小山作之助・夏は来ぬ

小山作之助の還暦祝賀会 島崎赤太郎 そして旧東京音大奏楽堂。

2013年4月19日(金曜日)

一応1001回目の記念投稿です。

過日、上越市大潟区の卯の花音楽祭実行委員長・堀川正紀氏と同市の山本栄美さんが小山作之助物語を編纂されました。
それを機に縁者の一人として、当ノートに小山作之助というカテゴリーを新設してみました。拙文ながら関連の人々や出来事に触れてみたいと思っているところです。

本日は大正13年(1924年)4月27日(日曜日)に催された作之助の還暦祝賀会の様子を紹介させて頂きました。また日本のオルガニストの先駆者島崎赤太郎氏や東京音楽学校の旧奏楽堂について映画「我が愛の譜 滝廉太郎」のDVD場面と往き来してみました。

 

1式典の日の作之助夫妻還暦祝賀会の日の小山作之助、マツ夫妻。
秋田県大曲出身のマツ夫人は日本女子大の前身校を卒業後教職に就き、
後に前島密の養女格となった才媛。

1-2記念はがき記念葉書として後に配られた祝賀会の一場面。
向こうに楽団と作之助が顧問をしていた日本楽器製造株式会社・現ヤマハ(株)からの贈花が見られる。

2祝歌合唱
当日、祝賀会で島崎赤太郎作曲の混声四部合唱曲「小山作之助先生還暦祝賀の歌」が歌われた。

4祝歌赤太郎作曲、祝賀の歌の譜面の一部。

5花を弾いてみせる滝明治33年(1900年)、映画「我が愛の譜」で名曲「花」を初めて披露する滝廉太郎。
滝のあとドイツ留学命令を受ける島崎赤太郎が登場している。
氏は4年間の留学中オルガンを学び、オルガンの先駆者・作曲家・音楽教育者となる。
写真の右から三人目がベンガル演ずる赤太郎。

3奏楽堂に於ける送別音楽会同映画中、滝廉太郎が明治34年(1901年)4月にドイツ留学する際の送別音楽会の模様。
映画では「荒城の月」を、風間トオル演じる滝のピアノ伴奏で佐藤しのぶさんが歌う。素晴らしい歌声。
会場は3番目の写真の旧東京音楽学校の音楽ホール・奏楽堂を模したセット。
奏楽堂は明治23年(1892年)に建築された日本最古の音楽ホール。昭和59年(1984年)に解体後上野公園内に移築再建され、昭和63年に国の重要文化財となった。

還暦祝賀会には全国から500人以上の音楽関係者が参集したといいます。記念音楽会では祝歌の後、ベートーベンのピアノソナタ作品31、第3番(Es dur,Op..31 nr.3)独奏、レオンカヴァッロ作曲のプロローグ˝Pagliacci˝のバリトン独唱、およびピアノと6名のヴァイオリニストによるバッハのプレリュードおよびガヴォットが演奏されています。

ちなみに当日記念品と金一封が贈呈されましたが、作之助は贈られた2000円に自らの1000円を加えて全額を東京市の音楽教育振興のために寄付しました。
これに関して本人は、˝自分の音楽の道は東京によって育てられた、お初穂は東京に差し上げたい˝趣旨を述べているようです。

この先マツ夫人と前島密家のことや著書「君が代の由来」。音楽葬のこと。あるいは往年の名テナー藤原義江が歌った滝廉太郎の荒城の月と上越が生んだジャズピアニスト・編曲家・故飯吉馨氏のことなど、を書ければと思っています。

参考書物などは後に附したいと考えています。

「我が愛の譜 滝廉太郎物語」その2 唱歌運動と小山作之助 そして肺結核。

2013年4月16日(火曜日)

去る4月14日、映画「我が愛の譜 滝廉太郎物語」のDVDのことを書かせて頂いた。伝記映画なので滝作品の誕生、留学の経緯、発病と死など克明であり、添えられる純愛なども丁寧に撮られて興味深い。クラシックの名曲が次々と入り重厚な映画だと思った。普段あまり映画を見ないのに、たまに見ると妙に夢中になる悪い癖が出る。

今回はブログ1000回目の投稿ということ、引き続き「我が愛の譜 滝廉太郎物語」を話題にさせて頂いた。

劇中、キーワードの一つに明治時代中期から起こる幼稚園ならびに学校において皆で歌うことの唱歌教育の普及、あるいは口語で歌いやすい歌をという唱歌運動がある。

唱歌運動のイメージ場面劇中、唱歌運動のイメージ場面。

小山作之助は東京音楽学校で教鞭をとる傍ら、都内に生まれていたいくつかの私的な教育と実践場所である唱歌会に深く関わり時代をリードしている。映画で滝は、音楽学校に入学するまで「半年間小山先生の芝唱歌会にいました」、と述べる。また作之助も入学後の滝の精進をみて、唱歌会から推薦したかいがあった旨をもらす。
また学友が通う神田猿楽町唱歌会に滝がつきあう場面などには当時の雰囲気が垣間見られる。

ところで滝廉太郎は15才の最年少者として音楽学校入りを果たした。作之助の推挙の力が大きかったのでは、と推察される。
学校の入学方法はつまびらかではないが、一般的な進路を辿ったなら、夭折の音楽家の開花はもっと小さなもの、あるいは間に合わなかったかもしれない、と心配性の筆者は危惧した。あるいは作之助は滝の病の兆候を知っていたのか、とさえ。
作之助の母方の叔父は医師であり、交流を通して相談があった可能性はどうだろう。

映画で肺結核は留学中に重症化するが、学生時代すでに咳き込み、転地し静養治療する場面が何度か登場する。密かに始まり劇的に悪化する肺結核の描き方も感心した。いずれにしても彼の人生は急ぐ必要があったに違いない。

病により早期帰国し故郷竹田で養生する滝は、再上京を試みるが道中で喀血して戻る。最後、廃校となった故郷の分教場に残されたオルガンで遺作「憾」を書く場面は物語とはいえ、涙なくしては見られない。

滝の終末滝のオルガンの音が止み、待っていた車夫が異変を感じて立ち上がる。

ところで結核は不治の病として世間から忌まれ、かたや周囲との一部関係は当映画でも厚く維持される。不思議といえば不思議な病気である。

筆者も高校2年生の春、レントゲン検診で肺結核と診断された。それまで頻繁に風邪を引き、時に高熱、絶えず微熱があったように思う。その年の9月だったか、父の母校である慶応大学病院へ連れて行かれ、手術の可否診断を仰いだ。

幸いパス、ヒドラ(アイナ)の服用とストマイ(ストレプトマイシン)注射の三者療法、後のカナマイシン注射の登場に救われた。また同病の級友や恩師、高田の下宿先ご夫婦などには本当に良くしてもらった。しかしそれ以前の人々の痛ましさは当映画においても切実である。

ちなみに、「憾(うらみ)」がYouTubeに投稿されている。旋律には病の苦しい呼吸が感じられる。

我が愛の譜(うた) 滝廉太郎物語  小山作之助のバックアップ。

2013年4月14日(日曜日)

すでに10年は経っていると思うが、テレビでたまたま東映映画「我が愛の譜 滝廉太郎物語」(監督・澤井真一郎)を見たことがある。小山作之助の関係者に勧められたのかもしれない。

風間トオルが滝廉太郎を主演し、鷲尾いさ子、檀ふみ、雨宮良、藤谷美紀、加藤剛、柴田恭兵、浅野ゆう子、藤村志保、宮崎美子らが出演。小山作之助は秋野大作だった。作之助は出ずっぱりではないが、テレビを見た当時は出た出たと言って喜んだ記憶がある。

このたび我が家はテレビを新調したこともあり、作之助のことをノートに書こうと思っていたのでAmazonでDVDを求めた。改めて見て以前に較べ深く感動させられた。

DVD・我が愛の譜没後90周年の1993年に制作された伝記映画「わが愛の譜(うた)滝廉太郎物語」。
映画は1993年度キネマ旬報ベストテンで8位に入っている。
2008年DVD化が実現したそうです。
当作品で俳優はじめ多くの関係者が各部門にノミネートされている。

この映画の中で小山作之助は7~8つのシーンに登場している。いずれも滝を励まし推挙し、弁護するなど好意的な態度で一貫している。

演じる秋野大作は台詞はすくないものの、写真で見慣れている作之助に似ているし、納得の演技だと思った。以下作之助の登場シーン二三を挙げさせて頂いた。

 

滝を励ます作之助オルガンを弾いていたためピアノを始めたのは遅かった、と雪の日にも猛練習する滝を励ます作之助。

 

滝を推挙する作之助当時文部省による音楽専攻留学は幸田露伴の妹中野延(のぶ)が一回目。
二回目は姪の中野ユキに決まり掛けていたが、作之助は滝を推挙する。

結局滝も推され三年間のドイツ留学を命ぜられることになった。明治34年4月日本を出帆し、メンデルスゾーンが築いたライプツィヒ王立音楽院へ留学する。先にベルリン国立音楽大学に留学を果たしていた中野ユキとともに切磋琢磨を重ね、愛が生まれるかにみえた。そんな日々の中で、滝の結核は顕在化し喀血する。病は国の知るところとなり滝は1年を経ずして早期帰国を命じられた。

迫る死期を覚悟して実家の九州竹田でオルガンを前に遺作「憾(うらみ)」を書く滝。

次の留学者(島崎赤太郎)も決まり、ある日の教授たちのサロンは中野延たちへの賞賛で盛り上がっていた。一同に背を向けて座していて作之助は立つと、「滝を忘れてはいないだろうか。滝だっていたじゃないですか。その滝を国も我々も追い込んだじゃないですか」と言って退席する。

それにしても滝廉太郎23年の生涯はあまりに短い。荒城の月が21才とは、信じがたい人生だ。

團伊玖磨著「好きな歌・嫌いな歌」の˝夏は来ぬ˝

2013年4月11日(木曜日)

先日のノートに上越市大潟区で、堀川正紀氏らによって同区出身の作曲家小山作之助のわかりやすいテキストが生誕150年として刊行されたことを書いた。作之助は私どもの古い縁者でありながら筆者の理解は十分でない。それでも明治39年生まれの父は、生前の作之助を叔父さんと呼び、学生時代に交流したと聞いていた。

このたびは音楽と文芸の才人、故團玖磨氏の著書をもとに作之助のエッセンスを紹介させて頂きたいと思う。

團氏の著書に「好きな歌・嫌いな歌」という興味深いエッセイ集がある。春の小川、この道、港が見える丘、襟裳岬、知床旅情、夏の思い出、雀の学校、ぞうさん、帰って来たヨッパライ、夜明けの歌、あなた、雪の降るまちを、など63曲が取り上げられ、明解に考察されている。

私の好きな歌・嫌いな歌手許の『好きな歌・嫌いな歌」 著者・團伊玖磨 読売新聞社発行
昭和五十四年八月十日第五刷 から表紙

 

作之助作曲˝夏は来ぬ˝は本書の15番目に4ページにわたって登場する。卯の花と時鳥(ホトトギス)の季節が紹介された後、次の様に始まている。

「この歌は、佐佐木信綱博士の、古風で格調は高いが、やや形式主義的な歌詞を、平易で流動的な旋律がみごとにこなした良い歌である。」

「始まってすぐの第三番目の音˝うのはな˝の˝は˝の部分に、七声音階の第四音ファがつかわれているために、ヨナ抜きの凡俗さを打ち消して、すがすがしい印象を与えることに成功している」

筆者註:ヨナ抜きとは、ドレミファソラシドの4音ファと7音シを抜いたメロディのことで、日本調といわれる歌のほとんどはこの形式に基づいている。

続いて作之助作曲の、敵は幾万、寄宿舎の古釣瓶、漁業の歌、川中島を挙げて、
「この作曲者の他をぬきんでた優秀性が浮かび上がってく来る」とした上で、

「この作曲者は、長い歌詞を歌にまとめるのが上手だった事が判る。長い歌詞を上手にまとめられれば、歌の作曲者としては先ず一級と言って良い。勘だけでは無い方法論がそこに必要になって来るからである」と続けられる。
そして、
「その方法として、-中略ー明治の唱歌としては珍しい早いテンポを設定し、音符を細かに分けることを実行した」と述べ、
「やたらにセンティメンタルでのろのろとした歌が多く、それを破る場合には軍隊調のマーチ・テンポのものしか無かった明治時代の唱歌の基本的音楽的内容に較べて、作曲家小山作之助の仕事は輝いている」とされた。

最後に、
「この古い時代に、新しい感性と知性を以て、日本の唱歌にフレッシュな方法論を注入したこの作曲家はもっと評価される可きだと思う」とまとめている。

 

文中の一部文中の一部より。(大きくしてご覧ください)

夏は来ぬの後には知床旅情と襟裳岬が続く。

小山作之助:文久3年12月11日{1864年1月19日)-昭和2年(1927年)6月27日

(引用しました本文の多くを省略いたしました)

「夏は来ぬの」小山作之助物語の発行。

2013年4月4日(木曜日)

去る3月29日の上越タイムスおよび4月4日の新潟日報に「小山作之助物語」発行の記事が出た。生誕150年を記念して出版され、学童向きとしてA4版53ページにわたる書物の漢字はしっかりルビがふられ、要点は明確で大変に読みやすくなっている。

編者は上越市大潟区で続く卯の花音楽祭実行委員長の堀川正紀氏と委員の山本栄美さん。

作之助は学校教育に音楽を取り入れ、作曲、演奏、教授する先生や演奏家を育てる東京芸術大学音楽部の礎を作り、「音楽教育の母」と謳われる上越市大潟区出身の人です。

001 - コピー
上越タイムスの記事。どうか大きくしてご覧ください。

作之助新潟日報記事

 新潟日報の記事。どうか大きくしてご覧ください。

冊子はA4版で53ページ、大潟区在住の小嶋秀男さんのイラストも素晴らしい。

14ページ上京してからの作之助です(本文14ページ)。大きくしてご覧ください。

15ページ作之助は現明治学院大学に通い、芝寮で同宿する海軍軍楽隊員と夜を徹して音楽談義をしたという(本文15ページ)。

以前触れたことがありますが、文久3年(1864年)生まれの作之助の母トヨ(弘化2年・1845年生まれ)は私ども杉田の出です。また作之助の弟・直次郎は当家に養子入りし、私の祖父になります。

縁者にあたる先人について普段何もせず、堀川先生はじめ皆様に顕彰事業をお任せしていること、大変心苦しく思っています。

このたびの出版は要点急所への配慮が素晴らしく、ご苦労のほどが痛いほど伝わります。

今後手許にある若干の写真や資料とともに、作之助に関する話題(作之助の短歌、還暦祝賀会、音楽葬、前島密の養女格であった松夫人、団伊玖磨氏の随筆など)、を掲載して参りたいと思います。上掲しました文書画面が小さく、拡大の労をお掛けしますこと申し訳なく思っています。

拍手で終えた母の一回忌。

2012年9月16日(日曜日)

昨年の暑い盛り、8月10日に亡くなった母。一回忌の法要は少しは涼しかろうと本日9月16日に行った。

 

しかし日を遅らせてみたが日中は33度を超える暑さだった。西念寺ご住職のお心こもった読経とお取り仕切りのお陰で、納骨までも無事に終えた。

墓所で石蓋を開けて納骨穴を覗くと、底に僅かな父の遺骨が残っていた。

亡くなって28年、暗がりにうっすら白い骨。まさか母を待っていたとは思わないが、一瞬どきっとした。

新しい母の骨は、カラカラと音を立ててかすかとなった父を覆った。

 

お墓にて西念寺境内の墓で。納骨後の読経を終えたご住職。
一式終えると拍手が起こった。
墓で拍手とは、私どもは少々変わっているかもしれない。

作之助の墓すぐ隣は作曲家小山作之助の墓。作之助の母は当家の人。
遠方の小山の人々に代わって当方で墓守をさせてもらっている。
※写真はいずれも妻の携帯です。

最後に直江津のイカヤさんで和やかに美味しいおとぎの食事をした。おとぎも拍手で終った。

秋の音楽会バナー

鑑賞会のお知らせ

充実の卯の花音楽祭。

2012年7月15日(日曜日)

本日午後、卯の花音楽祭が上越市大潟区のコミュニティープラザで催された。ー小山作之助先生を讃えてーのサブタイトルで毎年開催される会は第10回となった。
ちなみに上越市大潟区出身の作之助は日本教育音楽協会の初代会長になった人。

 

大潟オカリナアンサンブル、大潟ギターアンサンブル、コーラスおおがた、合唱団てくてく、コーラスゆりかご、卯の花合唱団、の皆様が出演された。力強さに加えてハーモニーのやわらかさ、ひそやかさの微妙まで丁寧に表現され、聴き応えがあった。

10回記念として中央から大西恵代さんと吉田恭子さんお二人の声楽家をお招きして「ソプラノの調べ」があった。ともにイタリアへ留学され、現在Duo Fiori(デュオ フィオーリ)として活躍されている。

 

大西恵代さん
大西恵代さん
吉田恭子さん
吉田恭子さん

 大矢絢子さん
ピアノの大矢絢子さん

 

Duo Fioriのお二人は日本人が作った叙情歌の研究にも力を注がれているということ。調査の途上、作之助に関連して当会実行委員会と縁が生まれ、この度の来演となった経緯も興味深かった。

前半、大迫力のイタリアオペラで聴衆の心をわしづかみにして、後半は日本の歌だった。聞き慣れた歌が一層心に響く。恥ずかしいことに作之助の「鏡ヶ浦の驟雨」を初めて聞いた。良い曲だった。

 

日本の歌で特筆すべきは著名な明治唱歌の作曲家・奥好義(おく よしいさ)作曲の「海のあなた」と「ゆかりの色」が歌われたことであろう。
奥の作品の中にメロディーの斬新さから作之助の影響が窺われるものが少なくない、と紹介された。お二人は澄んだ叙情をもって二曲を歌われ、プログラムにあった以下の詩にも惹き付けられた。

 

「海のあなた」

いさり火遠く見え初めて

沖より寄する暮れの色

なかば夢路と過ぎ去りし

旅の月日もいま幾日

ああ恋し海のあなた

親子打ちつれ岩陰を

おくれて帰るあま小舟

明日の日和のほかにまた

もの思いなき世の仲間

ああ恋し雲のあなた

ー作詞者不肖 三番省略ー

「ゆかりの色」

雲井にかかる紫の

においゆかしき藤の花

深くねざしも言の葉の

ふみの林に見えにけり

 

心にかかる雲晴れて

法のみそらに澄みのぼる

石山寺の月影は

君の思いをます鏡

ー作詩:菊間義清ー

 

いま時代はメタリックに記号化され、乾きがちだ。明治の詩情と教養をあらためて眩しく感じた。

アンコールはアンドリュー・ロイド=ウェバーのレクイエムから「ピエ・イエス」だった。驚きかつ感動した。

苗木帰路、まちづくり大潟から配られた卯の花の苗木。樹下美術館でも増やしたい。

主催の卯の花音楽祭実行委員会と、共催の上越市およびまちづくり大潟さんに感謝致します。

楽しかった音楽会、ジョリウ゛ェそして夏は来ぬ、さらに小山作之助。

2010年5月16日(日曜日)

樹下美術館主催、まちづくり大潟のご支援で無事に立花千春フルートコンサートが終了しました。皆様のお陰で盛会となり会議室の椅子までお借りするほどでした。お忙しい中ご来場くださった皆様に心から御礼申し上げます。

演奏者
夏は来ぬは一つの譜面で

 

さて演奏されたフルートの立花千春さん、ピアノ伴奏の山田武彦氏ともフランスで学ばれた音楽家です。ナイスコンビネーションの演奏は、エスプリの効いたフランス曲中心のプログラムでとても堪能出来ました。

第2部一曲目は山田氏のソロでショパンの英雄ポロネーズ。ショパン生誕200年にふさわしい高らかな演奏でした。

最後のプログラムはジョリウ゛ェのリノスの歌でした。初めて聞く曲でしたが、神秘的な原始の森が歌うにも似た魅惑的な演奏でした。

さて昨日はセロニアスモンクのジャズを書いたばかりで、今日はクラシックの音楽会のこと。節操に欠けますが、ジョリウ゛ェの曲にモンクと同様、記憶の彼方の響きや突然性?を感じました。

 

アンコール曲の最後は夏は来ぬの即興。ワンコーラスずつ印象を変えて、転調に次ぐ転調はとても楽しめました。

 

新月
音楽会が終わって夜空に月星(左上)、F氏が教えてくれました。

 

ところで夏は来ぬの作曲者小山作之助は小生の祖父・直次郎の兄です。作之助兄弟の母トヨは文久2年に私の家から嫁いだ人でした。ところがトヨの実家の兄貞蔵に子がなかったため、直次郎が貞蔵の養子として当方に戻る格好になりました。貞蔵のもとで直次郎は現千葉大学医学部を出て医師になります。また貞蔵は上京後、音楽家をめざすして困苦の学生生活を送る作之助の支援も行ったようです。作之助が貞蔵に届けた支出報告(お小遣い帖)が残っています。

 

申し分けありません、古い話になりました。皆様のお陰で樹下美術館はなんとか無事に三年が経ちます。あっという間でしたが、日頃のご支援に深く感謝いたします。

2024年5月
 1234
567891011
12131415161718
19202122232425
262728293031  

▲ このページのTOPへ