倉石隆

「下北半島の風」 著者,挿画家,出版者みな上越出身者の本その2。

2020年1月18日(土曜日)
昨日「下北半島の風」の前半を記載しました。
会津戦争に負け、故郷を離れた武士の子と兄弟たちが辿った厳しい運命。敗残と新時代、身分を失い不安定な一家は二つの荒波に翻弄されます。もみくちゃにされながら学問を諦めない五郎と苦労を重ねる兄たちでした。

さて続きです。
〝もう一人の兄五三郎が生活に加わったものの、下北の開墾は困難を極めた。五三郎の計らいで、五郎は近隣で学問所を開いている人の許へ通うことになった。
時は明治4年、7月に廃藩置県が発布され、下北の藩領は新たな青森県に組み入れられた。現地に在位していた藩主は華族として東京へ去り、主従の心情を失った会津の人々は心の拠り所を失う。

 

せっかく友達になった友人から、自分は会津に帰ると打ち明けられる。
廃藩置県後人々はぞくぞく会津に帰郷しはじめる。

開墾地にまた冬が来る。
とどまった四人にふとんは無く、夜はゴザとムシロにくるまって寝た。五郎の勉強通いは続いたが、裸足なので凍る道の苦痛に耐えかね、途中で農家に助けを求めることもあった。だが履き物を貸してくれる人も、それを買う金も無かった。ワラ仕事に専念する家族の中で、辛抱強い太一郎の兄嫁の存在だけが一筋のともしびに感じられた。

ある日五三郎兄が、五郎のために学問修業が出来る県庁の給仕職を探してくる。一同は泣いて喜び、精一杯身仕度を整えると、わずかな餞別を懐に五郎は勇躍青森へと発った。

県庁で骨身を削って働く五郎。仕事ぶりは認められ、大参事(県知事?)の家の書生になった。給与が貰える生活で五郎の向学心はますますつのった。

 

ある日ドイツの軍艦が青森に寄港した。
歓迎会と見学会でドイツの軍人と親しくなった五郎は密航を思いつく。
だが決行を前に軍艦は出港してしまう。

またある日、地租改正のため中央から役人の一行が来県した。五郎はその要人に同行のうえ上京したいと願い出る。東京の引受人などを訊かれると、一行と縁もゆかりもない14才の少年は同行を許された。
青森の後、盛岡、福島の調査を経て一行は東京を目指す。その間の五郎は随行の書記について学習する。

3ヶ月後東京の土を踏む五郎。一回目の東京は捕虜として、今は学問をするために来たのだった。わずかの間に街の様子は一変していた。

紹介先の書生として令嬢の人力車に付き、走ってお伴する五郎。
しかし東京といえども満足できる勉強機会になかなか恵まれない。

ある日保証人になってやるから、後に陸軍幼年学校となる初年生募集の試験を受けてみないか、と勧める人がいた。武士の子なら良いではないか、という言葉に五郎は喜んで受験する。初めての制度のため合否発表は伸びた。

 

合格発表を待つ間、保釈が決定した兄太一郎と二年振りに再会する。
厳しい運命を越え兄弟はみな無事であることが確かめられる。

太一郎兄は他人の罪を自ら背負い、最後の判決を待つことになっていた。兄が身を寄せる家のあるじも同藩人だった。楽では無い暮らしぶりに、五郎はあらためて会津出身者の苦労を知る。

時は正月、世話になっている家の事情で拠り所を失った五郎は宛を探して東京を歩き回る。頼みにしたかっての名家で、五郎が有するわずかな金銭を担保にかろうじて居場所が確保された。頼られる人も苦しかったのだ。

試験結果はなかなか知らされない。
居場所を探す五郎のまぶたに浮かんだ下北半島の釜臥山(かまぶせやま)。
苦しい生活の中で見た山と桃の花が思い出され、帰りたいと五郎は思った。

居場所を探し歩いた冬が終わった三月末、ついに試験結果が通知された。
合格。十数名の入学者なのかで、数え年15才の五郎が最も若かった。

辛酸の日々を支えた青森県庁の要人や東京へ同行を許した役人、なにより父、兄たちから歓声が上がった。自害した母と姉妹たちが見たらどんなに喜んだことだう。

世話になった人に挨拶する五郎。

学校の先生は全てフランス人で授業はフランス語、食事は洋食だった。勉学と練兵に必死で付いていく五郎。強い誇りに苦労し、失いつつあった人間の誇りに気づかされ、入学時にビリだった成績が徐々に上がっていった。

数年のうちにフランス式の学業教練はドイツ人を交えた日本中心の内容に変わっていく。

 

幕末からくすぶっていた征韓論が次第に大きな議論となった。征韓論は抑えられ、その先頭に立たされた西郷隆盛が下野すると薩摩出身の政府要人たちが従い、地元の旧藩士とともに熊本城に攻め入り、ついに西南戦争が起った。

この戦のため、学校の士官学生は見習士官として大阪、名古屋、東京の守護に当ったが、いたずらに動揺することは厳しく禁じられた。
だが兄の四郎は故郷会津を攻めた薩摩を討つと言って討伐隊に加わり、刑期を終えていた一太郎兄も薩摩への恨みを口にした。明治9年のことだった。

五郎より上の士官学生の一部が九州へ行き、幼年兵も勇み立つ。一方出兵で士官学生が減ると幼年学校からの進級試験が行われ五郎は合格した。

 

征韓論で西郷と対立した薩摩出身の内務郷・大久保利通が、
征韓主義者の一派によって暗殺される。

五郎には、かって自分たちの故郷を蹂躙した薩摩を見返そうとする兄たちの気持ちが理解できた。しかし現実には、新体制のもとで上下なく接する薩摩・土佐の優れた人たちがいることを評価していた〟

物語の主な部分はここで終わります。著者は添え書きとして以下のことを記していました。
その後の五郎は明治33年に中佐として北京の公使館付武官となります。任務中、中国人による義和団事件が起こりました。中国を租借していたドイツ、ロシア、フランス、イギリスなど外国を排斥し武力攻撃する事件です。
12カ国が集まる公使館区域は激しい攻撃の的になり、当然日本も対象です。五郎は冷静に振る舞い、長く中国人に親しみ心情を理解していた五郎は事件の解決に努力します。沈着な五郎のリードもあり混迷した事件が解決すると、諸国から感謝称賛されました。

五郎の姓は柴。大正8年に柴五郎は大将になっています。
兄四郎はサンフランシスコ商業学校からフィラデルフィア大学に進み、帰国すると農商務大臣秘書官を経て衆議院議員になりました。
兄太一郎の経歴に下北郡長の記載がありました。

最後の最後、長兄太一郎の一行に涙がこぼれました。辛かった下北半島に帰ったのですね。
なんと立派な人でしょう、これは一方で太一郎の物語かもしれないと思いました。
五三郎は郷里に帰り父と暮らし、「辰のまぼろし」を著しました。
場面の情感が豊かに表現された香り高い倉石隆の版画による挿絵は効果的で印象に残りました。

さて昨夜午前0時近く、救急車が必要な往診をしましたが、本日は何も無く、一歩も外出をしていません。これから歯磨き粉(チューブ)を買いに行こうと思います。

「下北半島の風」,著者・挿画家・出版者みな上越市出身者の本その1。

2020年1月17日(金曜日)

樹下美術館は倉石隆の絵画と齋藤三郎の陶芸作品の展示施設です。乏しい予算の中から、何とか一点でも優れた作品を加えたいといつも考えています。

齋藤三郎はかなり多作でしたので、ポツりポツリと入りますが、倉石隆氏は中々集まりません。そんななか過去に、どうぞ、と申され、思ってもみない良い作品をお寄せ頂く方がありました。本当に助かり有り難く思いました。

お二人の作品をネットでも探しますが、希にオークションや古書検索で見つかることがありますので、この方面も続けている次第です。
先日のこと偶々1972年(昭和47年)5月5日実業之日本社発行の本「下北半島の風」が手に入りました。
幸運な事に作者は小田嶽夫、挿絵が倉石隆で、発行者は実業之日本社ではありませんか。いずれも上越市出身者で、こんなに嬉しいことはありません。

現在上越市では実業之日本社社長、増田義一氏に関するパネル展が催されていています。昨日休診の午後、つぶさに観てきました。本日は「下北半島の風」から倉石隆氏の挿絵をピックアップし、拙いあらすじを交えて以下ご紹介をこころみました。

 

「下北半島の風」表紙
1972年5月5日 実業之日本社発行

主人公は実在の人物で、会津藩の要職・柴佐多蔵の末っ子の五男・五郎。五郎には5人の兄弟と6人の姉妹がいました。物語は薩摩・土佐主力の新政府軍が若松城下に迫る会津戦争前夜から始まります。

新政府軍に迫られ緊張が高まる中、勇み立つ10才の五郎。

 

正装して家を後にする五郎。

白虎隊の年令に達していない五郎は小刀を差して正装させられると、大叔父がいる遠方に預けられる。見送った母、姉妹たちとは永遠の別れになるとも知らず出発する五郎。行った先は避難する人でごった返していた。

五郎が去った後容赦ない攻撃に晒された会津の城下は火に包まれ、明治元年9月22日降伏開城した。20名の白虎隊は飯盛山で悲壮な最期を遂げる。

 

五郎を預かった大叔父から、残った母と姉妹すべてが自害しことが告げられる。
武家の子弟なら潔く諦めろと諭されるが、五郎は気を失う。
さらに捕縛を逃れるため髪を落とし、百姓の姿になるように言われる。

 

五郎の夢枕に立った母。

まだ一帯に危険があるため大叔父の家を出て、兄と従者でさらに山から山へ野宿同然の逃避が続き、季節は冬に向かった。

 

病身を押して出兵した四郎兄がある日突然現れる。

四郎は生きながらえ、家族の安否の確認に寄ったのだ。うす着の五郎を見てこれを着るよう、四郎は白無垢を差し出す。四郎出兵に際し母が持たせたものだった。

 何かと親族を頼る暮らしとなり、山の物を採って路上で売る五郎。
通りで出合った四郎兄に武士の子らしくない、とたしなめる。
五郎が本当にしたかったことはただ一つ、勉強だった。

 

東京へ向かう負傷者たちの行列。

明治2年、新政府の方針で会津藩士は捕虜として東京か越後髙田藩へ護送され、謹慎生活を送ることになる。戦で足を負傷している者太一郎兄の看護人として五郎は江戸行きに加わる。梅雨の中、100人余りの一行は10日ほどで東京に到着し、幕府の食料庫で土間暮らしが始った。
東京滞在中、五郎の向学心を知っている太一郎は修学先を探すが、先々でおよそ下男扱いをされ、時には見世者の辱めを受ける。

時は新体制への移行期、藩として消滅した会津は政府から示めされた下北半島を領地とする道を選ぶ。但し各自ほかへの分散も許可されていた。
太一郎兄と父は下北半島へ移り住むことに決め、他の兄弟を残して海路品川沖から発った。

 

下北に到着した五郎達が見た海を渡るムクドリの群。
下北半島に上陸後、商家や寺の世話になりながら移動する生活を送る。
この行程中兄が結婚し、辛抱強い兄嫁はその後の生活で大切な人となった。

目的地の田名部で畳も便所もない家の生活が待っていた。しかも一帯の食糧難解決を担わされた兄が預かり金の持ち逃げに遭い、自ら罪を背負って囚われの身となってしまう。五郎ら残された三人で、北国の飢えと寒さに直面する。

 

凍った川から交替をしながら水を担ぐ。
配給の玄米が絶えると海藻やワラビの根、さらに雑草で飢えを凌いだ。
漁師が見殺しにした犬を食べ、死人をを出さずにかろうじて冬を越えた。

 一家三人は開墾のためさらに雑木林の原野へと移動した。ワラとムシロを敷いた小屋では川を風呂替わりにした。
春を迎え、開墾地の桃の花はきれいだった。配給されたスキやクワはワラビ採りに役立ったものの、肝心の作物は採れず、海藻の粥が続き、たまに他家から貰うヒエ粥がご馳走だった。

 

少々長くなりましたので、次回に続きを掲載させて頂きます。

倉石隆の秋は「細長い絵 展」です 細長い絵はお洒落? 渋野選手の偉業。

2019年9月12日(木曜日)

3月15日から始まった樹下美術館は一昨日9月10日までの半年間、上越市立小林古径記念美術館から倉石隆氏の絵画をお借りして展示した。
令和2年秋新装開館を目指している同記念美術館は多くの作品を収蔵している。その中から半年に亘り、「粉雪が舞う」「地平」「さとうひさこの像」などの大型作品を二か月ずつ計8点の展示だった。
他館からの借り受け展示、それも公立施設から、しかも4回にわたる搬入搬出作業。いずれも未経験のことで冷や汗を掻き神経を使った。一回に2~3点の展示と点数は少なかったが、樹下美術館の小さな壁面の中央を堂々と飾って頂き、迫力をもって大きな美的空間をこしらえて頂いた。

“私どものような個人の小施設に対し公立が協力しくださったことは、地域の文化向上にとって大変意義深い事だったと振り返っています。館長様はじめスタッフの皆様の熱意とご尽力に心より感謝申し上げます。今後なにがしか私どもの協力が必要な場合には是非申して頂ければ有り難い、と思っています”

さて今年の残りの期間まで倉石隆の絵画は「細長い絵 展」と題して以下ように作品を展示しています。

 

 

油彩左から「悲しみの像」「晩夏(向日葵)」「黄昏のピエロ」「イヴ」。
ほかに油彩は「ネグリジェ」が掛かっています。

 

晩夏(向日葵)
主に人物を描いた倉石氏が描いた向日葵(ひまわり)。
葉と茎は消えんばかりに枯れ衰えていますが、実は輝くように濃く描かれています。
深い黄色の明暗をもって最後の向日葵を温かく美しく描こうとしています。
一昨年、ある愛好家の許を経て当館にやってきた作品で、大変気に入っています。
この度初お目見えしましたので、どうかご覧ください。

中央に油彩が5点、その左右に細長い版画「胴衣の女」と「茶会」を掛けました。
油彩のサイズは「悲しみの像」が最も細くタテ73センチ、ヨコが26㎝、他はタテ約73センチ、ヨコ約35センチです。

人物画を想定した一般的規格のF(フィギュア)サイズは、20号では72,7×60,6センチですので、この度の倉石作品は随分細いことになります。

人物を細く描いた倉石氏は、直立したほぼ全身像の場合、特に長いキャンバスを用いていたことが窺われます。こうしてみると「向日葵」から人物画のような印象が伝わるのも納得できるような気がします。
またこのたび気がついたのですが、人物の立像をこのサイズで描くと、不思議なことにお洒落に見えるように感じられるのです。内省的でやや深刻な人物画を描いた倉石氏ですが、額(キャンバス)を工夫することによってお洒落に見えるよう試みたのかもしれません。今回細長い作品を集めて並べましたら、室内全体にどこ上品な囲気が漂っているように思われました。

絵画はわずか8点ですが、どうかお楽しみください。

陶芸室は夏の特別展「陶齋親子展」が終了し、開館時の「陶齋の辰砂」展に戻しました。
好評の辰砂です、どうかご覧ください。

 

おまけ:本日、ゴルフの全日本女子プロ選手権大会であるコニカミノルタ杯の四日間競技の初日で、渋野日向子が5バーディ、3ボギーの「70」でプレーした。6月の「ニチレイレディス」初日から続く、国内大会での連続オーバーパーなしのラウンドを「29」と伸ばし、ツアー最長の驚異的な記録を樹立。大会前までアン・ソンジュ(韓国)が2013年に記録した「28」で並んでいたのを抜き、偉業を達成した。
この選手は国内女子の運動選手の中でも卓越した人の一人ではないか、と感じられる。競技に必要な最大の力を生む体動バランスとそれをもたらす筋力を獲得した希な人かもしれない。また素早い判断とプレーが可能な頭脳、および言動から伝わる気持ちが良いほど率直なメンタルも貴重な要因ではないかと思われる。私の好みからいうとプレーンな服装も好ましく見える。

 

素晴らしい雲のもと、パートナ-、ギャラリーとともに16Hのグリーンへ向かう渋野選手。
時折咳をするのが気になる(12日のYouTube動画から)。

新潟県出身で21才今季好調の高橋彩華選手が元世界ランキング1位で米ツアー通算19勝の朴仁妃(韓国)と並び初日首位に躍り出て、全く頼もしい。順当につけた渋野選手はじめ上位にいる畑岡奈沙選手など強豪が揃った残り三日は、凄い大会になりそうだ。

後半が始まった樹下美術館館内。

2019年7月18日(木曜日)

本日7月18日は、陶芸の齋藤三郎・尚明、親子展の初日、そして上越小林古径記念美術館からお世話頂いている倉石隆作品の最終展示の初日。
当館の展示イベントは大抵静かに始まる。
本日も例に漏れず普段と変わりなく淡々と過ぎた。淡々としたなか、ご覧になった方から倉石隆の油彩の迫力、陶齋親子の白磁の世界の清々しさなど、良い反応を頂戴して手応えを感じた。

 

本日の絵画ホール。それにしても2メートル近い「さとうひさこの肖像」は迫力がある。

陶芸ホールに尚明さんの大きな鎬(しのぎ)壺を置いてみた。
絵画と陶芸作品が互いに引き立て合っているように感じられる。

以下は本日の陶芸ホール。
梅雨の候、館内の清々しさからあらためて白磁メインにして良かったと思った。

 

 

 

本日午後、在館中に古径記念美術館から宮崎館長さんがお見えになった。このたびの倉石作品貸借を通して館長さんにはとてもお世話になっている。また自己流を否めない私たちは、美術の専門職の氏に接するだけで色々勉強をになる。さらに氏の地域を耕そうとされる明るい姿を見るにつけ、元気を頂戴している。今後とも仲良くさせて頂ければ大変有り難い。

また本日10年ぶりの懐かしい人が見えた。昭和62年からともにお茶の稽古に通った亡き渡辺宗好先生門下のNさんだ。お話ししながら習いたてで、うぶうぶしかった頃の稽古、さらに庭の雨やお茶室を通った風の気配までふと蘇るように感じた。

 

カフェの向こうに女王カシワバアジサイ。
雨の中、臣下にキキョウ、さらに黄金オニユリが加わった。

昼は晴れ間もあったが夕刻からしとしとと雨になった。こんなによく降る梅雨も珍しい。

明日からの展示替えが終了した。

2019年7月17日(水曜日)

明日から樹下美術館では以下のように新たな二つの展示が始まります。本日休館日の水曜は明日からの準備に追われました。

●●●7月18日から8月27日まで、陶芸ホールは夏の特別展「齋藤三郎・尚明  陶齋親子展」です。
“麗しの白磁、親子の格調”と謳ったサブタイトル通り、端として爽やかな白磁作品が並びます。
亡き父三郎氏とその子息尚明氏という明らかな血統が、同一の芸術なかんずく同一の陶技「白磁」で饗宴する試みはとても貴重なことではないかと期待しているところです。

 
以上は展示の一部です。実際の展示は24点34ピースで、ともに青磁が1点ずつ加わります。

驚くほど大きな作品から手のひらに乗るものまで、どうか白い器に込められた親子の魂と渾身の技をご覧下さい。

 

●●●3月の開館以来、絵画ホールでは今年の特別展「倉石隆の大型油彩」として上越市立小林古径記念美術館のご協力を得てホール中央に迫力ある大きな作品を展示しています。
期間は半年に亘り、2ヶ月ずつ3回の展示更新でした。
このたびは最終回で7月18日(木)~9月10日(火)まで以下の三点を中央に架けます。

このほか樹下美術館収蔵作品で、かって新潟日報の文芸欄に掲載された応募「コント」の倉石氏による挿絵原画を展示しています。

 

「Kの肖像」 1973年 154,4×112,6㎝
上京後24年、57才の倉石氏ご本人の肖像と考えられます。
真っ直ぐ前を見る肖像から力に満ちた真剣な表情が伝わります。
この頃から人物画への取り組みが本格化するようです。

 

「奇術師」 1981年 98,2×78,2㎝
盛んに裸婦像を描いていた時期です。
若い女性をシンメトリーを効かせてバランス良く描いています。
モノクローム作品は黒いバックによって身体の白さをより際立たせています。
薄いヴェールを手に、無垢な女性は自らの人生に魔法を掛けようとしているのでしょうか。

「さとうひさこの像」 1965年 193,0×135,9㎝
ホールに架けますと、下端が床に着きそうなほど非常に大きな作品です。
佐藤久子は家政婦さんだったと聞いたことがあります。
彼女をモデルとしてとても気に入り、知る限り3点の油彩を残しています。
丁寧に白の地色を重ね、黒の明解な線で輪郭を描き切っています。
斜め向きの位置が彼女をより立体的に、より具体的に見せていると思います。

以下二葉は本日の準備の様子です。

 

小さな美術館ですが、精一杯の準備をいたしました。
どうか真夏のひとときを樹下美術館でお楽しみください。
夏の庭を眺めるカフェも気軽にお使いください(カフェだけのご利用もできます)。

上越市立小林古径記念美術館から二回目の貸し出し作品を展示致しました。

2019年5月17日(金曜日)

今年の樹下美術館は上越市立小林古径記念美術館から倉石隆の大型の油絵作品をお借りして展示をしています。
開館の3月15日から6ヶ月に亘りる二ヶ月おき、計8点の展示は大変光栄であり、また緊張を禁じ得ません。

このたび初回の三点、「粉雪が舞う」「月の光」「人間の風景」の展示を無事終えてお返しし、昨日「地平」「吉井忠氏の像」の二点を搬入、本日から二ヶ月間、展示いたします。倉石隆作品については、他に樹下美術館収蔵の6点の小型の挿絵原画作品の展示を行っています。
二点とも大作で、「地平」は193,9×130,3㎝、「吉井忠氏の像」は193,8×161,7㎝です。
ピクチャーレールのある壁面の上下左右いっぱいを使って無事に架かりました。

樹下美術館ではこのような大作を並べて架けたことが無く、小さなホール正面を占める力作の迫力に圧倒されます。

 

大きさを見るためお客様に立って頂き、撮影しました。
左「地平」(1980年 第16回主体展および1981年幻想の絵画展に出品)
右「吉井忠氏の像」(1984年第20回主体展に出品)

一見して対照的かつ作風の異なる二点を見てみます。

 

向かって左のモノトーンは「地平」

以下細部をご覧ください。

 

中央に男が描かれています。知性や豊かさとは遠く、貧弱でずるく、罪深そうに見えます。

そのまわりに、エゴや後ろめたさ、あるいは狡猾さや残忍さ、さらに悲しみなどを帯びた人の姿が暗闇に紛れるように描かれています。

 

 

 

 

自己の旗を立てようとする女性が小さく小さく描かれています。

 

 

指をくわえた乳児は犠牲のシンボルでしょうか。

 

その子を生んだ女性かもしれません。

それにしてもあまりの暗調に気が重くなるような作品です。しかし私は決して嫌いではありません。人間の暗く貧しい負の部分を徹底して描く。あるいは描き切った作品は、告発ないしは一種懺悔ではないのかと思うのです。
カタルシス、、、。内部に溜めたネガティブな要素や経験を徹底して吐き出して試みる精神の浄化、、、。
自分たちのおどろおどろしさに没入し、問い詰めようとする当作品は作者の骨頂の一つでしょう。画家の痛々しいまでの真摯さは、十分な魅力であり、さらに力をも感じさせます。

 

次ぎに「吉井忠氏の像」です。

前者の暗調と異なり、朱を含む温かな茶系モノトーンで描かれた「吉井忠氏の像」
展覧会カタログで見た事がありましたが、こんなに大きな絵とは思いませんでした。

吉井忠氏は福島県出身の画家。倉石隆より7つ年上の人。倉石の太平洋美術学校の前身校および主体美術協会の創始会員の先輩として敬愛していた画家と聞いています。
民に徹し「土民派」を自認し、美術評論、児童書においても活躍された芸術家です。

若干細部を見てみました。

 

深く静かで頑丈な表情が非常に丁寧に描かれています。

 

手にしている二つのものは布と革鞄でしょうか、とても良い色と質感です。
手を描くのが苦手だったという倉石隆ですが、自然で感じ良く描かれています。
描いてはゴシゴシとぬぐい、ぬぐっては描くを繰り返す画面は薄塗りにもかかわらず、
しっくりした深みを漂わせます。

 

二カ所に人物が添えられています。吉井氏とどんな関係なのでしょう。

下方の牛頭骨はピカソが描いた戦争の蹂躙に対する抗議のシンボルにみえますが。

風あいが異なる倉石氏の二つの大作。本当に描きたいものは何なのか、何を訴え表現すべきか。
苦悩と満足のはざまで生み出された昭和時代を中心に活躍した芸術家の足跡を、ご自由に味わって頂ければ有り難いのです。

樹下美術館の常設展示画家・倉石隆氏ご縁者の来館 庭仕事。

2019年4月13日(土曜日)

今昼、東京方面から画家倉石隆氏の縁者さんが来館された。
寡黙のなかに美学を秘めるお父様(倉石隆)の振る舞いなど、お話は興味尽きなかった。

 

あっという間にお別れが近づき、田んぼと桜を背景にベンチで記念写真。
さすが芸術家の血筋、皆さんさっと構図良く収まる。
ファインダーを覗くのが気持ち良かった。
どうかまたいらして下さい、有り難うございました。

お見送りしてからホームセンターへ行き、肥料と土などを求め、日没まで庭で過ごした。
先日と本日、植え込んだのは購入頂戴を含めアスチルベ7株、キョウガノコ9株、エビネ7株、雪割草8株、センノウ類5株。ほか成長の悪い8株のクリスマスローズを掘り起こし花を取り、場所と土を変えて移植した。植栽のほか拡がろうとする苔を剥がし、雑草も取った。

土や肥料は重く姿勢はきつい。
暮れるとともに足腰と肩がきしむように痛み出し、終了した。
まだ芍薬とヒュウガミズキ、それにエンレイソウが残る。
痛みは来るものの庭仕事ほど楽しいものは無い。
患者さん達が畑に夢中になるのはよく分かる。

2019年3月14日、仕度整った日。

2019年3月14日(木曜日)

樹下美術館が80日の冬期休館を終えて、明日13年目の開館日を迎える。小規模な個人施設なので華やかなことは無理だが、今年は上越市立小林古径記念美術館のご協力を得て同館が収蔵する倉石隆の油彩を特別展「倉石隆 油彩&挿絵小品」としてご供覧出来る幸運に恵まれた。
もとより狭小なスペースのため、油彩は二ヶ月毎に三回展示替えを行い、計8点を架けることになった。公私の施設が協力し合い、互いの作品を活かすことは地域にとって意義深いことであり、古径記念美術館には感謝を禁じ得ない。機会に恵まれた折には、是非とも当館収蔵品の貸し出しに協力したい。

また今夏には二代陶齋、齋藤尚明氏のご協力で、約一ヶ月半の「陶齋親子展」が開催の運びとなった。白磁、青磁メインの涼やかな展示が期待される。

本日絵画および陶芸ホールは以下のように仕度が出来ました。

絵画ホールの「倉石隆の油彩&挿絵小品」。正面の三点が小林古径記念美術館収蔵作品。

以下にその三点を大きくしました。

スペースの関係で肩を寄せ合うように架けさせて頂いてます。いずれも倉石隆の各年代を代表する力作。
これらを囲むように同氏によるスクラッチボードの小さな挿絵原画6点を架けました。

陶芸ホールは「陶齋の辰砂」です。

入ってすぐ正面のケースに「辰砂掻き落とし牡丹文大皿」を展示しました。


幅37センチの大皿。昭和50年陶齋は二回目の登り窯を築きましたが、その時の初窯作品です、

 

正面のテーブルは暖かな色調の鎬(しのぎ)文水指と壺(むこう)。

 

ほの赤く、磨かれた形の水指。
樹下美術館収蔵の作品から辰砂を18作品、29ピースを展示しました。

 

 以下は入館者様にお出しする予定の展示案内です。

午後陽が射した樹下美術館。

 

 

 

三月になって続いた暖かかった陽気が一転、この数日非常に強い寒さが戻りました。昨日などは猛烈な風とともにみぞれが降りました。
本日夕刻はさすがに風が止み、きれいな夕焼け雲がみられ、明日は晴れる予報です。

今年も皆様には年末までお世話になりますが、どうか宜しくお願い申し上げます。
このように開館できますことを一同喜び、この先を励みたいと思います。

今年の絵画展示は「倉石隆 油彩と挿絵小品」。

2019年3月2日(土曜日)

2019年の絵画展示「倉石隆 油彩&挿絵小品」のご紹介です。

油彩は上越市立小林古径記念美術館のご協力によって、同館が収蔵する倉石隆の貴重な作品の展示が実現しました。

 

 

展示期間:3月15日~9月10日。
この間数点の油彩を二ヶ月毎に入れ替えます。

1回目の期間は3月15日~5月14日。
小林古径記念美術館の「月の光」「粉雪が舞う」「人間の風景」の三点を絵画ホール中央に、その左右に樹下美術館収蔵の挿絵原画作品を展示します。

以下は第1回目の油彩三点です。

 「月の光」 115,0×90,9㎝ 1950年
©上越市立小林古径記念美術館

 

「粉雪が舞う」 146,5×98,6㎝(縦×横) 1985年
©上越市立小林古径記念美術館

 

「人間の風景」 162,1×130,3㎝ 1988年
©上越市立小林古径記念美術館

 

倉石隆(1916年ー1998年 上越市本町生まれ)は1943年に自由美術協会に入会、1964年に主体美術協会の設立に参加し生涯その会員でした。
この度の油彩3点は自由美術協会時代の「月の光」および主体美術時代の「粉雪が舞う」、そして1987年に脳梗塞で倒れた後左手で描いた「人間の風景」で、主要な時代を代表する作風がご覧になれます。

次は樹下美術館の収蔵品から、かって新潟日報新聞に連載された文芸欄「コント」に添えられた倉石隆の挿絵原画です。展示予定の6点から一部を掲載しました。今後9月10日まで3回に分けて、各6,7点ずつの展示を予定しています。

 


郵便待ち

 


タイトル不詳

 


別れのヘアピン

いずれもスクラッチボードに刻まれ、長辺が最大で10㎝の小さな作品です。
込められたこまやかな感情や表情、あるいはファンタジーをお楽しみ下さい。

倉石隆と「ネージュ・雪」と「珊瑚」。

2018年2月18日(日曜日)

樹下美術館で常設展示している画家倉石隆氏は、美術
団体では、自由美術協会を経て主体美術協会に所属し
ていましたが、個人的な仲間同士によるグループ発表
も行っていました。
これらの一つにネージュという名のグループがありま
す。
ネージュはフランス語で雪、雪国出身者である賀川隆、
倉石隆、末松正樹、舟見検二、筑波進、矢野利隆、
堀内菊二らの画家が集まっていました。
第1回ネージュ展は1972 年に「銀座・土夢画廊」で行
われ、倉石氏が亡くなった78年まで年1回、計16回
続けられました。

“倉石はグループ・ネージュの人達とのお付き合いを大
切にしていた”と夫人からお聞きしたことがあります。

ところで、まだそこここに戦後色が残る時代の若き芸術
家たちの日常の一端が、画家・堀内菊二氏の倉石隆氏へ
の追悼文「粉雪が舞う」の中に垣間見られます。

ー前文略ー私が倉石さんに初めて会ったのは、当時、自
由美術の先輩達の溜まる「珊瑚」です。未だ戦後の臭い
漂う池袋駅前には小さな酒場が群落のように密集する迷
路にあり、狭い店の中は、毎夜、画家、詩人、役者など
雑多な面々が止まり木にひしめき合う人間関係が濃密な
時代でした。
(途中略)そして倉石さん得意のシャンソン、TOMBE
LA NEIGE 雪が降る・・・あなたは来ない・・・の歌
声が聴こえてくるようです。

 


1963年発表、サルバトーレ・アダモ自作の「雪が降る」。
この曲も当時本当に良く聴かれ、また歌われました。
黒革のロングコートが似合っていたという長身、巻き毛
の倉石氏に、曲はピッタリだったことでしょう。
当時カラオケなどはありませんでしたから、倉石さんお
気に入りの流しがいて、彼が現れるとやおら立ってギタ
ーに合わせて歌ったのでしょうか(一度で良いから聴い
てみたかった)。

以下は同じく夫人のお話です。
画家仲間は池袋のバー「珊瑚」の常連だった。隆氏は遅く
帰ると「珊瑚では早く帰った人の悪口を言い合う。だから
悪口を言われないように、いつも最後まで居るんだ」とよ
く聞かされました。

以上のような倉石隆の逸話などは、樹下美術館が昨年11
月に発行しました「樹下美術館の倉石隆」に「倉石隆のコ
ラージュ」として7ページに亘って掲載されています。

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