明け暮れ 我が家 お出かけ

二泊二日の大旅行。

2024年10月15日(火曜日)

去る10日、「この先も頑張らなければ」と書いた後からブログを4日も空けては、また倒れたかと言われても仕方がありません。

実は12日土曜日から上京、二泊して昨日14日夕刻帰りました。先回大切な人たちに会うと書き、みんなの幸せをと願って出かけたのが、私の方が幸せになって帰ってくる、という東京行きでした。

現に“そうでもない”という人もいますが、“兎に角元気で長生きすれば良い事がある”と何度かここで書き、診療でも多くの方にそうお話してきました。このたびの旅行で自分自身がそれを確認した次第です。

二日間はに二組の人達と渾身の食事をし、それぞれの食事はことさら美味しく、身体に優しいもので大満足でした。
一緒した人々は食事と同じく、あるいはそれ以上に優しく、この先ますます元気に生きようと心洗われました。

13日の昼食後、通りへ出ると向こうに50年以上も前、駆け出しの頃バイトをした東京交通会館が見えました。止めてから50数年はゆうに経っていますがよくもまあ相手も自分も立っているものだと感慨を覚えました。

13日は昼食後ホテルに着くとあたりに太鼓の音までして、目の前は大変な賑やかさ。外食が続いたので夕食はホテルでコンビニ食にしようと出て見ると「第43回みなと区民まつり」というのをやっていました。初めて耳にするような国も入れた各国大使館ほか各県から食べ物などのブースが出ての大イベントでした。

ステージがありウクライナ大使館主催というコーラスとダンスの時間で大勢の人がみていました。

さすが東京の祭。

ファミリーマートで買った夕食。
出来るだけ加工の少ないものを。
ホテルの部屋で有り難く食べました。

最終日の昨日14日は予定通り東京都美術館で開催中の「田中一村 展」を観ました。入れたスマホの入場券も無事現れて入場。

上野公園

田中一村展の大看板

東京都美術館の田中一村展は二期にに分け以下の開催です。
・前期展示:9月19日(木)〜10月24日(木)
・後期展示:10月25日(金)〜12月1日(日)
予約が必要な曜日もありますので確かめてお出かけください。

一村は南画でしたが公募展をことごとく落選が続きました。亡くなってから人気がでる芸術家の一人ですが、今では一村美術館が出来、この度の展覧会は作品の前に何重にも列が出来るほどの人気でした。
花鳥と山水中心の日本画の世界で、晩年の奄美大島時代のビンロウジュやソテツを大胆にあしらった光りと影の作品には南国の空気と時間が流れていてエキゾチックな気持にさせられなした。

300余点、全館挙げての展覧会は年令のせいもありますが疲れました。無理して言えば疲れるほど堪能したといえるかもしれません。
それにしてもこれだけ膨大な品を、あしらい良く展示する作業はどんなに大変なことか。張り合いもあるでしょうが、本当に立派と思いました。

東京の混雑はやはり堪えます。帰路の切符を買い直し1時間半列車を早めると明るいうちに帰ってきました。
樹下美術館の開館中に着き、一段と赤くなった柿をもぐと雲が良さそうな上下浜の海へ行きました。

夕暮れの海。

以下は一日目の食事で話題になった上下浜のアンドリュ・ーワイエス風の景色。マリンホテル ハマナスの東側を歩きました。

2007年美術館が開館した年、東京から来られた方がここを見てワイエス風と仰り、その後10年ほどして別の東京の方を案内すると、またワイエスだと仰った。それは敢えて言えば“嬉し寂しい風景”なのです。


ワイエスの紹介動画。

さて柿です。美術館の甘柿は終盤にかかりました。

夕刻もいだ柿。
一段とサイズが大きくなり、
甘みを増しました。

現在柿は出来るだけ美術館のお客様にお出ししていますので、宜しければ「柿ありますか」とお尋ね下さい。

話を東京行きに戻して、
普段の旅行では密かに何かと妻を頼りにしていますが、この度は一人でした。
切符を失くさない、駅の階段で転ばない、ホテルのキーを失くさない、スマホで田村一村展の予約をする、帰路の切符を買い替える、あまりのろのろ歩かない、駐車場の車の場所を忘れない、二つの初めてのレストランへそれぞれちゃんと着く、トイレは早めにetc。

多くの関門が続いた二泊二日はもやは冒険的大旅行でした。

帰ってきた樹下美術館と夕暮れの海辺、美術館周辺の田んぼは、いずれも「我がふる里」の実感がして疲れが取れた次第です。それでも大切な人達に会える心から幸せな旅でした。

この先も頑張らなければ。

2024年10月10日(木曜日)

好評の「高宮あけみ 水彩画展」。お弟子さん方が横浜から次々来館されます。本日は4人様がお見えになりました。
午後お茶をご一緒しましたが、「鎌倉よりよほど素敵な場所です」と仰るではありませんか。横浜の皆さまから、あの鎌倉より素敵とは、何と嬉しい事でしょう。

新幹線、あるいはほくほく線でまだ何組か来られるということ、本当に有り難いことです。「だって日帰りができますから」という言葉も心強いことでした。

本日のベンチ。

 今日の樹下美術館産甘柿。
明日からお客様に尋ねて
宜しければお食べください。

本日の夕陽。

コロナのせいもありましたが、今になってしばらく会わなかった大切な人達に会えることになりました。こうなればいっそう身体をいたわり頑張らなければと心を新たにした次第です。

A氏を亡くして。

2024年10月7日(月曜日)

去る日ある方A氏が亡くなられた。親しくして頂き世話にもなった。昨日お通夜でお線香を上げた。お顔を拝見させてい頂いたが静かに瞑目しているだけの表情だったので、声を掛ければ返事をしそうだった。

海山と音楽を愛し、ある団体で社会奉仕をされ、長年日本と海外の高校生を交換留学させる事業に取り組まれた。
数十年前、交換留学のお手伝いをさせてもらった時、“世界はテーブルの上でそれらしく話し合いをするが、下では足の蹴飛ばしあいをしている。せめて私達だけでも地道に交流し合わないと”と仰った。

クラシック音楽に造詣深かったA氏。樹下美術館は貴重な蓄音機をお借りしていた。その蓄音機を回しよくカフェでレコードを聴き、何度もお客様を招いてSPレコード鑑賞会を行った。

お考えと構えに貴重な品格を隠し持たれ、先人を尊び地域を大切にされた。負っている責任に対する熱意と周到な実行力は忘れることは出来ない。

以下は1971年10月24日、94歳で国連でスピーチをし演奏した時のパブロカザルスの映像です。当館でレコードを聴く際、よくカザルスの「鳥の歌」が最後に掛かりました。

 

カザルスは演奏に先立ち、
“私は40年も人前で弾いていませんが、今日は演奏しなければなりません。曲は小曲で「鳥の歌」です。鳥たちは大空でピース、ピース、ピースと鳴きます。音楽とはバッハやベートーベンほかの全ての偉大な音楽家たちが愛し尊んだものであり、それはとても美しく、私の国の魂とも同じなのです、カタロニアの。」”とメッセージを述べています。

本日はA氏のお葬式でした。私は急な胃カメラのため参列できませんでした。お葬式は悲しくも非情であり、昨日まだ体温が残り返事をしそうだった人があの遠い次元へ去り、完全に訣別しなければならない日です。

病は本当に残酷です、、、まだ若い人ならなおさらです。

明日から誰と話し、誰に聞けば良いのでしょう。

潟町村村立小学校の同級生。

2024年10月5日(土曜日)

本日土曜日、少々肌寒く雨交じりの曇空の日。
午前の診療で5人の小学時代の同級生がほぼ同じ時間帯に見えた。お一人が「待合室は同級会になっていた」と仰った。
さもありなん、昭和16年と17年生まれのクラスが偶々5人も同じ場所に居るなど、普段あり得ないことです。何かしらそれぞれ医療用件があり、決して暇つぶしに集まっているわけではありません。
他の日に来られる方を入れれば今や10数人が拙院に通ってこられるようになりました。不思議とも自然にも思われますが、和やかだけでは無く慎重に対応を続けたいと考えています。

私は中学校から髙田へ通いましたので皆さんとは12才でお別れしたはずでした。その後私でも参加できるクラス会があり、そうこうするうちに五人、六人、80才前後から九人、十人と見えるようになったのです。

そんな日の午後美術館へもう一人小学時代の同級生が見えました。彼は「これを貰いました」と言って、現在展示中の高宮あけみ展の販売作品が入った紙袋を見せてくれました。

 

求められた樹下美術館を
描いた作品。

実は彼こそ樹下美術館を施工された久保田建築の社長さんA氏です。駐車場からレベルの高さで入館、湾曲壁の絵画ホールから40度屈曲して陶芸ホールへ、途中のカフェへは60㎝を下りる。美しい漆喰の壁、爽やかな採光、、、。小さくても同じく大潟出身の大橋秀三さん設計の鉄筋コンクリート一体構造の、冬をまたぐ施工は容易ではなかったはずです。
竣工から18年、氏は折に触れ来館され館内を眺めカフェに座られます。

ひととき一緒に庭を見ながらお茶を飲み、もいだばかりの柿を食べました。

本日収穫した柿。

さて昨年15個ばかり獲った柿は今年40個ほど実りました。まだ早いかなと思ったのですが、この甘柿はヘタ近くに少々青みが残る今ごろ食べても全く渋みが無いばかりか、爽やかな甘みがありくサクサク、パリパリ、美味しいのです。
赤味を増すと蜂などの昆虫や鳥たちが食べに来ますので、もう少し様子を見てから残りを獲ってみます。

今日は幼い時代の同級生のことを書かせて頂きました。

水盤は「お鳥さまの公衆浴場」 敬老の日の花束。

2024年9月16日(月曜日)

祝日の本日思いのほか晴天に恵まれたが暑さは相変わらずだった。カフェから見える水盤は鳥たちに大人気で、あたかも「お鳥様の公衆浴場」と化した感がある。それというのも毎朝スタッフが水を替えているのが人気の理由らしい。

何度もやって来るヒヨドリは
水浴びが大好き。

大きいのが来ました。

 カラスです。
カラスの行水の通り
すぐに出ます。

一方何度もやって来ては
大騒ぎのヒヨドリたち。

右の三羽がやっていたようです。
直後回りを向いて警戒?
上で雀が待っている。

向こうはシジュウカラ、
手前はヒヨドリ。

鳥たちの水浴びはある種必死の様相がある。上品にポチャポチャでなくバシャバシャと激しくやって慌てて上がる。普段用心深い彼らにすれば水浴びはスキだらけの時間である。なので瞬間的にアドレナリンを出し、エイヤッ!とばかり決死の覚悟で行うのではないか。

その昔、怪我した雀のヒナを育てていたある日、突然水の器の中に飛び込みバシャバシャやったのを見てそう感じた。夢中の羽ばたきの後、いかにも慌てて水から出るや何事も無かったような表情で周囲を見る。5枚目の写真にそれが現れていないだろうか。

敬老の日の花束。
花の難しい時期にセンス良く
とてもすっきり選ばれていました。

本日敬老の日だったとは。お目出度うと言うのも、、、という親族。でも心こもったお花でした。
有り難うございました。

一昨日の雨、山は秋へ。

2024年8月27日(火曜日)

昨日は小林古径記念美術館の「玉井力三展」を書き、文末に前日に降った雨のことを米山と田んぼの写真でコメントさせて頂いた。

ところでその25日日曜日、私はゴルフで赤倉だった。美術館一帯などの平場では昼から川が増水するほど激しく降ったと聞いた。一方赤倉はさほどでもなく、午後いっとき傘を差したほか支障なくプレーが出来た。それが終わって帰ると、よくゴルフができたね、と言われるほど平場はひどく降ったらしい。その日の山と平地の降り方は奇異でキツネに包まれた感じがした。

いずれにしても雨のお陰で熱中症気味だった庭は息を吹き返たのが嬉しい。

ところで私のゴルフはひどく波があり90なかばのことがあればこの度は106と、まったく安定しない。私と同年齢でもいつも上手な人がいて、かといってもう練習すれば良いというものでも無く、長く楽しむことにしたい。

ゴルフ場は標高800メートル近い高原。コースは涼しく草花は秋へと衣替えを始めていた。

初々しいススキ。

処々のツリフネソウ。

何かとお世話になっているSさん、また横浜市からお寄りのご夫婦さん、昨日のご来館まことに有り難うございました。

週末の玉井力三展。

2024年8月26日(月曜日)

一昨日24日土曜日午後は上越市髙田の小林古径記念美術館へ行った。同館で好評開催中の「玉井力三 展」を観るためだった。
玉井力三:上越市柿崎区出身、明治41年(1908年)8月14日~昭和57年7月23日、享年74才の人。
後の太平洋美術学校に学び、終戦まで満州で制作、戦後まず月刊讀賣、ユーモア、オール讀物、少年讀賣などの表紙絵を担当。
昭和29年(1954年)、46才から長きに亘り小学館発行の学年雑誌を中心に他社の学年誌はじめ婦人雑誌、学習ノート、大人向け月刊誌など多数の表紙を描いた。小林古径記念美術館入り口の看板「玉井力三展」。

美術館で購入した書籍「玉井力三の世界」
から裏表紙。
初めて手がけた昭和29年四月号。
まだ表情はあっさりしていた。

本展覧会は氏が筆を執った小学館発行の学年誌からおびただしい表紙原画が展示され、ほかに一般の油彩作品もあった。表紙以外では美しい光の中の裸婦像が非常に魅力的だった。みな個人蔵と記してあったがどんな人が所有したのだろう。

表紙絵は自宅柿崎のアトリエで制作され、本人が作品を携えて上京。東京では次に備えて季節に相応しい状況が設定され、モデルの子ども達を配した丹念な撮影を行うという一連の周到な過程が繰り返されている。

作品は編集者から印刷所へ回されたが、付けられたメモが展示場内に掲示されていた。そこには、
○顔の色はなめらかに、健康色を出す。
○歯と白目部分を出来るだけ白く。
○運動着は純白に、但しシャドーは飛ばないよう。
○唇は赤すぎないよう。
○絵とまわりのイラストなどが全体に調和するよう。
○歯の間は原画どおりに。
などと玉井氏のこだわりが記され、特に肌の色(健康色)、歯と白目の白が強調されているのが目を惹いた。
赤い頬のほか、個人的にはくっきりした二重まぶた、明瞭なほうれい線、および笑顔でのぞく歯ぐきと舌は玉井の児童表紙絵の特徴として印象的だった。

季節ごとのテーマや万博、スポーツイベントなどがモデルの子どもとの関わりで取り上げられるが、読者は幸福な表紙に大いに元気づけられ、将来を夢見たにちがいない。
一貫した具象の商業画家、玉井力三。希な氏の業績はさらに評価、顕彰されるべきではないかと思った。

本日の米山。
昨日しっかり雨が降り、稲には
良いタイミングだったのでは。

富山県を訪ねてその2 ,先ず大和、遅まきながら富山美術館と運河。

2024年8月17日(土曜日)

さて8月12日分が長くなりました。本日は翌13の分です。
当日午前は開店早々の大和デパートへ。5年前もそうでしが富山市に来たらまず大和デパートでした。

懐かしや、
上越大和と似た外観。

1F
スーパーと違いデパートはきれいだ。

ギャラリーの彫金作品。
下地から浮いた
繊細な分岐模パターン。

新潟県の三店が閉鎖されて久しいが金沢市、富山市では構え良く営業されている。開店早々の店内を眺め美術部のギャラリーでモダンな彫金を観た。大和が健全なことは嬉しい。

続いて本日メインの富山県立「富山美術館」へ。炎天下で辻に立ってタクシーを待ったが中々来ない。近くに営業所はあるが人はいない。看板の電話番号に電話すると待っていて欲しいと言われた。待つ事しばし、現れた女性ドライバーさんのタクシーに乗ると、富山では流しのタクシーは無いのですかと尋ねてみた。
はい、人手不足もありますが、そもそも富山の人は普段よほどでないとタクシーに乗りません、という。富山の人は堅実なのだ。そもそも一帯はバス、ローカル電車、市電、私鉄など交通の便が良さそうである、、。聞いていて、すぐタクシーに乗りたがる自分たちを恥ずかしく思った。

さて富山美術館に着きました。

企画がいっぱい詰まった美術館。

先ず西洋画のコレクション展から。

ロートレック薄描きの油彩肖像作品。
安定のデッサン。

ピカソ「肘掛け椅子の女」
壮大な展開はやはり
デッサン確立から始まっている。

岡本太郎「赤兎」
とてもきれいだ。

若者が多い館内は頼もしい。

今期は「民藝MINNGEI-美は暮らしの中にある」」の特別展中。昨年から日本各地を巡廻中の木工、金属、陶芸、ファブリック(繊維)、絵画、染色、ガラスなどの各分野ごとの民藝作品が丁寧に続く。あらためて名もなき職人がもたらした生活の美の力を知らされる。
美術館のコレクションではないため撮影は導入部の環境的展示に限定されていた。
民藝に着目し概念を確立した柳宗悦(むねよし)と氏と同士の工芸、美術の巨人達。導かれるように広い裾野を形成したファン。民藝は戦前戦後を通し一貫して起こった「健康で日常的な」美の革命にちがいない。

現代は若者中心にユニクロ、ニトリ、百均が生活を席巻している。品質が良くリーズナブルなので広がりからいうと文化としか言いようがない。これらからみると明らかに民藝は異質で、今後生活文化に於いて両立するか重要なテーマになりそうだ。

以下はさらに続く展示「20世紀の椅子コレクション」。

フリッツハンセン社のモンローチェア(左)、マッキントッシュ氏デザインのウイロー1チェア(中)およびとヒルハウスラダーチェア(右)。これらは上越市直江津駅前、ホテルイカヤのロビーなどで以前から観ることが出来る。

世界の名椅子がズラリズラリ。
上越市歴史博物館にあるものも
あった。

ありました、堂々の「柏戸」。

2007年樹下美術館開館を前に館内の椅子を選ぶのに楽しい時期があった。その折カタログなどで山形県の天童木工の椅子を検討したがひときわ目を奪われたのが「柏戸」だった(小さな樹下美術館では使えませんでしたが)。
今回会場で座ってみたところ当然硬く、座り心地はいまいちだった。だがこれを歓迎を表すオブジェとしてロビーなど置くなら誠に良い感じになろうと思った。まさかこの日「柏戸」の実物と出会い座れるとは思ってもみなかった。
※樹下美術館絵画ホールの山中グループの「マッシュルームスツール」やカフェのアルネヤコブセンの「セブンチェア」も20世紀デザインの名椅子です。

以下は富山県出身の美術家、詩人、評論家・瀧口修造氏コーナーからです。

瀧口氏のコレクションが並ぶ。

氏の書斎。
おびただしい書物と資料。

ジョアン・ミロが来日した際ミロが絵を
瀧口氏が詩を書いている。

戦前特高に捕まってまで前衛芸術に身を捧げた富山県出身の瀧口氏。戦後堰をを切ったように沸騰するその世界で絶大なインフルエンサーの役割を自ら負われた。
どれだけ多くの人が氏に会い、作品を送り、評価を請うたことだろう。かって何気なく求めた美術の古書が瀧口氏への献呈本だったことがあり、氏の仕事が如何に多忙だったかを垣間見た気がした。

最後は現代美術のコレクション。

袴田京太郎作「本保裸婦像-複製」
広い会場でひときわ目立っていた。
妻撮影です。

本保義太郎作の裸婦像。

袴田作品の原型となった高岡市出身、夭折の彫刻家、本保義太郎作「裸婦像」が傍らに展示されていた。本保氏へのオマージュで、何故日本髪なのかが理解出来た。

最後にこれも懐かしい久保田成子作品「階段を降りる裸体」。久保田さんは直江津の出身。ニューヨークで活躍され世界で認められた人。
小学時代一時彼女のお母さんにピアノを習った。お父さんは高田高等学校の校長をされた久保田隆円先生です。

さて広大な美術館で膨大な作品を観た。とても楽しかったしまだ観足りない。こうなれば再訪であろう。
ひごろ様々なジャンルの展覧会が地方を回る。新潟県には上越市はじめ新潟市、長岡市ほか立派な美術館がある。もう年だから遠くへ足を伸ばせない。それで北陸と新潟県をぐるぐる回っていれば十分に楽しめるのではないかと思った。

富山美術館の前に富岩(ふがん)運河環水公園の船着き場がある。電車でも船でもいい、出かけた先で乗り物に乗るのは楽しい事だ。20分の短いコースだったが今度は海が見える長いコースに乗りたい。

良寛研究家の小島正芳先生にお聞きしていた富山県は浄土真宗王国の事実。この度棟方志功で実感したが、真宗は時に芸術家や思想家に決定的とも言える影響を与えている。
無駄を省き質と実を重んじる県民性も伝わった。一泊だったが、隣の芝生でないけれど魅力的な隣県に恵まれることは幸せなことだと実感した。

この度の写真は全てスマホで撮り多くはトリミングしました。

富山を訪ねてその1,遅まきながら棟方志功の福光。

2024年8月15日(木曜日)

夏本番前から今夏は暑いと言っているうち、いつしかその本番を迎えている。すると2日3日とブログを休みはじめ、つい休みグセがつき3日、4日と怠けるうちにまる1週間空けてしまった。

患者さんのご迷惑も顧みず11日から15日までお盆休みをもらっていたので、12日から一泊で富山県に出かけた。主な目的は一日目は福光町(現南砺市の)で棟方志功関連施設を、翌日富山市内で県立美術館を訪ねることだった。
棟方の足跡を福光に訪ねた方は少なからずいらっしゃると思われ、御地の話は皆さまから色々聞いていた。樹下美術館でも父譲りの志功の板画を数点収蔵しているにも拘わらず同地を訪ねるのは初めてだった(恥ずかしながら何事も人様の後から後からです)。

12日午後新幹線で高岡まで行き、福光へはそこからJR城端(じょうはな)線の赤い2両編成の電車だった。40分少々かけて11駅目が福光駅。
道中の窓外を楽しみ到着した駅前ではタクシーが見当たらず、駅の世話になり会社に連絡して車を待った。
やがて一台で動いているらしい車が帰って来て、帰り電車の時刻まで「福光美術館」「光徳寺」「愛染苑」を回ってもらうことにした。

福光駅天井の棟方志功作版画。
福光は地域全体が志功の町。

南砺市立福光美術館は棟方が親しんだ医王山の麓にある。人口4万6千の都市にしては大きくて立派な美術館だと思った。

広々したホール。

正面に「二菩薩釈迦十大弟子像」
夫人の機転により空襲直前に
当地へ移送された。

棟方は上記作品によって1955年サンパウロ・ビエンナーレ国際美術展、1956年ヴェネツィア・ビエンナーレ国際美術展で、それぞれ版画部門の最高賞およびグランプリを受賞し一躍世界の人となった。

「宿業者是本能
則感應道交」の襖屏風。

宿命は授かり物でありそれによって仏と感応し交わることが出来る、という意味らしい。絵画を諦めざるを得なかった棟方は重い視力障害を悔い悩んでいたが、福光でこの言葉に出会い全てを吹っ切り版画(板画)に没頭するようになった。
救いの言葉を伝えた浄土真宗の僧・仏教学者蘇我量深(りょうしん)は新潟の人だという。歎異抄から導かれた言葉のようだが真宗のわかりやすさ、自在さは宗旨替えをしたくなるほどだ。

花狩頌(はなかりしょう)。
弓矢でなく心で花を狩る。

大作、二菩薩十大弟子の両側の菩薩を文字で「普賢」と「文殊」と書いている。東京空襲で二菩薩の版木だけが焼失したため当座文字にされ、後に像として彫り足されている。

以下の「鐘渓(しょうけい)の柵」で言う鐘渓は敬愛する陶芸家河井寛次郎の窯の名で、シリーズ24作品は氏を称えて制作された。

鐘渓頌シリーズから
「瓢箪の柵」。
樹下美術館も収蔵している。

「沢瀉妃の柵(おもだかひのさく)」.
沢瀉は棟方が愛した草花。

四角い画面に女性を丸で囲み四隅に文字を配している。棟方流の曼荼羅を想像させる。

以下は同館で展示されていた福光出身の日本画家石崎光瑤の作品。石崎氏は棟方よりも年長で二人は特に親しく交わった。

石崎氏は高野山金剛峯寺の障壁画を手がけ、京都藝術大学教授も務められた。登山家として知られヒマラヤを登頂されている。福光に於ける棟方の住宅用に土地を提供するなど厚い手を差し伸べられた。

続いて光徳寺へ。

唐破風門と花頭窓が印象的。
境内に多数の大壺。

玄関脇のタカサゴユリが涼しい。

戦前文学青年で『白樺』を愛読していた同寺ご住職は柳宗悦の民芸運動に感銘を受け、その美と浄土真宗の他力の考えの根底が同じであると理解するに到った。
昭和13年、河井寬次郎を介して住職と知り合った棟方は福光訪問を重ね、昭和20年空襲の東京を避け、ついに一家6人福光へ移った。福光では同寺の世話になり宗教風土と風光に親しんだ。偶々過日ある方から、かって同寺が制作した志功板画の風呂敷を頂いていた。帰り際寺の女あるじにそのことを話すと、今ではとても珍しいことですと仰った。

以下は良寛による「花無心招蝶」の詩。自然界の美しい摂理を歌い人間もまた然りとしている。

樹下美術館の人齋藤三郎もこの詩の一節を好んで焼き物や絵画に書いた。

齋藤三郎作品の「花開時蝶来」
(樹下美術館収蔵)

民藝運動のパイオニア
柳宗悦の掛け軸。
廊下で見て心打たれた。

色紙(無盡藏」。

 

「光徳」の掛け軸。
「華厳」と一対らしい。

以上光徳寺の略略でした。次の訪問先は「愛染苑」です。

福光の生活が始まった頃の
棟方一家。

ささやかな仮寓とはいえ住まいを得た夫婦と子らの安堵は如何ばかりだっただろう。

上に記した石崎氏が“福光の町を歩き歩き(福満之魔智於阿留機阿留機、、、云々)、ヒヤシンスを求め、それを大切にしても道に落としたりと書かれているようだ。文末の「飛矢志武壽」もヒヤシンスと読むらしい。私には難読だが絵から花への感謝が伝わる。

福光の風光をを呉須で描いた
陶板。マチス風でとても良い。
こんな作品を持てたら、、、。

女人観世音版画巻(全12柵)

愛染苑を出てすぐ向かいにある6年を過ごした住居「鯉雨画斎(りうがさい)」へ。

 

茶の間

アトリエ鯉雨画斎
黒い雨が降りしきる中
赤い鯉が昇っていく。

トイレ。
喜びの仏などが
天井まで描かれている。

以下は新居(鯉雨画斎:りうがさい)完成祝いの寄せ書き。大原美術館館長・大原 總一郎、民芸運動で陶芸の巨匠河井寛次郎、濱田庄司の名が見える。

屏風の右側部分。齋藤三郎の
署名があった(斜めの青丸沿いです)。

以上福光の棟方志功関連の施設回りの略々でした。いつものように昼食抜きの急ぎ足で、3時間弱のタクシー貸し切り代は11850円だった。
もう少ししっかり見て来れば良かったと反省点が多い。タクシーは見学時間の予定を告げその都度迎えに来てもらう方が安く済むかもしれない。
富山に戻ると駅前に
ミストの煙。

富山の宿泊は5年前訪問と同じクラウンプラザホテルでした。

夕食はホテルの洋食。
クレープを重ねたケーキの
美味しかったこと。

令和元年、同ホテルでの朝食時、新元号の名付け親である中西進さんにお会いし写真をご一緒して頂いた懐かしい思い出がある。

夜の市電
「国際会議場前」停留所で。

夜の電車を撮るためホテルのすぐ近くの停留所「国際会議場前」で待っているとやって来た。新幹線に備え市内交通網整備の一環として導入されたという路面電車。今どきの時勢とは真反対だが成功し充実、市民に愛されているという。
この時も、待っているとポツリポツリと人影があらわれ間もなく電車がやってきた。都会だなと思った。

路面電車が走る町は旅情と活気があって楽しい。かっての東京のほか後年は長崎や熊本の市電にも乗ってみた。このたびは撮るだけだったが次は乗車したい。

非常に長くなりましたが、翌日の富山県立美術館と富岩冠水公園観光を次に掲載させてください。

本日は太平洋戦争の終戦(敗戦)記念日。偉そうに言うわけではないが、うぬぼれた勘違いだけはストレスレベルまで謹みたいと思う。

先週末の種々。

2024年8月5日(月曜日)

昨日は初めて行く長野市の京急カントリークラブでゴルフがあった。7時20分に車で出たが、一時間少々で着いた。いつもの常で初めての所はどこも外国で、町並み村落、自然みな新鮮で楽しい。ゴルフ場は900メートル以上あり飯綱山が見える良いコースだった。プレイはほかは良いのだがグリーン回りになるとシャンクばかりして成績はだめだった。また課題が出来たとして頑張ろう。

帰路黒姫童話館へ寄った。遅い時間のため入館は出来ないが、去る日同館を訪ねたA氏から同地の素晴らしいオオウバユリの写真が届き、ぜひこの目で観たいと思い寄り道した次第。

以下童話館の駐車場から。高原の風景に心洗われる思いがした。

駐車場から見る同館の花畑。
高原は草花が新鮮で羨ましい。

公道から童話館の道に入るところに3本のオオウバユリが咲いている。行きは山側ばかりみていたので、帰路はじめて気がついた。A氏が送ってくれた花は恐らくこれだろう。確かにY字路で案内目印のように咲いていた。涼しいため花期も長いのか。

さて昨晩遅くのオリンピック中継でゴルフで松山秀樹選手が銅メダルに輝いた。最初から首位争いにからみ、後半で激しく順位が変動した。
あのマキュロイ選手と同組ながら彼の上を保ち続け、最後まで崩れず三位を死守した。18番でバーディパットが入れば二位を掛けたサドンデスに進めるところだった。

バンカーショットを放つマキュロイ。

池が入り組む緊張の最終18番の難ホール。果敢にグリーンを狙う松山選手。ホール全体を大観衆が取り巻いている。フランスはそうゴルフが盛んではない。しかしオリンピックの観客数は驚くばかりで、某有名選手がこんなに多くの観客を見たことが無いと述べたという。やはりオリンピックはケタ違いの競技なのだろう。

それにしてもゴルフは変わったスポーツだ。多くの球技は一つのボールを誰かと投げたり打ったり蹴ったりし合うが、ゴルフは最後まで一人で自分のボールを打ち続ける。4日間もの競技中、成功も失敗も全て自分が行った結果である。面白いのはナイスプレーをして次のホールへ歩く時、歓喜する観衆の中を選手が戦略で頭をいっぱいにしながらうつむいて歩くことである。
選手一人が葬列の人のようになり、気がついては顔を上げ笑顔で応える。昨日最終日の後半はめまぐるしく順位が変わり、そのような場面が何度もテレビに映しだされた。
熱狂が連続するものも良いが広大な場所で繰り広げられる神経がひりひりするようなゴルフを観るのが好きで、続いて始まる女子ゴルフの日本勢には大活躍を期待したい。二人の選手は実力十分なので楽しむようにプレーしてもらいたい。

本日当院脇脇から
見えた積乱雲。

暑い季節だが雲は見る値打ちがある。

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