社会・政治・環境

秋の音楽会はチェンバロとリコーダーの夕べ。

2012年9月14日(金曜日)

再びの炎天となった一日でした。ニュースは連日、二大政党の党首選挙の話題一色となりました。

 

福島復興とゼロ原子力の美しい国への再生を、丁寧に実行される人を心から望みたいと思います。

 

さて樹下美術館では11月10日(土曜)の午後6時半から
イングリッシュ・スピネットタイプのチェンバロと
リコーダーのコンサート
を催します。

  秋のコンサートのお知らせ
(大きくしてご覧下さい)

 

チェンバロの実力者・加久間朋子さんは、作秋設立された日本チェンバロ協会の発起人の一人であり、運営委員をされています。今回は三回目の来演です。

このたびは気鋭のリコーダー奏者辺保さんとのアンサンブルとなりました。

ギターの飛び入りも期待されます。

 

 サブタイトルの16,17世紀イギリスは音楽も黄金時代。リコーダーは多様に花開きました。

さまざまなリコーダーとイングリッシュスピネットのチェンバロによるアンサンブルはとても楽しみです。 

見飽きない雲 原子力発電所を拝む時代。

2012年9月3日(月曜日)

お天気は数分、数十分、数時間、数日、数ヶ月など刻々と変わる。予報もそうらしい。

 

先日tenki.jpで見た上越地方の10日間天気予報は、9月8日の最高気温を36度と知らせていた。しかしその後、色々と変わり、本日は30度だった。ここへきて9月の予想がやや低めに変わっている。

 

一両日は暑さの中、雨が降り始めたので澄んだ空で雲が生き生きとしている。本日午後、尾神岳上空の雲などは山をムシャムシャ食べているような迫力があった。

 

米山・尾神岳の雲
上越市大潟区吉崎新田付近から見た午後の空。左が米山、右に尾神岳。

 

上下浜の夕陽
上下浜の本日は華やかな入り陽。

 

さて20年ほど昔の夕刻、大潟区は新堀川にかかる橋を通ると夕陽を拝む老人がいた。海産物の事業で成功された方で、後ろ姿は高潔だった。

 

その方亡きあと、夕陽に手を合わす人を知らない。美しい心根の昔の人たちは、朝な夕な陽にむかって手を合わせたのだろう。それがいつしか原子力発電所を拝む時代になった。

蓮の実は美味しかろう 署名期間の終了。 

2012年8月22日(水曜日)

さる8月26日日曜日、上越市髙田で知人と夕食を一緒した。いくつか横切った蒸し暑い通りで、語りかけるような灯りが懐かしい。

 

さて、さして飲めない自分は、少々の酒を分けてもらい、簡潔で気の利いたお料理を美味しく食べて、東京の人の話を面白く聞いた。

 

帰りの代行車中、飲むと最後は眠る妻。

「奥さんイビキきかいてますが、、、」と運転手さん。

 

通り過ぎるお濠の蓮には蕾が沢山ついている。まだまだ花期が続くこの時期、遠くから蓮を見に来る知人がいる。

 

「髙田の名物料理はだいたい出尽くした感じですね」

 

「スルテンはいいですが、ほかのは風情がなくて」

 

「ここは蓮の実が沢山採れそうじゃないですか。美味しいんだから何か名物になりませんかね」

 

「うーん、ねえ」

 

など運転手さんと話しながら帰った。

 

蓮の青葉上越市本町 大杉屋さんの「はす青葉」

 

家に着いて目覚めた妻に聞くと、上越市本町の大杉屋さんに蓮の実のお菓子があるという。

 

翌日さっそく妻が買ってきたので食べた。すっきりした夏菓子。十分美味しかったがどうだろう、あの蓮の葉の香りがほんのり漂うならば、さらに抜群であろう。

 

 お茶とお菓子
「はす青葉」を齋藤尚明さんの白磁の湯飲みで頂いた。

 

蓮の実(乾物の戻しでもいいが)で炊き込みご飯、チャーハン、押し寿司、のっぺ、お菓子(まんじゅう、月餅、あんみつ、アイスクリーム、その他)、茶碗蒸し、ピックルス、納豆、お得意の天ぷら、レンコンとの種々合わせ、砕いてカラカラに揚げてラーメンにぶっかける等々、、、。すでに色々ありそうだが。

 

桜や蓮を見にわざわざ見えるお客様に、もうひと押し喜んでもらえる物があればとついつい思う。

 

さて本日は署名期間の最終日、最後に書いて頂いた人は私と同じ苗字だった。仕事を終えると、ハンコをもらい忘れている人の家を訪ねた。

降らなかった雨 青栗 夕雲 受任者が3000人を越えた。

2012年8月6日(月曜日)

昨日の天気予報は、本日午後の雨をありありと示していた。連日の猛暑、まさかと思ったが午前から風強く、昼近づくにつれて曇が広がり気温も幾分下がった。

 

庭ながら、どうしても降ってもらいたい雨。しかし1時半ころ、施設へ出向く車のフロントガラスに10数粒の雨が付いただけで終わった。上越市大潟区では結局降らなかった。

 

青栗往診先の庭の青栗。猛暑続きの中、涼しげだった。

 

ホテルと雲
永遠なれ美しい空のふるさと。本日上下浜マリンホテルの夕雲。

 

「原発」新潟県民投票の実現を目指した署名収集の受任者登録がついに3000人を越えた。筆者は7月中頃に末席を汚させていただいた。当時の登録は1600人ほどだった。増え続ける受任者が集める署名が、目標の4万筆を大きく越えることを期待したい。

 

活動期間はわずか2ヶ月、来る8月22日で終了する。残り16日、いよいよ最後の追い込みとなった。署名のお願いに対する皆様の厚い反応が嬉しい。同様の機運は全国規模で着実に浸透している。活動が成功し、“新たな文明に向かう第一歩”となることを願わずにはいられない。

幸福のパン種 増補版 「新春、人間に」から。

2012年4月22日(日曜日)

幸福のパン種
幸福のパン種 増補版: 堀口すみれ子編 かまくら春秋社 
平成23年10月11日発行

 

この度の堀口すみれ子さんのご講演に際して「堀口大學詩集 幸福のパン種」の増補版を戴きました。
幸福のパン種は1993年、大學の十三回忌に発行されました。昨年10月、「新春、人間に」および「そして今は」の2編を増補して改版されました。

 
昨日のご講演の最後にすみれ子さんは「新春、人間に」を朗読されました。この詩は1971年の産経新聞の元旦の特別版に掲載されたものです。その年に福島第一原子力発電所が稼働したということでした。

 

大學は生前“僕の詩は50年早かった、50年経ったら理解されるよ、君はそれを見届けておくれね”と話したそうです。

当版の末尾で、「何気なく聞き流していた言葉ですが、ああ、あの言葉は本当だったのだと実感します」、とすみれ子さんは述べられています。昨年の福島の事故を顧みる機運から、この度の増補がなされたのだと思いました。

 

以下は「新春、人間へ」です。

“ 分かち合え

 譲り合え

そして武器を捨てよ

人間よ

 

君は原子炉に

太陽を飼いならした

君は見た 月の裏側

表面には降り立った

石までも持って帰った

 

君は科学の手で

神を殺すことが出来た

おかげで君が頼れるのは

君以外になくなった

 

君はいま立っている

200万年の進化の先端

宇宙の断崖に

君はいま立っている

存亡の岐れ目に

 

原爆をふところに

滅亡の怖れにわななきながら

信じられない自分自身に

おそれわななきながら、、、

 

人間よ

分かち合え

譲り合え

そして武器を捨てよ

 

いまがその決意の時だ ”

 

元旦の特別記事にしては大変重い内容ですが、大學の先見性、詩人の良心の堅さをあらためて認識させられます。すみれ子さん、良い増補を有り難うございました。

 

今日は二つ良いことがありました。一つは放鳥されたトキのペアから初めてヒナが返ったというニュース。もう一つは書くのが恥ずかしいほど大量のハンディをもらってゴルフコンペに優勝したことでした。次回のハンディは29ということで、また挑戦したいと思います。

荒天の日に花束 志津川小学校の先見。

2012年3月12日(月曜日)

昨夕に続き一日中冷たい風が吹き荒れた日。明日にかけてさらに気温が下がり降雪が予想されている。そんな日にも僅かの来館者様が来られる。

 

大荒れの日、館内は返って静かに感じられる。お客様は作品を観てお茶を飲みゆっくり本を読まれていた。

 

春の花束外は大荒れ、静かなカフェにAさんからのお花。
すぐ前で水仙が伸びている。

 

この日、お二人の方とお会いした。Aさんは髙田の方でご夫婦ともよく知っている。今春から週一で庭や美術館を手伝って下さる。よい人にめぐり会えたことを感謝したい。

 

もう一かたは記者のB氏。昨年3/11では南三陸町の弟一家のことでお世話になった。その時の私のことをよく覚えていて、ああ自分はそんな風だったのか、と振り返った。弟は駄目でも小学生の二人の姪だけは、と私は必死だったという。

 

南三陸町の志津川小学校は町を見下ろす十分な高台にあった。しかし津波が襲ったのは下校時間。しかも直後からあらゆる音信が途絶する。だが学校が全校生徒を校内に留めたので間一髪みな助かったのだ。

 

過去たびたび甚大な津波被害を受けた風光の志津川。もとは低地の川沿いにあった学校を、昭和50年代?に高台へと上げたという。高台の不便を考えれば、建設には硬い反対もあったにちがいない。敢えて先見に徹した当時の関係者に今あらためて深い敬意を覚える。

 

一方、あの日低地に作った防災庁舎に職員を残こしたため、41人もの貴い犠牲者を出した惨禍はあまりにむごい。学校を移し人を救った先人に比べれば賢愚の差に言葉もない。

 

B氏は震災の話の後、一生懸命カフェの食器を写してから展示へと足を運ばれた。Bさんは、19世紀後半のイギリスにおけるアーツ&クラフト運動を語れる貴重な記者さんだ。 

すみれ子さん講演会バナー

たとえ翼があっても。  

2012年3月11日(日曜日)

貴重な平和

早春の頸城平野(本日の昼,大潟区蜘蛛ケ池周辺から)

 

日中の晴天は夕刻が近づくにつれて気温が下がり冷たい風が吹き出した。昨年の地震の時間が近づく頃に、美術館の近くで田の白鳥を見ていた。雪解けした田には北帰行を控えた白鳥が沢山集まって食餌をしていた。

 

一年経つのに映像の被災地は膨大な瓦礫の山に占拠されたまま。腹に響くような復興の足音が届いてこない。

 

ハクチョウが降りる
夕刻近く急に強まった季節風に向かって飛んできた白鳥。
黒っぽい若鳥も一人前だ。

 

 

ハクチョウの羽田んぼに落ちていた白鳥の羽。逆光のガラステーブルに置いて見ると美しい。

 

新潟県にはまだ7000人の福島県の方が避難されている。私の診療所でも何組かの親子さんと顔馴染みになった。ご主人たちの多くは単身福島県で仕事をされてると聞いた。

 

春を迎えて帰る鳥、翼がありながら帰れない福島県の人々。放射能汚染が家族を引き裂く。麗しい日本はこんな国ではなかったはず。

 

昼の温かな時間に妙高市から孫子が海を見に来た。大喜びでシーグラスを探して帰った。

 

海で昼の海日和(柿崎海岸で)

 

今日は今年一番お客様が来られた。

 

すみれ子さん講演会バナー

明日は3/11 これから原発がはじめる第一歩。

2012年3月10日(土曜日)

昨年3月10日、どんな地震学者も先端の予知システムも翌日に起る未曾有の大地震を予想出来なかった。同じ地平に立てば、それが出来ない科学や国家や企業に防災都市や原発コントロールが果たして出来るのだろうか。

 

優れた科学者によれば、先端研究は進めば進むほど謎が広がるという。あるいはまた“経験を越える分野に入るほど悪魔の領域に近づく”とは、哲学者の深淵な言葉である。

 

これはまた我々の親たちが命がけの百万年をかけて得た真実ではないだろうか。

 

これらの哲理に照らせば、例えば原発事故に対する適切なベント?であれ元素中和?であれホルミシス?の楽観であれ、新たな緊急発電装置?であれ、水準としてはよくてもファンタジーレベルの危惧を否定できない。
原発のAtoZは科学(+魔界)の領域であり、そのうえ一旦事が起これば最大規模で風評被害を発生させる装置でもある。

 

意外かもしれないが科学の神髄は「慎み」を置いてほかにない。科学と称する尊大なオカルトや大金持ちのバイアスほど危険なものはない。怖れを知らぬ科学こそ大災害の最大の原因ではないかとさえ思われるほどだ。

 

「懲りに懲りる」こと。大災害から得られる唯一の教訓であろう。予防・防災・復興、みなその上に立たなければ、何一つ犠牲者に報いることにはならない。

 

今日言われる広域防災、情報の共有化なども、一体何が有り難いのかよく分からない。そもそも爆発事故で避難出来ても、もとへと帰れないものを防災と言うだろうか。犠牲者を集団化させただけ、事故の矮小化である。ご承知のように原発の防災とは爆発事故を起こさないこと一点しかない。

 

例えば繰りかえされる微細な地震や永年の金属疲労でいつ巨大な高速タービンが吹っ飛ぶか、だれも言わない。分かっていても会社は触れないだろう。今後の大事故は、津波と無関係に起こることが十分想定される。原発テラテクノを構成するナノピコテクノ。僅かの誤作動や精度の狂いが瞬時に大事故に繋がり得る。

 

唯一可能な現実の防災とは?例えば柏崎・刈羽の7基の原発を明日にでもまず一基を放棄する(廃炉を決定する)ことから始まろう。それで即周辺リスクの7分の1を文句なく減らせる。たった一基であっても、それは柏崎刈羽・国県、電力会社・経団連によって初めて示される良心として、何十万人、いや何百万人の緊張と精神を和らげ、孫子(まごこ)への代え難い福音となるはずである。その後も次々と減らし続ける。莫大な経費が掛かるが、すでに原発の防災とはそういうものだろう。

 

繰り返すが、無事に逃げる事しか考えないのは防災ではない。私たちは自分の土地でまっとうに暮らすべく人生を送ってきた。代替発電も節電も予防・防災もすべては危ない火元を亡くすことからしか始まらない。

 

作品展
光栄にも杉みき子先生のお隣で拙絵が売れていた。先生は何点も。
会場で沢山の絵に囲まれている拙絵は恥ずかしそう。

 

さて本日、第4回東日本大震災&長野県境地震復興支援チャリティ「アート&アーティストの底力」上越展に行って来た。県内外130人に迫る出品者によるアーティスト展は豊かで非常に楽しめた。

 

同展には一人でも多くの人にお出かけ頂き、一点でも多く買って頂きたい。芸術にはお金を出して初めて楽しめる側面がある。当展は良い小品でいっぱいだった。私もこんなに安くていいの、という気持ちのいい現代アートを一点買った。ぜひ皆様もお出かけ下さい。

あらためて福島県から避難されている方々のこと

2011年10月26日(水曜日)

 昨日午後、地元の保育園の健診に行きました。例年ならば秋の健診は年長さんたち(6才児)を診ません。来月に予定されている小学校入学前健診で別に診るからです。
 

しかし今日は10人の年長さんを診ました。福島県からの子どもさんたちでした。来年4月に迎える小学校の入学先がまだ決まらないため今回の受診ということでした。園全体ではまだ17人のお子たちがいらっしゃいます。

 

5月の健診ですでに福島の皆さんを診ていました。5ヶ月が経った年長さんは特に大人びた印象でした。明るく活発に振る舞っているのに、いまだ安定しない立場に胸が痛みました。

 

家であらためて調べてみてみました。例えば原発地元の大熊町の人口は2010年の国勢調査時で11511人。放射能汚染のため役場は早くから会津若松市に移動し住民も居ません。全町民は県内に約7300名、県外に約4000名の方が避難されているといいます(大熊町役場ホームページ臨時サイトから)。今更ながら驚くべき現実だと思いました。

 

県外の避難先として埼玉県、東京都に次いで新潟県は三番目に多い513人でした。当地、上越市大潟区には福島県内数カ所の自治体からまとまって来られていて、ここまで何度か移動を余儀なくされた方も大勢いらっしゃいます。

 

将来設計、被災や汚染など故郷の心配、健康のこと、学業、初めて迎える雪国の冬、、、。この方たちの不安を思うと、国は文字通り1人1人を包むように全力で助けなければならないと思いました。そして私たちもまたあらためて支援や原発のことを考えなければならないのではないでしょうか。

 

上越の水田と雲

真の政治へ

2011年8月26日(金曜日)

菅首相が辞表を出して新たな党首の選出に向けて足を踏み出しました。未熟なのに地位ばかり欲しい人たちは、党派を越えてもう用はない事でしょう。

 

政治はますます複雑さをきわめています。しかし私たちの生活にしっかり軸足を置き、利己的な諸外国と保身の官僚を相手に知恵と力の限りを尽くす人が選ばれる事を願っています。

 

また確固であってもある国一辺倒はだめではないでしょうか。足を捕られぐるぐる回りをするばかりで、どこへも進めません。次の人、あるいはリーダーは理念十分で豪胆かつ柔軟、戦略に長ける人であって欲しい所です。

 

地震以来、政治の無為に失望を禁じ得ませんでした。しかしその成熟にはたゆまぬ切磋琢磨しかないと希望を繋いでみたいと思いました。

 

多少心配ですが、長い将来のために、苦しくとも己を捨てる真の政治への転換を期待します。

 

 昔の潟町の海
高校時代に撮った潟町・現上越市大潟区の海(1950年代) 

 

頸北の 山と実りの田 上越市 頸北地域の昨年の山と実り

 

政治には健やかな文明と、海彦山彦が居る美しい地域の保全をお願いしたいのです。

2025年7月
 12345
6789101112
13141516171819
20212223242526
2728293031  

▲ このページのTOPへ