2016年7月21日

小山作之助の曾孫のヴァイオリニスト、亡き中島幸子さん。

2016年7月21日(木曜日)

去る7月18日、海の日の祝日に卯の花音楽祭が上越市大潟区
で催されました。
大潟区出身で、荒城の月の瀧廉太郎を育て、夏は来ぬや川中島、
漁業の歌などを作曲した我が国の教育音楽の母と称される小山
作之助を讃える音楽会でした。

作之助の母はわたくしどもの高祖父、蘭学医杉田玄作の二女トヨ
で、作之助の弟で医師となった直次郎は当家に養子に入りしました
ので小生はその孫の一人、作之助は大叔父に当たります。

自分は作之助にいくばくか血縁ある身ですが、音楽の才能は無く、
卯の花音楽祭に際してわずかの寄附をさせて頂くだけ、あとは盆
に当家墓所の隣にある作之助の墓掃除くらいで、何もしていない
恥ずかしい縁者です。

ところで作之助に関する業績展示や顕彰事業は折々行われていま
すが、その子孫、特に音楽関係の後人についてあまり知られてい
ません。

実は直系の曾孫(そうそん・ひまご)に1949年2月27日上
越市大潟区生まれで、生後70日後に上京した故中島幸子(なか
じまさちこ)というヴァイオリニストがいます。
幸子さんは国立(くにたち)音楽大学付属幼稚園から同付属小、
中、高、そして同大学でヴァイオリンを学び、その間に久保田良
作氏にも師事しました。
※久保田良作:1928年-1997年のヴァイオリニスト、皇太
子徳仁親王のヴィオラ、ヴァイオリンの教師を務めた桐朋学園大学
教授。

幸子さんには以下のような輝かしい経歴がありました。
・1966年:学生音楽コンクール高等学校の部全国1位。
・1970年:第39回日本音楽コンクール2位。
・1971年:皇居に於ける御前演奏会に出演、海外派遣コンクー
ル入賞。
・1972年:ザルツブルグのモーツアルテウム音楽院のマスター
クラス入学、シャンドール・ヴェーク教授に師事。
・1973年:モーツアルト音楽祭にソリストとして出演。
・1974年:ヴェーク教授のアシスタントとなり後進の指導に関
わる。
・1975年:米国のマルボロ音楽祭に参加、同年東京でデビュー
リサイタル。
・1977年:パガニーニ国際コンクール2位。
・1976年からザルツブルグ・カメラータアカデミカ合奏団でコ
ンサートマスター兼ソリストを務めるようになる。
・1978年:ヘンリク・シェリング賞受賞。
・1979年:東京で二度目のリサイタル、また東京都交響楽団、
東京フィルハーモニー交響楽団と協奏曲を演奏(後にNHKテレビ
で放映)、NHKFM「夕のリサイタル」に出演。

 

中島幸子さん写真
1979年、チャーミングな中島幸子さん31才のポートレート。
(ヴァイオリンと共に 中島香織1983年8月6日発行 から)

・1979年12月スウェーデンにてヴェーク教授の門下生だった
ヴァイオリニスト、オラ・ルードナー(オーラ・ルードナー)氏と
結婚。
・1980年:夫ルードナー氏およびリチャード・レスター氏と
「ザルツブルグ・ストリング・トリオ」を結成、ヨーロッパ各地で
演奏。
1981年:東京でトリオの演奏会、その後東北、四国、中国地方
の各地新聞社主催による演奏会に出演。
・1982年8月5日:ザルツブルグで長男ヨナス(陽)を出産。

1982年8月6日:長男出産10数時間後、突然肺梗塞を発症、
33才で夭折。
素晴らしい音楽歴を経て、新たな幸福に向かう時に何という悲運で
しょう。本当にこんなことがあったとは、とても信じられないこと
です。

次回はお母様が1983年8月に発行された幸子さんの追悼文集に
ついて掲載させて頂きたいと考えています。

合理的でユニークだった大橋巨泉さん。

2016年7月21日(木曜日)

「今日の話は昨日の続き 今日の続きはまた明日」。
これは1961年(昭和37年に予備校入学のため上京して以来、
学生時代を中心にしばしばラジオで聴いた番組の冒頭フレーズ
だった。

番組名は忘れたが、出演者は大橋巨泉、前田武彦、富田恵子
(草笛光子の妹さん)が中心のおしゃべり番組だった。
話し上手の面々が、毎夜時流の話題をまこと饒舌に語り合って
いた。
放送局は音楽番組が多かったラジオ関東という局で、巨泉氏ら
のおしゃべりに「さすが都会」を実感した。

その巨泉氏が亡くなられた。
氏には独特のポリシーがあり、一言で言えば見事な合理主義者
であろう。
シビアで無駄の無い金使い、多趣味を良しとする生活、社会の不
合理を嫌い、健康に対する科学的な理解など明快な人だった。

その氏は学生時代からジャズに明るく、雑誌の執筆、ラジオ出演
やジャズコンサートの司会など多方面で活躍された。

ジャズコンサートにはよく行ったが巨泉氏の司会は声が良くユ
ーモアがあり、同じ良い声の久保田二郎氏、いソノてルヲ氏ら
とともに人気があった。

巨泉氏が司会をされたコンサートで忘れられないのに「オスカー
ピーターソントリオと日本のジャズメンたち」という、有楽町ビデを
ホールで行われた変わったコンサートがある。
(1960年代後半だったと思う

巨泉氏が構想、構成したと考えられる演奏会で、司会も同氏だ
った。
オスカーピーターソンの黄金トリオが最初に数曲演奏した後、ク
ラブなどを終えた日本人ミュージシャンたちが次々集まってきて、
トリオとセッションするという雑然として楽しい演奏会だった。

ちゃんとしたプログラムが有ったのか無かったのか、いきなりトリ
オが長々としたアドリブを演奏し終わると、虚を突かれた形の巨泉
氏は「今のは“On Green Dolphin Street”ではないかと思い
ますが、、、」と慌てアナウンスしたたのが印象に残っている。

テナーサックスの西条孝之助や松本英彦、ギターの横内章次、ピ
アノの中村八大や前田憲男、ドラムスの猪俣猛や白木秀雄、ベー
スの原田政長、名は忘れたが自分が好きだったトロンボーン奏者
ほか沢山のジャズメンが深夜から早朝まで入り交じって舞台に上
がった。

これも巨泉氏のアイディアだと思われたが、踊り場などに酒類が
売られ、演奏者もお客さんも一体となり夜が更けるのも忘れて楽し
み一番電車が出る時刻まで熱いセッションが続いた。

 

チケット
上掲のコンサートの切符。詳しい年が書かれていないが、
1960年代後半であろう、演奏開始時間が夜12時とある。

外国人ジャズマンのコンサートで、時に客としてきている巨泉氏を
見たが、賑やかなグループの真ん中にいつもご機嫌な姿があった。

若き日の「今日の話は昨日のつづき今日の続きはまた明日」。
その前田武彦、永六輔、大橋巨泉、特別に快活だった人たちが亡
くなっていく。
皆さん何事も自前で楽しみ、権力を嫌い、清々しく貴重な人だった
と思う。

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