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3月30日の徳川美術館と豊田市美術館 そして富士山。

2025年3月31日(月曜日)

3月30日日曜日、午前は名古屋市内の徳川美術館へ、午後はこの旅のメイン豊田市美術館で「黒田辰秋展」を観た。

徳川美術館には開門前に着いた。清々しい園内は啓翁桜であろう箒状に立ち上がる鮮やかな桜が美しかった。美術館の裏手に続く変化に富んだ庭園を一巡りすると開門していて来館者で賑わい始めた。

水と樹木と石と橋が引き立て合う庭。
一部がすでに新緑。

婚礼写真撮影。

館内へ。

煌めく刀剣の光り。

能面の引力。

利休の茶杓。

おひな様の展示が行われていた。

大きな犬のひな飾り。

なまめかしい官女たち

次第に大きく豪華になる雛飾りを幕府が諫めるとミニチュアのような芥子雛が登場し、展示されていた。

時間通りに観て回り、地下鉄鶴舞線の伏見駅から11駅目、豊田市へ向かった。

伏見駅で赤い車体とスーツの人。

伏見から50数分で豊田駅。
新鮮な風光の都市。
トヨタ自動車のお膝元。

美術館は地方都市とは思われぬ大きなスケールの近代的な施設だった。

現在「人間国宝 黒田辰秋 木と漆と螺鈿の旅」が開催されている。終了した京都国立近代美術館と2カ所開催の貴重な展覧会。

案内物。

氏は分業が一般的だった木地師(形成)と塗師の仕事を一人で行った。木工出発の頃、朝鮮の棚に魅せられその模倣に40日間不眠不休で取り組み、金具を取り付け完成させると丸二日眠り通したという。

以下展覧会図録「黒田辰秋」のページからからです。

 

朱漆三面鏡。
繊細な場所に力強さと安定感。
木と漆の相性が造る第三の質感。

拭漆(ふきうるし)欅(けやき)大飾棚。

拭漆楢彫花文椅子。
氏の代名詞にもなる彫花文。

会場には203点の作品が展示されていた。あっちで数点、こちらで一点程度しか見ていない黒田作品が一堂に会されかくも沢山観られるとは夢のようなこと。
古くから黒田辰秋作品はファンが多く、今もって小さなペーパーナイフさえ手に入らない。氏は以下のような言葉を残されている。
・自分の作品には生涯責任をもちたい。
・地球と代えられるだけの作品を作りたい。
・用いられることで道具としての良さが引き立つように作りたい。

扱う木に地球の全てをみて取り組む仕事。どの作品にも神域というような超越感が漂うわけだ。

今回訪ねた名古屋と豊田。どちらも開けて気持ち良く、さらなる可能性を秘めていると感じた。
当地から豊田市への交通は不便だ。名古屋市で色々な人に行き方を訊いたが、そらんじている人は少ない印象だった。そんな中でホテルのフロントと一部のタクシーさんは地下鉄伏見駅から直通が便利と説明してくれ、それに従って良かった。

その一人50代のタクシーさんは父親の介護のため地元に戻りドライバーをしながら見ていると話した。とてもきちんとした人だった。「親の介護は一大事業ですね、頑張って下さい」と言って車を降りた。

帰路の新幹線で窓正面に富士山が現れた。

大好きな濱谷浩作「ホンヤラ洞で歌う子供たち」とその絵はがき。

2025年3月23日(日曜日)

昨日の小林古径記念美術館行きの際、受付前の壁面に濱谷浩氏の「ホンヤラ洞で歌う子供たち」が展示されていた。氏の作品でどれが最も好きかと聞かれればこれと言うかも知れない。

いいですね、と受付で言うと、絵ハガキきもありますよ、と仰る。ほ、ほんとうですか、頂きます、頂きますと思わず口走った。それくらいこの写真が、この絵はがきが好きだった。
7,8年前のことか、古径美術館がまだ無い頃,上越歴史博物館のショップで「ホンヤラ洞で歌う子供たち」の絵ハガキが売られていた。喜んで10数枚だったかあるだけ求めた。当持は今より筆まめで、ハガキもよく使っていたので瞬く間に手許から無くなった。

一、二度再入荷したが残念ながらその後入らなくなった。ネットで調べると京都の便利堂という絵はがき屋さんの品で、コロタイプ印刷という古い伝統的な技法で刷っていることが分かった。
今度はそちらから10枚、15枚と求めているうちリストに載らなくなり、時期をみて当たったが長く出てこなくなった。

私に「ホンヤラ洞で歌う子供たち」は一種夢にまでみる絵ハガキ。それが昨日目前に一杯あるという。20枚、、、いや30枚お願いしますと言って買った。一枚165円だった。

夢の絵はがきが30枚。

机に置いて写真を撮った。
幸福で不思議な写真。

ところで同じ作品の絵はがきでも便利堂のものと少し異なり古径美術館のは縁取りがない。昨日久し振りに便利堂のホームページを見たところ、こっちにも出ていた。一枚275円である。

白ふちで囲むのとカットするのでは印象が異なる。カットされるとコントラストが効いてシャープになり、白い縁が付くと柔らかな印象になる。濱谷氏作品は縁があったほうが氏らしくて良いかも知れない。

さてハガキを良く観てみると、
大きなホンヤラ洞(かまくら)はロウソクが焚かれ、やかんが掛かり餅が焼かれている。手前にはミカンだろうか子供の数だけある。入り口にはゴツゴツと靴が置いてあり、後方の壁に小棚が穿たれ小さな雪だるまなどが供えてある。

ロウソクはじめ内壁、やかん、餅、ミカン、壁の小棚および子供の顔が明瞭なハイライト、一心に歌う子供たちの顔は雪洞とほぼ同じ明るさで髪や衣服、口および靴の黒とはっきりしたコントラストを作っている。さらに精一杯に開かれた口からは歌声が聞こえそうである。
ここに到るまで極めて丁寧な演出を施し何度もリハーサルを行ったのではないだろうか。明るいロウソクがポイントだと考えられるが、こまやかな照明はどのように工夫されていたのだろう。さらに歌をリードしているような左側の大人は誰なのだろう。

それにしてもよく子供たちがこのように自然で幸福な表情になったものだと感心する。そのことを含めて濱谷浩氏の写真は、あの夜の桑取の鳥追いといい、神がかっているとしか言いようがない。

「ホンヤラ洞で歌う子供たち」
昭和31年(1956) 新潟県十日町猿蔵 撮影:濱谷浩

小林古径記念美術館「生誕110年記念 濱谷浩展」と講演会。

2025年3月22日(土曜日)

現在小林古径記念美術館で開催中の写真家・濱谷浩展。本日午後から講演会「濱谷浩・人と作品」が二の丸ホールであり参加した。
戦前、グラフ社から派遣され髙田連隊の冬期演習を撮影した折、地元の研究家から紹介され谷浜の桑取谷に伝わる小正月の伝統行事を撮影。密かで力強い風土の概念を目の当たりにして取り憑かれ、長い写真家としての出発点となっている。

その後大衆、名士それぞれの持ち味、国内外の光りと影、風俗の新旧、地の果てそして告発etc、何かしら人間が関わる森羅万象をあまねく撮らんと世界を駆けられた。

講演会の第1部の講師は多田亜生(つぐお)氏(編集者、濱谷氏の作品管理者)で「濱谷浩 写真の魅力」を、第2部は齋藤尚明氏に学芸員の市川さんが加わり三人で「濱谷浩の髙田時代」を鼎談され多くの興味深いエピソードが語られた。
第一部でブラッサイやキャパの名が出て私のような年令には懐かしくも安心だった。

日本人初のマグナム写真家の証。
氏のヘルメットと腕章に身分証。

鼎談の最後の方で桑取取地区に「濱谷浩記念館」構想が起きた時の話になった。意見を求められた濱谷氏は“作品というのは時代により評価が異なる。何時でも常に光っているとは限らない”というような主旨から構想に同意されなかった事が話題になった。
誰も彼も残したがる世にあって氏の慧眼と謙虚さに驚かされた。晩年はひたすら作品の綿密な整理と記録に打ち込まれたという。マグナム写真家集団への貴重な参加といい、明晰な氏の頭脳と立派な生涯にあらためて畏敬の念を覚えた。

入り口幕。

融雪される古径邸の庭。

膨らむ紅梅の蕾。

濱谷氏筆:古径邸の床「裂古破今」
如何なる時も満足するなの意味か、
厳しい言葉だ。

午後遅く美術館の雀。

髙田で最高気温が20,6度にもなり近づくお彼岸の威力はさすがだ。

宮崎俊英さんとあらためて倉石隆を観た。

2025年3月16日(日曜日)

本日も肌寒く午後遅くからシトシトはじまり、春雨にしては冷たい雨。髙田文化協会事務局長の宮崎俊英さんが待っていて下さり、今年の展示は両方とも面白いと褒めて下さった。

齋藤三郎は茶道具のバリエーション及び茶道へ理解の促しが良いと指摘され、倉石隆は男性についてのストーリー仕立てが面白いと仰った。

倉石作品は幼年から老人まで副題をつけて並べてみたのだが、思ったよりも脈絡が繋がった。これは倉石隆の力量あらばこそ成立したことににちがいない。
因みに、スタートの幼少から老年まで以下の順で副題を付けました。
「毎日一生懸命」→「勉強もして」→「お腹を空かし」→「不安もあった」→「大きく見せたり」→「おどけたり」→「時には詩人」→「しかし自分は自分」→「意を決し」→「我を見つめ」→「孤独も修行」→「繰り返し妻を描き」→「いつしか年取った」です。

当然こんなことをしては倉石氏に失礼なのですが解釈や副題および展示順については私自身も問うて反映させてもらいました。ご覧になった皆さまのご意見は如何でしょうか。

「大きく見せたり」
(原題:男の像)

「時には修行」
孤独も修行と考えました。
(原題:黄昏のピエロ)

最後から2番目「繰り返し妻を描き」
(原題「画室」)

ところで「男性像展」とはいえ上掲の最下段「繰り返し妻を描き」は男性が見当たりません。しかし画中の大きなキャンバスの前(モデルの妻を見いているこちらこちら側)に絵筆を持って立つ倉石氏本人がいるのですから「男性像」として取り上げました。

人物を描くのはある意味“人間の本質”あるいは“自分自身”を描く事になるのでかなり大変な作業。おそらく描く時間だけではなく、生活のほぼ全て(ある意味生涯)を費やして取り組む課題なのでしょう。

「レンブラントは最大の師」とは氏の口癖だったようです。どうか人物画の面白さと深さをお楽しみ下さい。

25年初日 A君の書と芸術。

2025年3月15日(土曜日)

本日、2025年度の開館を迎えた。肌寒い日にもかかわらずご来館の皆さま、有り難うございました。お馴染みさんは冬の間に健康に過ごされたと見受けられ元気なお顔に安心しました。

その中の一人、中高時代の同級生A君ご夫婦と一緒して観て回った。それまで熱心に付き合ったことが無かったのが2007年の開館からよく顔を見せてくれるようになり、この数年は月に何度も来てくれる。
新潟大学教育学部書道科で学び、夫婦で2年間ドイツの日本学校に派遣され、県内の校長職と教育委員会の要職を歴任している。堅い肩書きを有しながら屈託なく万事謙遜の自然体、一緒する時間の話は勉強になり尽きない。

互いに年なのだが今のところあまり同じ話が出ないのはまださほど惚けていないのかもしれない。

齋藤三郎「搔き落とし牡丹文水指」
と風炉先屏風にした消息。

本日展示を観て回りながら“俺はまだ書いているがどうしても芸術的にならない”という事を盛んに口にした。“大体書を芸術に入れない分類まである”と言い、「しかしそれを意識するとわざとらしくなるしね」と話す。

対して“書の文字が持つ意味は芸術として大きなアドバンテージ”とういような事を返すと、“同じ書でもここにある齋藤三郎さんのようにどれを観てもその人らしい自然な味わいを出せれば”と言う。
“いやいや、もっとと思う気持ちは大事だが、自分らしさは、すでに出ているのでは”などと続けた。

妻同士も友人なのでカフェでお茶を飲み高校時代の学校火事にまつわるエピソード、学生時代の先輩後輩のありさま、小林古径記念美術館で始まる写真展の作家濱谷浩氏や朝夫人の話などに時を忘れた。

因みにA君は7年ほど前に遊心堂で個展を行っていて樹下美術館でも「喫茶去」を収蔵している。書は立派な芸術であり、作者が満足し何より人に喜んで貰えれば一大幸福ではないだろうか。

A君(一嶽)の「喫茶去」
とてもいい。

話しながら思った、こうなったら来年はA君の書と私の植物画で二人展をやろうと。一昨年に拙作品展を行っている。だが良いではないか、こうして顔を出してくれる級友は益々貴重で本日の話など芸術家の悩みそのものだ。館長の我が儘を許して頂きぜひ来年は一緒にやろうと思った。

ますます謙遜と向上心を秘めるA君に出会えて幸せだと思った。

今夜のNHK再放送は山中さんご夫妻だった。

2025年2月18日(火曜日)

今夜NHK「趣味どきっ、人と暮らしとだいどころ」の再放送で山中康廣さん(建築家)山中阿美子さん(カトラリーデザイナー)ご夫妻の台所をめぐるひと時が構成良く放映された。
阿美子さんの父上が樹下美術の常設展示作家・倉石隆氏ということでご縁があったご夫婦。ダイニングと台所だけの撮影による約30分の放映は食事とお仕事、そして二人の物語が滲む良い番組だった。

学生時代から協働されていた
お二人が設計したキッチン台。
人物は若き日のお二人であろう。

昔の新婚祝いのホーロー鍋を
見る。黄色は幸せの色。

阿美子さんが作るパンに
康廣さんが作ったレバーぺースト。
朝食のルーティン。

自分たちのキッチンと料理を
“居酒屋あみ”と仰った。

温かな時間。

二人で乾杯。

番組最後に“台所とは”と尋ねられ、
“創造の楽しい場所”とお答えになった。

パンを焼き、レバーペースト、冬野菜のラタトゥイユ、アジの刺身、モツ煮込みを番組中にそれぞれが分担して実に手際よく作られた。刺身担当のご主人、「ツマも美味しく作らないと」の言葉は素晴らしかった。
何十年も同じ道具を使い続ける生活。何とも言えないお二人の味わい。姿・顔まで似てくるのだろうか。

山中阿美子さんは私より二つ上の髙田高校の先輩。ご無沙汰していたけれどもお元気な様子で頼もしかった。夫婦でこんな風に成長できる自信はないが“何気なくも達人の域“を垣間見させてもらえて良い時間だった。

このたびの寒波初日の潟町。

一瞬にして消えたファイル ドヴォルザークの音楽。

2025年2月16日(日曜日)

日中ほぼ晴れていた本日日曜日、午後まで来たるイベントにむけて亡きヴァオリニスト中島幸子の年表を作った。しかし2時間掛かって8割方出来上がり、ファイルに名前を付けて閉じた途端、何を押し間違えたかそれが一瞬にして消えた。

スタートキーを押してPC内を検索したところ似たようなファイルは出るが、探し物は跡形も無い。残念だがこんな事が数年に一度レベルで起こり、迂闊な私の不徳、王者PCの最も怖いところだ。出来る人なら復旧させるのではないかと思うが私には無理だった。

一度脳を通過した作業だからまた作れば良いと考え直し、鳥を見に昨日の柿崎区の水田へ出かけた。米山を背に一帯の広い田に雁と白鳥の群が広がり、壮大な眺めだった。ラジオを点けるとクラシックが聞こえた。

武満徹のギター曲の後でドヴォルザークの「スラブ舞曲」が流れた。両方ともとても良かった。ドヴォルザークを聴きながら亡き関根日出男さんを思いだした。医師であるとともにチェコ音楽と文学の研究家だった氏は親族の一人だった。何度か訪ねる機会があったけれど、もっと勉強していれば気の利いた話も出来ただろうにと後悔がこみ上げた。

すると失ったファイルが再び思い出され、音楽はそれも慰めんと優しく続いた。


ドヴォルザーク作曲
作品72の2「スラブ舞曲」

遠くで一斉に飛び立った鳥たちの群が旋回しまた下りるのが見えた。

旋回する雁の群
(ハクガンも混じっている)

数日後と予報されている寒波。あまりひどくしないでもらいたい。

オールドメディアに向う生活 鬼平犯科帳 小山作之助記念イベント。

2025年2月11日(火曜日)

近時、新聞やテレビはオールドメディアと下ろされ、ネットやSNSが主要メディアと評されるようになった。一時私もそんな風に思わなくも無かったがこの半年むしろ新聞を爽やかに感じ、テレビのドキュメント(歴史、旅、科学など)をいっそう好むようになった。

そしてドラマはしばしばBSの時代劇にチャンネルを合わる。夕食時の一時間半など必ずどこかで時代劇が流れるので、それを観ながらということになる。
特に鬼平犯科帳をやっていれば必須となった。ちなみに数日前の再放送では常と異なり最後まで事件の謎を解決せず、手を付けられない世界があることを描き、少しく煮え切らない思いにさせられた。

しかし番組中、
“この太平の世に命がけの仕事などめったにあるもんじゃない、男冥利に尽きるではないか”と名台詞を吐いた。これは一家で鬼平犯科帳が大のお気に入で、各自それぞれ登場人物になり切りあるシーンを再現しあうという弟家族が大喜びしそうな場面だった。
ちなみに彼らは新聞とテレビを見ず、ディスクがすり切れるほど鬼平やパイレーツ・オブ・カリビアンなどを観ると聞いていた。

実は鬼平を観ていると、昨年亡くなった弟への供養ではないのかという気持がよぎる。

過日の鬼平犯科帳の場面。雪、番傘、粋な町人、侍、めし屋、そば屋、掘、荷車、物売り、、、いつも満点の江戸情緒。

役者も情景も素晴らしい。

そんなわけで新たにはじまっている大河ドラマ「べらぼう」もどうやら定着し、これからが楽しみになった。


音楽は鬼平犯科帳のエンドテーマ
「インスピレーション」

本日は来たる23日の小山作之助生誕160周年の講演スライドの仕上げに時間を費やした。直せど直せど修正カ所が見つかり際限無かった。当日最初の登壇、特別講演と銘打たれているので格段の緊張を禁じ得ない。

聞くところによると160名入場とうたわれているがすでに満席に近く、抽選になっているらしい。何人かの方から外れたが何とかならないかと問い合わせを受けた。
会場の前の部分に椅子を足せばもう10数人は増やせそうな気がするがそれも一杯なのだろうか。私のはともかく当日のイベント内容が良く、多くの皆さんが関心を寄せて下さるのはとても嬉しいのだが、、、。

一段落だと思った寒波は昨夜からシンシンと雪を降らせた。一日で止んだが新潟市でもかなり降られた。春にかけて沿岸も大雪になることがあるので油断できない。

寒波は峠を過ぎ小林古径記念美術館へ 昼抜きの食事例。

2025年2月9日(日曜日)

2月2日立春ころから始まった今冬一番の寒波が本日ようやく峠を越えた日曜日、小林古径記念美術館の「花にまつわる物語展」に行った。

除雪された雪は道路の両側に1,5メートル前後積み上げられてはいたが路面はきれいに現れ交通はスムースだった。

雪に降り込められていると美しさと新鮮さの美術館は別天地の如く感じられる。以下に印象的な作品を並べてみました。

小林古径による志賀直哉の小説題字と朝顔の扉絵。朝顔の色がなまめかしく、雪の時期に観るとハッとする。

古径さんが絵付けした湯呑。古径さんの器で熱いお茶を飲んでみたい。

かつてまちかど交流館で見た峯田敏郎の「白い百合のある庭」が入り口で迎えてくれた。穏やかな朱色の配分が清々しく、心込められた百合が愛らしい。

1896~1970年の上越市出身画家、斎藤俊雄の屏風。前年東京でみた田中一村を思わせる南国の画風。思いっきり良くかつ鮮やかで、とても雪国出身者の作品とは思われなかった。

エミール・ガレのガラス作品セット。うす褐色が施された透明硝子の花模様が軽やか。

同じくガレ作品。アール・ヌーボー趣味満点の上品さ。

北大路魯山人作の金彩に四季の花が描かれた10枚の皿セット。カットしたお肉に野菜の煮込みなどを分けて取ったら幸福であろう。

お馴染み齋藤三郎作品。手前の壺は青空を背景に辰砂のモクレンが美しく、もうしばらくすれば当地もこのような春が来よう。

齋藤三郎のお弟子さん、志賀重雄作品。黒釉に蝋抜きを思わせる筆で梅が描かれている。夜の梅は夜桜とは異なる粋な風情がある。

お馴染みの東洋越陳人は堂々の屏風。こうして美術館に展示されているのを知った天国の作者は喜んでいるに違い無い。

以下は本日の夕食と朝食です。

夕食は肉入りの熱いお蕎麦。

野菜炒めが付き。

ポテトサラダも。
ちょうど6時頃から
一時間少々かけゆっくり食べます。

昼食抜きの生活になって3年半が経った。因みに以下は本日の朝食です。

あずきが入った玄米ご飯、脱脂ヨーグルトにブルーベリーソースをかけ、家で採れた金柑の砂糖煮が二つ(金柑は皮だけ食べます)。かって野菜もありましたが、何か面倒なので最近止めました。もともと飲めない人間ですが、10年ほど一切アルコールを口にしていません。

朝・夕の食事前は気持ち良くお腹が空きますので身体に良いのではないかと感じています。

寒波の日、A氏のレコードを頂きに、帰路のタカ。 

2025年2月6日(木曜日)

やはりやってきた厳しい寒波の日。昨年の痛恨、生前何かとお世話になったA氏宅へレコードを頂きに伺った。立派なクレテンザを当館のカフェに置かせて頂き、何度もSPコンサートを開いたり皆さんとカフェで楽しんだ。

氏は私より若いのに確固たる信念と謹みを有し深く学ばれ、家庭と地域を愛され、心から笑い、音楽に映画、スキーなど真剣に人生を楽しまれた。いつも何か教えられているようであり、ことあれば意見を聞きたかった。

美しいバイオリン曲が掛かる部屋でお参りし、コーヒーをご馳走になり、沢山のレコードの中から聞き覚えのある演奏者と曲を選ばせてもらい、持てるだけのものを持ち、まだあるものは後日伺うことにして帰って来た。


フィッシャ・エルマンのタイース「瞑想」

時々吹雪く帰路は妻にも見てもらい冬鳥を探しながら帰った。雁も白鳥も見なかったがいつもの場所でアトリと雀、カシラダカが一緒の小さな群を見た。

車中から群を撮っているとタカが襲ってきた。群は無事だったがタカは残念そうだった。

襲撃に失敗して電線に止まるタカ。

寒さで丸くなっていたタカも
飛ぶと非常にスマート。

一瞬の晴れ間。

持ち帰ったほんの一部。

何か迷ったら氏ならどうするを想像したい。亡くなった後もまだお世話になっている。

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