「手は難しい」と言った倉石隆の手 その1手が描かれていない作品。

2015年8月21日(金曜日)

過日美術館を見るという宿題の中学生とお会いした事を書かせて頂いた。

そのおり、〝倉石隆の人物作品は幾分ややこしい。
この画家には美術=美しい、楽しい、という図式と異なる部分があるからであり、
人間の孤独や不安、迷いやあせりなど弱い所へもしっかり目を向けた人〟など話をさせて頂いた。

さて、その倉石氏は生前「手は難しい」述べていたことを夫人からお聞きしたことがある。
デッサンの名人であり、太平洋美術学校時代は毎年デッサン賞に輝いた氏。
氏は後年「僕はデッサンをやり過ぎた」とまで述懐している。
なぜその人が「手は難しい」と述べたのだろう。

氏にとって手だけ描くのであれば、おそらく造作のないことだったろう。
仮に読書、演奏、絵画制作など「何かをしている」人物であればそれに合わせた手のポーズを描けば良い。

だが何もしていない人物画(肖像画も含めて)における手の扱いはどうすればいいのだろうか。
美しく描かない画家、倉石隆にとって重要なのはモデルの心理、感情、時には人物の歴史や物語でもあったはず。
顔や目は時間を掛ければ何とか描ける。
しかし手の心理、感情表現となると解剖図などに当然なく、描法もないl。

心理学で探すか、他者を詳細に観察するか自分を見るしかない。
正確に行おうとすれば、確かに難しい課題である。

このたび数回にわたって倉石隆の手について書いてみたい。
本日はまず手が描かれていない作品から二点掲載してみました。

①M夫人倉石隆 油彩「M夫人」

 

46倉石隆 油彩「秋」

何故手を描かなかったのだろう、と幾分の疑問を覚える作品である。
だが作者は作品に余計な心理感情を交えず、ただその人らしさを描きたかった、と考えてみた。
そのため手を描くことで生ずる雑音をあえて避けたのだろうと思われる。
倉石隆が終生心の師と仰いだという、レンブラントにも手が描かれていない自画像は多い。

次回は穏やかな手が描かれた作品に触れてみたい。
さらに先では困惑や混乱の心理、感情が手に表れていると考えられる作品について記載してみたいと思います。

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