樹下だより

妙好人の話 カニ。

2024年7月4日(木曜日)

昨日の当欄で丁度良い梅雨と書き、最後に世相などを愚痴った。愚痴りは万人のものであろうと思われる。良くあれ、良くしたいの裏返しが愚痴で、そう頻繁でなければ悪いことでもなかろうと弁護している。
それにしても去る青年、どうか調子が上向きますよう心から祈っています。

本日木曜は身勝手ながら休みの日。新潟から書家で良寛研究家の小島正芳さんが来館された。不明な自分は先生にお会いするととても楽しい。本日は良寛の実家の凄まじい困難、出家と修行、浄土真宗が盛んな北陸地方における「全てを阿弥陀に任せる」「妙好人」の話が特に興味深かった。「阿弥陀が代わりに悩んでくれる」という概念が普通にあるらしいのだ。
いわく言い難い禅を英文で海外に紹介した大仏教学者、大哲学者の鈴木大拙によって宗派が異なる「妙好人」の概念が確認されたところも宗教の混淆性というような面が現れて非常に面白かった。

有名な「天上大風」では何度も質問させて頂いた。先生とお会いするといくら質問しても足りない。今秋11月3日予定の先生の講演会を沢山の皆さまとお聴きできること、今から期待したい。

ブリキのおもちゃのようなサワガニ。

閉館近くお客さまが引けたあと芝生でゴルフボールを打った。すると小さなカニと出会った。毎年のように今ごろ庭のどこかに出てくる。カサカサと横歩きする沢ガニを嫌いな人はまずいないのでは。どんなに愚痴りたい時でも愛嬌あるカニを見れば忘れることが出来そうだ。少なくとも彼らのいるところにはほどよい水分があり麗しい。何処かに「カニ神社」があってもおかしくない気がする。

本日カフェの丸テーブルにまた楽しいイラストがあった。

あたかも「梅雨どきの幸せ」

アマガエルはまるで目の前のものを見ながら描いたようだ。宜しければまたお描きください。

本日郷土の偉人前島密を顕彰する会の皆さまが来館。

2024年6月29日(土曜日)

去る5月23日、郷土の偉人 前島密を顕彰する会からお二人が、当館(当院)に保存されている前島密の扁額にまつわる話を、この先皆で伺いたいと来館されていた。
その後予定を調整し、本日土曜日昼前、市議の滝沢一成氏を会長に前島密記念館館長利根川文男氏と会員ご一行10名様が約束どおりやってこられた。
私の説明は午後予定で、皆さんは午前中から扁額が附与されるきっかけとなる明治時代からの音楽家小山作之助夫人まつ子さんが晩年疎開で住んだ家(作之助の生家)と作之助の墓碑、されに扁額が掲げられたいた大潟区の当医院などを回って来られ、樹下美術館で昼食まで摂って頂いていた。

話のテーマは当家に何故密翁の扁額があり、それに関係する前島家から小山作之助の後妻として嫁いだまつ子さんと作之助の弟で医師の小生祖父杉田直次郎の開業など、扁額に関わる縁についてだった。

扁額「正眀堂」は明治42年初秋に前島密が書いたもので、「正しく見るところ」の意味が込められている。大潟区潟町の現在地で開業した直次郎のために揮毫されたもので、医療機関にはぴったりの三文字だった。
まつ子さんは前島家のご息女の家庭教師として入り、後年まで家族同様に暮らされた縁から同家の養子格とされていた。

もとはと言えばまつ子さんは秋田県の生まれで、若くして両親、兄弟に死別、天涯孤独のまま一人上京し前島家でご息女の面倒を見ながら家庭教師兼女子大学通学をするようになった才媛の人。

扁額「「正眀堂」
真摯さと美しさが滲む。

直次郎の待合室にあった屏風。
南摩羽峰の筆による。
その上の欄間に扁額が掛かっていた。
屏風は別所で撮影。

南摩羽峰(綱紀)は幕末の福島藩士で学者、文人。戊辰戦争で負け、越後高田藩で謹慎させられていた。屏風は当時のものと考えられる。明治になり綱紀は新政府の太政官を経て東京大学教授になっている。

晩年のまつ子夫人。
小山作之助還暦祝いで。

才媛まつ子さんが書いた
「杉田医院」看板。

看板も扁額前後に直次郎のために書かれたものであろう。私が開業するまで古い医院の玄関に掛かっていた。汚れを落とそうと迂闊にも雑巾で拭いたところ文字が半分溶け落ちてしまった。

ちなみに晩年(昭和15年)の直次郎(前列左)、その隣祖母トワの兄・野口孝治元衆議院議委員(立憲国民党)、その右祖母トワら。
父母は孝治の後ろにいる。トワが抱いているのは誕生したばかりの姉。祖母は12人も子供を産みげんなりしています。

本日のご一行とともに。

皆さまの中にお二人、高校時代の同級生が居て64年ぶりということ、あっと驚きとても嬉しかった。

夜になって上掲関連写真を皆さまに届けるべくプリントした。近くお届けするつもり。
熱心に前島翁を研究し、顕彰され、何よりそれを楽しんでおられるのを目の当たりにし、奇しくも大昔の級友と出会い、ご一同から元気を頂き、畏敬と感謝を禁じ得ない。

しっかり準備もせず臨み脱線ばかりして反省しています。

以前一部の写真を掲載したことがありました。

後日追加です:樹下美術館の常設展示画家倉石隆夫人・翠さんは小山作之助のお孫さんの一人。小学生のころ夏休みの宿題の絵をまつ子さんに描いてもらって提出したという。返された絵の裏には担任によって「上手すぎて、上手すぎて」と評が書いてあったらしい。

白内障を手術して 倉石隆を大評価される村上市のお客様。

2024年6月27日(木曜日)

本日左眼白内障の一泊入院手術を受けて帰ってきた。去る12日に右を終えていたので両眼無事済んだ事になる。デリケートな場所なので安定まで気を付けなければならないと念を押された。

それにしても良く見える。
帰宅の車中で思った。“今までぼんやりしか見えないので、脇見も振らず前を見て運転をしていた。しかし今度はよそ見に気を付けなければならない”と。

そしてもう一つ、鏡を見て思った。“ああ自分はこんな顔をしていたのか”とひどくがっかりした。たるみやシワがくっきり、ヒゲはもっと丁寧に剃らなければならない、いや色々服装も気を付けよう”と真剣に思った。

本、新聞、パソコン、スマホ、、、眼を細めなくても拡大鏡の世話も要らずありありと見えるのは何よりだ。ブログの制作画面もしかりで、誤字脱字、変換ミスなど長年皆さまにお掛けした恥ずかしいご迷惑も減りそうである。

昨日手術後の病室から見た雲。
(眼帯のまま撮りました)

本日樹下美術館のナツツバキ。

この年でこんなに良く見えてバチが当たりそうであるが、早くも自らの老残を目の当たりにした。もっとご不自由な人もいらっしゃるのだから、あらためて親に幸運を感謝しなければと思う。
二度の手術をされた先生、様々で真摯なスタッフの皆さん、大変お世話になりました、感謝しています。

 

私の留守中村上市からいらしたお客様。倉石隆を大評価され、ご自分も持っておられると聞きしました。嬉しい限りです。

本日髙田から中高の同級A君夫婦が見えた。年取ると何度お会いしても初めて会うようで楽しい。

患者さんたちには大変ご迷惑をお掛けし申し分けありませんでした。良く見えるようになりましたのでまた頑張ります。

同じ百合で姥(うば)と乙女。

2024年6月25日(火曜日)

去る日のことあるお二人と庭を歩いた。まず南の庭の少々日陰で姥百合(うばゆり)の苗を観た。昨年2年目だったが花が咲かず、今年に期待しているところ。やや陽当たりに問題があるやに思い、先日被っているカエデの枝を一部切った。

姥百合は大潟水と森公園に数カ所自生していると聞いている。しかし実際には開花前だったり後で花を観たことが無い。かってある人に苗をもらったが絶えてしまい、一昨年ネットで一苗購入して植えた。

一方別の場所に今春同じくネットの苗を2本並べて植えたが、ふた月経つのにただじっとしているだけである。

3年目の苗。
葉の数だけは倍になったが、
花芽の気配が無い。

 上掲2枚は今年の苗。

さて当館には齋藤三郎の姥百合作品が3点ある。

現在展示中の齋藤三郎の
姥百合の鉄絵皿。

上掲2点は
当館収蔵の齋藤三郎作
「姥百合の圖」

姥百合に関して今年庭が駄目なら大潟水と森公園で観なくてはならない。もう数週間すれば開花時期、そろそろ長い花芯を伸ばすのではないだろうか。

次は乙女百合。
何故これを挙げたかと言えばお分かりのように姥百合の後だったからで、案内したお二人は花が終わり『乙女百合」の札が付いている茎だけを見て「今度は乙女」と声を出して笑われた。

開花していた頃の乙女百合。

齋藤三郎の百合にはほかに笹百合と思われる染め付け皿が1点あり、乙女百合は無い。どこかにあるかも知れないが氏の場合一種貫禄と野趣満点の姥百合を特に好まれたのかも知れない。

それにしても同じ「百合」で「姥」と「乙女」とは。前者に同情したくなるが、図鑑で見る姥百合のスケール感と貫禄は一見の価値がありそうだ。今期は是非大潟水と森公園で花を観なくては。公園に電話をして状況を確認をしないと今年も見損なうかも知れない。

※かって10年ほど前、燕温泉から赤倉に向かう道で左の谷間遠く姥百合が咲いているのを一度だけ目にしたことがある。

昼の花夕の花、そして月。

2024年6月21日(金曜日)

30℃は越えてなかったが蒸し暑かった金曜日。美術館の芝生に落ち葉が散らばっていて、記録をみると南南東の風が吹いていたらしい。南南東、つまりほぼ南風ということになる。

本日は午1時と夕刻6時過ぎの2回美術館へ出向いた。3月から毎週水曜日午後の特養回診が無くなって午後に余裕が出来たのも体に楽だ。
カフェでサラダを作ってもらい昼食とし、溜まっていた4人分の福祉書類を書いた。一人の女性に挨拶すると亡き妹ど同級生と仰った。言葉を交わすとあたりに妹の雰囲気がふわっと漂った。

昼のオカトラノオ。
日に日に白くなってくる。

 夕刻のカワラナデシコ。

花の写真を撮り、刈って貰ったばかりの芝生に肥料を撒き、撒水するとかなり暮れてきた。
帰ろうとふと見ると裏手の鉄テーブルと椅子に光りが。

月が出ていた。
明日はストロベリームーンという
満月らしい。


生きているような月。
言葉以上の詩。

久し振りの雨。

2024年6月16日(日曜日)

切れ目無く来館して頂いた本日日曜日。これまでお顔馴染みの方が多かったところ昨年あたりから初めてという方々が多くて張り合いを感じる。

午後やや遅く急に雨が降った。ざーざーと本降りだった。農家の方はよく“夏は洪水で無ければ雨はいくら降ってもいい”と仰る。庭が好きでやっていると私でもそう思う。特に雨が上がった後、生き生きした草木を見ると、あまねく生命力を行き渡らせる雨に希望や力を実感する。撒水が爪楊枝だとするとしっかり降る雨は枕木ほどの力がある。

以下いっとき上がった庭に出てみました。

私の車の屋根の雨粒。
手術のせいで良く見える。

柿が花から実になった。

増えたオカトラノオ。

雨上がりの西の庭。

帰り際、再び降っているベンチ。

夜になってもシトシト降っている。除草で苦労した芝生も元気になることだろう。

暑くなっている 東京から来訪された人。

2024年6月15日(土曜日)

この1週間、熱さが始まり連日続いている。6月7日には粋がって素肌に半袖白衣を着て自撮りをした。この数日は30℃を越えてきて肌寒いなどと言っていたそれまでと様変わりした。多少前後はあるがこれでも平年通りなのだろう。

眼の方は炎症と感染防止のために三種類の点眼薬を一日4回射す。5分おきに3回、滲みる場合もあればないこともあるり多分どちらも意味があるのだろう。1本だけ冷蔵保存が必要なのでまずそれを射してすぐ仕舞い5分経ったら横になって2本目を射し5分経ったら起きて最後の1本を射して生活。

一般的に白内障手術を受ける年令は60代から多くなり70才代(特に後編)がピーク、80代は減り90代は大変少なくなる。そのような訳で高齢者では私より若い方で終えられている人も少なくないし、これからされる方もまたいらっしゃる。

午後美術館で前回ブログの眼科手術をご覧になり、参考になりましたと仰る手術を控えた方とお会いした。役に立つと言うほどの記事ではないが、これからの方には誰かの経験を知るだけでなにがしか不安が解消されるのはよくあること、是非頑張ってください。

術後の眼は今のところ特にトラブル無く推移しているようです。

同じ午後、2018年3月のこと当地に赴任され困難な任務を全うされたご夫婦とお別れ会をした。その奥様が本昼6年ぶりに髙田のご友人と来館された。懐かしくもお変わり無く3時間半四方山を話した。神田生まれのちゃきちゃき江戸っ子。若い時には神田明神祭はおろか三社祭へもみこしを担ぎに行ったという。
ご夫婦そろって車好きで、全国各地の主要なサーキットを転戦するスーパー・フォーミュラ-レースの観戦を楽しんでおられ、あるレーサーを孫のように可愛いがり応援されているらしい。
いずれもこの辺ではあまり聴けない話ばかりでとても面白く、展示と庭も熱心にご覧頂いた。当地赴任中、多忙なご主人に代わり近隣はじめ県内を驚くほどくまなく回られ、新潟県が特に気に入っていると仰り、なによりも嬉しい事だった。

昨夕の四ツ屋浜。遅かったが
タイかイカか、漁り火がきれいだった。

本日樹下美術館18年目の日。

2024年6月10日(月曜日)

清々しく晴れる空、そよぐ風、匂う草花、緑の樹木。18年前一年で一番良い季節に樹下美術館は開館しました。当時の私は65才、年取っての仕事と感じていましたのに、今思うと随分若かったんだなと振り返られます。

写真は開館式の一コマ。当時の市長木浦正幸氏、小林毅教育委員長のお顔が見える。やはり良いお天気だった。当時まだ医師会長をしていて、お忙しい木浦氏と何度かご一緒しセンター病院の医師招聘に県外へ出かけたことなどがとても懐かしく思い出されます。

2020年のソメイヨシノ。

本日の庭のバラ。

本日のあじさい。

自分のお気に入りの齋藤三郎の陶芸作品と倉石隆の絵画。これを夜更けなどにひとり眺めるために、よしんば皆さまにもその場所を開放したい。好きな緑の庭と妻の提案で小さなカフェも。そう設計者の大橋秀三さんに説明して始まりました。

今日まで訪ね愛して下さった皆さまに文字に表せないほど深く大きな感謝を申し上げます。

まだ低かった木々は旺盛に生長し、美術館は文字通り樹下の館になりました。
人が集い憩う樹下。今後もお訪ね頂ける場所であるよう努力を続けたいと思います。
どうかよろしくお願い申し上げます。

感謝!

須坂市の田中本家博物館、脈々たる意識。

2024年6月4日(火曜日)

一昨日「緑陰茶会」が開催された須坂市。本日は前回の続きとして同市の田中本家博物館の展示について掲載させて頂きます。

かっての長大な蔵が素晴らしい展示室になっている。次々現れる貴重な美術品および生活用品は非常に見応えがあった。
一般に博物館といえば文書資料や説明が多くて疲れる。しかし同館は極力そうしたものが抑えられ「兎に角観てもらう」に徹し、成功していると思う。

刀剣をこれほど魅力的だと思った事がなかった。江戸時代は武士のほかにも一定の人々は帯刀を許されていたという。

九谷、伊万里、明時代の赤絵や呉須など、田中家の磨かれた美意識と鑑識眼はさずが。

以下は子供たちの為に揃えられた品々。

武者人形は端午の節句用。
他にもたくさんありました。

玩具。

いずれも夢のような高級玩具。
完璧な保存。

ままごと用の品々。子ども達は幸せだったろう。

着せ替え人形の数!

着物。

何故か男児ものの方が
女児より上等に感じられた。

大人の着物。

一目見て気に入った帯。

お揃いの真綿入れの半襦袢、長襦袢(最後方)、艶やかな帯、息を飲むような水仙と藪柑子(やぶこうじ)柄の留袖ひと揃え。

最後に展示場を出た庭の一角にあった納屋のような場所。

高い棚に積まれていた鳥籠、虫籠。自然豊かな信州の春秋、入れ替わり立ち替わりの鳥や虫に籠は休む暇が無かったのでは。

さて沢山載せましたが、この何倍も展示されていて美しい書画もあった。客観の徹底、多岐で豊かな品々と原状管理の努力など田中本家の人々の意識の高さに尊崇を禁じ得なかった。
長き亘り質素倹約を家訓とし、ものと人を大切にして藩を支えきる。そうで無ければこれほど良い品は集まらず維持も叶わなかったことだろう。

子供たちの玩具や着物を見ているうちに目頭が熱くなり、同家の亡き人々のことを思わずにはいられなかった。

何か落ち込むようなことがあったら、あるいはそうでなくても、また来てみたいと思った。

同館は維持管理に費用が掛かりクラウドファンディングまで企画している。規模に雲泥の差はあるけれど、樹下美術館も決して楽ではない。12代御当主にはその点でもシンパシーを覚える。

お菓子が無くても美味しく飲める紅茶。

2024年5月31日(金曜日)

皆さまには日頃何かとお世話になるばかりか頂き物などをしてかたじけなく思っています。

本日夕食は服を汚しながらカレーうどんを食べました。
食べ終えてからお世話になっているお茶人から頂いた紅茶を飲みました。

布のティーパック。
マリアージュフレールの
「マルコポーロ」という紅茶。

パッケージを空けて良い香りに驚き、

鈴木秀昭さん(右)とババリアのカップ。
ババリアにはマルコと記されていた。

ひとくち口にした妻がアッと声を出し、この紅茶は美味しくてお菓子が要らないと言いました。
皆さまには色々頂き、勉強させてもらい、常に恐縮しております。

若き日、よくラジオなどから流れていた「岬めぐり」。旅情があって良い曲だった。

昔は美しく安定した山河を前にすると、何かと戸迷う不安定な自分がいて、しっくりしない感覚を覚えていた。しかるに50年60年が経ち、いつしかそれが薄まり、漠然とではあるが自然や風景に自分が無理なく取り込まれているような感じなっている。

年は単に取るばかりでなく感覚や反応に知らず大きな変化を生じていることがあるようだ。
鈍感になったとも言えるし、加齢の恩恵かもしれない。

出来不出来は別にして今月はよくブログを更新できた。

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