々聞かれ、またお答えして本番だった。

およそ四ヶ月続き、いまだクリアというわけには行かない新型コロナウイルス禍。
インタビューは、それによって美術館として何か変化があったか、期待される変化があるならどんな事かという質問に絞られた。
とても良い質問だったが、簡単に述べるのは難しい。

それに関して、過日ある女性が、〝コロナのため家に居る時間が非常に多くなり、何か新しい事をはじめなければと思った。考えついたのが、文化・芸術に親しむことだった。美術の本を読んだり美術館をたずねたりすることに決め、さっそくここへ来た〟と仰った、

〝きてみると想像以上に楽しく、美術に興味が湧いた〟と仰った。
確かに衣食足りた上、時間があるなら文化や芸術に親しむことは、とても有意義なことだと思う。
いや、衣食足りなくとも、我や貴方の生き方や心について、自然と私たちについて、先人の道や感性について、創造や造形の楽しさ、あるいは心と言葉について、幸福についてなどなど、星の数ほどのヴォリュームで、文化芸術は私たちを待っている。

量から質へ、外面から内面へ。
心を豊かにし、人の価値を高め、人生を幸福に導く文化芸術。
コロナの災禍を機に、このような面に親しむ機会が増えるなら素晴らしいことではないかと、思っている次第です。

 

今夕の樹下美術館のバラ「クリスティアーナ」
最後に頸城園芸で求めたバラで、9800円もしました。
喜びあふれる表情でした。
※マリアベールはカフェの正面近くへ移り、跡にクリスティアーが来たという次第です。

困難、試練、振り返り、思索、試行と再生、そして新たな価値観へ。コロナ禍は一過性ではないある種潮流を、じわりともたらしているように見えますが、如何でしょうか。

よくわかりませんが、この度の災禍は容赦の無い未曾有のインパクトを有しているのかもしれません。
文明や政治についても、今後、基本「善としての人間の原理」に沿ってみようという気運が生まれるなら、望外の潮流です。
反対にさらに〝既得者中心の利益〟へ向かうなら、それこそ最悪ですが、最先端の国、米国ではすでに両者の軋轢が現れているのでしょうか。

6月、患家の庭の実と路傍の花 あざみの歌。

2020年6月8日(月曜日)

本日は四つの在宅訪問があった。
新たな方がお一人、何十年も前に診ていた方だった。いろいろな所でお世話になり、あらためて在宅で再会することが時にある。この方は昔を覚えておられ、こまやかな感じがそのままで、ほっとした。

以下は何年も通っているお宅の庭の実。午後の庭陰に灯した明かりのようだった。

 

キンカン。
我が家のキンカンはまだ木が幼く、毎年アゲハの幼虫に丁寧に食べられる。
食べられてもある程度大きくなると食害の割合が減り、ちゃんと実を付けるようになるらしい。

 

ああ、もうビワが黄色になっている。
梅雨のころの黄色の実は、青々した大きな葉ととても調和が良い。
いかにも南国の植物の印象を受ける。

 

雑木林の路傍にアザミが沢山咲いている場所があった。

 


伊藤久男のあざみの歌。
ラジオ歌謡で昭和24年(1945)8月8日から放送されたという。

 

昔々、知的な感じの人がこの歌を口ずさんだ時、この人はこんな歌も知っているのかと、驚いた。
知らなかったその歌を初めて耳にした私は、恵まれている人にもいろいろなことがあるんだ、と胸が詰まった。

BRUTUS最新号「クラシック音楽をはじめよう」。

2020年5月21日(木曜日)

庭に出ているとある方がブルータス最新号、「クラシック音楽をはじめよう」を持参され、どうぞと仰り、頂戴した。

1980年代、40才になった私に何かと新鮮な刺激を運んでくれた懐かしい雑誌ブルータス。80年代は色々なものが新しい服に着替えた時代だったように思われ、幸い当時の頭はまだ多少柔軟だった。

雑誌を見ることで、カジュアルでこだわりのファッションや小物に目が行き、多くの芸術情報を見、一応ポストモダンなど百花繚乱の思想を知り、旅の写真を見、本を買いコンサートに行き、出来たばかりの渋谷東急ハンズへも行った。

 

頂いたBRUTUSはグレン・グールドの表紙。
雑誌がまだ続いている事を知り、驚きかつ安心した。
写真のきれいなこと。

図らずもウイルスで自粛的生活が続く今日。便利の価値と離れた所で息づいていた健全な紙媒体は大変フレッシュ。

ゆっくり目を通したいと思っています。

2025年7月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

▲ このページのTOPへ