赤ちゃんに帰るお年寄り 手のひらを見せて笑顔

2011年9月19日(月曜日)

今日は敬老の日だった。普段から親と関わっている家族には、敬老の日って何だろうね、と考えてしまう日かもしれない。

 

やや奇異だが老人には年を取るにつれ、相手または世話をする人が限られてくる傾向が見られる。他の人ではダメ、あるいは手出しが出来なくなる一面が出てくる。こちらではなく、老人の側にそのような志向が現れるようだ。

 

このことは、加齢が赤ちゃんへの回帰だとするとある程度うなずける。かってお乳を含ませた母親が唯一の人であったことと、世話し見慣れた人が次第に唯一の人(あきらめも含まれているかもしれないが)となるのと重なる。

 

また世話を促すように、かって頑固だったお年寄りにもどこか可愛い反応が現れる。飾り気なさ、可愛い勘違い、見たことがなかった笑顔、聞いたことのなかった「ごめんね」、「かんべんね」、「ありがとう」。構わないでは居られない赤ちゃんとどこか似た変化だ。しかも主に世話する人に向けられ、その人たちだけが見得る反応の可能性がある。

 

拙い経験ながら、これらは曲がりなりにも(みな曲がりなり?)世話や介護が維持されている超高齢者とその家族に見られる様子だった。拙生の母の最後の一、二年そして数ヶ月は、ある意味別人、振り返れば赤ちゃんのそれが現れたように思われた。

 

自尊と安心。お年寄りが望むものは二つだけかもしれない。いくばくかの話をしてもらい、手のひらを見せ、笑顔を作る。赤ちゃんと同じ、お年寄りも最後は視聴覚だけを頼って生きるのだろう。

 

認知症には赤ちゃんに帰るもう一つの道を見る思いがしないでもない。

 

 長峰池
ある日の上越市吉川区の長峰池
アール・ヌーボーな夕刻

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