2025年8月17日

週末の上京 小5の築地と叔母の周辺そして「横浜事件」。

2025年8月17日(日曜日)

親族の見舞いで出た妻と東京駅で落ち合い海と隅田川が見える豊洲のホテルに一泊してきた。子ども達に会うためだった。約一年ぶりだがより元気に現れた。
子ども達の元気は安心だったが果たして年取る私達のほうはどのように見えたかが問題。

本日午前はホテルから近い築地へ行った。

懐かしいかちどき橋。

そして築地本願寺。

丁度法話が行われていて聴いた。
三蔵法師と孫悟空の逸話だった。

昭和28年、小学5年生の夏、東京から一番末の叔母が訪ねて来て、帰りに姉私弟の3人を連れて上京してくれた。長時間の汽車の旅はウトウトしては目が覚めるを繰り返し、東京(多分新橋駅)へ着いた。

車中、次々と募金箱を抱えた傷痍軍人がやってきたし、大宮駅の機関車庫の大きなレンガの建物は爆撃を受けて大崩れしたまま残っていた。

築地で幼稚園を営んでいた別の叔母のところで数日世話になった。幼稚園への道すがら乾いた川底に幾つも浮浪者が住むという小屋があり、橋(もしかしたら数寄屋橋)の欄干にそのような人達が寝ていた。落ちないかと心配すると叔母は「目をつむっているだけだから大丈夫」だと言った。

道すがら少し飛んでいる叔母は「ルンペン」や「パンパン」という言葉を教えてくれ、「エヘヘ、私共産党に入っちゃった」と言った。
泊めてくれた三番目の叔母は築地界隈の窪地のような所で、コンクリート壁に囲まれた、小さな中庭のある幼稚園を営んでいた。
この人のご主人は戦争中特高警察に捕まり終戦直前まで「横浜事件」と呼ばれる大規模なでっちあげ事件で長期にわたり激しい拷問を受けた。最後は瀕死状態で釈放され間もなく亡くなっている。

忙しい幼稚園の叔母に代わって一緒に上京した叔母が神宮球場や読売新聞の子供音楽会などに連れて行ってくれた。銀ブラしようと誘われた銀座は随所に進駐軍が闊歩し、道端にはテント屋台が並んでいた。

屋台では樟脳を挟んだセルロイド製の小さな舟がタライの水の上をスイスイ走っていたり、きれいなボンボン売りが沢山見られた。私達は買って欲しいのを必死に我慢した。

上掲のかちどき橋と築地本願寺は幼稚園の従兄弟と行った。一緒に近所のお風呂屋さんに行ったのも懐かしい。

近くに大きな病院(現聖路加国際病院)があり当時は米軍に接収されていた。叔母はそこへ通う看護婦さんたちの子供を大勢預かっていて、彼女らが病院の免税店から買ってきてくれたラッキーストライクのタバコに火をつける時に機嫌の良い表情を見せた。

叔母はメガネを掛け女優さんのようにきれいな人だった。因みに拷問の犠牲になったご主人は早稲田大学卒の壮健なラガーマンだったが釈放時は両膝が挫滅し見る影もなく衰弱していたという。

戦後長きにわたって事件の真相究明と被告人の名誉回復の裁判がおこなわれた。
平成20年4月、ようやく横浜地裁は特高警察による拷問を認定し、反政府活動の証拠は存在せず、特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まった警察、検察、裁判所の故意、過失は重大と結論づけ、冤罪であったことを認めた

昨今スパイ防止法を掲げる政党や政治傾向が生まれている。戦争準備は平和な時代に密かに進行し、いざ戦争が近づくと人は狂う。スパイ防止法は政治的冤罪事件の根っ子を隠している。

※父の兄弟姉妹で成人したのは11人。男性4人、女性7人でした。上記で私達を東京に連れて行ってくれた叔母は7番目の末っ子で幼稚園の叔母は3女でした。

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