空・海・気象

雨がようやく止んで 

2011年7月30日(土曜日)

ひどい水害をもたらして数日来の雨は止んだ。滅多に水につからない上越市大潟区の田畑も水びたしだった。

 

新潟県では中越地方を中心に、上越市でも吉川区や保倉川水系などで甚大な水害となった。今年は特に自然の猛威を知らされる。

 

1午前の田畑 午前、往診帰りの田畑 大潟区里鵜島
2ツバメ
ようやく雨が上がり、鳥たちが活発になった
3川と雲
次第に夏らしい空に

午後から晴れてきて、樹下美術館の裏手の田んぼではツバメが休みなくヒナに餌を運んでいた。豪雨続きで親子ともお腹が空いていたにちがいない。

夕刻近く、長野県から可愛い赤ちゃんをベビーカーに乗せた若いご夫婦がいらしてた。上越市へ海を見に来られたということ。たまたま食事をした店に置かれたジャックランドで当館を知り、寄ってくださったと。

4お客様 可愛いお嬢ちゃまが一緒のナイスファミリー
またいらしてください、ありがとうございました。

 

誰がリーダーになるにしても

2011年7月12日(火曜日)

脱原発は多くの国民の意識となりつつある。しかし根深い相手サイドの克服なしに成立しない。

 

経済産業省、電力はじめ産業界のほぼ全体、地元経済、擁護政治家、擁護メディア、安全保障関連、、、衝突カテゴリは膨大である。
 

だが福島の事故の悲惨さと深刻さによって、推進サイドさえ一定の限定を受容せざるを得ない状況がにじむ。また擁護的であった原子力学会など専門団体にもようやく反省表明が出た。このタイミングを無為にすべきではないだろう。

 

いうまでもなく旧態の脱却には並々ならぬ信念に貫かれたリーダーが必要だ。はたして菅首相は大丈夫だろうか。残念ながら氏がこれほど切れ味の悪い揺らぎの人だとは思わなかった。直近においても3・11以来考えが変わったなどと述べ、意外であり信念の深度も問題だ。タフな脱原発は愚直なまでの理念と牽引力が不可欠なのに。

しかも菅氏のぶれは逐一推進サイドのメリットに転換されてきた。事故も検査もまず原発自身の問題なのに、何もかも菅氏の失敗のせいだと転嫁され大いなる空白と損失を生み続けた。民主党の甘さでもあり、不可解なことでもある。

 

今後、解散総選挙による政局で脱原発党が出来たとして、はたして誰がリードするのだろう。大方は攻撃専念の無為なお利口さんばかり。政争の具から離れた目の覚めるような人が生まれるようには見えない。
この残念は安全神話と金が如何に深く浸透していたかを物語り、政治の退行を本気で心配しなければならない水準にある。
 

本日、原子力の所轄は経済産業省とは別に独立させると菅氏が述べた。遅きに失する見解であるが誰がやってもいい、諸課題の中で優先順位は非常に高い。

課題は次第に整理されつつある。誰が引っ張るにしても過ぎた4ヶ月を切実に学習し、人がまとまりリーダーが育つことを、それでも期待したい。またしても国民が悪いと言われるのは、やはりつらい。

 

今日の鵜の浜温泉の夕焼け 今日の鵜の浜温泉の夕焼け

夏の夕刻、激しい気象 

2011年7月11日(月曜日)

今日また暑さはさらに厳しい。仕事が終わる直前に晴れ間が変化して激しい夕立がきた。スタッフがゲリラ豪雨、と漏らした。

 

夕食を終えるころ雨に濡れた百日紅(さるすべり)が赤々と夕陽を照り返している。7時まで待って四ツ屋浜へ日没を見に行った。

 

雨上がりの海にあざやかな夕陽が沈んだ。道の水溜まりが赤く染まって遠くを佐渡汽船が通過して行く。

 

2 
雨樋などお構いなしに降る雨

3 
雨があがり、夕陽に染まる百日紅
4 
赤い水溜まりの向こうを佐渡汽船が帰る
5 
真っ黒な雲(乱層雲)の下に柱のような雨影
稲妻を写すのは難しい。

 

深まる夕闇の向こう直江津方面で稲妻が光り始めた。カメラを構えると今度は私たちの後ろが光った。振り向くと真っ黒な雲から大きな柱のような雲(雨影?)が海面に降りていて、そこにも稲妻。

 

雲はごろごろと言いながら閃光を放ち、こちらへ向かってきた。ここで雷に打たれたら申し開きができない、追われるように家に帰った。
再び雨が降ってきて夕刻の気象は激しく変化した。自然てすごいね、と妻、まったくその通りだと思う。 

陶齋のざくろ紋壺 父の油絵 小生の絵油 再び夕陽を

2011年7月8日(金曜日)

以前のノートで柘榴アラカルトとして陶齋の壺を描いた父の油絵を載せたことがあった。その時、とても気に入っているので額装し直して架けたい、と書いた。

実行まで随分日が経ってしまったが、昨日大嶋画廊さんへ持参しその場で仕上げて頂いた。

陶齋の柘榴壺モチーフになった陶齋のざくろの壺 (昭和28年頃)
陶齋40才の頃の作品。

父のざくろの絵
額装し直した父の油絵(昭和30年頃)
50才の頃突然のように描いた。

部屋に架けるととても良かった。存在感のある丸み、陶器の肌あいとざくろの朱がなんとも良く出来ている。陶齋の壺への愛情が筆を取らせたにちがいない。一枚だけ残した絵には、好きだったマチスの爽快さまで漂うようで気に入っている。

 

 

私のバラのドライフラワーの絵
私の静物油絵(昭和51年秋)
37才

一方私のは随分苦労して描いた記憶がある。父のに比べて分量も少なく如何にも面白みがない。

追加:今日の午後、上越地方は高田で34度にも達する暑さで、今年一番。大潟区で車が示した外気温は32度だったがそれ以上の暑さに感じた。
夕食後、再度妻と海へ行った。一昨日とちがって見応えのある夕焼けだった。

7/8夕焼け
今夕の四ツ屋浜

何かに感謝したくなるような時間だった。

四ツ屋浜の夕陽 コンビニ弁当 土底浜の小屋

2011年7月6日(水曜日)

また夕陽の海でお弁当を食べよう、という話をしていた。午後から雲がそれらしくなったので今日は行ってみることになった。

 

海の夕食は前回同様買ったお弁当。小生と美術館と三人の老親を抱える日頃、行事は一ときながら100%妻の骨休めだ。

 

車ですぐの四ツ屋浜の海沿いは高さがあって気持ちがいい。先日の夕暮れも何組かの人達が犬などを連れて三々五々海を眺めていた。

浜小屋土底浜の小屋。近くに小さな船着き場、もう使われていない風に見えた。
向こうに直江津の火力発電所の灯りが見える。

 

しかしせっかくの日は、夕方に向かって雲が多くなり空は怪しくなった。それでも用事から帰った妻はしっかりお弁当を買ってきた。母の夕食を見終えて、夕焼けがきれいでなくても構わないということで出かけた。

 

陽は湿っぽい雲を少しばかり染め、最後に私たちを赤い目でじろりと睨んで沈んだ。開けた窓に潮騒と風が心地いい。私はオールフリーを飲み、妻はビールを一缶飲んだ。

 

食事を終えると、Uターンのためにかっての漁師さんの小屋まで下って行った。たぶんこの辺りは土底浜。絵みたいと妻、私には映画のように写った。
風景も食事もどことなく浮世離れの夕べ、400円もしないお弁当は900Kcalもあった。

 

お金も掛けず、しけた線香花火のような夕陽と、なにか絵か映画の様な風景を見て楽しい夕暮れピクニックだった。

初夏、上越市大潟区四ツ屋浜の夕暮れ

2011年6月7日(火曜日)

 障子が赤らんでいたので夕刻、近くの四ツ屋浜の海へ行った。雲の切れ間から陽が下りてきて漁船の背後に沈んで行った。北から佐渡汽船が静かに現れ、直江津港まで文字通りあっという間だった。

 

夕陽 
 光りの中に船が入って、

佐渡汽船 
暮れると佐渡汽船が近づいてきた。
 

 さて、時間は夕陽の如く滑るように過ぎる。「間もなく」、などと図録のことを書いてからゆうに一年は経ってしまった。印刷屋さんに初稿を出したまでは良かったが、欲張ってアルバムの写真ページを追加することにした。そのクレジットなどの用件でもたもたもたした。メドがついたが、図録は思ったよりずっとずっと大変だ。

久しぶりの海岸 海との関係 

2011年5月3日(火曜日)

 私は海が好きで当ノートにもしばしば海のことを書いてきた。

 

これまで見て来た海は荒れても、なんとか人生の波乱になぞらえ得るものだった。しかしこのたびの震災では行方不明者を含め2万5千人に及ぶ犠牲者の大半を津波が占め、地方を壊滅させ、国の危機に迫った。それは人に対して見せる生成、豊饒、浄化など海の正の側面とは反対の、攻撃的で決定的な負の威力だった。

 

地震以来、何となく海が鬱陶しくなっていた。今日の午前の晴れ間、思い直して一月半ぶりに出掛けた。海はどこかよそよそしい風をしながら鋭く白い波を打ち返していた。

 

写真を撮っていると横から来た波があっという間に膝までズボンを濡らした。慌てて下がったが足を取られて尻餅をついた。まだ怒っているのかなと思った。

 

あの日以来疎まれるようになった海。一方で原発に汚された土地や雨、そして直接排泄された汚染水の浄化を負わされた。そのことでも怒っているのだろうか。

 

ところでつい先日、樹下美術館で講演された堀口すみれ子さんと冬の荒海の話をした。すみれ子さんは葉山の海辺にすんでいらっしゃる。

「海が荒れるのは風のせいですよ」と仰った。

確かに、そして津波は地殻のせいなのだろう。

台風は眼に見えない大気の変動によるが、予報は正確。

地殻は実体があり、触れる事ができるのに、地震予知は進まない。

 

古来「海彦、山彦」として海は私たちに幸いなものだったはず。今後その脅威と備えの理解がもっと深まり、海らしい海として再び良い関係に向かうことを願っている。

  

午前の海 今日午前9時過ぎの柿崎海岸。釣り人以外閑散としていた。
地震が来たらまず高台のお寺に向かおうと考えながら歩いた

 

シーグラス 
見つけたシーグラスと陶片。珍しく黄色に出会った。

春は海から

2011年2月11日(金曜日)

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沿岸の春は海から。祝日の日、元気な子どもたちはとても嬉しい。

暇そうな海

2011年2月3日(木曜日)

2月になって1月のそれを裏返したように穏やかなお天気が続いている。午後の休診日、暮れる海を見に行った。ひと休みの表情は期待通りだった。

2月3日の浜

暮れる二月の海は赤シャツに着替えたものの
だれも相手をしてくれなくて
暇そうに潮だまりを行ったり来たり
本当は荒れたくないんだ、などと言っていた

(2月14日、手を加えました。)

厳冬の樹下美術館 高田の人は雪の道踏みがうまい。

2011年1月29日(土曜日)

一息入れながら雪は降り続く。今夕,冬期休館中の樹下美術館に用事があって入った。屋根の雪は下に落ちるようになっているが、それがカフェの窓をすっかり覆っている。

あたりはおよそ80㎝余りの積雪。私が行く前に妻が雪を踏んで道を付けてくれた。高田の生まれだから道つけは平気、いやむしろ好きかもという。長靴を履いて横向きに5回ずつ踏むとちょうどいいということだった。

 

新雪につけた道は踏み外すとズボッと腰まで埋まる。しかしさすが高田の人、うまく歩けるように踏んであった。

いよいよ明後日に印刷屋さんが齋藤三郎の図録原稿を取りにくる。写真部分で50ページあったのを何とか48pにした。それでも114葉あった。
各作品のサイズ、時代、作品名、ほかに挨拶、作家年表、作品一覧など繰り返し見ているがやはりミスが見つかる。校正はよほど念を入れなければ,,,。

図録の質は美術館そのものの質、すこしでも良い物にしたい。そう、まだ表紙もあった。

 

雪の樹下美術館 今夕、樹下美術館へと踏まれた道

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